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 我が家のアメリカ滞在顛末記

杉山武子


文芸誌「海」第 50号所収(2000年3月1日発行)

入学式の日に引っ越す
  妹一家が日本を捨てて(と、私には思えたのだが)、アメリカ合衆国の住人となって十年ほどたった平成五年。日本はバブル経済の熱も冷め、 異常に膨れ上がった不動産価格は、見る間に急激な下降に転じていた。その年の春、我が家では大きな節目を迎えていた。長女は大学進学のた め東京在住が決まり、次女は中学入学を控え、夫が田舎に住みたいと言い出した。結局、6年間住んだ福岡市東区のマンションを売却して、県内 でも思いっきり西方面の、市制をひいたばかりの前原市へ転居した。

 何度か探し回って見つけたのは築十七年の中古一戸建。入居の前に水回りは勿論のこと、床、壁、天井、外壁までかなりのリフォームを要したが、 幹線道路から少し入った閑静な住宅地であることと、筑前前原駅への徒歩圏内という二大条件はクリアしている。家の西側一帯には数キロ先まで 延々と農地が広がり、四季の変化の豊かさと開放感が嬉しかった。その上西北の方角には、筑紫富士とも呼ばれる可也山が優美な全容を見せて いて、それが何より気に入って決めたのだ。

 こうして長女は一足先に東京へ移り住み、次女は引っ越し当日が中学校の入学式という慌ただしさで、もちろん一人の友だちもいない中学校へ通 いだした。家の二階から田圃のはるか向こうに中学校の白い校舎が見えている。夫と私はご苦労にも1時間以上かけて、箱崎と呉服町のそれぞれ の職場へ電車通勤となった。

 私たちがこの中古家を下見に来た頃は、家の裏は一面に麦畑が青々としていた。やがてそれが黄金色になり麦秋を迎えると、まもなく土は鋤返さ れ水が張られた。ちょうどその頃、テレビで「夏子の酒」というドラマが始まった。冒頭のタイトルシーンで、夏子が延々と続く水田の中のまっすぐな 一本道を、自転車をこいでいく映像が出てくる。それは我が家の二階から見る景色と、ほとんど変わらなかった。

アメリカ家族旅行計画持ち上がる
 やっと新しい生活も落ち着いたその年の秋、何がきっかけだったか思い出せないが、家族でアメリカ旅行をしようということになった。大学生になっ て初めての夏休み、長女が友人と二人でアメリカ西海岸を旅行していたので、その話から発展したのかもしれない。子供たちも成長すれば家を離 れるし、次女の受験もまだ先のことなので、家族全員での海外旅行はこれが最初で最後のチャンスかもしれない。そんな意見も出てトントン拍子 に話は進み、十一月下旬、パスポートのない次女と私はあわてて申請に走った。

 この年の我が家は、家の売買、家のリフォーム、長女の大学進学と大出費ばかりの厳しい家計事情にあった。しかしそれを承知で、どうにかなる との荒っぽい計画だ。当然格安航空券でアメリカへ飛び、宿は現地調達、移動は自分たちでという、お金をかけない旅行をしようというのだ。

 家族全員の休みが揃うのは年末年始。すでにアメリカ旅行の経験もある長女の、得意の情報収集能力をフル活用して、着々と計画進行。旅費の 跳ね上がる十二月二十五日以降を避け、前日の二十四日出発と決定。旅の前半はアメリカ在住の妹一家の家を拠点に回り、後半は子供たちの 要望を入れて西海岸の観光地を回ることになった。妹とは計画の内容についてファクシミリで何度もやりとりをして、詳細を詰めていった。

 いよいよ二十四日の朝。私はアメリカの妹に「今から家を出る」旨のメッセージをファックスで送り、いざ出発。子供たちは歩いて駅へ。私と夫は車 にスーツケース二個を積み込み、いったん駅へ。荷物を下ろして、私は車で再び帰宅。車を車庫に入れ、歩いて駅へ行く。ほどなく筑前前原駅発 福岡空港行の電車へ乗り込む。

乗り換え4回空の旅
 午前十一時二十四分、福岡空港着。HISカウンターで航空券を受け取り、KE(大韓航空)カウンターで荷物を預ける。近くのフロアーには、日本人 より韓国人の団体や家族づれが多い。韓国からの研修なのか、全員トレンチコート姿のビジネスマンらしき十数人の一行もみえる。一緒になるら しい。チェックインの後、午後二時すぎ、七三五便に乗り込む。

 機内でクッキーとジュースのサービスがあり、四十分ほどで韓国の釜山空港着。四十分ほど待合室で過ごす。天気は晴れ。空港はあまり大きくなく、 建物も少し古い感じ。免税店が二〜三店あるだけで、華やかさもない。ソウルまでの乗り継ぎ客が多いようだ。外の風景も日本とあまり変わらない。 待合室の話し声は韓国語が多いものの、顔つきはほとんど見分けがつかないほど日本人と似ている。少しも外国にいるという気がしない。

 再び飛び立って午後四時十分、ソウルのキンポー空港着。国際線へ乗り換えのため、トランジットゲートを通る。福岡空港から目的地サンフランシ スコ行きの直行便がないので、飛行機を乗り換えるのは仕方がない。このあとキンポー空港からロサンゼルスへ行き、さらに乗り換えてサンフラン シスコへ飛ぶのである。片道合計四便。さすがに格安航空券だけのことはある。待合室で、両替などをして時を過ごす。キンポー空港は首都の空 港だけあって、広々として天井も高い。しかし照明を抑え加減なのか、全体的に少し暗い感じだ。

 午後五時搭乗開始。ジャンボ機に乗り込む。今度の便はロサンゼルス経由サンパウロ行ということで、日本人・米国人・韓国人の他に、南米ブラジ ルの人々とおぼしき乗客もかなり多い。福岡から乗り継いだ人々が多いと気づいたのは、彼らのほとんどが手に福岡の家電店のシールが貼られた、 日本製の電気炊飯ジャーの箱を下げているからだ。日本式のお米の食べ方が好まれているのだろうか。性能もいいしやはりおいしいから、故郷への おみやげに喜ばれるのだろう。もちつき機の箱を持った人もいた。午後五時四十五分離陸。窓から見下ろしたソウルの夜景がとてもきれいだった。

 午後七時三十分。ディナー(機内食)が出る。国際線では一回の搭乗で夕食と朝食と、間にちょっとした軽食が出ることがある。私は国際線に搭乗の たびに、食事に使うステンレス製のフォークとナイフとスプーンを一組(こっそり)記念に持ち帰っている。航空会社のロゴやネームが入っていて使う たびに旅のことを思い出すし、やや小ぶりなので、子供用にちょうどいい大きさなのも気に入っている。

 ワインなど少々いただいて、いい気分になったところで機内が暗くなった。夜ということだ。時差ボケに備えて少しでも眠っておこうと目をつぶる。少し の明かりと音があっても眠れない夫は、飛行機で移動するときは必ず“耳栓”を愛用している。私の分も用意してあった。使ってみると思ったよりゴォ ーゴォーという飛行中の耳障りな音が遮断され、よく眠れそうだ。

 機内が急に明るくなって目が覚めた。一斉にあかりがついたのだ。腕時計をみると午前三時。すっかり寝込んでいたらしい。五〜六時間は眠ったこ とになるので、もともと睡眠時間の短い私は大満足。隣の夫はウトウトして何度も目を覚ましたという。どんな場所や状況でもたいてい熟睡できる私 は、いつも眠りの浅い夫から恨めしそうな目で見られる。眠るが勝ちだ。この神経の図太さも、夫に言わせれば鈍感ということらしいが。

 乗務員の動きがあわただしくなり、朝食の準備が始まった。まずドリンクが出る。次にモーニングのトレーが運ばれた。トレーにはクロワッサンとオムレ ツ・ベークドポテト・ウィンナー・プチトマトの乗った皿、デザートのパインとオレンジ果肉を入れたカップ、1回分のジャム、だいたいこんなものだ。

アメリカ大陸だ!
 閉じていた窓の覆いを上げると、外はもう眩しいばかりに明るく、雲の上を飛んでいた。途中気流のためかなり揺れたが、しばらくたつと、太平洋とア メリカ西海岸がくっきりと窓から眺められた。ついにやってきたアメリカ大陸! 徐々に高度を下げてロサンゼルス空港へ着陸。腕時計を見ると、日本 時間で二十五日の午前四時五十分。現地は十二月二十四日で、空港の時計は午前十一時五十分をさしていた。前原の家を出たのが二十四日の午 前十時過ぎだったから、時差で約一日得をし、正味十八時間半を移動に費やしたことになる。多少腰が痛くなったが、明治初頭、役人たちが船旅でア メリカへ行ったことを思えば、驚異のスピードには違いない。しかしここで空の旅が終わったわけではない。

 簡単な入国審査の後、荷物を待つがなかなか出てこない。三十分位してやっと受け取り、荷物のチェック後、さらにサンフランシスコ行きの国内線に 乗り換えるのだ。ゴロゴロとスーツケースを押して、ユナイテッド・エアラインのある7番ゲートを目指す。途中道順を聞きながら、空港内のシャトルバ ス“A”に乗り、三分ほどで7番ゲートへ到着。二階へ上がってチェックインのあと、74番ゲート前へ移動。ロス空港は広いとは聞いてはいたが、やはり とてつもなく広い。ゲート前で時間待ち。セーター一枚でも暑いくらいの陽気だ。真冬とは言えやはりカリフォルニアだ。太陽が眩しい。子供たちの写真 を二枚撮る。あと一時間あまり乗れば、サンフランシスコ。妹一家と再会するのももうすぐだ。腕時計は日本時間の二十五日午前六時二十六分。しか しもう諦めて、現地時間の二十四日午後一時二十六分に時計を合わせた。

 三十分ほど待って飛行機に乗り込み、午後二時離陸。サンフランシスコへ向け北上する。ユナイテッド・エアラインの国内線は中央の通路を挟んで左 右三席ずつの比較的小さなジェット機で、家族連れも多く、ほぼ満席だ。エア・ホステスはほとんど四、五十代の中年女性。パート・タイムかもしれない などと思う。途中お茶のサービスがあった。

妹一家と感激の再会
 サンフランシスコに着き、飛行機を降りて通路に出ると、妹一家が出迎えてくれた。アメリカ式に互いに肩を抱き合って再会を喜んだが、慣れ ない仕草に何となく照れてしまった。荷物を受け取って空港内のロビーでホットドッグなど軽食をとる。朝食だか昼食だかわからない、妙な感覚だった。 その後シャトルバスで駐車場まで移動。自家用の真っ黄色の大型バンに全員乗り込む。午後四時半出発。妹一家はこの日の朝自宅のあるレッディング市を出て、 五時間ほどかけて空港まで迎えに来てくれたのだ。

 妹夫婦には子供が三人。長女が小学校に入学後まもなくの七月に、家族全員でアメリカに移住している。そのとき長男四歳、次男はまだ赤ん坊だった。 しかし三人の子供たちはすっかり成長して、それぞれ高校生・中学生・小学生になっていた。我が家の四人と合わせて合計九人と荷物を乗せ、四時半 過ぎに出発。

 夫のジョージさん(米国名)が運転席に座り、妹は助手席。三人掛けのイスに四人で腰掛け、後ろのスペースには寝袋やマットを敷いて三人が寝ころんだ。途中場所を交代 しながら、お互いの近況を話したり、歌を歌ったり、子供たちも人数が倍に増えてはしゃいでいる。バンは二家族九人を乗せて北へ向けてフリーウェイを ひた走る。出発時にはまだ明るかったが途中から霧が深くなり、十数メートル先位までしか視界がきかない中を、三時間ほどひた走る。途中ガソリン補 給とトイレのためスタンドに立ち寄る。アメリカではガソリンは自分で給油するのが普通だ。サービスがない分、経費もかからないし、ガソリンも安い。

 さらに走り、夜になるに従ってだんだん冷え込んでくる。つい昼しがたのロサンゼルスでの暑さを思うと、ずいぶん北上したのだと肌で感じる。途中妹が 用意したおやつを皆で食べながらさらに進み、予定より少し早く四時間半かかって夜の九時に無事到着。鹿児島から北九州位までの距離を移動したこ とになる。市内に入ると、どの家も通りに面した軒先や庭を、競い合うようにクリスマスのイルミネーションで飾り、とてもきれいだ。前庭へバンが止まり、 外へ出ると息が真っ白で外気が肌に寒い。

 中古の家よと妹がいう通り、年期のはいった玄関ドアを開けて中へ入ると、タタキにあたる場所のみコンクリートの床で、あとは毛足の長いシャギーのカ ーペットの敷きつめだ。一応そこで靴を脱いでスリッパに履き替えたが、男の子二人はずっと靴のまま。床に座るのも寝転がるのも、一向平気だ。おまけ に片目のワンちゃんもお留守番していて、家の中も外も同じように走り回っている。二十畳はありそうなリビングルームに、四人掛けの長いソファーが二つ 窓際に並び、それと平行にテーブルも二台一列に並ぶ。安楽イスが二脚。窓と向かい合う壁際には飾り棚、テレビ、マントルピースが並んでいる。

 窓際に近い位置に背丈ほどのクリスマスツリーが、たくさんの飾りをつけて立っている。妹がスイッチを入れると、豆電球がチカチカ点滅して子供たちがは しゃぐ。ツリーの下にはいかにも絵に描いたようなプレゼントの箱がいくつもころがしてある。なかなか演出がきいている。他の家のように家の外側を飾り立 てていない分、道路側の窓からツリーの飾りが見えるように工夫しているのだとか。周囲の家との調和も考えているのだろう。窓のないもう一方の壁際には 、飾り棚と古い型のピアノまである。どの家具もアメリカンサイズで大ぶりだ。それでもまだ部屋にはゆとりがあった。妹の話では、これらの家具はバザー やガレージセールを利用したり、引っ越すので要らないという家具を引き取り、ほとんどタダ同然で手に入れたものばかりだとか。どれも作りが丈夫なので、 十分使える物ばかりだ。新しいカバーやクッションで見栄えを良くする工夫がしてあった。

 平屋の家の中を一回りすると、リビングルームの他にはキッチンと大きな食卓のある十畳ほどのダイニングルーム、十畳前後の寝室が三部屋。十四畳 ほどのファミリールームはジョージさんが仕事部屋に使い、バス・トイレ・洗面・収納が一カ所に集まった広いサニタリールーム。キッチン脇の通用口は洗濯機と 乾燥機が並べて置いてある洗濯室につながり、その奥にはもう一つトイレがある。廊下のコーナーが四畳ほどのスペースになっており、机とソファーとテレ ビがあって勉強部屋兼遊び場になっている。ざっと見たところ百五十平米以上はありそうだ。この近所では広い方だという。私たちは居間や子供たちの寝 室に分散して自分の寝床を確保し、全員疲れてぐっすり眠った。

アメリカで生きる家族
 翌二十五日はクリスマスだ。皆昼近くに起き出して、簡単なランチをいただく。日本から持ってきたおみやげを一人一人に渡す。妹のリクエストで日本のお 菓子や食料品も色々持参した。お菓子は日本のものが断然おいしいとのこと。おばあちゃんには「温泉の素」のおみやげだ。昨夜は夜も遅かったので挨拶 しなかったが、実は妹一家にはおばあちゃんもいらっしゃるのだ。日本を出られるとき七十二・三歳だったから、もう八十を越えてあるはずだ。以前住ん でおられた山陰の冬の厳しい気象条件に比べれば、R市の温暖な気候がよほど体に合ったらしく、日本にいらした時より元気になられていて一安心し た。家の周りの散歩なら、一人でも大丈夫のとこと。再会をとても喜ばれた。
 妹一家の住むカリフォルニア州レッディング市は、有名なサクラメント市よりさらにの北部に位置するが、冬もジャンパーとマフラーで間に合う程度で、オーバ ーコートを着るような寒さは滅多にないという。かといって暑すぎることもなく、治安もいいとか。人口は六万人位なので町も小さめにまとまり、どこへ行くにも 用事が早く済み、住みやすいとのことだった。

 妹一家がどういう経緯でこの町に住み着くようになったのか定かではないが、ほとんど知り合いもツテもなく(私には無謀としか思えなかったが)アメリカ に移住したことを考えると、言葉に尽くせぬ苦労があったと思われる。日本では二人とも高校の英語の教師をしていた。英語の通訳ができる位の実力を持ち、 かつアメリカ大好き人間だったので、アメリカ留学が二人の共通の夢だった。それが高じてとうとう家をたたみ、一家をあげての移住にまで発展したのだ。ア リカで生活し、子供たちをバイリンガルで育てたい。その夢を実現するため二人で頑張ってきたのだろう。

 ジョージさんは通訳の仕事を見つけたり、日米間で交わされるビジネス文書の翻訳、ゲームソフトやマニュアル文書の英訳・和訳の仕事をいくつかの会社と契約し、 在宅で仕事をこなす。妹は治安の悪いアメリカでの生活に備え、渡米後すぐに護身用に空手を習い始め、持ち前の努力と集中力で通常の倍の速さで黒帯を 締めるまでになっていた。妹も通訳やレストランのアルバイトの傍ら、道場で大柄のアメリカ人の男どもを相手に、空手の指導をしているのだ。英語が話せる 上もともと教師なので、教えるのは得意ときている。教職の経験を生かして、近くの小学校へボランティアで、日本文化の紹介にも行っているという。私は日本 から何度か折り紙を送ったことを思い出した。

 二人ともそんなに気張らなくても、とこちらが心配になる位、日本人の代表のような気持で、日本人としての誇りを背負い、日本人を意識して頑張っている。 日本人はこの程度かと思われるのがイヤなのだと。日本人としてのプライドと負けず嫌いが、頑張りを支えているようだった。外国で暮らすというのは、やは り色々な面で精神的緊張を強いられるという。妹によれば、あからさまな人種差別というものは少なくなったとは言え、日本人を含めアジア人への蔑視を、ア メリカ人の意識の中に微妙に感じる事があるという。

 とはいえ、高校生になっていた妹の長女は、もう英語力では両親をはるかに追い越し、二人の弟はネイティブ・スピーカーそのもので、私たち家族との会 話は何とか日本語を使うものの、兄弟同士では英語だけ。妹が、家の中では日本語を話しなさいと、しきりに注意するが日本語の読み書きは全くできないとい う。彼らの日本語学習のためにと、日本の教科書のお下がりを何度か送っていたが、あまり役に立たなかったようだ。日常的には使わない漢字をいくら教えた ところで、やはり覚えるのは難しいだろう。バイリンガルの難しさを感じた。

 外に出ると外気は冷たいが空気は澄み、よく晴れている。家の周囲を見て回る。ここは市の中心地からは少し外れた閑静な住宅地で、ゆるやかに蛇行した 道路に面して、住宅が向き合うように並んで建っている。前面道路は幅員十メートル位でさほど広くはないが、どの家も車を二台縦列駐車できるだけの前庭 をとってあるので、向かいの家といっても道路を挟んでかなりの距離がある。

 住宅はどれも平屋で、二階建ての家がほとんどないのは、やはり土地の広さと関係ありそうだ。ここの市役所などの施設もせいぜい三、四階建てで、町全 体が平べったい印象を受ける。妹一家の宅地は間口はそれほど広くないが、奥行きのある長方形で、家の裏はさらに幅員五メートルほどの道路に面している。 その通用口ともいえる裏通りに面して、車を二台入れてもまだ十分スペースのある、ガレージを兼ねた大きな倉庫が一棟建っている。あとは裏庭だが物干し 台が置いてあるだけ。「アメリカ人の家庭はバックヤードもきれいにしているらしいが、うちは散らかっている」とは、妹の弁。私は当時不動産の仕事をしていた こともあり、住宅や土地の様子はつい業者の目で見てしまいがちだ。自分の足の歩幅でタテ・ヨコ測ってみたが、土地面積は二百坪位あったと思う。どの家も だいたいそんなものだった。

 ちなみにこの家は頭金とローンで、数年前に購入したという。移民のためローンを組むのも大変だったとか。子供の学校のこともあり、この町に住むと決めて 部屋数の多い家を捜していた時、ちょうど売りに出されていたという。多少のリフォームは要ったが、築五十年とはいえ土台も壁もしっかりしており、この時代 のものは最近の家よりはよっぽど頑丈に建てられているのだとか。確かにセントラルヒーティングの調子は今ひとつで、固定式シャワーのお湯の出も悪かっ たが、築二十年で傷んでしまう日本の建て売り住宅と比べれば、はるかにりっぱだ。不動産だから、長く使えてこそ価値がある。この土地付きの家がたった の六万二千ドルとは、聞いて驚いた。当時のレートで日本円にして六百五十万円相当だ。我が家の五十坪の土地に建つ、数倍の費用をかけて買った中古 家を思って空しくなった。

レッディング市に滞在する
 妹一家の家の前庭には昨日の黄色いバンと、乗用車が二台止めてあった。乗用車は日本製、三台とも中古車とのこと。外に出た私たちは、乗用車二台に九 人が分乗して、近くのダムを見に行くことになった。当時は日本車の人気がアメリカで最高潮の頃で、どこを走っても見慣れた日本車が圧倒的多数を占めて いていた。アメリカの道路を席巻しているそのさまは、驚嘆を通り越してちょっぴり誇らしくもあった。故障がなくて燃費がいいのが人気のもとらしい。

 市内を抜けて、程なく車はシヤスタ山の麓に広がる広大なシヤスタ湖へ到着。そこにかかる巨大なダムが目の前に迫る。ほとんど風もなく、秋晴れのような 好天に恵まれ、湖も空もただ青一色に澄み渡る。シーズン・オフのためか観光客はまばらだったが、夏ともなれば、ロサンゼルスやサンフランシスコからの 観光客で溢れ、水上スキーやキャンプで賑わうという。

 冬とは思えない陽気に誘われて、車を置いてサクラメント河畔の遊歩道を二時間くらい散歩する。自然のままの河岸を、鏡のように悠然と水は流れゆき、美 しい。途中レッド・サーモンが川面に跳ね上がって、その大きな姿を目の前に現したのには驚いてしまった。夕方になって急に冷え込んできたので、帰宅する。 フリーウェイを利用しても十五分位でそれらの場所へ行けるのは、驚きだった。

 夕食にスキヤキをごちそうになる。食事の後は八時から、また車に分乗して、近くの住宅街へクリスマスのイルミネーションを見に行く。家の形のままに豆電 球をずらりと並べて縁取り、それに加えてリボンや釣り鐘やツリーの形に電飾を凝らし、前庭にサンタクロースやトナカイ、こびとたちの陶製の人形を並べ、 それにも電飾を施し、一晩中点滅させたり、ライトアップしている。シンプルな飾りの家、満鑑飾に光り輝く家、それぞれ個性がある。この飾り付けやデザイン に、毎年たくさんのお金と時間を費やしているであろう事が、家々の飾りの華やかさの中に感じられた。個人の家にとっては、一年で一番のイベントなのだろう。 クリスマスには家族揃って過ごすというのが習慣らしい。いくつかの住宅地の飾りを見て回り、アメリカらしいクリスマスの雰囲気を堪能した夜だった。

 二十六日。朝入浴を済ませて遅い朝食をいただく。食事の後、皆でスーパーマーケット巡りをしようと決まり、二台の車に乗り込んだ。車社会のアメリカでは、 家から一歩出れば、車なしには動けない。町なかを車で走っても、バイクや自転車は通っていないし、徒歩の人などまず見かけない。徒歩というのは、非常に 危険な気さえしてくる。車社会も便利なようで、実は不便な社会だ。広大な土地に町が点在しているので、公共交通機関は採算が合わず、発達しにくいのだろう。

 小・中学校はスクールバスがあるので、それを利用して通学するが、高校生ともなるとスクールバスも限られた地域のみとなり、大多数は自分で車を運転し て通学する。妹の長女も高校生になり、バスがこない地域に家があるので、妹が学校まで片道三十分ほどかけて送り迎えしているという。しかしアルバ イトや空手の仕事などで妹もだんだん多忙になり、朝夕の送り迎えはかなり大変で負担に感じているとのこと。それで最近長女の通学用に二台目の中古乗 用車を手に入れ、折を見て運転の練習をさせているという。

 まず親が実地に運転を教えて練習させ、ここでよかろうというところで免許を取るための試験を受け、合格すればよいのである。ほとんどは親に運転技術や 交通ルールを教わるので、教え方が悪くて事故を起こしても、それは親の指導が悪かったというわけだ。もう少し練習させたら、試験を受けさせるつもりだと 妹は話していた。妹は早く娘の送り迎えから解放されたい様子だが、まだ十六か十七歳の少女を、フリーウェイを一人で運転して通学する車社会へ放り出 すのだ。車を運転して一人で自由に移動できることが、一人前の大人になる重要な条件なのだろう。車への依存なしには生きられないアメリカは、なかなか 厳しい社会ではある。

 私たちが最初に行ったのは、「ターゲット」という名のディスカウント・ショップ。つまり安いお店だ。大量生産・大量消費の元祖アメリカらしく、とにかく物が豊富 で安い。ワンフロアーの体育館か倉庫のような天井の高い広いスペースに、商品がケースのまま山積みしてある。ショッピングカートといえば、日本のスーパ ーマーケットで見かける、子供を手前に乗せて先が長めのものと形は同じだが、サイズが二倍くらいある。大きすぎて押すのも大変だ。

牛乳瓶も牛乳パックも倍のサイズ。牛・豚・チキンなどの肉の切身も最小でも五百グラムパックで、ほとんどはお盆のようなトレーに山ほど盛ってある。少し 先を見ていた娘たちがケラケラ笑うので行ってみると、冷蔵ケースにケーキが並べてあった。ところがそのケーキは一辺が三十センチ位の正方形をしていて、 どれもこれも表面のクリームの色が、赤や紫や緑など、日本では考えられないようなどぎつさだ。アメリカ人の色彩感覚はどうなっているのかと思ってしまった。 ケーキの上の飾りもまた相応の色使い。とても食べ物とは信じがたい。その量といい、色といい、驚きを通り越して笑ってしまった。

私と長女は化粧品を中心に買い物した。マニュキアも二〜三百円、口紅も八〜九百円、ほとんどの商品が千円以下で揃う。Tシャツも五百円が主流。ハンド バッグも革製品が二千円から三千円といったところ。しかし大量の製品が無造作にぶら下げてあり、デザインや品質は今一つだ。アメリカではメイド・イン・U SAの商品を捜すのはなかなか困難で、ほとんどアジアの国々の製品だ。大衆向けの店ということもあるが、要はそれなりに使えればいいという事だろう。

そのあと別のモールも二つほど回ったが、似たり寄ったりだ。アメリカの場合、たいてい市街地から離れた幹線道路沿いの広大な土地に、大駐車場を備えた 大型店がいくつか並び、ショッピングモールを形成している。車で乗りつけ、一週間分の食料品などを買い出しするのだろう。日本のように買い物袋を下げて、 近くの商店街へちょっとお買い物、という訳にはいかないのだ。モールの中には一部高級品を置いているコーナーもあったが、全体が高級品を扱う日本のデ パートらしきものは、この近くでは見かけなかった。いくつかの買い物の後、夕食は直径五十センチ位ありそうな大きなピザで済ます。

移動の途中、町はずれの道路脇などで失業者を見かけた。段ボールなどの紙に、「仕事を下さい」「職を求む」などを意味する言葉が書かれ、それを両手で 持って道ばたに立ち、道行く車に訴えているのだ。そういう人を数人見かけた。当時のアメリカはまだ不況を脱していなかった。

帰宅後、長女が旅の後半に泊まるホテル探しを始める。あらかじめリストアップしていた料金の安いホテルの名簿に次々電話をして、空室があれば予約し ていくのだ。たどたどしい英語の発音と会話に、ジョージさんの長男が後ろで笑っている。でも何とか三カ所七泊分の宿を確保することができた。

何度も車に乗って移動していると、だんだん右側通行の感覚にも慣れてきた。自分が運転している気になって、道路事情を観察すると、非常に運転しやす いと感じた。何しろ道が広い。住宅地も建て込んでいないから入り組んだ路地などないし、歩行者や自転車もまず見かけない。幹線道路の交差点以外は ほとんど信号がなく、一旦停止で安全確認すれば右左折できるので、信号待ちがなく走りやすい。二つの道の合流地点が混んでいても、双方からきれい に一台ずつ交互に進入するので、割り込みや混乱もなくスムースに流れる。交通マナーが身に付いているのだろう。車社会であればこそ、なおさら運転し やすい交通体系になっていると感じた。

文化の違いを感じる
 二十七日は、朝からピアノの音がした。ピアノはこの家の前の住人が置いていったものだが、長い間調律していないらしく、音程がかなり狂っている。それ でも妹は平気で弾いている。今年の夏から近所の有名な先生にピアノを習っているとかで、練習していたのだ。今日はそのレッスンの日だという。夫とジョージさ んは本屋さんへでかけ、子供たちはテレビゲームに熱中している。午後三時、やっと全員揃ったので、車二台で出かける。この日も青空の良い天気で、全 然寒くない。近くのウィスキータウン・レイクという人造湖へ連れていってもらう。ここも木々と湖水の眺めが非常に美しかった。

 途中、ゴールド・ラッシュ時代に栄えたという町を通過したが、大きな建物がいくつも残り、今はゴースト・タウンになっている。その町の由来を示す案内板が あるあたりに、インディオの開いた小さな店があり、次女が絵はがきを三枚買った。九十セント(約百円)だった。しばらく行くと小さな郵便局があり、長女が 切手を買う。湖からの帰りにスポーツ店に寄り、長女が前から欲しがっていたローラースケート靴を手に入れた。

 帰宅後、私は妹のピアノのレッスンに同行させてもらうことにした。私たちはもう一人の妹も含め三姉妹。小学生の頃、私は親にピアノを習わせて欲しいと せがんだ事がある。なにしろ昔の田舎のことで、ピアノを習っている子はクラスに一人いるかいないかの状態だ。後妻の立場で女の子を三人も産んだせい か、母は私たちに目立ったことをされるのを嫌っていたから、ピアノの件は当然絶望的だった。それどころか母は、長女がそんなことを言い出せば、妹たち も習わせてと言うに違いないからどうか諦めてくれ、と逆に私を説得する始末。私は粘りに粘って、中古のオルガンを買ってもらいそれを三人で使うことを条 件に、母の説得に応じた。そういう時代だった。だから音楽好きの私と妹は、正式に楽器を習うことに対して、長い間非常な渇望を抱くことになったのである。 その夢の実現を、妹はやっとアメリカで掴んだのだ。

 車で十分足らずの小高い丘にあるその先生の家は、横に細長くヨーロッパ風の外観だった。外玄関は日本の家屋くらいの広さしかなかったが、ドア付近の 前庭には、ヨーロッパ調のレリーフや置物、飾りが置かれている。グリーンがふんだんにあしらわれ、重厚な雰囲気を醸し出している。重いドアを押して入る と、左手は住居部分らしい。右手に進んで三、四段の階段を下がると三十畳はありそうな広間に出た。奥行きのある部屋の左右と一番奥に計三台のグラン ドピアノが置いてある。奥の壁は一面本棚になっている。中央にやや斜めに置かれた長方形の大きなテーブル。それに向かって左手には一人掛けのどっし りした四つの椅子が並び、掛けていた四人の五十代位の上品な女性たちが一斉にこちらを向いた。妹が一番奥のピアノに向かっておられた先生へ簡単に 私のことを紹介して、お互いに軽く挨拶し合った。

 妹と私が女性たちと向き合う形で、右手の大きなソファーに腰を下ろすと、さっそく先生の話が始まった。リストの音楽についての解説らしい。ノクターンの形 式についてのレクチャーが続き、知っている作曲家の名前が時々聞き取れるが、内容は不明。説明を挟みながら途中で二、三回ピアノの演奏が混じる。素 晴らしい響きだった。この先生はもともとソリストとして各地を演奏して回っていたが、年をとって演奏活動を止めてから、自宅でピアノのレッスンをされてい るという。いわゆる子供のお稽古事としてのレッスンではなく、大人を対象に、弾くことよりも音楽理論やクラシック音楽全般の教養を身につけることに主眼 が置かれているようだ。

 主婦らしき女性たちが、夕方に約一時間家を空けてゆったりと音楽の勉強が出来るのは、それだけゆとりがあると言うことだろうか。私と妹はいかにも真冬 の黒づくめの服装だったが、向かいの女性たちは一様に白っぽいブラウスにピンクや花柄カーディガンを羽織っている。どの人も初老にさしかかってはい るが、明るい色の装いは肌の白さとも、栗毛や銀髪とも調和して、私や妹とは対照をなしていた。彼女たちの精神的なゆとりと時間の過ごし方に、微かな 羨望と文化の違いを感ぜずにはいられなかった。

 翌日は二十八日。この日も暖かい良い天気に恵まれる。ジョージさん宅に泊まるのも最後の日だ。今月から妹がアルバイトを始めたばかりという、スシバー(寿 司レストラン)「かんぱい寿司」へ出かける。オーナーは日本人とか。おばあちゃんも含め総勢十名だ。人数が多いので開店に合わせ、午前十一時過ぎに 店に到着。朝食と昼食を兼ねた食事をする。メニューはさしみ定食、チキン丼(うどんのこと)、牛丼、チラシ寿司、寿司盛り合わせ、日本のビール等々。久 々の日本食をたくさんいただく。なかでも私が一番気に入ったのは、巻き寿司にアボガドをたっぷり使った、見た目も華やかな「カリフォルニア巻き」。これが 一番美味しかった。店内は調度品や什器、内装も和風仕立てで、アメリカ人も一応箸を使っていた。肥満の多いアメリカでは、日本食はヘルシーだとして人 気が高いという。刺身はチョットと思ったが、何とか食べた。日本海の魚で育ったおばあちゃんは魚の鮮度にはことのほか敏感で、アメリカの魚は決して口に されないとか。レストランはモール街の一角になっており、食事の後いくつかの買い物をして帰宅する。

 午後はフリーウェイをどんどん南下して、農場を見に行く。走れど走れど続く牛や羊の放牧地帯。自然公園にも行って、アメリカの広さを味わう。夕食も外 で済まし、午後九時帰宅。明日はもう出発なので、荷物をまとめにかかる。そろそろ寝ようかとしたとき、妹が私と夫を自分たちの寝室へ案内した。ドアのロ ックを用心深く確かめて、ジョージさんが戸棚から何やら大きな箱を取り出しベッドの上に乗せた。別の場所からも、妹が小さな箱を持って来た。

 長方形の大きなふたを開けると、なんとライフル銃が一丁入っている。勿論弾は装填されていなくて、別の場所に保管しているという。拳銃も一丁ある。さら に妹が持ってきた箱の中には、女性の護身用というこぶりの拳銃が一丁、丁寧にしまわれていた。この家に三丁もの銃があることになる。万が一に備えて 最近買ったという。アメリカでは家族の命や財産を守るのは警察ではなく、基本的に自分たちであること、と妹は強調するが、文字通り銃社会の住人になっ たのかとため息が出た。さわる気にもなれない。

 次に妹が等身大の、人間の形に切り抜いた紙を広げて見せた。数カ所小さな穴があいている。銃を買ったあと、拳銃を撃つ練習場へ行き、弾の入れ方、出 し方、保管の仕方、銃の持ち方、構え方、撃ち方等々の指導を受けたとのこと。足はこう肩幅くらいに開いて立ち、拳銃はまっすぐ両手を伸ばして構え、息は …と妹は身振りを加えて説明を始める。的となる人型の紙に向かって、実弾を発射して撃つ練習をしたという。アメリカに住む以上、備えをするのは当然と言 わんばかりだ。

 本当に万が一の時、人間を撃てるのだろうか? 妹にその疑問を投げかけると、妹は「撃つ」と答えた。なるほど人間を撃つ覚悟がなければ、銃も買わないだ ろう。しかし銃で身を守るということは、同時に銃で攻撃される、自分も撃たれる可能性が非常に高いということだ。私なら銃は買わないと思った。人を撃つ自 信がないからだ。人を殺すくらいなら、撃たれて死んだ方がいいとも思う。が、やはり銃があれば本能的に応戦するかもしれない。よく分からない。結論は、 私はアメリカには住まないから、一生銃とは無縁の生活を送るということだ。三つの銃は事故を防ぐために、それぞれ元の隠し場所へしまわれた。あの銃が、 一度も使われなくて済むことを祈るばかりだ。

気丈なおばあちゃんとの別れ
 妹一家に五日間お世話になり、十二月二十九日、いよいよサンフランシスコへ戻る日だ。午前十時、来た時と同じように黄色いバンに九人が乗り込む。出発 前におばあちゃんと別れを告げる。十年前、妹たちがアメリカ移住を決めたとき、私は当時北九州市にいた妹一家に会いに行って、本気かどうか確かめず にはおれなかった。

 妹は島根県に嫁ぎ、三人目の子供も産まれ、平凡に暮らしていた。家は日本海に近く後ろは山で、冬の寒さの厳しいところだ。ところが昭和五十八 年、梅雨も末期のころ山陰地方を豪雨が襲い、妹の家も一気に一階の天井まで濁流につかった。妹一家は深夜の豪雨の中、二階の屋根から裏山に飛び 移り、赤ん坊は妹が放り投げてジョージさんに渡し、暗闇の山中を歩いてかろうじて安全な場所へ逃げ延び、家族全員助かったという。家は使えず、結局再建を 断念して島根を離れ、二人が学生時代を送った北九州市へ移り住み、アルバイトをしながら仕事を探していた。いわば水害難民だ。

 思いがけない災害で生活の基盤を失い、妹夫婦は文字通りゼロからの再出発を模索していた。その過程で二人の若い頃の夢、アメリカ移住が浮上したの だ。いっそ出直すのならアメリカでと、希望の火が灯ったのだろう。命がけで災害をくぐり抜けた「くそ度胸」が、二人の背中をポン押したのかもしれない。決 意は固かった。一緒に行くことになったおばあちゃんに気持を聞いた。

 「私が高等女学校の娘の頃は大正時代だったけど、アメリカへ行きたくて行きたくてたまらなかった。それが親の決めた結婚で、いやいや島根の田舎へ嫁 いで五十年もたって、七十過ぎてアメリカへ行くとは夢にも思わなかった。私はこの孫たちの守(もり)をするため、行くのですよ。こんな年寄りでもまだまだ 孫や息子たちの役に立ちますからね」そんな意味のことを、気丈にもおっしゃていた…。

 お別れの挨拶をすると「日本に帰られるのですね」とおばあちゃん。それは(私も一緒に帰りたい)と私には聞こえた。体力的なこともあり、もう日本の土は踏 むことはないと覚悟されているのが伝わってくる。お元気でねと明るく笑ってお別れした。いつまでも玄関口に立って見送っていただいたが、それが本当に 最後のお別れだった。おばあちゃんは、それから三年ほどして亡くなった。

 黄色いバンは私たちを乗せ、広大な農業地帯の中を突っ切り、一路サンフランシスコへ向けフリーウェーを走る。午後二時近く、サンフランシスコ市内へ入 ると、フリーウェーの出口は渋滞していた。地図を頼りにゴールデンゲート・パークに入る。道路は広いが両端が駐車場代わりになっている。ぐるぐる探し回 って、やっと一台分のスペースを見つけた。園内を少し歩き回わる。大人も子供も男も女も、ほとんどジーパンにTシャツ姿。それにセーターを肩に掛けたり 腰に巻いたりするくらいだ。普段着もよそ行きもない。衣類にお金をかけないのだろう。

 入場料を払って、公園内のカリフォルニア科学アカデミーへ入る。さすがに子供連れが多い。水族館・プラネタリウム・展示室と見る物は多い。そこの地下 レストランで遅い昼食を取り、午後五時過ぎ再びバンに乗り込む。夕方の混み合う市内を地図を片手に回ること三十分、やっと目指すパウエルホテルを見 つけた。駐車場がないので路上で荷物を下ろし、妹一家と別れる。

 スーツケースを二十メートルばかり押して、ホテル着。チェックインを済ませ、三四二号室へ。さっそく荷物をほどき着替える。夫と次女は一番先にぐったり して眠ってしまった。私と長女はお風呂に入ったりテレビを見たりして、十二時過ぎに横になる。さすがに疲れている。妹一家と別れたのは午後五時四 十分。あれから市内を抜け、レディングの自宅へ到着したのは十一時近くと思う。道中無事でと祈るばかりだ。本当にありがとう。

サンフランシスコ滞在
 十二月二十九日はサンフランシスコ市内観光の第一日目。昨日フロントで、少々高かったが日本語通訳付きの市内四時間めぐりコースを予約していたので、 七時過ぎに起きて用意。朝食を取って、九時過ぎホテルの玄関で待つ。天気良し、寒くなし。しばらく待っていると、児玉と名乗る三十過ぎくらいの日本人男性 がマイクロバスでやってきて、私たちを乗せて出発。途中、二つのホテルで三組七人の日本人客をピック・アップ。乗客計十一名でまずサンフランシスコ市庁 舎へ行く。

 バスを降りて写真を撮ったが、市庁舎の玄関付近や周囲にはホームレスが群をなしていて、雰囲気も悪く、近づかない方がよいとのこと。途中、治安の悪い 薄汚い地区の横も通って、いろいろ注意を受ける。やがてバスは道幅の広いマーケット通りをズンズン進んで、ツインピークスへ向かう。その途中カストロ・ ストリートというゲイの町を通る。ゲイの目印は店の入り口に垂らされた、七色のレインボー・フラッグだと教えてもらう。あちこちの入り口に、その独特な虹 色の細長い旗が垂れていた。ここは全世界の、ゲイの憧れの地という。

 バスは山道を登り、ツイン・ピークスへ。ツイン・ピークスとは二つのコブ(山頂)のある山の意味で、当時ヒットしていた映画の「ツイン・ピークス」とは全然関 係なしとのこと。展望台から少し霧にかすむサンフランシスコ市街が見渡せた。狭い平地と山の斜面に、びっしり建物が並ぶ様子は壮観といえる。ガイドの 児玉氏によれば、サンフランシスコは通常十一〜一月は雨期で天候が悪いらしく、この数日晴天なのは珍しいとのこと。そういえば私たちもアメリカへ来て 一週間経つのに、ずっと晴天に恵まれている。

 ツイン・ピークスを降りて昨日行ったゴールデンゲート・パークの中を縦断し、海の方向へ走り、オランダ風車の横からオーシャン・ビーチへ出る。バスを降 りて、サーファーが喜びそうな海と波を見る。風もなく暖かい。さらにリンカーン・パークを通って、ゴールデンゲート・ブリッジ(金門橋)へ到着。橋の全貌が 見渡せる場所で写真を撮る。映画や写真でいつも見かける風景だが、やはり実物は壮大としかいいようのない景色だ。日本人も多かったが、色々な国の 言葉が聞こえた。

 市内へ引き返して珍しい建物や名所を見学し、ベイサイド・エリアのフィッシャーマンズ・ワーフへ。サンフランシスコ湾に面した漁師町が一大観光地へと発 展した所だ。ここはたっぷり時間を取ってあって歩き回ったが、とても見足りない。集合時間の十二時三十分、児玉氏と他のツアーの人たちとそこで別れ、 私たち家族だけ残った。夫と長女はサンフランシスコ湾内クルーズ(一時間十五分のコース)に乗る。湾内には脱獄で有名な元連邦刑務所のあるアルカト ラズ島も見える。次女は船に弱いので私と残って、海に浮島のように突き出した百店もの土産店がひしめく「ピア39」の中を見て回る。一番奥にあるレスト ラン「ネプチューン・パレス」の景色抜群の席を予約して、全員揃ったところでディナーとしゃれこんだ。お目当てはシーフード。中でもクラムチャウダーは口 に合い、結局アメリカではこれ以上おいしいものを食べなかった。久しぶりのまともな食事で全員大満足。憧れのケーブルカーに乗って、ホテルまで帰る。

ユニオン・スクエアで新年を迎える
 いよいよ大晦日。さすがに大都会だけあって、洗練されたお店が多い。ここへ来て初めて町を歩くスーツ姿の男性や女性を見かけた。セールをやっていた ので服を見て回ったが、どれもサイズが大きすぎて諦めた。ユニオン・スクエア近くのイタリアン・ファーストフード店で軽い昼食を取り、ケーブルカーで再 びフィッシャーマンズ・ワーフへ出かける。午後はまた見所いっぱいのこの一帯をうろうろ歩き、桟橋へ出た。

 湾内に突き出た埠頭に、ぶちまけたように数えきれないほどのシーライオン(アシカの仲間のトド)が集まっている。そのどれもが巨体を日光に当てて、ひ ねもす昼寝をしているのだ。何時間でもそのままドテッと寝そべり、だらしないくらい無防備で、平和そのものだ。外敵がいないのだろう。サンフランシスコ湾 で食べて、泳いで、昼寝が彼らの生活のようだ。「いいなぁトドは、毎日ボーっと昼寝して、それで生きていけるなんて」ボソリと長女がつぶやく。確かにトドの 寝姿を見ていると、私たちが普段理性で抑えている怠惰な生活への欲求を、奇妙にそそられるのである。途中、タワーレコード店でCDを四枚買った。暗くな るまで遊んで、ケーブルカーでホテルへ戻る。

 大晦日なので奮発してシックなレストランへ出かけ、ディナーとなる。食事までは良かったが、デザートのプリンのことで夫と長女がモメてしまった。何もこん な所でプリンごときで、と嫌な気分になる。せっかくのディナーが台無しだ。ホテルに帰り、お風呂に入って気分転換する。このあと、旅のメイン・イベントである カウント・ダウンへ出かけるのだ。

 後十一時四十分。皆で再びホテルを出て、歩いてユニオン・スクエアへ向かう。もう道路やスクエア内は人で溢れている。シャンペンを抜いて雨を降らす人、 道の真ん中で抱き合う男女、色々な人種の人たちが誰彼なく肩を組んだり写真を撮りあったり、大変な騒ぎだ。いよいよ午前0時になった。カウント・ダウンの 代わりに、ドーン・ドーンと大砲のような音が二度鳴り響いた。それを合図に群衆はワー、キャーと歓声を上げ、ホルンの音も加わってしばらく喧噪が続いた。 一九九四年の元旦を、私たちはユニオン・スクエアで迎えたのだ。

 その夜、パウエルホテルには高校生の男女の集団が宿泊していた。お酒も飲んでいるらしく、奇声は上げる、叫ぶ、歌う、走り回る…ホテル中その騒がしい こと! 日本と反対で、アメリカでは大晦日は家族と過ごすのではなく、恋人やフィアンセ、友だちと一緒に、夜通し騒いで新年を迎える習慣だとか。そのニ ューイヤー・パーティーのうるさいこと。ゆっくり眠るどころではなく、一年最後の夜はさんざんだった。

正月にディズニーランドで遊ぶ
 元日はロサンゼルスへの移動日だ。朝から快晴。九時にチェックアウトして、他のツアー客と一緒にサンフランシスコ空港へ。十時三十分の便で飛び立ち 昼前にロス空港着。パイロットの腕がいいのか、離着陸の揺れがほとんどなかった。南下しただけあって空港に降り立つと、行き交う人々は半ズボンに半 袖シャツだ。黒っぽい冬装束の私たちは、どこから来た、という感じだ。急に暑くなる。バス停を捜し、空港からアナハイム行の大きなバスに乗り込む。黒人 の運転手さんに頼んでイン(宿泊所)の前で降ろしてもらう。午後二時着。すぐに着替えて近くのデニーズで昼食。インは部屋に冷蔵庫や簡単なキッチンも あり、長期滞在型の安い宿だ。施設内にはコインランドリーも設置してある。さっそくたまった洗濯物を片づけ、昼寝をしたりしてゆっくり過ごす。

 一月二日。今日も晴天だ。午前九時ちょうどにインを出て、歩いてディズニーランドへ。広大な駐車場には車が続々到着している。十五分ほど歩くと入場券 売場へ着いた。日本語版のガイドブックを片手に、いざ中へ。「絶対面白い!」と長女が提案するので、最初に「スターウォーズ」という名のジェット・コース ターに乗る。動き出してまもなく、人工の山の中へ入る。宇宙空間を想像させる演出らしく、あかりは星くず程度の真っ暗闇。上がるか落ちるか曲がるか暗 くて全く予想できないコースを、ジェット・コースターで駆け回るのだ。心臓に悪いがなかなか面白かった。

 次の乗り物を物色していると、次女がひどく沈んでいる。三半器官が弱いのか、いきなりジェット・コースターの洗礼を浴びて顔は青ざめ、足もすくんでいる。 恐ろしいのに乗りたがる長女と正反対だ。可哀想なほどしおれているので夫と次女、私と長女の二組に分かれ好きなところを回る。お昼に一旦落ち合い、 食事の後また五時まで別行動で遊ぶ。園内は世界中から人が集まっていて、さながら人種と民族衣装の見本市のようだ。再び合流してメイン・ストリート にずらりと建ち並ぶお店を見て回る。

 夕食はインの近くのイタリアンレストランに入る。広いが客もまばらで内装も調度品も貧弱。どう見ても食堂と言った方が合っている。旅行者相手の商売な のだろう。無難なスパゲティーを注文する。夫がミートボールに決めたので私はミートソースにした。ところが出てきたのはミートソースが二皿で、夫の方に はその上に五、六個のミートボールが乗っているだけ。パスタというよりチャンポン玉に近いコシのない太麺に、まずいミートソースがたっぷりかけてある。 半分も食べられない。夫がくれたミートボールを一口食べて、後悔した。牛でも豚でもチキンでもない得体の知れない肉の味。いっそう気分が悪くなる。全 員食べ残して、一緒に頼んだガーリック・トーストだけ食べて出る。「あれのどこがスパゲティーなのよ」と、口々に文句を言いながらインに戻る。夕方洗濯。

ロスの観光地を回る
 三日も快晴だ。インを九時にチェックアウトして、タクシーを呼んでもらい、フリーウェイを通り約四十分でハリウッドのモーテルに到着。ここが最後の宿泊 地だ。二階建ての全部で十二室しかない小さな建物だ。家族経営らしく、いかにもしもたや風で、設備も外観もインよりさらに落ちる。二泊で四千五百円と 超安いだけあって、ただ泊まるだけという感じだ。きれいとは言い難いが、最低限の設備と掃除はしてある。確かに料金と釣り合っていて、文句は言えない。 荷物を解いてさっそく町へ出る。地図を片手にマンズチャイニーズシアターを目指す。思った方角へ歩いて十数分で着くはずだったが、行けば行くほど道 は薄汚く、歩道はゴミだらけ。通りは活気がなく空き地や空き店舗が目立ってきた。人も通らないし、何やら異臭もしてくる。治安も悪そうで不安になる。観 光客の姿もない。おかしいと思い地図を確かめると、どうやら反対方向へ歩いていたらしい。あわてて引き返ししばらく行くと、観光客の一団と会い、ほっと してついて行く。

 映画スターなどの有名人の手形や足形を、歩道や広場の敷石に埋め込んだチャイニーズシアターは、観光客で賑わっていた。お目当てのスターの名前 を見つけては、一緒に写真に納まる。そこからさらに、ハリウッド通りを歩いてみる。観光客が多いのは当然としても、何か訳の分からないような胡散臭い 人も多く、突然話しかけてきたりする。「ノーサンキュー」で切り抜け、関わらない。

 お正月だというのに、昼間はまるで夏さながら。道行く人はTシャツと短パン姿が多く、部屋に帰るとクーラーを入れたほどだ。華やかな商店の建ち並ぶ通り を歩いているとき、前方から甘い香りがしてきた。砂糖の匂いだ。キャンディーやチョコレートなどのお菓子が店内に溢れている。そこから道路まで菓子の甘 い匂いが漂ってきたのだ。甘い物が嫌いな次女は、砂糖のにおいで頭が痛いといって、店内に入ろうとしない。私と長女はおみやげを買おうとむせるような甘 い匂いの店に入ったが、カラフルというよりケバケバしい色のお菓子の山に恐れをなして、結局何も買わずに出た。あんなどぎつい色のお菓子を食べて、ア メリカ人は平気なのだろうか。

 こを過ぎると豪華な構えの大きなホテルがあった。モダンな作りで、出入りするお客もリッチそうだ。アメリカの最後の日くらい贅沢するか…と一瞬心が動く。 夫も同じ事を考えたようだが、やっぱり高そうなので諦める。

 一月四日の予定は、楽しみにしていたユニバーサル・スタジオ見学だ。ハリウッド映画のセットや制作現場をそのまま観光コースに仕立てているのだ。映画 館やビデオで見たことのある映画の有名なシーンをそっくり再現し、客が映画の中の人物となって臨場感を体験できる仕掛けだ。火あり水ありお化けありで、 大人も十分楽しめる。費用を惜しまず、エンターテイメントに徹した、大がかりな遊園地と言えるかも知れない。

 時間が少しあったので、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)へ回ってみた。私は国立大学に十九年勤めていたので、大学にはとても関心を持って いる。アメリカの大学は敷地が広大で、建物も美しい。観光コースにもなっている。UCLAの主な建物はベージュ色で統一され、煉瓦を多用したヨーロッパ風 の瀟洒なたたずまいだ。それらの建物が芝生と石畳で構成された庭園風の、広大なキャンパスに点在する。せせこましい日本の大学とあまりに違う環境の 良さに、しばし溜息が出る。

量か質か?食べる物に困る
 ハリウッドに来てからは、子供たちもレストランでの食事に関心を示さなくなった。量が多すぎておいしくないという。必ずしもおいしくないのではなく、量の問 題だろう。小食気味の我が家には、一人分を二人で食べてちょうどいい位の量だ。それ以上は見るのも苦痛でしかない。ある時ポークチャップを注文したら、 日本で食べるイメージを全く裏切って、ゲンコツのような肉の塊が出てきた。その時「私は馬ではない!」と、正直げっそりしたものだ。デザートのアイスクリ ームも、注意しないとどんぶり鉢で出てくる。ピザも食べ飽きて、普通に食べる物がないのだ。

 結局、コンビニエンス・ストアでスライスした食パンとハムとチーズと飲み物を買い、モーテルに帰ってサンドイッチにして食べた。これがシンプルで、大変お いしかった。何度かこの方法で食事をした。子供たちが「安くていっぱい食べられるのと、高くて少ししか食べられないのは、どっちがいい?」「高くていいから、 美味しいものを少し食べたい」などど話している。

 五日はいよいよ最後の移動日だ。荷造りをしてモーテルをチェックアウト。四人で延べ八泊、計一万八千円はやっぱり安かった。ロサンゼルス空港までタク シーで行き、昼頃の出発まで待つ。帰りはロスからキンポー空港経由で福岡へ。乗り換えは一回だけだ。二週間のアメリカの旅が終わろうとしている。もっ といたいような、早く帰りたいような矛盾した気持ちで飛行機を待った。

 十四時間ほどの空の旅を終え、筑前前原駅に着いたのは一月六日の夕方。行きに時差で一日得した分、帰りは倍のスピードで一日が進んでしまった。 辻褄が合ったわけだ。夕食は全員の希望で「寿司」と決めていた。子供たちは駅からお店に直行。私と夫はタクシーで荷物を家まで運び、すぐに引き返した。 好きな物を食べていいよと言うと、子供たちは揃って「ウニ!」「イクラ!」と元気良く注文。おいしいを連発しながら、ウニとイクラばかり食べていた。
                    (完)
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(この作品は杉山武子の著作物です。無断転載・引用はできません。)