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樋口一葉

オンライン評伝    杉山武子著
 「樋口一葉の十二ヶ月」

二十四歳という短い生涯のうちに「にごりえ」「たけくらべ」などの名作を残した
明治時代の作家樋口一葉(夏子、戸籍名は奈津)の一生を、十二の月に切り取って
たどる毎回800字のコンパクトな評伝の試みです。生活のため女の身で小説家を志し
母妹を養い、恋に悩む、生身の一葉の生涯を感じ取って下さい。
(引用は「全集樋口一葉」(小学館)より)

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<一月の巻> 萩の舎(はぎのや)入門

女に学問は不要との母の意見で、小学校四級卒業までで退学した夏子(一葉)は、父の計らいで明治十九年八月、 小石川(東京都文京区春日)の中島歌子の歌塾「萩の舎」 へ入門した。農民出身ながら江戸へ出て刻苦十年、士族の身分を得た夏子の父則義は、大政奉還後も運良 く明治新政府の下級官吏に横すべりしていた。 従って士族の娘として、明治五年に出生した利発な夏子にかける父の期待は大きかった。

萩の舎は当時公家や旧老中・旧藩主などの旧体制、明治政府の特権階級の政治家・軍人の夫人や令嬢らが 通う歌塾だった。士族とはいえ、 夏子は平民組として扱われた。

十四歳で入門し、才気煥発にふるまった夏子も、上流階級の姉弟子たちにもまれ、次第に、「ものつつみの君」 と呼ばれるほど内向的になる。 入門して初めての正月を迎え、新春恒例の発会が近づくと令嬢たちは着ていく晴れ着の話題でもちきり。 当時夏子の父は現役で貧乏というほどではなかったが、着物の話はとても下級官吏の娘が競える内容では なかった。それでも劣等感をはねのけ、夏子は親が借りてきた「いとなえばみたる」古着で出席した。

かの君はうすねずみ成り縮緬(ちりめん) の三ツもん付うらは定めし通りになんし 給ひぬ。いとゞはづかしとおもひ侍れど、 此人々のあやにしきき給ひしよりは、わが ふる衣こそ中ゝにたらちねの親の恵みと そゞろうれしかりき。(身のふる衣)

発会の歌会で夏子は新参ながら堂々最高点を取り、晴れ着での引け目を歌で挽回した。最初の日記にはその 時の様子が活き活きと描かれている。

<二月の巻> 相つぐ死

樋口夏子(一葉)には二人の兄がいた。長男泉太郎は頭も良く素直で、本郷学校、松本塾と通ったあと、小永井 小舟主宰の濠西精舎で五年間漢学の修行に励ん だ。次男虎之助は勉強嫌いで素行も悪く、教育熱心で几帳面な父と反りが合わず、十五歳で勘当同然に分籍され、 十七歳で陶工成瀬誠至のもとへ年季奉公に出されている。

泉太郎が濠西精舎での修業を終えた明治十六年、父則義は十九歳の長男に早くも家督を譲った。則義はこの時 警視庁勤めの現役五十二歳で、隠居するには早すぎる年齢だったが、何か意図するものがあったのかもしれない。

泉太郎はこの後明治法律学校へ入学したが、法律の勉強が肌に合わなかったのか中途退学。大阪で一旗あげ ようとの目算で、親を説き伏せ出立した。しかし親類も準備もなく行った大阪はそう甘くはなく、二ヶ月でお金も使い 果たし、泉太郎は再び親に泣きついて旅費を無心し、帰京の途についた。明治二十年二月のことである。

戻った泉太郎は父の知人のつてで大蔵省出納局に職を得、それを機に則義は二十年の役人生活を退職した。安心した のもつかの間、泉太郎が病に倒れ、その年の暮れ肺結核であっけなく二十三歳の命を閉じた。

長女は結婚し、次男は分籍していたので、長兄の死から数ヵ月後夏子は十六歳で家督を相続し、父則義が後見人 となった。しかしこの頃自宅を売却し、それを資金に始めた東京荷馬車運輸請負業組合の事業は失敗し、 則義は失意と心労がたたり、翌年七月負債を残して病没した。相次ぐ死であとには十七歳の夏子と十五歳の妹、 五十五歳の母の女三人が残された。夏子は戸主として母と妹を養う立場に立たされた。 兄泉太郎が大阪で失敗した二月から、樋口家の家運は急速に傾き始めたのである。

<三月の巻> 婚約破棄

夏子には父の決めた婚約者がいた。恩人真下専之丞(ましもせんのじょう)の妾腹の孫で、早稲田専門学校 で法律を学んでいた渋谷三郎である。将来を見込んでのことだった。父の病没後、母滝子が話をはっきりさせたいと 切り出すと、三郎は「しばし待ち給えへ。猶よく父兄とも談じて」とその日は帰り、後日人を立てて婚約に際し高額な 結納金を要求してきた。

「母君いたく立腹して其請求を断りしに、さらばこの縁成りがたしとて破談に成りぬ」

と後日夏子は日記に記している。早くも父のいない家付き娘の立場を思い知らされたのだった。

亡父の四十九日法要の後、母娘三人は次男の借家に身を寄せた。次男虎之助は陶工として独立したばかりで 収入も不安定な上、生活もだらしない。生活苦が元々折り合いの悪い母と次男の仲を、ますます波立たせた。

悩んだ夏子は中島歌子に相談して明治二十三年五月、萩の舎に内弟子として住み込んだ。月謝は免除のかわり、 稽古を手伝い、掃除や台所仕事にあけくれた。 その間母と次男の同居も限界がきていた。夏子は萩の舎を出て母妹を引き取り、本郷菊坂町の借家に移り、自立 するため妹と洗い張りや仕立ものを始めた。

強度の近視で裁縫の苦手な夏子は、一つの願望を胸に秘めていた。以前、萩の舎の姉弟子田辺龍子が坪内逍遙の 『当世書生気質』をまね、女学生の生活を書いた小説「藪の鶯」が大評判となり、稿料三十三円二十銭を得たことが あった。小説を書けばお金になる。このことに強い希望を見出し、いつか私もと、夏子は夜小説の習作を書いて一人 努力を続けていた。

明治二十四年の春。そんな姉をみかねて、妹邦子は友人の野々宮きく子が「小説家」を知っていると聞き、その人に 是非姉を紹介してくれるよう頼んだ。三月頃のことである。

<四月の巻> 小説の師と出会う  

夏子が妹の友人のツテで「東京朝日新聞」の「小説記者」半井桃水(なからいとうすい)と会ったのは、明治二十 四年四月十五日のことだった。座敷に通されひたすらおじぎをして顔を上げると、桃水は風貌よく長身の美しい男性 だった。一葉は一目でひきつけられた。

 君はとしの頃三十ばかりにやおはすらん。姿形など 取立ててしるし置かんもいと無礼なれど ( 中略 ) 色いと白く面おだやかに少し笑み給えるさま、誠に三 才の童子もなつくべくこそ覚ゆれ。丈は世の人にすぐ れて高く、肉豊かにこえ給へば、まことに見上る様にな ん            ( 日記「若葉かげ」より )

夏子の本格的な日記の第一号となった「若葉かげ」は桃水との出会いとほぼ同時に書き出され、以後一連の日記 のほぼ全編、半井桃水を軸にして書かれて いくことになる。一葉の日記が「恋愛日記」といわれるゆえんでもある。当時桃水は故郷長崎の対馬(つしま)から 弟の浩、茂太、妹の幸子(こうこ)を引き取り、学校に通わせ、親代わりに面倒を見ていた。

小説を書きたいという夏子に、桃水は自分は大衆受けのする小説ばかり書いているが、それは本意ではなく弟妹 父母を養うためだ、とジレンマを語った。自分も生活のために小説を書きたい夏子は素直に共感し、指導を 約束してくれた桃水に涙の出るほど感激して帰った。

さっそく桃水の指導が始まった。夏子の草稿を読んだ桃水の感想は「文章も結構でしたが少し結構過て新聞や雑誌 には如何かと思はれました。其の上趣向が 宜しくないので」というものだった。萩の舎で王朝文学を学んだ夏子の文章は、格調高いものだったらしい。小説を 書いてすぐお金になるようにと、桃水は通俗小説の作法を夏子に教え説いた。

<五月の巻> 失望 

小説の師を得た夏子は、ひたすら新聞小説の草稿を書き続けた。それを清書して四月二十一日に桃水を訪問すると、 桃水は前回夏子が置いていった小説について「新聞にのせんには少し長文なるが上に、余り和文めかしき所多かり。 今少し俗調に」と感想と助言を与えた。これは小説を書いてすぐに 収入に結びつけたい夏子にとって致命的なことであったが、その意味がまだ理解できない夏子は、次の小説の添削 を頼んで帰宅した。

この後も夏子は萩の舎のけいこの合間に、ひんぱんに桃水を訪れ、書いたものを桃水に渡し、書き直してはまた 添削をくり返す、そういう修業を重ねた。 桃水は小説の材料もかねて自分が温めていたものを与え、どのようにすれば面白い小説が書けるかと、趣向や筋立て に重点をおいた指導をした。

今度こそはと、五月二十七日と三十日に渡した小説は、桃水の手から友人で朝日新聞東京支局の主筆、小宮山即真 居士に渡っていた。小宮山の力に頼って、 桃水が原稿の掲載を依頼していたのである。その頃樋口家は一層きびしい経済状態にあり、夏子はひどい肩凝りに 悩みながらも、針仕事に励んでいた。

半月後、やっと桃水から連絡があり、小説の結果を心待ちにしていた夏子は内心ドキドキして出かける。ところが結果 は無残だった。新聞掲載はおろか、桃水からもっと当世向きに戯作っぽく書くように言われたのである。

精一杯書いたものが新聞小説に合わない、つまりお金にならないその結果に、夏子は衝撃を受けた。かといってすぐ 俗調に書ける自信もなかった。 失望のあまり九段へ至るお濠端沿いの帰り道を、夢遊病者のように歩く夏子。その様子が日記に生々しい。売り込み を桃水に頼り切っていた夏子の落胆は大きかった。

<六月の巻> 絶交

期待をこめて書いた小説がお金にならなかったあの失望の日を境に、夏子(一葉)は桃水から遠ざかり「今度こそ」と 猛勉強を始める。納得の いく作品ができるまでは桃水に会うまいと決めて努力する夏子は、日記に「今日より小説一日一回ヅゝ書くことをつと めとす。一回書かざる日は黒点を付せんと定む」とはっきり創作への決意を記し、この秋から筆名に「一葉」と記す ようになる。

明治二十五年二月四日の昼過ぎ、一葉は吹雪の中を桃水宅へ行く。桃水は今度創刊する同人雑誌に一葉の作品を 載せる計画を話し、湯を沸かしおしるこを作ってご馳走したり、自慢の写真を見せたり、二人でうち解けた時間を過ごした。 よほど楽しかったのか、一葉は一年後この日の事を素材にした「雪の日」を『文学界』に執筆している。

桃水が文壇に一石を投じる意気込みで創刊した雑誌『武蔵野』に一葉は「闇桜」を発表、二号に「たま襷」、三号に 「五月雨」と順調に作品を発 表する。その間一葉は歌の師匠中島歌子にも小説の添削を受けたり、桃水から急場しのぎにお金を借りたりしている。 しかし、一葉を売り出すために創刊したような『武蔵野』は売上げも伸びず、三号をもって廃刊に追い込まれた。

またしても、書いたものが一向にお金にならない現実に焦りを感じた一葉は、この頃桃水以外の記者に見てもらうた めの作品を友人 に託したりしている。桃水も自分の力で一葉を世に出すことに限界を感じ、読売新聞の小説記者で硯友社の人気作家 尾崎紅葉に一葉を会わせる段取りをつけていた。 

ところが萩の舎社中では「一葉は今にやくざ小説家の食ひものになる」という悪口や、「桃水が一葉を妻だと言いふらし ている」という悪評が立っていた。それを知った一葉は驚き、師匠の歌子に勧められるまま桃水との絶交を決める。 六月二十二日、一葉は桃水を訪問 し二人の仲が疑われていることを理由に、せっかく桃水がお膳立てした尾崎紅葉との面会も断り、桃水に絶交を申 し出た。しかしこの日以来、一葉は一層屈折し傷ついた桃水への恋心を抱くことになった。

<七月の巻> 新しい出発

半井桃水と絶交した一葉は、萩の舎の稽古をこなしながら以前にも増してせっせと図書館通いを始める。七月に 入ると一葉は一流雑誌『都の花』に 載せてもらうための創作に取り組み、以前職工の話として桃水に相談していた小説の趣向を、陶工の話として練り直した。

一葉の次兄虎之助が薩摩焼の絵付けの名手であったことから、虎之助の教示を得たり図書館での専門知識の勉強を 重ねて著作に励んだ。 虎之助をモデルにしているとも言われる作品「うもれ木」が完成すると、一葉は直ちに萩の舎の姉弟子田辺龍子のもとへ 小説を持参した。龍子は結婚を控えていたが、一葉の文壇進出のために援助することを約束してくれた。

続いて山梨の『甲陽新報』から小説執筆依頼があり、数日後田辺龍子から「うもれ木」は一枚二十五銭の原稿料で 『都の花』に掲載するがいいか、との 葉書が届く。喜んだ一葉の母は原稿料十円を見込み、この葉書を持ってさっそく知人から六円借りてくる。十月下旬 には『甲陽新報』に小説「経つくえ」が 掲載されるが、入ってくる原稿料の大半は借金の返済に消え、樋口家の貧しさは少しも改善されることはなかった。

そのころ一葉は図書館で雑誌『早稲田文学』に掲載の評論「文学と糊口と」を読み、衝撃を受けている。その要旨は、 「近年文を売って口を糊することが容易な世 になったが、見識が高すぎても金にならず、かといって生活の為俗受けするようなもの物を書いても真の文学とは 言えない」というものだった。

「うもれ木」は桃水の指導でそれまで書いていた王朝風悲恋物語を脱し、裏切りや破局、芸術と生活という新しい視点 を盛り込んだ小説で、発表されると たちまち若い『文学界』同人たちの注目を集め、さっそく一葉へ執筆依頼がくる。半井桃水と絶交したことがその 通俗的文学指導からも離れることとなり、 結果的に一葉は『文学界』のメンバーたちと出会うことで、彼らを通して新しい文学の潮流や外国文学に目を開かれていった。

<八月の巻>  荒物屋開店

『文学界』との出会いで一葉は新しい文学の息吹を感じ、日記の記述もそれまでの王朝日記風の表現を脱し、社会の 動きに目を向けたリアルな筆致が多くなる。 一葉は次のステップへ大きく飛躍しようとしていた。だが貧困という現実がますます一葉を悩ませる。

  「昨日より家のうちに金といふもの一銭もなし」「我家貧困日ましにせまりて、今日は何方より金かり出すべき 道もなし。母君は只せまりにせまりて、 我が著作の速かならんことをの給い、いでや、いかに力を尽くすとも、世に買人なき時はいかゞはせん」

当時の「よもぎふ日記」にはそんな言葉が並んでいる。

「文学と糊口と」を読んで影響された一葉は、ただお金の為に書いたり、出版社の注文通りに書くことができない見識が 芽生えていた。しかしそれをうまく説明できなくて 「夏子のいくじなくして金を得る道なければぞかし」と母から責められても反論せず、一葉は戸主として自分の親不孝の 責めと受け止め、苦しむばかりだった。

着物の質入れと知人からの借金で当座をしのいだが、五月末とうとう親友伊東夏子からひと月分の生活費八円を借りた。 六月末、それを返済せぬまま又金策に行って断られた一葉は、万策尽きて、生活のため商売を始める決心をする。

  「人つねの産なければ常の心なし。手をふところにして月花にあくがれぬとも、塩噌なくして天寿を終わるべきもの ならず。かつや文学は糊口の為に なすべき物ならず(略)これより糊口的文学の道をかへて、うきよを算盤の玉の汗に商ひといふ事はじめばや。」

そう日記に書き付けて、明治二十六年八月二日、下谷区龍泉寺町の二軒長屋の一角に荒物屋を開店。面する大音寺 通りは吉原遊郭へ の通い道で、周辺は遊郭に寄生する貧民街であった。一葉はここで始めた生活を新生涯と位置づける一方で、日記 の題名を「塵の中」とした。「塵」の字に貧民街に身を落とした一葉の心境が暗示されている。

<九月の巻>  捨て身

二間間口の店先に並べた物は歯磨粉、藁草履、ランプの芯、麻ひも、箸、楊枝、糊、元結、磨き粉、安息香、蚊遣香、 たわし、マッチ、石鹸、糸、針、 ろうそく等の日用雑貨品と、子ども向けのゴム風船や駄菓子だった。一葉は早朝の買出し、妹邦子が店番、母はお 勝手と役割分担を決めた。新規開店後は客も多く活気があったが所詮零細な商い。 一日の売上は五十銭前後だった。九月ころから一葉は仕入れの合間に再び上野図書館へ通い始め、星野天知の 依頼で『文学界』に「琴の音」を発表している。

早朝の買出しが済めばあとは自由な時間。店先と障子一枚隔てた部屋を書斎としゃれこみ、一葉は本を読み筆を取った。 「店は二厘三厘の客むらがり寄てここへもかしこへもと呼はる声、蝉の鳴たつにもたとへつべし。障子一重なる 我部屋は、和漢の 聖賢文墨の士来りあつまって仙境をなす。」(日記)と記し、一葉は一時的にせよ「新生涯」と呼ぶにふさわしい、 文学と糊口を区別した理想とする生活を手にしたのだった。

しかし明けて明治二十七年一月、向かい側に同業の店が開店すると、商いはひまになった。もうけの無い割には商用が わずらわしく、小説も思ったように書けなかった。理想と思えた生活は行き詰まり、一葉は捨て身とも 思える行動に出る。二月の日記に突然出てくる天啓顕真術会の久佐賀義孝訪問の記述がそれだ。一種の山師久佐賀 を相手に一葉は大胆にも偽名秋月を使って近づき、「すでに浮世に望みは絶えぬ、此身ありて何にかはせん、いとをしと をしむは親の為のみ。さらば一身をいけ にゑにして運を一時のあやふきにかけ相場といふこと為して見ばや」と千円もの大金を引き出そうと試みている。

これに対し久佐賀は密会の誘いをしたり、金は出すから「貴女の身体は小生に御任せ被下積りなるや否や」と露骨に自分の 女になることを要求する。 五月、一葉一家は十ヶ月出した荒物屋を閉じ、本郷の丸山福山町へ転居する。その一方で一葉は尚も「交わりの情を 以て」月十五円の補助をすると言い寄る久佐賀を相手に、交際抜きの援助の申込みを続ける。そのきわどい手紙のやり 取りは実に1年余りにも及び、日記の空白期間とも重なる。このころが、一葉最大の危機であった。

<十月の巻>  名声

一葉一家が転居した丸山福山町は本郷台地の崖下に開けた新開地で、近くの砲兵工廠の職工たちを相手の銘酒屋 が並んでいた。しかし表向きは 銘酒屋でも店の奥や二階では売春も行われていたという、明治の風俗を象徴する一帯でもあった。

一葉は隣家の銘酒屋の酌婦たちと日常的に言葉を交わし、時には恋文の代筆を頼まれたりするうち、彼女たちの過酷 な生活を身近に知ることにな る。相変わらずの貧窮生活に加え、否応なしに風俗の一端を垣間見ての強烈な生活体験は、和歌のきれい事の世界 をはるかにはみ出すものであり、もう和歌では自分の思いを表現し得ないことを一葉は悟ったと思われる。

一方、萩の舎から独立して歌門を起こすことに一時執着した一葉だったが、歌の実力はあっても、のれん分けやお 披露目に必要な財力のない一葉は結局断念する。この事がいっそう一葉を小説へと向かわせる結果ともなった。

 「ひかる源氏の物がたりはいみじき物なれど、おなじ女子の筆すさび也」
 「それよりのちに又さる物の出こぬは、かゝんとおもふ人の出こねばぞかし」
 「今千歳ののちに今のよの詞をもて今の世のさまをうつし置きたるをあなあやし」
                          (日記「しのぶぐさ」より)

このころの日記にはお金の為ではなく、自分が何を書くべきかを掴んだ、一葉のはっきりした創作態度が打ち出されている。

女所帯の一葉宅は『文学界』同人たちのたまり場となり、文学サロンとなり、一葉はその女主人だった。 常連は馬場孤蝶、平田禿木、川上眉山の三人で、一葉は彼等との文学談義を通して外国文学の知識や新しい文学の 流れなどを知り、その力は創作活動へと向けられた。

やがて「やみ夜」「大つごもり」「たけくらべ」と次々発表。自伝的要素に狂女や銘酒屋の酌婦をテーマに加えた「にごりえ」 を発表すると、作品は 激賞され一葉は一躍脚光を浴びた。明治二十八年十月ころの事だ。しかし、作品の真意を理解せず、ただ女が書いた ということでもてはやす人々の熱狂ぶりを、一葉は冷ややかに眺めそっぽを向く。この一連の騒動と評価のされ方から、 一葉の思いは自分が女であることの深い懐疑へと向けられていく。

<十一月の巻>  終焉

一葉は明治二十九年一月までの十数ヶ月間に「おおつごもり」「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」「わかれ道」とやつぎばや に作品を発表し、 いずれも高い評価を受けた。中でも文壇の皮肉屋として知られた斉藤緑雨は独特の評価をして一葉に強い興味を示し、 何度も訪問している。一葉も 緑雨に自分と共通する孤独な「すね者」の一面を見て取り、自分の文学の理解者と認めたが、緑雨ほどには本音をさら け出さなかった。

  我れは女なり、いかにおもへることありとも、そは世に行ふべき事か、あらぬか (「みづの上」日記 明治二九、二、 二十)

  雨音を聴きながら文机に頬杖をついて、一葉は女であることの懐疑に深い思いをめぐらす。夢の中では自分の考えを 自由に言ったり理解してもらえるのに、現実の世では言ってはならない事や言えない事があまりに有りすぎる。自分の 思いを真に理解してくれる一人の友もいないのも、自分が女だから だろうか、と一葉は自問する。女に学問は不要との母の意見で、自分の意思に反して小学校を中退させられたのも、 数々の夢を砕いたのも常に女であることに起因していた。しかし一葉は嘆いてばかりいたのではなかった。

一葉の作品が、下層社会の女性を主人公に据えていることに興味を抱いた横山源之助が訪ねてきた。横山は毎日新聞 の記者で、一葉と何度か 「下層社会の救済」について話し合っている。一葉は貧困ゆえに身売りさせられる女性達を救済する事業を考え、 横山はその理解者だった。

しかし春になると一葉に肺結核の兆候が現れ始めた。七月には亡父の八年忌に妹と築地本願寺の墓参をしたが、 日記は七月二十二日でついに 途切れた。八月上旬に診察を受けたが手遅れと言われ、十月森鴎外の紹介で名医青山胤通の往診を受けたが すげなく絶望を告げられた。

十一月三日、馬場弧蝶が彦根から見舞いに来て励ますと「此次ぎあなたが御出になる時には私は何に成って居り ませうか、石にでも成って居り ませう」と答えたという。明治二十九年十一月二十三日。一葉はついに二十四歳七ヶ月の命を閉じた。

<十二月の巻>  妹の存在

晩年の一葉を数回訪問して「下層社会の救済の急務」について談話した副島八十六は、一葉の葬儀に駆けつけた。

 十一月二十三日(曇又晴)
 早朝本郷福山町一葉女史の葬儀に会す。恰も出棺せんとする間際なりき。先導二人、博文館寄贈花一対、燈灯 一対、位牌次に 女史の妹くに子。次に伊東夏子及婦人二三名腕車に乗ず。四五のものは輿の前後左右に散在粛々として進む。 (中略)
余は道々思へらく今此葬儀中担夫、人足、車夫等の営業者を除く時は真実葬儀に列するもの親戚知友を合して 僅かに十有余名に過ぎず。洵(まこと) に寂々寥々仮令裏店の貧乏人の葬式といへども此れより簡なることはあるべからず。如何に思ひ直すとも文名 四方に揚り奇才江湖たる一葉女史の葬儀とは信じ得べからず(後略)
                  副島八十六の日記より

一葉の葬儀が大層寂しいものになった背景には、内輪にしたいという妹邦子の考えがあった。森鴎外は陸軍軍医の 制服に騎乗姿での 参列を申し出たが、邦子から丁重な断りを伝えられたという。一葉の母滝子は娘の死より一年あまり後の明治三十 一年二月四日、過労のため六十五歳で亡くなった。

一葉は母妹を養うために書いた小説等の他に、十六歳から書き続けた詳細な日記を残した。この日記は死後焼き捨て よとの遺言に背き、妹邦子が大切に守り続けた。邦子は日記のみならず小説の草稿、反古や手紙の下書等にいたるま で姉の書いたものは一枚たりとも 粗末にしなかった。今日近代作家の中でも樋口一葉研究が量と質とにおいて突出しているのは、一葉の遺稿の保存 ・浄書に力を注ぎ姉の業績を生涯かけて守った邦子の存在あってのことである。

「女であること」が意思の実現を阻んだ十九世紀末の一葉の時代から百年以上経った今、その悩みや苦しみはどれ 位自由にかつ解放されたと言い得るだろうか。一葉の作品は今なお私たちにそれを語りかけてくる。
 

※最近の研究では、一葉の長兄が早くに家督を相続したのも、次兄が分籍(勘当)されたのも、実は徴兵を 回避するための父親の妙案だったという説があります。また父の死後貧困に苦しんだ一葉でしたが、樋口家には父の遺品の 古美術などがあったと指摘されています。日記にはそれらが質入れされた形跡はありませんが、荒物屋を開店する資金 を調達する際、知人に頼んで売り払ったようです。
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(この作品は杉山武子の著作物です。無断転載・引用はできません。)