極東見聞録

◆  ク・ナウカ  ◆
◆『王女メデイア』◆

        2000年11月5日 青山円形劇場

 

王女メデイア。
(調べによると)エウリピデス原作の有名なギリシア悲劇(らしい)。
遠征してきたギリシア軍の王子イアソンに心を奪われたメデイアは、
小アジアの祖国を裏切ってまで彼と結婚。
しかし凱旋して戻ったギリシアでは策略にあい、
二人は別の都市国家へと落ち延びる。
しばらくは生まれた息子とともに三人、貧しくも幸せな暮らしをしていた。
ところが王家出身のイアソンは次第にこのような暮らしに不満、
やがてその土地の王の娘との結婚を望む。
その王もそれを喜び、邪魔者となったメデイアの追放を決定。
哀しむメデイア。そして始まる復讐。
アジアの、蛮族としての血の流れるメデイアの呪い。
結婚相手の娘、そしてその父である王を毒殺。
さらに夫であったイアソンを苦しめるため
自分の息子をも、みずからの手で殺害。
全てを失ったイアソンをのこし、メデイアは去ってゆく……。

と、大体こんな話らしい。
いわゆるギリシア悲劇の、子殺しの話。
そういう予備知識で観に行ったのだが。

 

舞台は、日本。しかも明治期あたり。
お座敷か何かの宴会上で、「演劇語りあそび」といった感じのものが始まる。
男たちが台詞を語り、芸者がそれに合わせて演じる、という演劇遊戯。
その中で、いわば「劇中劇」として『王女メデイア』が始まっていく。
日本の軍刀を持ったイアソン(演じるのは女性)、
そして和服を身にまとうメデイア。
そのメデイア、実は和服の下に「チョゴリ」を着用。「アジアの血」を象徴か。
そんな中、お座敷ではたまに酒なども酌み交わされつつ
現在(座敷)と劇中劇(ギリシア?)とが交錯しながら話は展開していく。
劇中ではついにメデイアの怒りが頂点、呪術、殺害。
が同時に現在の(座敷の)女性の怒りも爆発、座敷の男性たちを討ち倒す。
劇と座敷とが交錯したまま、クライマックス。
そして訪れる、静寂。

と、このような凝りに凝った構成になっていた。
オリジナルでは「ギリシアvs.蛮族」としての争いが
「日本vs.アジア(朝鮮)民族」、
果ては「男性vs.女性」という構図をも取っている。
メデイア個人の怒りを、(少なくとも明治期の)女性達すべての怒りにまで投影。
実に練られた演出であった。

終演後、後ろの方の席の話し声からは
「なんか男性vs.女性って、あまりにも紋切り型すぎない?」
という声も聞こえたが、
これはこういう構成として、充分アリだと思うのだが。
普通の劇なら、あまりにもちょっと、という気もするが
ギリシア悲劇という、いわばメジャーな作品であったからこそ
こうしてあえて日本の男女間の問題を描き出すことができる、のではなかろうか。

 

などといいつつも、この舞台においてもっとも言いたいことは
そんなことではなく。
この芝居、いや、この劇団のすごいところは、上にも書いたとおり
台詞と演じ手が違うところ。
そう、「二人一役」なのだ!
間違っても一人二役ではなく、「二人」で「一役」。
はっきり言ってこれはすごい発想。
この方法であれば、どんな台詞とどんな動きとの合体でも可能。
たとえばとてつもない早口と激しい動きとでも同時にできるわけだし、
通常では声が出せないような体勢で台詞をしゃべることもできる。
あるいは心の内面の思いを声として実際に述べることも可能。
普通、思っている気持ちをそのまま声に出すなどという芝居は
ちょっとウソ臭くも感じるが、
これならば心の中の声として素直に受け取ることができる。
演じている本人の口が動かずに言葉が出てきているわけなので。
となると、表向きは穏やかに取り繕いつつも
実は内面には憎悪が渦巻いている、などという
その感情を言葉として表現することも出来ることになるわけで。
これが、今回のメデイアの気持ちの表現としてはとても重要だった。
表面上は夫や王に従順を見せながらも
その内部にうごめく憎悪、怒り、陰謀。
平然とした顔を見せておきながら
その心の動きが手に取るように(耳で聞いたままに)分かる。
この対比が、メデイアの苦悩をさらに深く観客に伝えてくる。
今回のメデイアの葛藤を表すのにピッタリだった、この「二人一役」。
これはなんと言うか、たとえは悪いが
「二人羽織」の演劇版、とでもいったところだろうか。

 

ということで、この劇団ク・ナウカ、
機会があればぜひチェックしてみるべし。
キーワードは「二人一役」。

ただ、客の中からは
「ちょっと難解――」との声もあったのも事実、だが。

 

文字ばっかで大変?

 

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