「零式戦闘機」

09年11月29日


零式戦闘機

吉村昭

新潮文庫 1968年

 
この本は車やオートバイとは直接には関係ないですが、日本の技術と言うものがどういうものであったのかを知るには大変参考になると思います。

昭和の初め頃、日本の航空機は外国のものを模倣することで作っていました。昭和7年に日本独自のものを作らなければならないという機運が高まり、三菱名古屋製作所により七試艦上戦闘機(昭和7年度試作)が作られました。堀越二郎技師が設計主務者でした。

その後九試(昭和9年度試作)、十二試(昭和12年度試作)と作られ、この十二試艦上戦闘機がさらに改良されて昭和15年海軍の制式戦闘機として採用され零式艦上戦闘機11型と命名されました。零式とは紀元2600年の末尾の零を取ったものです。九試では350キロだった最高速度は零式戦闘機では533キロと飛躍的に向上し、これは世界の一流機をしのぐものでした。

この本にはその開発の様子がかなり詳しく書いてあり大変興味深いものがあります。
顕微鏡による破面解析もしていたし、繰り返し荷重試験から空戦時間を50時間に決めたりしてます。また模型実験も行っており、形状と重量分布を相似にするだけでなく剛性分布も相似にするなど高い技術水準がうかがえます。

零式戦闘機はすぐに中国に配置され重慶上空で零式戦闘機13機は中国空軍のソ連製戦闘機イ15、イ16、27機と戦い、これをすべて撃墜、零式戦闘機の損害ゼロという強さを発揮しました。中国空軍の指導に当たっていたクレアというアメリカの陸軍航空大尉は零式戦闘機の強さをすぐに本国に伝えましたが、アメリカもイギリスもこれを全く信用しませんでした。数年前まで外国の模倣をしていた日本がそのような高度な戦闘機を作れる訳がないと思ったわけです。またパイロットの技量も欧米人が日本人に劣ることは有り得ないと判断しました。

やがてアメリカ国務長官ハルからいわゆるハルノートが出されますが、これは日本に対して極めて苛烈な内容のもので、これによって日本は開戦を決意しました。

真珠湾攻撃の直後に南方では零式戦闘機34機が2倍近いP40、P35のアメリカ戦闘機と空中戦となりましたが、零式戦闘機は圧倒的な強さを発揮し、P40、P35は44機が確実に撃墜され残りは空戦を恐れて姿を消しました。零式戦闘機は損害1機でした。

この本を読んで思ったことですが、先の戦争は勝てるはずのないアメリカ相手に戦争した日本に大きな考え違いがあったということが良く言われることですが、それは確かにその通りであるとして、考え違いはアメリカにもあったのではないかということです。

アメリカは日本の零式戦闘機を初めとする戦力を明らかに軽視していました。P40が零式戦闘機に負けるなどということは全く有り得ないことと考えていたんですね。もし日本と戦争になったとしてもアメリカは何の被害も受けずに簡単に日本を降伏させることが出来ると考えていたのではないでしょうか。

ところが実際には真珠湾で大きな被害を受け、各地で零式戦闘機や隼に悩まされ、硫黄島では23,000名の日本兵が全滅しましたが、アメリカ上陸軍も33,000名が死傷しました。沖縄作戦でも2300機の特別攻撃機のためにアメリカ艦船404隻が撃沈されると言う大きな被害を受けています。

こんなことになることがもしアメリカに予想できていたなら、ハルノートはもう少し妥協を含むものになり、開戦は避けられていたのではないかな、と思いました。日本を軽視しすぎていたというのも原因の一つだったのではないでしょうか。逆に言えば日本は零式戦闘機などの性能を秘密にせずにむしろアメリカに伝えるというのも一つの方法だったように思えます。だけど軍事力というものは秘密にするのも当然だし、なかなか難しいですね。

i以前ホンダがTTレース出場宣言してからわずか7年でグランプリレースを制覇できたのはなぜなのか不思議に思ったことがありましたが、零式戦闘機も外国のものの模倣でないものを作る決定からわずか8年で出来ています。これは恐らく同じことではないでしょうか。ホンダはそういえばホンダF1の中村良夫さんはじめ多くの戦時中の航空技術者を採用しています。

なお、航空機ファンの友人によれば、ゼロ戦ではなく零戦が正しい言い方だそうです。
この本が面白かったので、次に「戦艦武蔵」、「陸奥爆沈」も読んでみるつもりです。

 
戦艦武蔵

吉村昭

新潮文庫 1966年

   
陸奥爆沈

吉村昭

新潮文庫 1970年

   

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