Heart strings       
     **** 心の琴線 ****

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  心の隅っこに残っていった思い出のかけら、季節の残像、風景、愛しきものたち、わたしの感覚。

 和菓子でほっくり               2003.10.4  

 食べ物がおいしい季節となった。
 (いや、私の場合いつでもおいしいので、「更においしくなる季節」
 と書いた方が良いのかもしれない)

 秋のレア物といえば、やはり「栗、芋、南瓜」のほっくり三兄弟と
 くる。中でも栗は王道を行く感じだ。
 秋に食べるモンブランは格別だし、もちろんケーキ以外にも和洋を
 問わず大活躍する。
 
 秋は濃い緑茶に和菓子がいい。
 ほっくり系の羊羹や栗入りどら焼き、栗をペースト状にして絞り出し
 た素朴な甘さのきんとんなど、陽が陰り始めた午後3時のお茶受け
 にぴったりだ。
 
 窓から見える空の色に、色づいた柿の実や、香る金木犀の花に、
 静かな季節の流れを感じ、更にはこっくりの緑茶と、
 ほっくりの和菓子で舌と心を和ませる。

 いいなぁ、日本の秋って。
 
 そんなわけで、緑茶と栗蒸し羊羹でお茶をした昼下がり、
 昼寝つきで、ささやかな秋の休日
を楽しんだ私である

 

    

 

 

 くちなしの匂い                 2003.7.6  

 子供の頃、隣家に咲いていたくちなしの花。
 その濃厚な匂いは、6月から7月の熱を帯びた空気に漂う。
 また雨の日、ふっと遠くから香るこの匂いに妙な切なさを感じたり。
 
 基本的に白い花が好きなので、当然この花も大好きだ。
 特に八重のくちなしは、まるで白いバラ
のよう。
 しかし強い灌木のせいか、近所の公園などにたくさん植えられて
 おり、そうたいして珍しくもなく、ありがたみも少ない感じがする上、
 萎れた花は黄ばんで更に茶へと変色し、情けない姿を晒している
 場合が多い。
 しかし、それでもやはりあの純白の花は、なんともいえない
 美しさで、うちに庭があれば「シンボルツリー」にでもしたいぐらいの
 大好さだ。

 そうそう、くちなしの花といえば、金子功さんのコサージュ。
 実は私も、4種類ぐらい持っていて昔色々な洋服につけて楽しんで
 いた。洋服の柄にもくちなしの花がたくさん使われており、
 きっと金子さんにとっても想い出の花なのだろう、と勝手に
 想像している。
  
    「薄月夜 花くちなしの匂いけり」
                        正岡子規
 

 

 

 

 バラの季節がやってきた           2003.5.10 

 マンション住まいのため、ガーデニングにはほとんど縁のない私だ
 が、いつか庭付きの家に住めたならば、やはり一番植えたいのは
 なんと言ってもバラの花である。
 
 イングリッシュローズに、オールドローズ、特に白いバラが好きなの
 で、アイスバーグやサマースノー、白いモッコウバラ、そんな花たち
 を集めてのホワイトガーデン作りに勤しんでみたい。

 野バラのような一重の花も清楚でかわいいし、
 ふんわりとした八重咲きもバレリーナの衣装のようで、
 思わずその花びらに触りたくなってしまう。
 そしてバラのアーチの下で、素敵にアフタヌーンティー。
 もちろんテーブルの上には、自分で育てた花を飾って。

 と、ここまで書いて、これじゃあまるでガーデニング雑誌の
 まんまグラビアじゃないの、と少々こっぱずかしくなった。
 (夢見る夢子と呼んでやって)
 しかし実際に、このような優雅な生活をしている人も、
 世の中には結構いるようだ。

 洋風化した家に、イングリッシューガーデン風の庭。
 人様のHPなどを見させていただいていると、
 バラの花に凝って凝って凝りまくって追求し、
 更にはバラとの生活を楽しまれている人が、
 なんとたくさんいらっしゃることか。

 その中でも、秀逸なのがここの家のバラ。
 庭ではなくルーフバルコニーで作っているというのが、スゴイ。
 更に、自分で作ったバラの花のアレンジのページ、
 これがまたセンス良く美しく、スゴイ。
 是非一度、訪問してみる価値あり。

   「HISAKO’S ROSEGARDEN」
         http://www.hisakoroses.com/

 

 

 

 

 

 憩い                       2003.2.26 

 活動的な人間と、非活動的な人間がいるのならば、
 私は間違いなく後者の方だ。
 とにかく何もせずにボーッとしているのが、この上ない幸せと
 感じるのだから。

 しかし現実は厳しく、更にそんな性格だからか、
 神が仕組んだ罠のように、ダブルワークに勤しむ日々を
 送らせられている。
 
 そんな訳で、普段の日々はたとえ忙しくとも、
 休日は軟体動物のように過ごすと決めているのだ。
 冬はコタツがあるから、布団から首だけ出して、
 ぬくぬくとした幸せに思いっきり浸かる。
 横に飼い犬をはべらせれば、更に幸福度が増す。

 こんな調子だから、外へ外へと目が向いていく春の到来が、
 なんとなく苦手だ。
 もちろん暖かさにつられて咲き出す花々は、大好きなのだけれど、
 ものみな輝いて見える季節が、自分の心の明暗をくっきりと
 浮き立たせるから、苦手と感じるのかもしれない。
 (例えていうならば、穴蔵から間違って出て太陽を浴びた
 モグラの心境?)
 
 とりあえずコタツに入っていれば、ほんの一時にせよ、
 イヤなことは忘れられ、犬たちと一緒に惰眠を貪れる。
 ああ、なんて私って暗いの〜 と結論づけて、
 それでもやっぱりコタツは、私の心と身体の憩い。
 
  

 

 

 

 君よ知るや南の国               2003.2.10  

 「君知るやかの国 レモンの花咲き 
 緑濃を葉陰には 黄金なすオレンジ燃え
 やわらかき風は 青い空にかおり
 ミュルテは静かに ロルベールを高く立てる
 かの国を知るや はるかなるかの国
 われ君とゆかむ 愛しきひとよ」

 詩はもちろんゲーテの「ミニヨン」だ。
 この季節になると、南イタリアへ旅をしたことをよく思い出す。
 アーモンドの花が咲き、鳥のさえずりがそこかしこで聞こえてきた
 春の草原。
 オレンジやレモンがたわわに実った畑に、オリーブの丘。 
 まだ2月だということを忘れてしまうような、
 南国のまばゆい太陽の光。

 名も知らぬ小さな漁港で、昼間からバールでお酒を飲み、
 ゲームに興じていたオジさんや、すれ違いざまに「チャオ!」と
 人なつっこく挨拶してきた南イタリアの若者たち。
 大きなオレンジ3個も使った手絞りのジュース、
 海辺のレストランから見た青い地中海。 

 東京の雑踏を歩いていると、こんな風景がよく浮かぶ。
 まるで心のオアシスのように。
 旅人は、一瞬の想い出をその風景から切り取り、
 記憶の額縁に入れて永遠に焼き付ける。
 そしてそれは、いつもたわいのない風景であることに気が付く。

 ああ、君よ知るや南の国、
 いつかまた旅人となり、訪れることを夢見て。

 
 

 

 

 

 

 朝方の夢                    2003.1.27  

 私は朝がダメである。
 これは起きられないという意味ではなく、
 目覚めた時に不安感やら憂鬱感やらが、ドドンと襲ってくるからだ。
 特に朝方の夢見の悪さには、祟られているのだろうか、
 と思うこともしばしばで、心地よい夢を見ることはほとんどない。

 普段の生活が色々な面でキツイから、せめていい夢を見させてよ、
 と思うのだが、夢の中ほど心の不安が色濃く出てしまう。
 例えば飼い犬がいなくなる、幽霊が出てくる、お金がなくて
 どこかの知らない道を一人ショボショボと歩いている、
 電話をかけたいのに、番号を何度プッシュしてもかけられない、
 たまに亡くなった両親が出てくることもあるが、
 こちらも懐かしいというより、大抵は寂しさが残る。

 たまに食べ物の夢もある。しかしこれも食べようと思った瞬間
 目が覚め、非常に悔しい思いをする。
 又、かっこいい男の人から慕われる夢も1年に1度ぐらいあるが、
 夢の中で、「これって絶対夢だよな」と思っている自分が悲しい。

 せめて夢だけはと思いつつ、やはり現実的に不安感が和らぎ、
 良い方向に行かない限りは、こんな夢を見続けるのだろう。
 こうなりゃいっそバクでも飼ってやろうか。

 
 

  

 

 

 冬の光                      2003.1.17  

 冬本番を迎えているが、小春日和の日など梅の花の
 ほころびに目がいったりする。
 東京は暖かいせいか、真冬といってもパンジーもビオラも
 咲いているし、最近ではガーデンシクラメンでコンテナを
 飾っているお宅も多い。また水仙なども、もう咲き始めている。
 だから冬の光の中でも、そこかしこに花々が見えるので、
 決してモノトーンの印象ではないのだ。

 もちろん雪国では、そういう訳にはいかないだろう。
 数年前に一度、雪深い東北を訪れたことがあるが、
 曇った鈍色の空と、降り止むことのないような雪に、
 少しばかり心が重くなった記憶がある。

 一つの冬の風景として、
 裸木や家々の窓を照らす冬の光が好きだ。
 特に夕暮れ時のはかない橙色の光がいい。
 枝々に光があたり、やがて黒々とした闇に覆われる

 そんな西日が翳っていく様子は、なぜか胸が締め付けられ、
 その寂しさ加減が、まるで冬の季節を象徴しているようで、
 涙が出そうになる。
 
 しかしそのはかなさがあるからこそ、次にやって来る、
 春の眩しい息吹を感じられるのかもれしない。
 冬のはかない光から、春のおだやかな光に変わってゆくのも、
 きっともう少しだろう。
 気が付けば、いつの間にか春に・・
 
 
 

    

 

 暖かさ                      2003.1.11  

 寒い夜に帰宅して、モコモコの犬2匹をギュッと抱きしめると、
 生きているそのぬくもりに、心の底からホッとする。
 それから真冬のこたつの暖かさ、これはもう私にとってなくては
 ならない我が家にある一番の暖房器具。

 そしてコーヒー、ミルクティー、牛乳、もちろんすべてホットにして、
 カップを口に近づければ、ほんわり
とした暖かさに一息つく。
 いやなことがあった一日、夜にPCを開け友達からの暖かい
 メールを読んた後の、じんわりとくる心の温かさ。

 野菜をたくさん入れたシチューをコトコトと煮て、それを毎回温めて
 食べるうれしさ。(温めれば温めるほど、おいしさが増してゆく)
 湯たんぽを入れた布団に入り、足下からポカポカした暖かさが
 上がってきて、身体中の血の巡りが良くなった心地よさ。

 そして暖かい布団から朝早くに出なくてよい、休日の暖かさ。
 もしかしたら、これが一番好きかもしれない。

  

 
 お正月                      2003.1.7   

 クリスマスが終わり、年末からお正月へと年の瀬は
 毎年あわただしく過ぎてゆく。
 子供の頃は冬休みがあり、年が明ければお年玉が貰える
 楽しさなどがあったりしたが、いつのころからだろうか、
 楽しみがため息に変わるようになったのは。
 (これは月日の経つ早さについてゆけないため息である)

 とは言っても、年の瀬もお正月も決して嫌いではない。
 普段とは違う、日本全国的にソワソワした高揚感というのか、
 煽るように大晦日に突入し、普通の日ならば0時を境にし、
 ただ明日が今日に変わるだけの瞬間なのに、
 一斉に「おめでとうございます」という新年の喜びは、
 たいしたお正月の用意をしていない、一人暮らしの私でさえ、
 とってもワクワクしてくるのだ。
 
 さて今年は、どんな風に一年が過ぎてゆくのだろうか。
 犬たちと一緒に、自分の人生の階段を上っていけるよう、
 まだまだ向かい風かもしれないが、
 少しでも前を向いて歩いて行けたら幸せだ。
 
 

     

 

 遠い日のクリスマス                2002.12.17  

 まだ私が小さかった頃、クリスマスは外国の匂いがする、
 あこがれの日であった。
 そのクリスマスの雰囲気を一番に醸し出すが、ツリーである。

 父親が買ってきた樅の木に綿の雪をつけ、
 モールで出来たサンタのオーナメント、銀色の星、金色の鈴、
 そして赤や青のライトで飾る。
 今思えば、ずいぶんとチャチなツリーであったが、
 樅の木だけは、フェイクが普及していなかったせいか、
 本物を使用していた。しかし大抵は小振りな木だったので、
 枝と枝の間がスカスカし、余計にチャッチく見えたものだった。

 しかしそれでも、いつもの生活と違うクリスマスの雰囲気が出れば、
 ワクワクし、夕食に鶏のモモを食べて、
 食後にバタークリームのクリスマスケーキを食べ、
 プレゼントを貰い、それでお終いのクリスマスである。
 
 その当時、ある一枚の写真にあこがれいた。
 それはクリスマスの日、雪深いスイスの教会に集まる人々の姿が
 写っていたのである。
 雪の日の教会。これぞ外国のクリスマス。
 その写真にあこがれること○十年、いい年齢に達した或る年の
 12月に、「聖しこの夜」が最初に演奏されたオーストリアの
 小さな村の教会に行くことが出来た。
 雪こそ降っていなかったが、小さな聖堂を前にしたら、
 なぜか胸が熱くなってきた。
 中で「聖しこの夜」を歌ったら、涙が出てきた。
 感無量・・。

 そんな訳で、クリスマスへの思いは未だ続いている。
 いや続いているどころか、ますます熱くなってきているようだ。
 私の好きなすべての物が、ギュッと凝縮されているクリスマス。
 私にとって年一番のイベントであることは、今も昔も変わりない。
 ああ、一年中クリスマスだったら・・。

 

   

 

 

 

 落ち葉を踏みしめて               2002.11.1  

 銀杏の実が落ち始め、色づいた葉がカサコソと風に踊る、
 そんな11月が到来した。
 犬の散歩に出かける朝晩、その冷気に思わず引き綱を持つ手を
 摺り合わせたり、吐く息の白さにちょっと驚いたりする、
 秋の終わりと冬の始まりの狭間。

 いつもいつも思い出すのは、数年前まで毎日出かけていた、
 井の頭公園の散歩道。
 武蔵野の雑木林が残る御殿山付近は、敷き詰めた落ち葉で
 フカフカの歩き心地だ。

 残照の玉川上水には、落葉した木々に橙色のからす瓜が絡まり、
 季節の終焉の寂しさを醸し出していた。
 そんな風景の中を犬たちと歩いていると、あと何十年後に確実に
 やってくる「人生の終わり」をふと考えてみたり。
 
 しかし落ち葉を踏みしめ、たどり着いた先の我が家に入れば、
 その暖かさに心の底から弛緩して、「終焉」よりも何よりも、
   自分の現実に埋没するのが、結局の常である。

 

 

 

 10月はハロウィーン               2002.10.6  

 10月31日は、万聖節の前夜祭。
 それがハロウィーンだ。
 11月1日が亡くなった聖人たちを祀るカトリックの祝日で、
 その前夜は、人間も死人の魂も混沌と一緒になる、という
 紀元前5世紀からのケルト民族による伝承らしい。

 前年に亡くなった人々の魂が戻ってきて人間の身体に入り、
 生まれ変わろうとするので、身体を乗っ取られないよう、
 オバケや魔法使い、魔女の姿に仮装をし、死人から身を守るための
 風習が今日まで至った、と物の本に書いてあった。

 ハロウィーンになくてはならないのが、カボチャの提灯。
 オレンジ色のカボチャに目鼻口を作り、中身を全部くり抜き、
 中にろうそくを入れ灯す、日本でも随分とポピュラーになった
 アレだ。
 
 実は私、このカボチャの提灯が大好きである。
 オレンジ色の大きな実、それはまるで秋の象徴の如く。
 つり上がった目も、「なんでも食べてやる」と言っているような、
 ギザギザの口も、怖いというよりユーモラスさで思わず笑って
 しまう。そして、カボチャの中でゆらゆらと灯るろうそくの火、
 あれを見ていると、なぜか心がホッとする。 

 それからオバケの仮装でまず思い出すのが、映画の「E.T」
 チビの宇宙人E.Tがシーツを頭からかけられ、かくまわれた家の
 末娘と手をつなぎ、町中を歩くシーンが印象的だった。
 そしてオバケ一家「アダムス・ファミリー」シリーズ。
 家族および親戚友人一同、すべてハロウィーンに出てくるような
 面妖さで非常に笑える。

 ハロウィーンカボチャの形をしたクッキー、かぼちゃのクリームが
 入った「カボチャのパイ」、カボチャの飾りを乗っけたハロウィーン
 ケーキ、お菓子屋さんのウィンドウごしに、また色々なお店の
 ディスプレイにと、黄昏た秋のカボチャ提灯やオバケたちは、
 10月の風物詩に定着しつつあるような気がするのは、
 私だけだろうか。