極東見聞録 

◆ EXPOSITION MARC CHAGALL ◆
◆  マルク・シャガール展 ◆

        2002年4月20日〜7月7日  東京都美術館

 

これは見ごたえがある。ありすぎる。

マルク・シャガール(1887-1985)。
その独特のタッチに日本でも多くのファンを持つ、ロシア生まれの芸術家。
今回の展覧会では、フランス・ポンピドーセンター国立近代美術館の所蔵を中心に
総勢75点の油絵が、時代順に並んでいる。
しかも当たり前なのだが、すべてシャガールの作品。
ロシア→パリ→ロシア→アメリカ→南フランスへ、
二度の大戦やロシア革命の経験、
妻との結婚、そして死別、
やがて全てを超越した円熟期、
シャガールの人生をそのまま辿っていくような、今回の展示。
何というか、シャガールを題材とした一大叙事詩、のような壮大さを感じる。
偉大なる芸術家の人生を追体験。見ごたえが無いわけがない。

 

人間の人生において転機というのは少なからず存在するものなのだろうが、
この人の場合は明らかに最愛の女性・ベラとの結婚(1915年)のようで。
いや、もちろんパリにおいての前衛芸術との出会い、などというのも
彼の作風に多大なる影響を与えているのだろうが、
その辺りの詳しいことはあまりよく分からないので専門書でも読んでもらうとして、
(それにしても20世紀初頭のパリというのは文字通り街全体が芸術の都、だったみたい)
とりあえず結婚生活の浮かれ気分、
ウフフフ、なんて幸せな生活、ルンルン☆(←死語)といった彼の想いは
素人目に見ても絵に表れている。
ウキウキ気分としては

L'anniversaire 誕生日 (1923)

(↑絵をクリックすれば拡大するかも)

などが有名か。
「ヒャッホー!」などといった喜びの声が聞こえてきそう。
なんたって、もう舞い上がっちゃってる。
だが、個人的には、

Les maries de la tour Eiffel エッフェル塔の夫婦 (1938-39)

なんかはもう幸せそのもののような気が。
抱き合い喜ぶ二人の夫婦、天使(?)や山羊(?)による祝福の演奏、
垂直に上るエッフェル塔と並んで天へと昇っていく天使、
空には輝く太陽。そして向こうには現実の結婚式。
こんなにも幸せな結婚生活。
彼の絵にはその時々の素直な想いが
現実と空想といった境界を超えて、いや、むしろその境界を超えているからこそ
見事に表現されているような気がする。
愛に満ちた現実、それを表現するための現実と非現実の調和。

 

しかしその平和な生活を打ち砕く、彼にとってのもう一つの転機。
それが、その最愛の妻・ベラの急死(1944年)である。
愛する者を突然失った哀しみ。
はっきりとそれが絵にも表れている。

L'ame de la ville 町の魂 (1945)

妻の面影と共に、俺は絵を描いている。十字架にはりつけにされた男の絵。
しかし空想の顔でふと横を見ると、
空を飛んでいくじゅうたんから降りてきた妻の魂。
俺は絵を描きつづける。

 

Autour d'elle 彼女を巡って (1945)

彼女と過ごした町。彼女の思い出。
しかし結婚式姿の二人の愛のイメージは
次第に流れて落ちていってしまう。まるで涙のように。
すべてはもう過去。心の中の情景。
彼女のいない現実においては、俺はもう死んでいる。

 

L'apparition de la famille de l'artiste 家族の面影 (1935/47)

思い出す、家族の様々な面影。
おや、結婚式の時のベラもいるよ。やあベラ。ハハハハハ。
しかし夜の町に立つ現在のベラの、その顔はもう緑色。
たとえ私に向かって手を広げようとも。
死したベラの肖像。

この作品は年代をまたがって描かれたようで
どの部分がいつ描かれたのか、についてはよく知らないが
少なくとも緑色の顔の女性は、ベラの死後に描かれたのではないかと思う。
緑色の女性は、それ以後の作品でちょくちょく登場してきているようだし。

 

ベラの死の直後、これら3作品を含む一連の作品を見ていくと
あまりに切なくて涙腺をチクチク刺激される。
それまでの「愛の喜び」系作品が美しく浮かれていただけに
より一層、哀しみに深く沈んでいく思い。
切ねぇ〜〜(涙)。

この辺りの絵を見ている時に、周りにいたオジサン客の一人が
「この頃のはやっぱり暗いよねえ、戦争の影響が色濃く出てるよね」
などと言っていた。まあ時代的にはたしかに第二次大戦終了前後という頃だが、
ここは戦争などではなく、明らかに「妻の死」という点から見ていくところではないか?
少なくとも私はそう読んだ。
しかも上のように勝手な文脈で読んだ。
まあもちろん絵を見る側の解釈の仕方は自由だと思うが。

ただ、たしかにシャガールの作品というのは、様々な解釈が可能な、
さまざまなストーリーを持って見ることが可能な、
そんな絵ではないかな、という気はする。
絵という1枚の、1コマの表現の中に、
実に多様なストーリー性があるなあ、というのが率直な感想。
勝手な文脈で深読みしてしまう、ことについての是非はとりあえず別として。

 

さて、そんな妻の死を経験したシャガールだが、
やがてはそれを乗り越えて、というかそれさえも超越して
生きていこう、という決意が感じられてくる。
すべてを超えた、円熟した姿勢。
私生活としてはやがて再婚なども経験しながら、
大作家としての境地へと進んでいく。

La danse ダンス (1950-52)

これはタイトルにもよく表されていると思う。
愛をはぐくんだ時もあった。
十字架の絵を描いたこともあった。
緑色の女性はもちろんベラか。
しかしいいじゃないか。さあ踊ろう。
俺は人ではない、動物だ。いいじゃないか。俺が音楽を奏でる。さあ踊ろう。
絵からは光が。さあ踊ろう。
踊ろう。踊ろう。踊りつづけよう。。。
深い哀しみを超えての、ダンス。

 

Paris entre deux rives 左右両岸の間のパリ (1953-56)

手前には愛し合う夫婦の姿。そしてパリを行き交う人々。
その上に存在する二人(一人と一頭?)の、まっすぐな視線。
彼らはずっと先を見つめている。
画像では見にくいかと思うが、右上にはエッフェル塔をはじめとした
パリの町並みが描かれている。そして二人が見つめるのは、そのずっと先。
この視線とともに、我々も先を見つめる。
セーヌ川両岸のパリにはいろいろありつつも、それでも先を見つめるという
その視線に、この頃のシャガールの思いがあふれているような気がする。
強い決意にも似た視線。

 

この展覧会の展示ではこの後、花束の描かれた絵が少し続いた。
実に活き活きとした花が。
中でもこの絵は、

Le bouquet des fermiers 農夫と花束 (1966)

どうだ、これでもか!
と言わんばかりの花束。
シャガールの油絵は全体的に、絵の具を塗り重ねて、という感じはほとんどなく
絵の具の量としては薄い(?)絵が多いようなのだが、
花の絵だけは別。
この絵も、周りを取り囲む人、建物、風景、などの描かれ方は普段と変わらないのだが
唯一、花だけが非常に肉厚。絵の具を塗り重ねて塗り重ねて、
もう塗りたくって塗りたくって、花が厚く息づいている。
間近で見ると、茎から葉、そして花へとリアルに盛り上がっていくよう。
そのリアルな肉厚のタッチが、花を活き活きと咲き誇らせている。
花を通しての、美しい生への賛美。
生きているからこそ美しいのだ、という主張が花から伝わってくるような作品。

絵にはやはり、ナマで見ないと伝わってこない事というのがある。
筆遣い。息遣い。
目を凝らすと、そこから聞こえてくる声。
そっと、はっきりと。本物だからこそ伝わってくる。

 

この展覧会、最後に飾られた作品。

La chute d'Icare イカルスの墜落 (1974/77)

やはりイカルスというのはシャガール自身か。
太陽に立ち向かい、ロウの翼が燃え落ちたイカルス。
地上には見守る人々の群れ。
シャガールは何に立ち向かっていったのか。
この前に『ドン・キホーテ』(1974)という作品も展示されていた。
やはりドン・キホーテであろうシャガールは、何に立ち向かっていったのだろうか。

墜落してしまうイカルス=シャガール、
しかし彼はきっと後悔はしていないだろう。
少なくとも、落ちるイカルスの顔に困惑の表情は無い。
むしろ自分の行動に満足すら感じながら落ちていったのではないか、
確信犯的な行動なのではないか、
というのは私の勝手な想像だが
それはここまで作品をすべて見てきての結論である。

 

シャガールの一大人生を辿る展覧会。

 

 

ちなみに。
今回オレが行ったのは平日の昼間だったので、館内にはオバサンが多かった。
いや、別にオバサンが来ようとも構いやしないし、
時間が時間だけにオバサンで混むだろうという覚悟はしていたので別にいいのだが。
ただ、そういう中でも
好き勝手なことを他人にも聞こえるような声でしゃべくりあっちゃう人達というのは
何とも周りが困ってしまうというか。
もちろん各個人が好き勝手な見方をしてもいいとは思うし、
現にオレも好き勝手し放題で勝手なストーリーまで見ちゃってたんだけど、
ただそれをあえて声に出すことは無いんじゃないかと。
「すごい発想ねえ、どっから思いつくんだか。私にはさっぱり分からないわぁ」
「あら〜、顔が緑色だわよ〜」
「なんで顔がひっくり返ってるのかしらねえ、ガハハ」(←ちなみに作品『彼女を巡って』)
そこ、笑うとこじゃないだろ〜〜(TxT)
あ、ヘンなとこで笑ってんのはバカそうなカップルにもいたな。
とりあえず、自分の見方を押し付けるような行為は止めてください。ファシズム。

かと思えば、目の前のオバサンは携帯でメールを打ってる。館内で。
読むともなく読んでみると
「この絵最高!どう、見たいでしょ?」
……そんなくだらんメールに精を出す暇があったら、
目の前の絵をもっとよく見ろよ。
ライブ感あふれる生の絵を。
携帯画面なんかより見るべきものがあるだろう?
しかも「この絵最高」って……。行為もくだらなきゃ表現もくだらん。
ちゃんと見てないからそれしか言えないんじゃないの?
もっと自分なりの目でよく見てみろって。なんたって生〈ライブ〉だぜ?
まあいいけどさ。

 

その点、子どもの感想なんかってのは直感的でいいね。
(幼児連れぐらいのママもちらほらと)

Le cirque bleu 青いサーカス (1950/52)

「このおさかな、手があるよ」
「ニワトリがたいこたたいてる」
「おつきさまにお目目がある」
などなど、気付いたことをストレートに口にする子どもは何となく微笑ましかった。
少なくとも大人の勝手な感想(さらけ出し)なんかよりはずっと。
子どもなりに絵を楽しんでるんだな、というのが伝わってきて。
いや、子どもだからこそ、か?
大人は頭で考えて見ようとするから良くないのかね。
考えるより感じる方がいい絵、というのは確実に存在する気がする。

シャガールは子どもでも楽しめる絵。

 

 

ということで結論。

  「絵は生で見ろ」

これに尽きるね。

 

写真や画像じゃよく分かんないでしょ?

 

 

重すぎた?

 

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