Heart strings 2         
         **** 心の琴線 ****

         Heart strings 1     Heart strings 3   Heart strings4

  心の隅っこに残っていった思い出のかけら、季節の残像、風景、愛しきものたち、わたしの感覚。

 星々と心寂しいしい風景                         

 高原で見た夜空は、満天の星。
 天の川、ミルキーウェイとはよく言ったもので、
 本当に星たちが川のように流れ、道のように続いている。
 母の実家のある山梨・大泉高原に行くと、
 必ず2階の屋根に上り、夜空をしばらくの間眺めた。 
 気がつくと、いくつもの星が遠くを流れていった。
 
 夜の風景が好きだ。
 都会で電車に乗っていても、明かりの灯った家や部屋を見ると、
 どんな人が住んでいるのか、どんな生活をしているのか、
 じっと目を凝らして見てしてしまう。
 しかし、なぜかそれを凝視する時は、
 自分の心が少しばかり寂しい時が多いようで、
 「ここに住んでいる人は幸せなのだろうか」などと、
 考えたりもしてしまう。

 ビルの上から見る夜景はきれいだ。
 しかし、なぜかそれらも心寂しく見えてしまうことが多い。
 以前に、ベイブリッジの上から見た夜景は、
 きれいと思うよりも先に、 「どうしょうもなく不安だ」と感じた。
 多分、自分の人生の先行きや行き詰まり、不安感、
 そんなものを目一杯抱えた時期に、見たせいかもしれない。

 それでも、その寂しさが余韻を持ち、印象をいっそう際だたせ、
 心の中の記憶として、風景を焼き付けている。

 母の実家は高台に建っているので、
 屋根に上ると、長坂、遠くは韮崎の町灯りまで見える。
 しかしそれらは決して心寂しい風景ではない。
 夜空に輝く星々も同じである。

 大好きな母の実家で、
 優しい親戚たちに囲まれて生活している間だけは、
 心に安堵と安心の気が宿るのかもしれない。

 流れる星など、もうどのくらい見ていないのだろう。
 いや星だけではない。
 最近は、電車の窓にうつる人様の部屋の灯りさえ、
 気にしないような、むしろ見ないようにしているような、
 そんな心具合かもしれない。  
 
 

 

  

  

 

 

 

 

 

 

 夏の高原で                                  

 父の実家は山梨の小淵沢、母の実家は清里のとなりの大泉、
 そんな夏にはもってこいの田舎を持った、私の子供時代は、
 当然の如く高原ライフであった。

 仕事を持っていた母が、私を夏休みの間中、自分の実家へさっさと
 置いてきてしまうのだが、そこに住む祖母をはじめ、親戚たちは
 みんな気のいい人々だったので、私はなんの心配もなく、
 なんの気兼ねもせず、一夏の間、お世話になっていた。
 特に叔父の連れ合いの、血の繋がっていない叔母は
 本当に優しくて、今でも一番好きな親戚である。

 小川が流れ、たくさんの虫たちが生息し、野の花が咲き、
 畦を歩くと、蛙たちがドボンドボンと田圃に飛び込む。
 野ぶどうや野いちご、くずの花の匂い、8月にもなると萩の花も
 咲き始め、じっと立つ肩には、いつの間にか赤トンボが止まっている。
 秋の虫たちも、8月
の声を聞くと途端に賑やかさを増していた。
 前にアルプス、後ろに八ヶ岳、横に秩父連峰がそびえ立つ、
 その雄大な山々や自然の姿は、私の原風景となっている。

 トマト栽培をしていた母の実家では、収穫したトマトをオヤツ代わりに
 そのまま丸囓りした。太陽を思う存分浴びた真っ赤なトマトは、
 とんでもないほどの甘さで、今でも忘れられない味である。 
 朝摘みのキュウリ、ナス、大根、ニンジン、ピーマン、かぼちゃ、
 野菜ならば何でもありの食卓だった。

 子供の頃はそれが当たり前で何も思わず、何も考えず、
 「野菜よりお肉がいい〜」などと言い放っていたのだが、
 今ではその庭で取れる、その新鮮な野菜たちを食べるためだけに、
 わざわざ出かけて行ってももいい、なんて思っているくらいで、
 ああ、あの頃はなんと贅沢だったことか。 

 東京生まれの東京育ちの私が、夏だけでも、こんな自然
の中で
 野の花や虫たち、青い空、雲の流れ、山の色、星の瞬き、
 雨の音や、風の匂いに囲まれて生活できたことは、
 やはり幸せと言わざる負えないだろう。
 夏休み中、田舎に放っぽり置いてくれた母に、
 今でこそ心から感謝である。


  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

遠い夏の記憶                                 

 朝顔、ひまわり、ほうせんか、おしろい花、松葉ぼたん、
 ツユ草、月見草、タチアオイ、日々草・・・

 風鈴の音、よしず張りに氷の旗、麦わら帽子、
 虫取り網にカゴ、グラスの中でカランカランと鳴る氷、
 首振り扇風機の生ぬるい風に当たりながら、
 冷えたスイカを食べた昼下がり、

 蝉時雨、入道雲、雷、夕立、雨に打たれた道路から立ち上る
 ホコリの匂い、線香花火、ねずみ花火、夏祭りの夜店、
 テングステンがパチパチとはじける裸電球、

 夕暮れ時、静かな余韻を持つひぐらしの声、
 緑色の蚊帳の中、遠くに聞こえる打ち上げ花火の音、
 蚊取り線香のなつかしい匂い。

 遠い夏の日の記憶。 

 

     
 A LONG V・A・C・A・T・I・O・N                                                     

  「うす〜く切った〜、オレンジを〜、アイスティーに〜浮かべて〜〜
 カ〜ナリアンア〜イランド、カ〜ナリアンア〜イランド〜」

 夏になると、必ずこのフレーズが頭に浮かんでは消えてゆく。
 私の大、大、大好きなアルバム、大瀧詠一の、
 「
A LONG V・A・C・A・T・I・O・N」の中の一曲だ。

 永遠の名曲揃いのこのアルバムは、発売されてからすでに
 20年以上経つものの、ファンの絶大なる人気があるせいか、
 今年3月、装いも新たにCDで発売された。
 (が、残念ながらまだ買っていない)

 この20年間、毎年聴かなかったことはないくらいに、
 本当に、このアルバムは愛したね。
 車の運転中もよく聴いていたし、何度聴いても、またすぐに聴きたく
 なる。大瀧詠一というアーチストの稀なる才能を思い知らされるのと
 同時に、松本隆の詞、これがまたいいのである。
 「恋するカレン」なんて、何度聴いても胸が切なくなった。
 
 この頃は、現長野県知事・田中康夫氏の「なんとなくクリスタル」が
 巷での話題をさらい、ハマトラやニュートラ、プレッピーなんていうのも、
 流行っていたっけ。
 また、おしゃれ系の男の人たちは、YMOをマネてモミ上げを剃った
 「テクノヘア」スタイルで、モノトーンファッションを身にまとい、
 ニュートラとニューウェーブファッション同士で、互いににらみ合ってい
 た記憶が・・・。 
 
   歌は世に連れ、世は歌に連れ。
 時は流れに流れても、普遍的魅力と輝きを失わない
   このアルバムの偉大さ。
 そう思っているのは、きっと私だけではあるまい。
 

 

  

 

 

 カルピスの夏                            

 汗をだくだくかきながら、グラスの中でカランカランと氷が
 ぶつかり合う、冷たいカルピスをグヒグビと飲んだ暑い夏の日。
 いまから二昔、いや三昔も四昔も前、子供のいる家庭に来るお中元の
 代表格は、やはり「カルピス」であった。
  白い普通のカルピスの他に、グレープカルビス、オレンジカルピス、
 この3本が入っている頂き物が多かったような気がする。

 白地に青の水玉、帽子をかぶった「くろんぼ」がストローで
 カルピスを飲むラベルマークは、某デパート屋上の大きな看板にも
 あったけ。
 今では「黒人差別」ということで、記憶の彼方に消え去られつつあるが
 やっぱり私の思い出カルピスは、「くろんぼ」マークなのである。

 知らなかったがこのカルピス、実は大正時代からある商品なのだ。
 なんでも創業者が、明治時代にモンゴルへ行き、たまたま長旅の
 疲れから身体を悪くして、その時お世話
になったいたチンギスハーン
 の子孫が、毎日白い酸っぱい液体を飲ませてくれているうちに、
 みるみると身体が回復したいきさつが、この乳酸飲料を作るヒントと
 なったそうだ。

 そして白地に水玉の、あのパッケージは、発売された大正8年
 7月7日七夕に願をかけ、空の星をイメージしたらしい。 
 残念ながら「くろんぼ」の由来はわからないが。

 ミーン、ミーンとうるさいぐらいの蝉時雨の中、
 風に揺れる木々の葉が、暑い光りをキラキラと反射させた、
 夏風景を見つつ、冷たいノドごしのカルピスをおかわりする。
 打ち水のような、ひとときだけの清涼感。
 まだクーラーが普及していなかったそんな時代の、
 カルピスの夏。

 
 
  

 

 

 ブルージュのレース                         

 昔まだ20代初めの頃、
 原宿や青山あたりのアンティーク屋さん巡りをした。
 そういう店で、繊細なレースのブラウスや替え襟を見るのが
 大好きだった。(高くて買えないので見るだけ)
 少女趣味なのかもしれないが、未だにレースものは好きである。
 ただし、安っぽいのはダメ。あくまでも繊細なものにこだわる。

 ベルギーのブルージュへ行った。
 ここは中世がそのまま残っている街だ。
 さらにブルージュレースでも有名である。
 この街に来た以上、当然レース好きの血は騒ぐ。
 家々の窓にも、丸や楕円形に編んだレースがたくさん飾ってあり、
 アンティーク屋さんには、ため息がでるくらい素敵なレースが
 いっぱい並んでいる。
 しかし、それらは高くて手が出ない・・・・。

 ここまで来たのだから、一枚ぐらいは手に入れたい、
 それが人情ってものだ。
 しかし、アンティークものは綺麗だし繊細さが違うのだが、
 何か曰くでもあったらいやなので、
 今現在作られているもので、私の趣味に合うものを探してみた。

 しかしこれが案外、なかなか見つからないのだ。
 もちろん、レース屋さんは山ほどあるのだが、
 「気に入ったもの」となると、そうザラにはない。
 おまけにいいと思うものは、当然ながら値段も高いし・・・・。

 たまたま入ったレースの実演をしているお店で、
 私好みのものを見つけた。
 お値段を見ると、3万ぐらいだったので、
 「これならば手が出る」と思い、迷わず購入した。
 
 しかし、それから9年。
 やっぱりもったいなくって、一回も手を通すことが出来ないままだ。 
 あの時買ったこのブラウスは、未だに糊がパリパリときいたまま、
 時々タンスから取り出しては、「ああ、綺麗」と言って、
 また仕舞い直してお終いだ。
 
 それでも夢を買ったと思えば・・・・。


 

 

 TINTIN&SNOWY                          

 我が愛犬「スノーウィ」の名前は、大好きなキャラクター、
 「TINTIN&SNOWY」の「SNOWY」から取った。
 ベルギーのマンガ「タンタンの冒険」に出てくる主人公の男の子・
 タンタンの愛犬、白いテリアの名前である。
 このマンガは、全世界ですでに60年以上愛され続けている名作だ。

 しかしフランス語圏内では、スノーウィではなく「ミロー」という名前が
 本当らしい。おまけに「TINTIN」は、英語圏内で「チンチン(ティン 
 ティン)」と発音されていて、「タンタン」はかわいいけれど、
 「チンチン」では、なんだかやっぱりヘンでマヌケな感じがする。
 
 今から18年ほど前、たまたま洋裁雑誌で、
 タンタン&スノーウィ柄の編み込みセーターを見つけて、
 「かわいい!編んでみたい!」と思ったのが出会いだ。
 それからは、「白い犬を飼ったら絶対にスノーウィ」と名付ける、
 と決めていたほどのお気に入りキャラクターとなった。

 10年近く前、ルクセンブルグへ旅行した時、
 洋服屋さんのウィンドウにこのキャラクターの編み込みセーターが
 ディスプレイされていて、「うううっ、欲しい。」と思ったが、
 子供用だったのでなくなくあきらめた経緯がある。

 その翌年サモエドを飼い、迷わず「スノーウィ」と名付けた。
 それから3年後、店を出した。
 ちょうどJR東日本がタンタン&スノーウィをキャラクターにしたり、
 衛星放送でアニメの放映があったりして、人気が出てきた時期でも
 あった。

 お店のグッズに迷わず、タンタン&スノーウィ物を置いた。
 商品が少なくなって置くのをやめた時期もあったが、
 その後、原宿の「THE TINTIN SHOP」経営会社から、
 売り込みがあったりして、再び商品を仕入れることが出来き、
 この時は、自分の好きなものを安く(仕入れ価格)買い放題だったで、
 Tシャツ、トレーナー、ポロシャツ、セーターetc、
 お客さんには売らず、かわいいものは全部自分用にしていた・・・。
 
 今でもそんなタンタン&スノーウィ好きを知っている友人は、
 「THE TINTIN SHOP
」へ出かけると、私の好きそうなものを
 ちょこっと買ってきて、プレゼントしてくれる。
 (しかし自分ではすっかり買わなくなった。)
 多分私が一生愛し続けるだろう、永遠のキャラクターである。

 
 右の写真:大きなタンタンとスノーウィはロンドンのおもちゃ屋さんで
 購入、真ん中の小さいスノーウィは「THE TINTIN SHOP」で
 友人が買ってきてくれたもの。

 

 

 

 

  

 雨あがり                                 

 5月も終わり近づくと、「走り梅雨」のごとく雨が多くなる。
 しかし本当の梅雨の時期ほど、気温も湿度も高くないせいか、
 その雨上がりは、沈んだ気持ちさえ明るくなるぐらいに、
 とても気持ちがよい。

 雷がゴロゴロ鳴り、ザァーッとひと雨降った後など、
 太陽の光に、滴り落ちるしずくがキラキラと輝いて、
 自然が作り出すその美しさに、しばらく見とれてしまったり。

 ふと木々を見上げると、青梅が鈴なりだ。
 栗の木は、青臭い匂いを放った毛虫のような花をつけ、
 あじさいの花は、白から青へと色のグラデーションを
 どんどんと濃くしている。
 どくだみも、その名前とは裏腹な白くてかわいい花を満開に。
 
 こんな日に、犬たちを散歩
に連れて出かけると、
 そのお腹や足は、砂と土でドロドロに汚れてしまうが、
 私にとって、雨上がりの晴れ間は
 そんな少々のことは気にならないぐらいの、
 心楽しめるひとときなのだ。

 

 

 

 

 

 Afternoon tea                                                                  


 今年はサモエドカレンダーを購入しなかった。
 いつもならば、昨年まで経営していたお店で、
 犬種別のカレンダーを売っていたのだが、秋に店を閉めたため、
 自分用のカレンダーさえ取り寄せなかった。

 その代わり、私好みの輸入カレンダーを見つけて、
 リビングルームに飾ってある。
 「TEAPOT & TEA」と、タイトル通りの「Afternoon Tea」用の
 すてきなテーブルセットのコーディネートシリーズだ。
 数々の素敵なポットに、おいしそうなお菓子、そしてセンスのよい
 テーブルコーディネート。
 陶器類にはほとんど詳しくない私でも、
 アンティークであろうティーポットやカップ類には、目を見張ってしまう。
 そしておいしそうなお菓子たち。

 19世紀、フランス・リモージュ製の、ルネッサンス絵画を
 彷彿とさせる天使の絵柄ポット、20世紀初頭に作られた
 黒の地にピンクのバラの花ポット、
 19世紀に作られた、それは美しい藍色の「ブルーイタリアン」、
 数々の由々しき芸術品。
 その横には、おいしそうなラズベリータルト、クリームコロネ、
 メレンゲのお菓子、チェリーパイ、ざっくりとしたクッキー、
 そしてアフタヌーンティーのサンドイッチ。

 見ているだけで幸せな気持ちになってしまうが、
 実際、こんなポットでお茶を入れて飲んだら、
 割ってしまうのではないかと怖くて、
 案外味などわからないかもしれない。
 でも一度でいい、素敵な館で、素敵なコーディネートで、
 おいしいお茶とお菓子をいただけたら、
 一生の語り草にするつもりだ。

 

 

 

 

 

 berry berry                              

 ストロベリー、クランベリー、ラズベリー、ブラックベリーにブルーベリー。
 ベリー類は、色
といい、形といい、かわいい果物だ。
 そしてどれも甘酸っぱい。

 ストロベリーの生食は当たり前だが、最近は他のベリー類も
 ずいぶんと生で食べられるようになった。
 今から15、6年前、スーパーに出始めたブルーベリーが物珍しく、
 よく買って食べたが、味は酸味
の方が強く、
 喉に貼り付いて咳き込んだ記憶も。
 それでもジャムやソースでしか知らない、
 生のブルーベリーがおしゃれっぽい気がして、よく食べた。
 最近では、乾燥ブルーベリーが入ったヨーグルト風味の缶ジュースを
 よく飲む。なんでも一日一本飲むと、健康にいいそうだ。

 ケーキ屋さんで、お目にかかるラズベリー。
 私が経営したいたお店の前にあった、
 ケーキ屋さん「マリア・テリジア」の、
 生のラスベリーがたくさんのったタルトは、
 ラズベリーの甘酸っぱさと、カスタードクリームのハーモニーがたまらず
 一番のお気に入りであった。 
 ただし、ケーキでは食べられるこのラズベリー、
 生食するにはいまだに高く、それだけを買って食べたことはない。

 夏に、母の実家近くの山道を散歩していると、
 野いちごをよく見つけた。
 実のつけかたはラズベリー風である。
 しかし、本物のラズベリーよりも実は少ない。
 子供のころ、道ばたや山の中にある野いちごを摘んでは、
 食べながら歩いた。
 かなり酸っぱかったが、夏の思い出の味である。

 ロンドンのスーパーでたくさんのベリー類が売られていた。
 思わず買い込んで、ホテルに戻り食べてみたが、
 案外どれも酸っぱく、「これって生で食べるのではなく、
 ジャムとかソースとかにするのかなぁ。」との疑問が残ったけれど、
 どうなのだろう。

 海外旅行で、日本の店頭ではあまりお目にかかれない、
 数々のベリー類を目にすると、後先考えずに買ってしまうのは、
 毎度のことだ。
 
 普段食べれられない分、ちょっとあこがれ的な果物である。

 
 
 

  

 

 

 

 

 

 Nuovo Cimena Paradiso                           

 1980年後半〜90年代にかけてミニ・シアターを中心に
 公開されたヨーロッパ映画の主題曲ばかりを集めた、
 ヴァイリオリニスト・松野弘明氏のアルバム、
 「Nuovo Cimena Paradiso」。

 「ラ・マン愛人」、「眺めのいい部屋」、「IP5」、「みんな元気」、
 「モーリス」、「デリカテッセン」、「ベティ・ブルー」、「これからの人生」、
 「5月のミル」、「マルセルの夏」、「バグダッド・カフェ」、
 「コックと泥棒、その妻と愛人」、「ダメージ」、「ニューシネマパダライス」
 以上の14曲が入っている。

 お店のBGMとしても、よくかけていた。
 すべての映画を見ているわけではないが、
 どの主題曲を聴いても、なぜか心が安らいでゆく。
 ヴァイオリンの甘く切ないメロディは、時に涙さえ誘われる。

 特に一番最後に入っている同タイトル曲、
 「ニュー・シネマ・パラダイス」を聴くたびに、
 人間味溢れるストーリーと、主人公の映画監督・トト少年の
 子供時代から青年時代のすべてであった、
 故郷シチリアの映画館「ニュー
・シネマ・パラダイス」での、
 上映されなかったキスシーンばかりを集めたフィルムを見ながら、
 主人公が号泣するラストシーンを思い出し、
 感動も新たに毎回泣けてくるのだ。
 映画好きにも、そうでない人にも、是非聴いていただきたい
 オススメの作品集である。
 
 この他に、アメリカ映画ばかりを集めたアルバム、
 「Once upon a time in America」もある。
 

 
   

 

 

 ボーダーの季節                             

 この時期とっても重宝するのが、ボーダー柄の長袖シャツ。
 なんとなく、初夏の海風が恋しくなる季節にぴったりの合い着だ。
 春を過ぎると、色々なSHOPで、色々なボーダー柄シャツを飾る。
 今年は七分袖が流行なので、どこの店でも袖丈の短めなものが
 主流だ。
 
 夏の海はあまり好きではない私でも、夏が始まる少し前の海は、
 なんとなくあこがれる。白い帆が見えるヨットハーバーや、
 まだ人気のない初夏の海辺を白と紺のボーダーシャツに、
 少し短めの白いコットンパンツ、白のスニーカーを素足に履いて、
 散歩する。
 江ノ島や葉山あたりではなく、ヨーロッパブランドの避暑地なら、
 もう最高のロケーション。まるでファッション雑誌のグラビアのよう。

 まあ実際のところ、初夏の海辺に出かけることもないし、
 ましてやヨーロッパブランドの地など、ツアー客の一員として、
 ワイワイガヤガヤ、雰囲気などまるでなしの状態で、
 移動してお終いがいいところ。

 理想は、海辺の見える別荘を持つ。
 そう、外国の映画に出て来るような。 
 多分そんな家は、一生持つことなどないだろうし、
 頭の中の空想だけで、すべてが終わりそうだが、
 この季節、そんなスノッブさに少しだけあこがれる。
 
 

   
 花水木の頃                                 

  今から6年前、お店を始めようと決めた時、
 車の免許を持っていなかった私は、教習所に通う決心をした。
 
 それまで運転など一生しないと思っていたし、
 車を持つ生活なども考えていなかった。
 しかし、お店を始めて犬を一緒に連れて行くとなると、
 当然車が必要になる。
 それで仕方なくの決心であった。
 
 頃は3月。桜がぽつぽつと咲き始めていた。
 教習所内のコースが終わり、仮免を取り、
 外で練習するようになった時期、この花水木が咲いていた。
 仮免での運転練習など、車の窓ごしに見える季節の花々たちを
 楽しんでいる余裕など、あろうはずもなかったが、
 いつも自転車で教習所まで通っていた道のりは、
 街路樹の白やピンクの花水木が、とってもキレイだった。

 あの頃、お店を始めるうれしさと不安がいつも交差していた。
 今でも咲き始めた花水木を見ると、
 その風景とあの時の気持ちが、懐かしく蘇ってくる。
 

 
 花咲く道                                   

 毎日の散歩道。
 今の季節は、花をつける木を見つけるのが楽しい。
 馬酔木、花海どう(ハナカイドウ)、山吹、ぼけの花、はなもも、
 空木(うつき)、八重桜、しだれ桜、山桜、えごの木、
 花水木も咲き出している。

 小さな空き地に、咲き乱れた紫だいこんの花を見つけた。
 なんだか、そこだけ、エアーポケットのような、
 紫色に染まった花畑だ。

 花楡(スターフラワー)、スノーフレーク、三色すみれ、チューリップ、
 桜草に、金魚草、猫のひたいほどの小さな庭先にも、
 たくさんの花たちが。

 若緑色した葉が芽吹きだした白樺。
 花が散った葉桜の木。
 車の往来が激しい大通りの並木も、若緑が眩しくなってきた。
 約束事のように毎年必ずやってくる、輝きの季節。
 その一瞬の、若々しい、みずみずしい美しさに惹かれる。
 

 
 Spring rain                                

 一雨ごとに暖かくなっていく、それが春の季節。
 しかし今年は雨が降ると、みぞれだったり、雪に変わったり、
 暖かさには、ほど遠い春の雨だ。
 
 雨が降るたびに土の中の生命たちは、その力を地上に向けて、
 グングンと伸ばしてゆく。
 しかし今が見頃の桜の花にとっては、まるで天敵のごとくであるが、
 それもまた、この季節にとっては、ひとつの風物詩として、
 楽しむことができるだろう。

 もうすぐ桜も終わり、吹く風に、降る雨に、道路にも、家の屋根にも、
 車のガラスにも、花びらが舞い散り落ちてゆく。
 そして降るごとに、ますます花いっぱいの、
 目に眩しい若葉へと、彩られた季節へ移ってゆく。
 
 

 
 ひとり静かに                                 

 忙しい日々を送っていると、休日が待ち遠しくなる。
 最近の休みは、一日中睡眠を取っている状態になってしまったが、
 それでもボーッとひとり静かにコーヒーを飲んだり、
 新聞を読んだり、音楽を聴いたり、犬をなぜたり、
 ゆっくりと過ごせることは、私にとって最大の幸福である。

 もちろん、仲良しの友人と過ごすのも楽しいし、
 気のあった仲間同士でどこかに出かけるのも好きだ。
 しかし休日を、遊びのスケジュールでいっぱいにするのは苦手だし、
 今のように仕事が忙しいと、ひとりの空間でゆっくり過ごす方が
 気分的に落ち着いて、またリフレッシュにもなる。
 しかしその反対にずっと家にいる生活だと、外に出てみんなと
 会いたい気持ちになるので、結構勝手なものだ。

 さて、明日からまた忙しい日々が戻る。
 今夜はもうしばらくコーヒーでも飲みながら、
 静かな音楽を聴こう。
 

   

   

   

 

 桜の樹の下で                                

 早いもので、今年もそろそろ桜の開花時期に入ってきた。
 これほど咲くのが待たれる花もめずらしい。
 もっとも日本の国花だから、当然といえば当然なのだが。

 桜の花といえば入学式。どこの学校でも必ず桜の樹がある。
 4月一番のセレモニーを祝うための、盛大な花飾り。
 私の通っていた中学校でも、何十本もの桜が一斉に咲き、
 「なんてきれいなんだろう」と毎年感動していた。

 大人になってからは、桜の美しさを愛でる喜びよりも、
 「もうそんな時期」とため息をつくことが多くなったような気がする。
 私の場合、夏が大嫌いなので、
 桜が咲くと、あとはもう夏へまっしぐらという気持ちになってしまい、
 憂鬱感が高まるらしい。

 そうそう、桜といえば井の頭公園。
 この時期は花見のお客さんがたくさん出て、
 犬の散歩どころではなくなるため、
 酔っぱらった人がたくさんいる池の方は遠慮して、
 御殿山の雑木林や玉川上水の当たりを歩く。

 雑木林の中に点在する桜の花が、
 風に舞ってハラハラと落ちていく風景は、
 胸がキュンとなるほど美しい。
 ワーッと一面に咲く桜の花にも、もちろん豪華な美しさを感じるが、
 最近の私は、すっと一本立っている桜の樹から
 花びらが
落ちてゆく姿の方に気持ちが惹かれる。
 
 これは華やかさよりも、人生の翳りの部分をより多く感じる年代に
 なってしまった証拠だろうか。
 それともただ単に、自分の好みなだけか。
 まっ、多分、両方ともだろう。 

 

 

 

 

 

 初めての悲しみ                                

 3歳ぐらいからの記憶がある人、5歳ぐらいからの人、
 人によって記憶の始まり年齢は様々らしい。
 私は1歳からある。
 それも、初めての焼きもちやら、初めての悲しみやら、と
 あまりうれしい記憶からは始まっていない。

 私がまだ1歳の頃、隣家で赤ちゃんが生まれた。
 同居していた私の祖母と一緒に隣の家へ上がり、
 祖母が生まれたての赤ちゃんを「どれどれ」という風に
 抱き上げた途端、訳も分からぬ「いやだ」という気持ちが
 こみ上げてきて、泣きじゃくった記憶が残っている。
 要は、「わたしだけのおばあちゃん」が、となりの赤ん坊を
 抱っこしたことによる、初焼きもちだ。
 
 そして右の写真。
 これは父母の実家のある山梨へ遊びに行った時のものである。
 まだ私は1歳ちょっとなのなのだが、これもはっきりと覚えている。
 バスの中で、なぜか両親が笑いながら相談をしていた。
 そして私を残して、二人だけでバスから降りてしまったのだ。
 「捨てられた」と瞬間思った私は、烈火のごとく泣き出した。
 そして出ていった二人に、窓から手を出しながら、
 「置いて行くなー」と必死で訴えているのである。
 この時二人は、窓から顔を出し、泣いている私を指さしながら、
 笑って写真を撮っていた・・・。

 単に、「二人が外に出たら、私がどう反応するか?」ということを
 試してみたかったらしいが、子供にしてみたら、
 1歳児で一人でバスに取り残されれば、まるで捨て子されたような、
 そんな怖さと悲しさを持つのは当然である。
 今でも、この時の不安感は忘れていない。

 悲しい記憶は思い出せるのに、なぜかうれしい記憶というのが
 少ない。子供にとってみたら、「悲しい」ことの方がより強烈に残って
 しまうのだろうか。
 子供の時に「うれしかったこと」って、何かを買ってもらったとか、
 その程度だからだろうか。
 それとも私に「うれしいこと」が、少なかったからだろうか。

 しかし、「三つ子の魂百までも」の諺どおり、
 子供だからって幼時期にされたことは、良きにつけ悪しきにつけ、
 侮れないとつくづく思う。
  

 

 

 

 

 

 カフェにて                                    

 仕事をしていると、ふっとコーヒーの香りが鼻をかすめていく。
 誰かが近くで飲んでいるわけではなく、
 記憶の香りが、鼻元まで来るのだ。
 
 そうすると天井が高く、人のざわめきが響き渡るヨーロッパの
 カフェの思い出にまで頭の中が繋がってゆく。
 安くておいしい、イタリアのBAR。
 マシーンで入れたエスプレッソやカプチーノ。
 一杯たったの120円ぐらいで、香り高いコーヒーが楽しめる。
 何度飲んでも、イタリアのコーヒーが一番おいしいと思うのは、
 私だけだろうか?
 
 真冬の石畳の道をカツン、カツンと靴音が響きわたるパリの街。
 寒さをこらえながら入ったカフェで飲む、一杯のコーヒー。
 ミルクをたっぷり入れてカフェオレに、そしてスウィートも一緒に。
 それは、洋酒のたっぷり効いたチョコレートケーキ。
 暖かいコーヒーと甘いケーキは、寒さでカチカチに固まった疲れを、
 だんだんと溶かしてくれる。
 
 ウィーンの街角。
 お菓子のお人形ディスプレイに惹かれて、カフェに入る。
 たっぷりのポットに入ってきた、ビェンナコーヒー。
 ショーケースの中から、好きなケーキを選んで生クリームを
 添えてもらう。
 それから「ザッハホテル」のカフェで食べた、本物のザッハトルテ。
 チョコレートにジャムが挟んであった昔風のケーキ

 子供の頃に食べた、なんだかとっても懐かしい味。

 ロンドンでは、たまたま見つけて気に入ったカフェに数日間通った。
 白を基調としたナチュラルな店内は、とっても落ち着き、
 時の止まったような感覚で、ゆっくりと過ごす。
 ここでは、コーヒーよりも暖かい紅茶を頼み、昼食にシュリンプの
 サンドイッチやキャロットケーキを食べたり、
 料理がまずいと評判のロンドンにしては、どれもみんなおいしかった。 
 ニューヨークからやって来た、日本人女性と知り合ったもここ。
 彼女とは日本に戻ってからも何度か会い、仲良くなったのだが、
 ニューヨークの大学院に戻るため、また渡米してしまった。

 コーヒーの香りと、カフェのざわめきを思い出しただけで、
 これだけの記憶が蘇ってくる。
 仕事をしている最中も、自分がワープしてその中に入り、
 カフェで一杯のコーヒーを楽しんでいるような気分になれるのが、
 私の特技かもしれない。

 

 

     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 眠りの儀式                                   
   
  眠ることに関しては、かなり神経質らしく、
 目覚ましをかけた時点で、すでに精神的な緊張が始まる。
 特にいつもより朝早くに起きなければならないとか、
 次の日から仕事場が変わる、新しいことをする、
 イヤなことをしなければならない等、などが待っていると、
 もうそれだけで眠れなくなる。
 おまけに疲れすぎていても、眠れない。
 数日間まともに眠っていなくても、「眠らなくてはならない」という
 緊張感で、更に眠れなくなることもしばしば。
 
 寝付きが悪い上に、睡眠も浅く細切れのため、
 長い睡眠時間を取らないと、次の日は最悪になる。
 そして眠りに入る為には、頭をカラッポにしなければならない。
 色々と考えたり、不安感を持ったりするから眠れないのである。

 いつの頃からだろうか、
 眠る前は、必ず4コマまんがを読むようになった。
 それは「サザエさん」であったり、「コボちゃん」であったり、色々で、
 内容はなるべくほのぼのとしたものがいい。
 そうすると、不思議なことに色々と考え
を巡らせなくなる
 また4コマでストーリーが完結するので、物語を追うこともない。
 そして気がつくと、本を落として眠りに入っている。

 もちろん、大きな悩み事があったり、
 抱えきれない程の不安が押し寄せて来たりすると、
 いくら4コマまんがを読んでも、寝つけなかったりするのだが、
 まあ大抵の場合はこれで解決してしまうので、
 私にとっては、重宝な、そして身体に悪影響の出ない
 「睡眠薬」の代わりである。
 
 「眠りの儀式」は、かっこよく「カモミールティー」に「ラベンダーの枕」、
 などと書いてみたかったが、
 「4コマまんがを読む」は、いかにも私らしくていいか。
 眠れない方、是非一度お試しを。
 尤もこれは、私だけに効く薬かもしれない・・・。


 
 





 すみれ                                       

 まだ小さかった頃、私が住んでいた東京の郊外には、
 雑木林がたくさんあった。
 その雑木林に、お友達と一緒にお菓子を持って遊びに行ったり、
 秘密の隠れ家を作った思い出がある。
 春になると、ハルジョン、ヒメジョン、ホトケノザ、ペンペン草、
 それに青や紫色したすみれの花がたくさん咲いていた。
 
 今朝、犬の散歩に出かけたら、アスファルトの地面に、
 へばりつくように咲くすみれを発見。
 花はとても可憐なのに、その咲き方は確かにしたたかで、
  しぶとい雑草のそれである。
 笑顔は美しく気高く、しかし生き方は、「雨や風や嵐が来たって、
 絶対に負けないわよ、人生どんとこい」的な強さだ。
 そこがまた好きである。

 そういえばイタリアの作曲家、スカルラッティの作品にも、
 「すみれ」という歌がある。
 歌詞の内容はわからないが、「ビオレッテ、ビオレッテ、ビオレッテ」と
 イタリア語のすみれを連呼している部分があり、
 そのタイトル通りの、とってもかわいい曲だ。
 
 それから、アメリカ製(AIVON)のタルカムパウダー。
 パッケージもすみれ、色もすみれ、匂いも、もちろんすみれという
 商品があり(今は、あるのかどうかわからない)、
 昔、友達が持っていたのを思い出す。
 とにかく、かわいくって、いい匂いで、私も欲しくって、
 それを使える友人を、いつも羨ましく思っていたものである。
 
 すみれの花を見られるのも、ほんの束の間であろうが、
 「あっ、ここにも咲いている」、「あっ、こっちにも」と
 しばらくの間は、楽しんでいたい。
 

 

 

 

 

 春の匂い                                     

  梅の匂いが町中に満ちている。
  小さな公園にも、点在している農家の庭にも、
  それぞれの家の庭にも、厳しい冬の最中に咲く、
  梅の高貴な香りが漂っている。
 作られた香水の匂いなどはかなわない、ふくいくさだ。

 ついこの間、友人にいただいた小さな黄水仙の花束からも、
 さわやかなよい匂いがしていた。
 それは、フリージアの香りにも似ていた。
 
 もうしばらくすると、沈丁花が香る。
 甘く、もの悲しさを感じるその香りは、さまざまな思い出を含んで、
 年とともに、その切なさを増していくように思える。

 近所の畑地からは、肥料の匂いが漂っていた。
 有機栽培用のたい肥かもれない。
 思わず鼻をつまんでしまうが、これもまた春の匂いである。
 三鷹の農地で取れるブロッコリーなど、大きくて新鮮で安くて、
 それはおいしい。
 そのおいしいさの元になっている匂いと思えば・・・。

 年をとるごとに、「春は気持ちが重くなる」と感じてしまう。
 世の中が明るくなる分、気持ちとのコントラストがはっきりと
 出てしまうのからかもしれない。
 しかしたとえ気持ちは暗くとも、春の匂いを吸い込む時は、
 「ああ、やっぱり春が来た。」と素直に思える不思議さがある。
 
 芽生えの春、花咲く春、香る春、季節が彩られる春、
 今年は心の奥まで春を堪能してみようか。 

 
 
  


   






   Heart strings1     Heart strings 3