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2月26日(火)くもり 時々雨
ワイマールからデッサウへ 8:00食堂へ行って朝食。ここもビュッフェ方式で、コーヒー、シリアル、ハム、チーズ、パン等が数種類ずつにゆで卵が用意してあった。ジャムは何と10数種類もあった。 きょうも充実した朝食になって朝から元気だ。ペンションのおば様にお別れを言って出る。 5分歩いて荷物をいったん駅のホームにあるコインロッカーに預け、また街の中心部へ戻る。最初にゲーテの家へ行く。二人で9オイロ(ユーロ)。部屋の一部を公開してあり、 中庭に面した部屋では20分間のビデオ上映を見た。ワイマール出身の文学者や音楽家たちのことや歴史が、よくまとめてあるように思えた。30人くらい入る部屋には、 私たちに続いて中・高生くらいの生徒達のグループが先生の引率で入ってきて、一緒に見た。学校の課外授業なのだろう。ドイツに来てから、ワイマールに限らず街を 歩いていると、先生に引率された1クラス30人くらいの生徒の集団によく出合った。クラス単位で、校外での授業が多いのだろうと思われた。
次に5〜6分ほど歩いて10:30バウハウス博物館へ到着。バウハウスの初期の作品を中心に、美術・写真・工業デザイン等、当時の学生の作品も含めて500点余りが 年代を追ってわかりやすく展示してあった。ここは娘のペースに合わせて、ゆっくり見てまわった。それでもまだ時間があったので、商店街へ出てデパートなど見てまわる。 デパートといっても2階建てで、全体的に小規模なお店しかない。再び中心部に戻り、ゲーテ・シラー記念碑のある国民劇場横のお店で、昼食を済ませた。 12:58ワイマール発IRにて、次の目的地デッサウへ向かう。ワイマールを出てしばらく走ると、車窓から見える家々の様子が少し変わってきた。白壁にオレンジ色の屋根と いうお決まりの色使いの家がオーストリアからずっと続いていたのが、ここへきて赤レンガの壁に黒っぽい屋根が多くなり、古くて小さな家が沿線に増えた。かと思うとク リーム色の壁にオレンジ色の屋根をした同じ規格の建物が、ずらりと何十棟も並んで建っている町もある。労働者のための住宅だろうと思われた。そう、このあたりは旧 東ドイツだった所だ。 十数年前までは、一般人の旅行などおぼつかなかった土地だ。線路沿いには荒れ果てた土地や廃墟になった住宅が目立って多い。駅の近くにはたいてい東ドイツ時代に国営 工場だったらしい建物があって、東西ドイツ統一後は閉鎖されたのか、大きな屋根も無数の窓ガラスも破れ放題で、不気味な廃墟と化して放置されている。その数は 列車から見る限りでもかなりの数だ。デッサウへの途中で停車する町も、全体的にひっそりと地味な感じなのは否めない。 14:40デッサウ着。着く少し前からまた外は雨になっていた。ドイツのたいていの駅がそうであるように、ホームには下りのエレベーターがあって、地下道で結ばれている。 適当に地下道を歩いてまた上へ出た。外へ出ると、何となくさみしい。というより何もない。近くには近代的な建物も見えるが・・・。で、駅の裏側に出たかもしれないと気づき、 また地下道を通って、反対側の地上へ出た。 すると、駅らしく切符売り場や売店や本屋、食べ物屋さんなど、ひと通り揃っていた。駅前広場に出ると、ただむやみに広くて何もない。路面電車が乗り入れていて、ホーム があるだけ。そのはるか向うに、大きなビルがいくつも見える。ドイツに来て感じたたのは、大都市でも鉄道沿線でも、日本で日常的に目にするような商業用の大看板など がないということだ。そのためか、見た目というか景観がすっきりしている。 デッサウは、ワイマールのバウハウスが次に移転して校舎を建てた土地。それを知って、私の提案で急遽予定を変更して、数日前ルートに加えたばかりの未知の土地だ。 当然下準備も情報も何もない。 さっそく駅から大通りの手前に出たところで、立ち往生してしまった。というのも、ざっと見渡して、どうみても今までのような駅前の安ホテル街などありそうにもないし、観光 客らしい姿も皆無。雨は降りそうだし、今までとは勝手の違う雰囲気に、娘はむっつりと機嫌が悪い。 言い出しっぺの私は責任を感じてインフォーメーションへ走り、市内の地図を貰って、バウハウス校舎の場所とホテルにいくつか印をつけてもらった。地図といっても B4サイズの白黒コピーで、もちろんドイツ語表示。とにかく泊まる場所をと、印のついた一番近いホテルへ行ってみると、とてつもなくでかいホテルで、金色の両開き大 型自動ドアを見ただけでとても入る気になれない。諦めてもう一つのホテルを目指す。歩きながら、ワイマールとはとても違う、工業都市という印象のする町で、駅の 近くには近代的な高層住宅も多い。都市の規模としては、デッサウはワイマールよりかなり大きいようだ。 又しても無常の雨が降ってきた。大き目の石を敷き詰めた歩道を、ゴロゴロとスーツケースを引きながら歩くこと6〜7分。ASTON HOTEL があった。これもずい分立派な 三ツ星ホテルだったが、さっきのホテルほど仰々しくなく、ドアのガラス越しに中をうかがって、とにかく入ってみる。フロントで聞くと、ダブルのバス・トイレ付きで101ユーロ とのこと。もっと安いペンションはないかと聞いてみたが、この辺には無いという。ここまで歩いて来て、そもそもホテル自体が少ないのがわかっていたし、観光地でも ないのでさもありなんと思う。高いけどここに決める。 7階の部屋は三ツ星のホテルにふさわしい、日本のどこにでもある中級クラスの広めの部屋で、黒大理石洗面台や大型の浴槽のついた設備のりっぱなホテルだ。 デッサウに寄ったばかりに列車代やホテル代と予定外の出費となったが、今まで安ホテルばかり泊まっていたので、たまにはいいやと腹を決める。 荷解きを始めると、突然風雨がひどくなり、雨が窓ガラスに叩きつけるように降り出した。タッチの差でホテルに着き、濡れずに済んだと娘と喜ぶ。さっき青空がのぞいて いた空が真っ暗になる。しかしまだ4時。また出かけるのに、と窓の外を恨めしく眺めていると、垂れこめた黒い雨雲の向うには、雲が切れて青空がのぞいてきている。 この分なら10分もすれば雨が上がりそうだ。 出掛けにホテルのフロントで、大判のカラーの市内地図を貸してもらい(あとで返してくれと言われた)、コピーの地図と照らし合わせてバウハウスの校舎を見に行くことに する。雨が上がりそうなのを見計らって、ホテルから駅裏まで歩くこと20分。その名もバウハウス通りがあり、その先にあったあった!! バウハウス博物館に展示してあった模型や写真で何度も目にしたバウハウス・デッサウ校舎。2度の大々的な改修が行われたらしいが、もちろん今も現役で使われて いる。ぐるりと建物全体を見てまわって、写真を撮った。 ちょうどその時、雨上がりの校舎にオレンジ色の夕陽がまぶしく映え、東の方角には何と虹が出ている。娘もデッサウ校舎を見たとたんすっかり元気になって、嬉しそうだ。 やっぱり来てよかったとホッとする。
さっそく階段を上がると、踊り場の外壁側はほぼ全面窓になっていて、驚くほど明るい。ちょうど雨上がりで、窓越しに夕陽が渡り廊下の西面に輝くばかりに当たっている のが見える。自然の採光を生かした、すばらしい造りだと思う。 3階に展示室があるのを発見。同じ階には本屋さんもある。さっそく7ユーロ払って、展示物を見せてもらった。本屋さんで絵葉書を買い、最後に半地下になった広い部屋 へ下りる。ここでエキシビジョンがあるので見ていくように言われていたのだ。約20分の、バウハウスの歴史をつづったスライドを見せれくれた。それによれば、このデッサ ウ校舎もグロピウスの設計で、バウハウスはワイマールから1925年にデッサウに移転して、新校舎は1926年完成。現在はアンフルト大学建築学科の建物として 利用されているそうだ。 1925年ここに移転したバウハウスはその後1932年には再びベルリンへ移転し、ナチスによって1933年ついに閉校に追い込まれるという歴史をたどる。観客は私たちだけだ ったけど見学者用の椅子は50ほどあり、時期が時期なら、もっと賑わうのだろう。その他にも設計図や多くの展示物があって、しかも閉館が6時だったため、ゆっくりと見る ことができた。
バウハウス通りと満月 夜、7階のホテルの部屋から市内を眺めると、ネオンサインというものがほとんどないことに気づいた。電気の無駄遣いをしないということだろうか。そういえば街を歩いて も商業用の看板類も見なかったし、無駄なものは何も作らない、置かないという都市のコンセプトが感じられた。 デッサウは旧東ドイツということもあるのか、昼間は そう感じなかったが、都市として無駄のない生活スタイルに質実堅剛という言葉を思い出してしまった。それに比べれば、私たちの日本では、真夜中でもキンキンぎらぎらと ずい分無駄な電気を使いすぎているように思う。生活の仕方について、いろいろ考えさせられてしまった。
今日の会計:合計 175.62ユーロ ※帰国後に知ったところでは、デッサウは高層建築発祥の地だそうです。バウハウスの都市計画とも関連しているのでしょう。また現在の デッサウ市は環境問題の モデル都市として、世界的な大会も誘致するほど環境問題を市民生活の中心に据えているそうです。どうりで、無駄なもののない、すっきりした街並でした。 <2月25日へ戻る> <日程表へ戻る> <2月27日へ進む > |