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樋口一葉関連エッセイ集

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・文学と糊口と樋口一葉 ・貧困の中の樋口一葉 ・吉野せいと樋口一葉
・樋口一葉の日記 ・一葉に学ぶ「書くこと」 ・一葉(樋口夏子)没後106年
・明治25年2月4日雪の日 ・五千円札になった一葉さん

[五千円札になった一葉さん]
平成十六年十一月一日、紙幣のデザインが二十年ぶりに一新され、明治の女性作家樋口一葉の肖像が 新五千円札に登場した。新札を初めて手にしたとき、あんなにお金に縁のない人だったのにと、私は少し 寂しげな一葉の顔を眺めて、しみじみ思わずにはいられなかった。

一葉は十六歳のとき長兄を肺結核で亡くし、翌年父親も事業の失敗の末病没した。樋口家の長女は嫁ぎ、 次兄は分籍していたので、次女一葉が相続戸主となり、母妹を扶養する立場に立たされた。一葉十七歳、 いまなら高校二年生である。母妹と三人力を合わせ、洗い張りや仕立物などの内職で生計を立てたが収入 はしれている。没落したとはいえ、士族の暮らしのなごりは急には捨てられない。一葉一家は着物の質入 れや知人からの借金で不足分を補い、何とか日々をしのいだ。

そのころ一葉が通う歌塾「萩の舎」の姉弟子田辺龍子が小説を書いて、原稿料三十三円余を得た。 ものを書けばお金になる。そのことに強い希望を抱いた一葉は、十九歳のとき生活打開のため職業 作家をめざし、新聞小説記者半井桃水に師事する。一葉が王朝文学風の格調高いものを書くと、桃水 は「大衆向けにもっと俗調に」と筋立てや趣向に重きをおいた通俗小説の手法を指導した。

しかしいくら努力してもすぐに売れるはずもなく、また桃水との交際が歌塾で醜聞にもなって、一葉は一年 余りで桃水と師弟関係を絶った。このことが結果的に通俗小説の指導から離れることになり、一葉は 『文学界』の青年たちと出会い、新しい文学の潮流や外国文学に目が開かれ、視野が広がることにつながった。

一葉は小説を書き始めたころ「今日喜こばるるもの明日は捨らるのよといへども、真情に訴へ、真情を うつさば、一葉の戯著といふともなどかは値のあらざるべき」と、真摯なまでの決意を日記に記している。 原稿がようやく売れるようになったころ、一葉は雑誌論文「文学と糊口と」を読んで、衝撃を受けている。 その要旨は「近年文を売ることが容易になったが、あまり見識が高くても売れないし、かといって俗受け するものを書いても真の文学とは言えない」というものだった。

生活のため文を書いて売る。それは戸主としての責任を果たす営みであり、他の職業となんら変わらない。 だが今までの自分の努力は目的においては正しくても、方向において間違っていたのではないかと一葉は悩む。

「我は営利の為に筆をとるか。さらば何が故にかくまでおもひをこらす。得る所は文字の数四百をもて 三十銭にあたひせんのみ。家は貧苦せまりにせまりて、口に魚肉をくらはず、身に新衣をつけず。 老いたる母あり、妹あり。一日一夜安らかなる暇なけれど、こゝろのほかに文をうることのなげかはしさ」 (「よもぎふ日記」)

そんな見識が芽生えていた一葉は、単にお金のために出版社の注文どおりに書くことができなくなって、 いよいよ食い詰めていく。一方、一葉は歌塾の師の中島歌子から実力を認められ、独立して歌門を起 こすよう勧められた。しかしのれん分けには応分の資金が必要で、お披露目の会の費用もいる。実力 はあっても財力のない一葉は、一時執着した歌人の道も断念した。もう一葉には小説を書いて生きる 道しか残っていなかった。

着物の質入れと知人からの借金にも限界がきて、ついに一葉は「文学は糊口の為になすべき物ならず。 おもひの馳するまゝ、こゝろの趣くままにこそ筆は取らめ。いでや、是より糊口的文学の道をかへて、 うきよを算盤の玉の汗に商ひといふ事はじめばや」と日記に書き付けて、吉原に隣接する龍泉寺町の 長屋に移って荒物屋を始める。一葉は仕入れ、妹は店番、母親はお勝手と役割分担を決めた。

貧民 相手の零細な商いだったが、一時的にしろ一葉はお金のために書くことから解放され、仕入れが済め ば上野図書館へ通い、読書や創作に励むおだやかな日々を送っている。しかし商いは八ヶ月余で行 き詰まり、店を閉じて一家は本郷区に近い新開地の丸山福山町へ転居した。ここが一葉の終の棲家となった。

明治五年下級官吏の娘として生まれた一葉は、女に学問は不要との母の意見で進学希望を絶たれ、 女戸主のため結婚もあきらめ、本郷界隈の狭い生活範囲で二十四年の生涯を終えた。しかし十四歳 から通った歌塾「萩の舎」で上流社会を知り、作品を通して帝大一高の学生や文壇の大家たちと出会い、 龍泉寺町で遊郭に寄生する貧民街の暮らしを体験し、丸山福山町では娼婦たちと接して明治の風俗 の一端を垣間見ている。

貧困にあえいだ一葉だったが、その周辺にはもっと下の絶対的貧困層があった。一葉は下層社会の 女性の救済を考えたが、女の考えなどまともに聞いてくれる世の中ではなかった。一葉はさらに大胆 な行動を起こし、怪しげな相場師に偽名で近づき、千円もの大金を引き出そうとする。援助はするから 妾になれと言い寄る相手に、一葉はあくまで交際抜きの援助を求めるきわどい交渉を一年近く続けた。 このころが一葉の人生最大の危機だった。

しかし一葉は貧しさに敗れたのではなかった。貧困の中で人間を見る目を研ぎ澄まし、「心をあらひ、 めをぬぐひて、誠の天地を見出んことこそ筆とるものゝ本意なれ」と書くことの核心を掴み、いま自分 の生きている明治の世をあからさまに表現し、後世に伝える書き手になるのだという使命感に到達 した。貧の苦しみを超え、売るために書くことを捨てたとき、一葉の筆は定まった。一葉は底辺社会 に生きる女性を主人公に据え、晩年「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」などの名作を立て続けに書き、 肺結核で世を去った。

一葉の時代から百年以上の時を経て、何が変わり何が変わっていないか。人の手から手へ行き 来しながら、一葉は現代の世相の何を見つめているのだろうか。

詩誌『扉』第7号所収 2005年4月発行
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[明治25年2月4日・雪の日]
明治25年の元旦、樋口一葉は日記帳の冒頭を新しい年への期待を込めて張りのある文章で書き出し、「化粧などして」書ぞめしたと書いている。 無事に年越しのできた嬉しさで、明るい新年を迎えた一葉一家のようすが日記からも伝わってくる。

1月8日、一葉は小説の師である半井桃水(なからいとうすい)宅へ年始にいくと、家は門戸を閉ざし「かし家」の張り紙があり、書いてあった連絡先を訪ねるが 桃水は留守で会えなかった。一葉は居留守を使われたような気がして内心穏やかでなかったが、11日に桃水から居場所を知らせるハガキが届いて、一葉を ホッとさせた。

2月3日に「明日訪問したい」と一葉が桃水宛に葉書を出すと、行き違いに桃水から「明日参らん」と誘いの葉書が届く。一葉は「かく迄も心合ふこ とのあやしさよ」と思わずにっこりした。翌4日は天候が悪く、霙(みぞれ)まで降ってきた。雪になっても構わないと一葉がでかけると、本当にふぶい てきて12時すぎにようやく桃水の居場所に着いた。

声を掛けても返事がない。一葉は上がり框(かまち)に腰掛けて待ったが、あまりの寒さに障子戸を開けて2畳ばかりの控えの間に上がった。新聞や 手紙が投げ込まれたままになっている。襖の向こうは桃水の部屋らしく、襖に耳を寄せるとかすかにいびきが聞こえる。連絡先にしている小田家の 女中さんが郵便物を届けに来たが、よろしくと言うとさっさと帰ってしまった。

どうしようもないまま、時計が1時を打った。一葉の体はしんしん冷えて咳がしきりに出る。ガバッと跳ね起きる気配がして襖が開くと、桃水は寝巻姿 の自分に気付いて「こは失礼」と広袖の着物を羽織った。昨夜は歌舞伎座に遊び、深夜1時に帰宅し、それから新聞小説の今日の分を書いて寝たもの だから寝過ごした、起こしてくれてよかったのにと桃水は弁解した。

雨戸を開けて雪降りなのを知って、桃水は消し炭で火をおこし、湯沸しの準備をした。何か手伝おうと一葉が夜具をたたもうとすると「そのままに」 と迷惑そうに止められた。枕元には紙入れや歌舞伎座の番付けなど散らかり、羽織や小袖などが床の間の釘につるしてある。一人暮らしの男性の部屋は むさくるしいなと一葉は思った。

桃水の用件は今度記者仲間と同人雑誌を発行する計画なので、一葉にも短編をぜひ書いて欲しいという話だった。一葉がちょうど持参していた 小説の草稿を見せると、よし、これを出そうと話は決まった。気を良くした桃水が隣家の主婦から「半井様、お客様か」と冷やかされながら鍋を借りて きて、しるこを作って一葉にごちそうしてくれた。

桃水自慢の写真を見せてもらったりしているうちに長居してしまい、雪降りなので桃水に泊まっていくようにすすめられた。一葉は飛び上がるほど 驚いて「いたく母にいましめられ侍る」と辞退する。桃水は「私は小田家に泊まるから、あなた一人ここに泊まってもかまわないでしょう」と一葉の 早とちりを大笑いしたが、一葉は固く断って俥で帰宅した。

この雪の日はよほど一葉の印象に強く残ったのか、一葉のこの日の日記は時間の流れのままに登場人物の会話が再現され、状況が書き込まれ、あた かも短編小説を読んでいるような趣がある。この日の長い日記の締めくくりは次のように書かれている。

  白がい/\たる雪中、りん/\たる寒気ををかして帰る。中々に
  おもしろし。ほり端通り、九段の辺、吹きかくる雪におもてもむけ
  がたくて、頭巾の上に肩かけすっぽりとかぶりて、折ふし目計(め
  ばかり)さし出すもをかし。種々の感情むねにせまりて、『雪の日』
  といふ小説一篇あまばやの腹稿なる。家に帰りしは五時。母君、
  妹女とのものがたりは多ければかゝず(明治25.2.4「につ記」より)

何か勝ち誇ったような清々しさすら私には感じられる。この日の体験をモチーフに、一葉は1年後「雪の日」を執筆して『文学界』に発表している。

一葉が桃水と会うのは、一日も早くお金になる小説を書くためであった。長兄や父に先立たれ次兄とも別居している一葉が、安心して頼れる男性を 求めたとしても不思議はない。その意味で桃水は小説の師であり兄のように慕う唯一の男性であった。しかし桃水宅への出入りは勉強のためとはいえ、 自ら噂の種を蒔きにいくに等しかった。

まもなく桃水との「交際」が歌塾で悪い噂となって広まり、一葉は自分の本当の気持とは裏腹に、周囲のすすめに従って、一方的に桃水と絶交して しまう。それ以後、一葉はいっそう屈折した恋心を抱くこととなった。一葉の24年の短い生涯を考えるとき、112年前の雪の日は一葉の恋心を あざやかに染め上げた、人生最高の日だったように私には思える。

メールマガジン【僕らはみんな生きている!】2004年2月4日配信分
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[一葉(樋口夏子)没後106年]
11月23日は明治時代の作家樋口一葉の祥月命日。亡くなった1896年(明治29)から数えて今年で没後106年になる。十数年前、仕事で東京出張の折に 1日滞在を延ばして、秋の東京を散策したことがある。渋谷駅界隈の雑踏を抜けて区立松濤美術館へ寄り、その足でさらに駒場公園内の日本近代文 学館へ行った。

日本近代文学館には、一葉の妹邦子の令息樋口悦氏から一括して譲渡された396点の一葉コレクションがある。目録によれば日記や小説の草稿類33点、 一葉宛書簡332通、遺品その他などの内容になっている。常設展示ではないので、現物の閲覧には一定の手続きが必要となる。

その日はちょうど今ころで、駒場公園内は紅葉に彩られ、なかでも銀杏の大木がひときわ目を引いた。木全体から絶えず金の蝶が舞い降りるさまも、 地面を覆いつくした黄金のじゅうたんも、印象的だった。

一葉は15歳のころから日記をつけていたが、亡くなる年の7月22日でそれも途切れた。この春に発病した肺結核の病状が進み、夏には筆をとる体力も 失っていたようだ。一葉のことは後にいろいろな人が書き残している。それをいくつか紹介して、在りし日の樋口一葉を偲びたいと思う。

  29年の4月ころでした。お夏さん(一葉のこと)の咽喉がひどく腫れて
  いました。それでもよほど我慢しておられたようですが、8月に入る
  と熱が9度にもあがってやすんでおられるというのです。さっそくお見
  舞いに上がりましたが、薄い古ぼけた夜具を屏風のかげにして寝て
  おられ、胸の病のひとの常として熱のため頬が赤らみ、呼吸づかい
  が荒く、いかにも苦しそうでした。
     (戸川残花の長女戸川達子の談話より)

10月、斎藤緑雨が森鴎外に頼んで名医青山胤通が一葉を往診したが、いかなる加療も無駄とすげなく絶望を 告げられたという。彦根に赴任していた 馬場胡蝶が最後に一葉と面会したのは東京に出てきた11月3日。妹の邦子から「逢えとはいわぬが寝ている 所を見て」と言われて対面している。一葉 は気は確かでも呼吸は苦しそうで、解熱剤の副作用で耳も遠くなっており、邦子が二人の会話を取り次いだ。

胡蝶が「また来年の春には出て来ますから」というと、一葉は「この次あなたがお出でになる時には私は何に なっておりましょうか。石にでもなっ ておりましょう」と答えたという。

一葉の親友だった伊東夏子は一葉の死亡通知を見たとき、今行ってどうなるものかとやけの気持で行かな かった。あくる日行くと、邦子がかけだし て来て「あなたに見せるまではと思って棺に納めないで寝かしておいたのに、なぜ昨日来てくれなかった」と、 ゆすぶって泣いたという。伊東夏子 は昭和25年1月に「一葉の憶ひ出」で、次のように書いている。

  夏子さんは、割合に、同情されていませんでした。それはあの頃、
  男子の小説家でも、水商売だの道楽商売だのと言われていた位で、
  若い女が、小説で、母妹を扶養するなどとは出来ない相談だと、人
  は思うていました。
       (中略)
  樋口に見舞金を贈りたいからとて金を集め、それを品物にかえない
  で、そのまま持っていきましたら、少しは助けになったでしょうに前の
  理由もあり、割合に高級人のうちには出さないで済む金は出したが
  らぬ人もあり、そんな事の幹事になるのは有難くないものですから、
  進んでそれに当たる人がなかったのでしょう。私も努力が足りません
  でした。貧の苦痛を緩和させる事が出来ないで、死なせてしまったと
  思いますと、今でもすなまいすまないと思うています。

一葉の知人で前出の疋田(戸川)達子は昭和22年5月に「樋口一葉」の中で次のように書いている。

  苦しい生活の中でもお二人で孝行なすったのでしょう。お母さんは
  黒い紬の羽織など召して一番身ぎれいにしておられ、どこかへ出か
  けられるにも必ず俥で、御姉妹で大切にしておられるのをいつもゆか
  しくお見上げしたものです。  [註:俥=人力車]
     (中略)
  路地のどぶ板をがたがた踏んで行ってお訪ねしますと、池の見える
  ところへ机を持ち出して「頭痛が激しくてたまらないものですから。」
  と鉢巻をして書いておられることもありました。「昨夜は一睡もしない
  で書きましたのよ。」といかにも嬉しそうにその様子を話されることも
  ありました。

一葉の思い出を書いた人は数多くいるが、中でも一番的確なことを書いていると思われるのは、『文学界』同人の 島崎藤村であろう。昭和5年10月に 「故樋口一葉」に次のように書いている。

  一葉は二十五歳位の若さで死んだ人でありながら、その人の書いた
  ものを見ると、お婆さんのように賢い。若い婦人の情熱と、年老いた
  婦人の賢さとが、ふしぎな位あの人には結びついている。
     (中略)
  一葉の書いたものには、どの作にも婦人としても強い訴えがある。
  一葉の描いた婦人は多くは下層社会婦人で、ゆくゆくは売笑婦として
  運命づけられているような少女や、妾奉公をさせられる女や、銘酒屋
  に集る女の群などそういう人物を活々と写したものが多い。それが
  単純な同情をもって書かれたようなものでなしに、もっと強い婦人とし
  ての訴えから来ている。

一葉はたった24歳の若い生涯を貧苦と病気のうちに閉じてしまったが、明治の作家では森鴎外、夏目漱石とならんで、いまなお人々に愛されている。 17歳で父親に死なれてからはお金には縁なく過ごしてきた一葉だったが、今度の新五千円札の図柄に採用されるのは、あの世の一葉にとっては望外 の喜びではないだろうか。
 ※引用は『樋口一葉事典』おうふう刊、他より  ※おことわり 引用部分の旧かな使いは新表記に改めました。

メールマガジン【僕らはみんな生きている!】2002年11月20日配信分
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[一葉に学ぶ「書くこと」]
人はなぜ書くのだろう。何のために書くのだろう。それは本当に書かなければならないことだろうか?

私の意識の底にはいつもこの問いがある。私が一葉日記を愛読するのは、「書く」ことについての一葉の強い 問題意識に惹かれるからでもある。

一葉は母妹を養うお金のために小説を書いたが、一方で「書く」とは何かについて、生涯考え続けた人でもあった。

一葉は小説を書き始めたころ「我れ筆をとるといふ名のある上は、いかで大方のよの人のごと一たび読みされば 屑籠(くずかご)に投げいらるるものは 得かくまじ」「人情浮薄にて、今日喜こばるるもの明日は捨らるのよ(世)といへども」(「森のした草」)と、書くこ とへの真摯なまでの決意を記している。

一年後の日記には「我は営利の為に筆をとるか。さらば何が故にかくまでおもひをこらす。得る所は文字の 数四百をもて三十銭にあたひせんのみ。家は 貧苦せまりにせまりて、口に魚肉をくらはず、身に新衣をつけず。老いたる母あり、妹あり。一日一夜安らか なる暇なけれど、こゝろのほかに文をうることの なげかはしさ」と記している。

一葉の時代も現代も読者がいて出版という業界があり、書いて何ぼ、売れて何ぼの世界がある事は否めない。 しかし文を売って売らなくても、自分の 書いたものに責任を持つということに変わりはない。

晩年の一葉は生活苦という現実を突き抜けて、明治の世をあからさまに書き伝えたいという使命感に到達し、 社会の底辺に生きる女性たちを主人公に 据えた。一葉の筆がとらえ続けた、権利もなく境遇に身を沈める近代以前の女性の姿は、今なお私たちに 訴える力を持っている。

南日本新聞夕刊エッセイ「思うこと」(2003年2月20)掲載
鹿児島県発行「文芸かごしま第32号」所収

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[樋口一葉の日記]
私が樋口一葉の日記に関心を持ったのは、三十年ほど前のこと。一葉が日記を書いた期間は、私が最も 日記を書くことに熱中した時期と全く同じだった。 そのことに気がついて以来、「一葉日記」は私の愛読書となった。

日記は「作品」として書かれたわけではないから、人の悪口も書いてあるし、破り捨てたらしい欠落した部分 もみられる。事実と反する記述もあるとして、 伝記的資料とは言い難いとする研究者もいるが、それは後世の人の勝手な言い分であって、一葉にして みれば「余計なお世話よ」言いたいことだろう。

一葉は十五歳の時兄を亡くし、翌々年事業に失敗した父も心労から亡くなったので、十七歳にして戸主となり、 母と妹を扶養する立場に立たされた。妹と力を 合わせて洗い張りや仕立物をして暮しを立て、時には帯や着物を持って質屋に走り急場をしのいだ。

女の職業が極端に少なかった当時、一葉は生活のために小説を書こうと決心。女性としては前例のない プロ作家を目指した。日記からその苦闘の跡は いくらでも読みとれる。

「午後より文机に打むかひて文どもそこはかとかいつゞくるに、心ゆかぬことのみ多くて、引きさき捨て/\ することはや十度にも成ぬ」。一葉の稼ぐ僅かな 原稿料は前の借金の返済に消え、一家はいつも貧苦の状態にあった。

「廿九、三十の両日、必死と著作に従事す。暁がたしばしまどろむにて、一意に三十一日までに間に合わ せんとするほどいと苦し」と深夜まで机にかじ りつく一葉。その姿に妹の邦子は「名誉もほまれも命ありてにこそ」「何卒これは断りて、もはや今宵は休み 給へ」と繰り返し諌(いさ)めるのだった。
※文中の/\は古文に使用される「繰り返し」の記号です。

南日本新聞夕刊エッセイ「思うこと」(2003年2月13日)掲載
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[文学と糊口と樋口一葉]
毎年初夏が近くなると、私は樋口一葉のことをふと思い出す。なぜなら小説家を目指していた一葉が、書くことに行き詰まり、収入もなく、最も苦し い貧困時代を送っていたのが明治26(1893)年の5月前後だったからだ。気候もいいこの時期に、長い休みも行楽も頼る人もなく、一葉はその日の暮らしをどうす るかで苦しんでいた。109年前の今頃、一葉は21歳。私の末娘よりまだ若い。

長兄を亡くしたあと、翌明治21年父が後見人となり、たったの16歳で相続戸主となった一葉。しかし相続といっても翌年事業失敗の後に父が病没したので、財産も無い。17歳で年老いた母 と妹を養う立場に立たされた一葉は、数年後大胆にも小説を書いて暮らしを立てようと、当時の女性としては前代未聞の決心をする。

一葉の文学修業は『東京朝日新聞』の小説記者、半井桃水(なからいとうすい)に弟子入りすることから始まった。ところが和歌の修業をすでに積んでいた一葉の 文章は王朝日記風の格調高いものだったらしく、師の桃水は「売るためにはもっと俗調に書かなければならない」と、小説の趣向に重点を置く手ほどきをする。 しかし書いても書いても、すぐに収入になるほどうまくはいかなかった。桃水の指導に限界を感じた一葉は、1年余りで師弟関係を断つ。

一葉の収入といえば、書いたものが雑誌に掲載されて貰う少しばかりの原稿料と、二歳下の妹邦子と着物の洗い張りや仕立てをして稼いだお金だけ。家賃を払って 親子三人が暮すにはとても足りなかった。貧困との戦いの記録といってもいい一葉の「よもぎふ日記」から明治26(1893)年の部分を少し紹介したい。

3月15日「昨日より、家のうちに金といふもの一銭もなし。母君これを苦るしみて、姉君のもとより二十銭かり来る」(註:姉は結婚して近くに住んでいた) 3月30日「我家貧困日ましにせまりて、今は何方より金かり出すべき道もなし。母君は只せまりにせまりて、我が著作の速かならんことをの給ひ、いでや、い かに力をつくすとも、世に買人なき時はいかゞはせん」

4月19日。知人が亡くなったので弔いに行こうとしたが香花料がない。決断の早い妹が着物の質入を提案する。一葉が渋っていると「姉様は物の決断のうとくし て、ぐずぐずさせ給ふこそくちおしけれ」と妹にはとがめられ、母からは「畢竟(ひっきょう)は夏子の活智(いくじ)なくして金を得る道なければぞかし」を責 められる。(註:夏子とは一葉の本名)

5月2日「此月も伊せ屋がもとにはしらねば事たらず小袖四つ、羽織二つ、一風呂敷につゝみて、母君と我と持ちゆかんとす」(註:伊せ屋とは質屋の屋号)
5月21日。知人の西村氏から一円借りて、直ちに菊池氏へ返済に行っている。この頃はもう、一つの借金返済のために別の借金をする状態に陥っている。
5月29日。とうとうせっぱつまった一葉は、親友からひと月分の生活費に相当する八円を借りた。

6月21日「著作まだならずして、此月も一銭入金のめあてなし」
6月27日「金策におもむく」
6月29日「我は直に一昨日たのみたる金の成否いかゞを聞きにゆく。出来がたし」 「母君などのたゞ嘆きになげきて汝が志よわく、立てたる心なきから、かく成行ぬる事とせめ給ふ」

この日一葉が金策に行った相手は5月末に8円借りた親友だったが、その返済をしないでまた借りに行ったので断られたらしい。母親の愚痴ももっともだったが、 この頃の一葉にはただお金の為に書いたり出版社の注文通りに書く事ができない悩みを抱えていて、それをうまく説明できなくて、収入のない不甲斐なさばかり を母に責められている。

実は一葉は前年の秋、雑誌『早稲田文学』に掲載された「文学と糊口(ここう)と」という評論を読んで、衝撃を受けていたのだ。この評論の要旨は、近年文を売っ て口を糊することが容易な世になったが、見識が高すぎても金にはならず、かといって生活の為俗受けするような物を書いても真の文学とは言えない、というも のだった。

「我れは営利の為に筆をとるか。さらば何が故にかくまでにおもひをこらす。得る所は文字の数四百をもて三十銭にあたひせんのみ。家は貧苦せまりにせまりて、 口に魚肉をくらはず、身に新衣をつけず。老いたる母あり、妹あり。一日一夜やすらかなる暇なけれど。こゝろのほかに文をうることのなげかはしさ。いたづら にかみくだく筆のさやの、哀れ、うしやよの中」(「よもぎふ日記」明26.2.6)

「文学と糊口と」の一文に触発された一葉の悩みは、日記を見るだけでも相当深刻だ。一葉は悩んだすえ、食べるための手段として貧民街で雑貨屋を開店する行動に出 る。一葉が早朝の買出しをし、妹が店番に立ち、母はお勝手を受け持った。買出しを終えたあと、一葉は上野の図書館へ通って、一から文学の勉強をし直す。 「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」などの作品は、この後に書かれている。

「文学と糊口」とは古くて新しい問題だ。100年以上前の一葉の時代を振り返って、こうして書いている私も、書き手の一人として考えることはいろいろある。 物書きを職業とする人がおり、その業界がある以上、書いて何ぼ、売って何ぼの世界は否定できない。だけど、自分の書いたものには責任を持つという大原 則は、たとえ文を売っても、売らなくても、今も昔も厳然としてあることに変わりはない。

黄金週間の頃に「文学と糊口」について考えを新たにすることは、文章を書く自分にとっての戒めともなっている。そして私は、もう自分の娘ほどの年齢となっ てしまった一葉の悩める日記を読み返す度に、「書く」ということに対して新しい気持にさせられ、教えられている。(2002年4月17日)

文芸誌「海」第55号(2002年10月1日発行)所収
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[貧困の中の樋口一葉]
明治の女性作家樋口一葉の肖像が、再来年発行の新五千円札に採用されるというニュースには驚いてしまった。一葉が大好きな私は、仕事の傍ら20 代後半から20年かけて一葉の評伝を書く準備をし、40代後半になって2年半同人雑誌へ評伝を連載したあと、読みやすいように1冊の本にまとめた。

一葉の貧困ぶりをその日記からつぶさに見てきた私は、今回お札の図柄に決まったという報道を素直に喜んだ半面、一番驚き苦笑しているのは墓の 中の一葉本人ではないかと思ってしまった。それほどに一葉の後半生は、お金に縁のない生活だった。

とはいえ、一葉は下級ながら士族の娘として明治5年東京府内官舎(現在の千代田区)に生まれ、5歳から9歳までは本郷東大赤門真向かいの、法真寺 に隣接する大きな家に住んで、役人の身ながら副業にも熱心だった父親のもとで恵まれた少女時代を送っている。

一葉の貧困は、長兄と父が相次いで病没したことから始まる。自宅を売って資金に当てた事業が失敗した後、父が亡くなったので、相続戸主の一葉は17歳の若 さ、財産もなく借家暮らしで母と2歳下の妹を養う立場におかれた。今でいえば高校2年生くらいだ。

妹の邦子と着物の仕立てや洗い張りに精を出して必死に働く傍ら、一葉は身近な人の実例から小説を書けばお金が得られることを知り、そこに希望 を見出す。さっそく一葉は新聞小説を書いていた記者を師とあおいで小説を書きはじめ、非常な努力を積み重ねる。

母娘三人がいかに生活に窮していても、当時はまだまだそれ以下の絶対的貧困層があったから、それと同様の貧困とはいいがたい。没落したとはい え、一葉母娘の士族意識は高かったので、以前の生活意識から抜け出せないことから生じる貧困、という一面もあった。

小説を書いてもすぐお金にならない現実に直面した一葉は、21歳から22歳にかけて、突拍子もない行動にでる。人身の吉凶諸相場を鑑定するという 怪しげな四十男久佐賀義孝に、一葉は偽名で相場をしたいと面会し、大金を借りようとする。また売れっ子文士の村上浪六にも再三借金の申し込み をしている。一方、お金はないけど文学への情熱溢れる『文学界』同人の青年たちには、一葉はお金の話は一切していない。

切羽詰った一葉の足元を見透かした久佐賀義孝は、一葉に「御貧困の瀬に頻せらるゝは貴姉を愛する小生も傍観するに忍びざる訳にして、此等の金 員は早くも小生より引き受けんと決心はしたれども」と手紙で援助をほのめかし、その条件として「貴女の身体は小生に御任せ被下積もりなるや否 や」と、慇懃(いんぎん)ながら金は出すから自分の妾になれと露骨に要求する。

一葉は「ただ目の前の苦をのがるゝ為に、婦女の身として尤も尊ぶべきこの操をいかにして破らんや」と憤りながらも、なお交際抜きでの金銭援助 を求めるきわどい交渉を1年余り続ける。村上浪六は『軍記』を書いたらその金を貸すと約束しておきながら、半年以上もなしのつぶてを決め込む。

その頃の一葉の「水の上日記」(明治28.5.1)には、こう書いてある。

「誰もたれも、いひがひなき人々かな。三十金五十金のはしたなるにそれすらをしみて出し難しとや。さらば明らかに、とゝのへがたしといひたる ぞよき。ゑせ男を作りて髭かきなぜなど、あはれ見にくしや。引きうけたる事とゝのへぬは、たのみたる身のとがならず。(略)我れはいたづらに人 を計りて永耀の遊びを求むるにもあらず。一枚の衣、一わんの食、甘きをねがはず、美しきをこのまず。慈母にむくひ、愛妹をやしなはん為に、唯 いさゝかの助けをこふのみ。(略)たのまれて後いたづらに過すはそもたれの罪とかおぼす。我れに罪なければ天地恐ろしからず」

一葉は理路整然と自分には非のないことを申し開きしながら、貸すと一旦約束しておきながら三十五十のはした金を貸さぬ男どもに、非難と怒りの 矛先を向けている。一葉が借金を申し込み、お金を引き出すことに何の遠慮も躊躇(ちゅうちょ)も感じていないのは、相場や株をして金集めが上手 とにらんだ相手ばかりである。

貧しさゆえにじたばたして大胆な行動に出たものの、金策に失敗した一葉は、1年余りの試練を経て危機を乗り越え、貧しい自分の現実を受け入れ、 世俗的な苦しみを脱してひたすら創作に向かうことだけを考えるようになる。

「母君が夏羽織、これも急にいるべし。ましてふだん用の品々、いかにして調達し出ん、手もとにある金はや壱円にたらず。かくて来客あらば魚を もかふべし。その後の事し計(はかり)がたければ、母君、邦子が我れを責むることいはれなきにあらず。静に前後を思ふて、かしら痛き事さまざま 多かれど、こはこれ昨年の夏がこゝろ也。けふの一葉はもはや世上のくるしみをくるしみとすべからず。恒産なくして 世にふる身のかくあるは覚悟の前也。軒端の雨に訪人なきけふしも、胸間さまざまのおもひをしばし筆にゆだねて、貧家のくるしみをわすれんとす」
           日記「みづのうへ」(明治28.5.17)より

この後に立て続けに書かれた作品が「大つごもり」「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」などで、一葉の代表作ばかりである。これらの作品でこ の年(明治28年)の末には一躍名声を得た一葉だったが、翌29年、連載中の「たけくらべ」が完結した後の三月に肺結核を発病。7月には日記も書け ないくらいに病状が進み、11月23日午前、一葉はついに24歳の生涯を閉じた。

没後106年たって、時の人となった一葉ではあるけれど、今回は一葉の短い生涯の中で闇の部分ともいうべき、最も危うかった時期のことをあえて 取り上げてみた。お札の図柄に登場するという華やかな話題だけに終らず、一葉の貧困と創作の関係をもっと知ってもらうことの ほうに、私は一葉が選ばれた意義があるのではないかと思っている。

文芸誌「海」第55号(2002年10月1日発行)所収
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[吉野せいと樋口一葉]
吉野せい――。この名を幾人の人が覚えているだろうか。むしろ七十歳をすぎて書いた『洟(はな)をたらした神』で大宅荘一ノンフィクション賞を受賞した 開拓農家のおばあちゃん、といった方がわかりやすいかもしれない。

七、八年前、私は吉野せいの作品から受けた衝撃を出発点とし“研ぎ澄まされた斧(おの)”と評される吉野せいの文体が、いつ、どのようにして形成されていったか を、この数年間追い続けてきた。

そこで私が見たのは、吉野せいが二十一歳ですでに「絶えず創造することによって自分というものを永遠に生かし得る」(あるとき・第七号)という自意識を持ち、 小作農民の妻となって五十年、極貧の開拓生活の中でリアリズムに徹する視点を獲得し、独自の文体を形成するに至った過程である。

ところで、私が吉野せいの開拓生活の内実と文体との関係を追い求めている時、いつも私の脳裏をよぎるひとつの存在――樋口一葉の姿があった。

せいと一葉。この二人を並べるのはあまりに唐突かもしれない。しかし私はこの二人がともに貧苦と闘い生活を担い、“書く”ことに対する厳しいまでの姿勢を 貫いていったことに、多くの共通点を見いだす。

一葉は士族の娘の教養として和歌を学んでいたが、長兄と父の相次ぐ死で女戸主となり急速な家運の没落に直面せざるを得なかった。花鳥風月を歌う歌道は 必然的に遠のき、一葉は母妹を扶養するために当時女性の職業として前例のない小説家を志した。

しかし一葉の「心をあらひ、めをぬぐひて、誠の天地を見出(みいで)んことこそ筆とるものの本意なれ」(よもぎふにつ記)という創作態度は糊口(ここう)を満たす 収入とはなり得ず、ついに筆を折って廓(くるわ)と隣接する貧民街で商いに身を転じるまでになる。

塵(ちり)に中で貧困と闘い一葉が目の当たりにしたもの、それは廓という特異な世界で貧しさゆえに有産階級の犠牲になっていく下層社会の女達の悲惨な 現実だった。それらの人々を身近においての生活体験は一葉の思想や人間観に大きな転機を与え、やがて「我れは人の世に痛苦と失望とをなくさんために 生まれ来つる詩のかみの子なり」(明治27年残簡)と一種の使命感をもって再び創作の筆を取る。

その後死の直前までの短期間に「にごりえ」「十三夜」「たけくらべ」などの名作が生まれたのである。

せいの場合も一葉の場合も貧苦がむしろ人生観や人間観を養い、精神を研ぎ澄まし、作品を生み出す原動力となったといえる。

翻って今日、物資の氾濫(はんらん)と飽食の中で、現代の書き手はどのようにして強靭(きょうじん)な感性を養い、保ち得るのか。私は大いに関心をひかれる ところである。

『東京新聞』1984年5月12日付掲載
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(この作品は杉山武子の著作物です。無断転載・引用はできません。)