飯嶋和一 03


神無き月十番目の夜


2006/07/24

 飯嶋和一は、『この文庫がすごい!』でプッシュされている作家の一人だ。『雷電本紀』の小学館文庫版の帯に「飯嶋和一を知らない人生なんて、もったいない」と書かれている。2006年版のお薦め時代小説TOP3に挙がっていたのが、本作である。

 『雷電本紀』『始祖鳥記』『黄金旅風』という読者に元気を与える時代小説を送り出してきた飯嶋さんだが、本作はそれらと対照的に、歴史の闇を描いている。だが、惨劇だからといって敬遠してほしくない。惨劇だからこそ、目を背けずに読んでほしい。

 関ヶ原の戦から二年後の慶長七年(一六〇二)陰暦十月、常陸国小生瀬村に派遣された大藤嘉衛門は、全住民が忽然と消えているという光景を目の当たりにする。やがて、戦場の臭気が漂う中、烏や野犬に食い荒らされるおびただしい死体が発見された…。

 小生瀬村の特異な立場にまず触れておきたい。常陸国の北限に位置する小生瀬村は、かつて伊達政宗の侵攻に対抗する最前線であり、軍役優先のため年貢を軽減され、歴代の領主も黙認してきた。しかし、戦国の世も終わり、この地にも徳川の支配が及ぶ。厳正な検地が行われ、これまでとは比較にならない重い年貢が課せられる…。

 支配されるのが当たり前の他の村と同じ扱いになる。血気盛んな若衆は、体制側への抗戦を目論む。しかし、彼らは戦というものを知らない。本当の戦を知る世代である肝煎(村の長)の石橋藤九郎は、流血の事態を避けるべく奔走する。しかし、検地役人が村の「聖地」に踏み込もうとするに及び、憤懣やるかたない若衆は暴走し始めた。

 成果を挙げたい役人たち。恭順の意を示したい他村の肝煎たち。小生瀬村とて一枚岩ではない。保身やら出世やらの欲が複雑に絡み合う。割を食うのはいつでも庶民。飯嶋和一ならではの、現代物のを読んでいるような圧倒的リアリティは本作においても際立つ。のっぴきならない状況に、小生瀬村が徐々に追い込まれていく様を見よ。

 己を灯(ともしび)とし 己を拠(よりどころ)とせよ 他のものを拠とするな

 生きてこそ尊い。石橋藤九郎の気持ちは若衆たちに伝わらなかった。しかし、読者には伝わるだろう。藤九郎の言葉の意味は、読んで確かめてほしい。



飯嶋和一著作リストに戻る