[貧困の中の樋口一葉]
明治の女性作家樋口一葉の肖像が、再来年発行の新五千円札に採用されるというニュースには驚いてしまった。一葉が大好きな私は、仕事の傍ら20
代後半から20年かけて一葉の評伝を書く準備をし、40代後半になって2年半同人雑誌へ評伝を連載したあと、読みやすいように1冊の本にまとめた。
一葉の貧困ぶりをその日記からつぶさに見てきた私は、今回お札の図柄に決まったという報道を素直に喜んだ半面、一番驚き苦笑しているのは墓の
中の一葉本人ではないかと思ってしまった。それほどに一葉の後半生は、お金に縁のない生活だった。
とはいえ、一葉は下級ながら士族の娘として明治5年東京府内官舎(現在の千代田区)に生まれ、5歳から9歳までは本郷東大赤門真向かいの、法真寺
に隣接する大きな家に住んで、役人の身ながら副業にも熱心だった父親のもとで恵まれた少女時代を送っている。
一葉の貧困は、長兄と父が相次いで病没したことから始まる。自宅を売って資金に当てた事業が失敗した後、父が亡くなったので、相続戸主の一葉は17歳の若
さ、財産もなく借家暮らしで母と2歳下の妹を養う立場におかれた。今でいえば高校2年生くらいだ。
妹の邦子と着物の仕立てや洗い張りに精を出して必死に働く傍ら、一葉は身近な人の実例から小説を書けばお金が得られることを知り、そこに希望
を見出す。さっそく一葉は新聞小説を書いていた記者を師とあおいで小説を書きはじめ、非常な努力を積み重ねる。
母娘三人がいかに生活に窮していても、当時はまだまだそれ以下の絶対的貧困層があったから、それと同様の貧困とはいいがたい。没落したとはい
え、一葉母娘の士族意識は高かったので、以前の生活意識から抜け出せないことから生じる貧困、という一面もあった。
小説を書いてもすぐお金にならない現実に直面した一葉は、21歳から22歳にかけて、突拍子もない行動にでる。人身の吉凶諸相場を鑑定するという
怪しげな四十男久佐賀義孝に、一葉は偽名で相場をしたいと面会し、大金を借りようとする。また売れっ子文士の村上浪六にも再三借金の申し込み
をしている。一方、お金はないけど文学への情熱溢れる『文学界』同人の青年たちには、一葉はお金の話は一切していない。
切羽詰った一葉の足元を見透かした久佐賀義孝は、一葉に「御貧困の瀬に頻せらるゝは貴姉を愛する小生も傍観するに忍びざる訳にして、此等の金
員は早くも小生より引き受けんと決心はしたれども」と手紙で援助をほのめかし、その条件として「貴女の身体は小生に御任せ被下積もりなるや否
や」と、慇懃(いんぎん)ながら金は出すから自分の妾になれと露骨に要求する。
一葉は「ただ目の前の苦をのがるゝ為に、婦女の身として尤も尊ぶべきこの操をいかにして破らんや」と憤りながらも、なお交際抜きでの金銭援助
を求めるきわどい交渉を1年余り続ける。村上浪六は『軍記』を書いたらその金を貸すと約束しておきながら、半年以上もなしのつぶてを決め込む。
その頃の一葉の「水の上日記」(明治28.5.1)には、こう書いてある。
「誰もたれも、いひがひなき人々かな。三十金五十金のはしたなるにそれすらをしみて出し難しとや。さらば明らかに、とゝのへがたしといひたる
ぞよき。ゑせ男を作りて髭かきなぜなど、あはれ見にくしや。引きうけたる事とゝのへぬは、たのみたる身のとがならず。(略)我れはいたづらに人
を計りて永耀の遊びを求むるにもあらず。一枚の衣、一わんの食、甘きをねがはず、美しきをこのまず。慈母にむくひ、愛妹をやしなはん為に、唯
いさゝかの助けをこふのみ。(略)たのまれて後いたづらに過すはそもたれの罪とかおぼす。我れに罪なければ天地恐ろしからず」
一葉は理路整然と自分には非のないことを申し開きしながら、貸すと一旦約束しておきながら三十五十のはした金を貸さぬ男どもに、非難と怒りの
矛先を向けている。一葉が借金を申し込み、お金を引き出すことに何の遠慮も躊躇(ちゅうちょ)も感じていないのは、相場や株をして金集めが上手
とにらんだ相手ばかりである。
貧しさゆえにじたばたして大胆な行動に出たものの、金策に失敗した一葉は、1年余りの試練を経て危機を乗り越え、貧しい自分の現実を受け入れ、
世俗的な苦しみを脱してひたすら創作に向かうことだけを考えるようになる。
「母君が夏羽織、これも急にいるべし。ましてふだん用の品々、いかにして調達し出ん、手もとにある金はや壱円にたらず。かくて来客あらば魚を
もかふべし。その後の事し計(はかり)がたければ、母君、邦子が我れを責むることいはれなきにあらず。静に前後を思ふて、かしら痛き事さまざま
多かれど、こはこれ昨年の夏がこゝろ也。けふの一葉はもはや世上のくるしみをくるしみとすべからず。恒産なくして
世にふる身のかくあるは覚悟の前也。軒端の雨に訪人なきけふしも、胸間さまざまのおもひをしばし筆にゆだねて、貧家のくるしみをわすれんとす」
日記「みづのうへ」(明治28.5.17)より
この後に立て続けに書かれた作品が「大つごもり」「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」などで、一葉の代表作ばかりである。これらの作品でこ
の年(明治28年)の末には一躍名声を得た一葉だったが、翌29年、連載中の「たけくらべ」が完結した後の三月に肺結核を発病。7月には日記も書け
ないくらいに病状が進み、11月23日午前、一葉はついに24歳の生涯を閉じた。
没後106年たって、時の人となった一葉ではあるけれど、今回は一葉の短い生涯の中で闇の部分ともいうべき、最も危うかった時期のことをあえて
取り上げてみた。お札の図柄に登場するという華やかな話題だけに終らず、一葉の貧困と創作の関係をもっと知ってもらうことの
ほうに、私は一葉が選ばれた意義があるのではないかと思っている。
吉野せい――。この名を幾人の人が覚えているだろうか。むしろ七十歳をすぎて書いた『洟(はな)をたらした神』で大宅荘一ノンフィクション賞を受賞した
開拓農家のおばあちゃん、といった方がわかりやすいかもしれない。
七、八年前、私は吉野せいの作品から受けた衝撃を出発点とし“研ぎ澄まされた斧(おの)”と評される吉野せいの文体が、いつ、どのようにして形成されていったか
を、この数年間追い続けてきた。
そこで私が見たのは、吉野せいが二十一歳ですでに「絶えず創造することによって自分というものを永遠に生かし得る」(あるとき・第七号)という自意識を持ち、
小作農民の妻となって五十年、極貧の開拓生活の中でリアリズムに徹する視点を獲得し、独自の文体を形成するに至った過程である。
ところで、私が吉野せいの開拓生活の内実と文体との関係を追い求めている時、いつも私の脳裏をよぎるひとつの存在――樋口一葉の姿があった。
せいと一葉。この二人を並べるのはあまりに唐突かもしれない。しかし私はこの二人がともに貧苦と闘い生活を担い、“書く”ことに対する厳しいまでの姿勢を
貫いていったことに、多くの共通点を見いだす。
一葉は士族の娘の教養として和歌を学んでいたが、長兄と父の相次ぐ死で女戸主となり急速な家運の没落に直面せざるを得なかった。花鳥風月を歌う歌道は
必然的に遠のき、一葉は母妹を扶養するために当時女性の職業として前例のない小説家を志した。
しかし一葉の「心をあらひ、めをぬぐひて、誠の天地を見出(みいで)んことこそ筆とるものの本意なれ」(よもぎふにつ記)という創作態度は糊口(ここう)を満たす
収入とはなり得ず、ついに筆を折って廓(くるわ)と隣接する貧民街で商いに身を転じるまでになる。
塵(ちり)に中で貧困と闘い一葉が目の当たりにしたもの、それは廓という特異な世界で貧しさゆえに有産階級の犠牲になっていく下層社会の女達の悲惨な
現実だった。それらの人々を身近においての生活体験は一葉の思想や人間観に大きな転機を与え、やがて「我れは人の世に痛苦と失望とをなくさんために
生まれ来つる詩のかみの子なり」(明治27年残簡)と一種の使命感をもって再び創作の筆を取る。
その後死の直前までの短期間に「にごりえ」「十三夜」「たけくらべ」などの名作が生まれたのである。
せいの場合も一葉の場合も貧苦がむしろ人生観や人間観を養い、精神を研ぎ澄まし、作品を生み出す原動力となったといえる。
翻って今日、物資の氾濫(はんらん)と飽食の中で、現代の書き手はどのようにして強靭(きょうじん)な感性を養い、保ち得るのか。私は大いに関心をひかれる
ところである。