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「母と娘のヨーロッパ見てある記」    「ベトナム北部400キロの旅」   「アメリカ滞在顛末記」

 2006-2007 年末年始 ベトナム南部紀行

杉山武子

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1.エトランゼ   ◆2.高原都市ダラットをめざす   ◆3.ランビャン・マウンテン
4.ベトナム・アンビリーバホー!   ◆5.食の宝庫メコンデルタ


◆1. エトランゼ
時間とお金があり健康なら、すぐにでも旅に出たいと考える人は多い と思う。しかし三つ全てが潤沢に揃わなくても、旅はできる。どうしても かの地へ行ってみたい、その強い思いさえあればチャンスはめぐって 来るものだ。あとは少しの時間と少しのお金を何とか工面しよう、という より、何とかなる。

知人グループがベトナム南部の高原都市ダラット方面へ調査に行くと 知ったのは、昨年晩秋のこと。チャンス到来。前々から今度ベトナムへ 行くならダラットと決めていた私は、彼らの邪魔にならぬよう随行する ことにした。いくつか現地で調べたいこと、行ってみたい場所など、私 なりのテーマを携えて。

2006年の暮れも押し詰まった12月25日。正午発のタイ航空機で福岡 国際空港を飛び立つ。約6時間のフライトで中継地タイのバンコクへ降り 立つ。着陸直前に見た空港周辺は、畑や潅木の林が延々と広がる平坦 地だ。アーチ状をした曲線の重なりが美しいモダンな建物が見える。 機内アナウンスが摂氏28度、と地上の気温を伝える。

乗り継ぎのため飛行機を下り、建物までバスで運ばれる。この新空港 は昨年9月に開港したばかりで、スワンナプーム国際空港というらしい。 A・B・C・Dと4つのウイングが十文字に長く腕を伸ばした構造になってい て、旅客ターミナルビルの総床面積は世界一とか。アジアのハブ空港 をめざすタイ国の心意気が感じられる巨大な空港だ。

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真新しいビル内には国際空港の名の通り、数多くのエトランゼ(異邦人) たちが行き交っている。私もその一人になって、外光を効果的に取り入 れアーチ状の骨組みを見せる屋根の下を歩く。ホーチミン行の出発まで の2時間と私を取り巻く空間は、日常から非日常へ、生活人から旅人へ とゆっくり私の気持を切り替えてくれる。

バンコクを首都とするタイも、これから行くベトナムも、日本との時差は2 時間。待つ間に時計の針を2時間戻す。ホーチミン行の搭乗手続きを済 ませ待合所へ行くと、たくさん並んだイスはエトランゼでほぼ埋まってい る。空きイスなしかと諦めかけたとき、近くに腰かけていた男性がイスに 置いた荷物を床に下ろして席を空けてくれた。会釈して腰をおろす。

この新空港は全体的に照明が暗めになっている。目には悪いが私はさっ そくノートを取り出し、旅日記の続きをつけ始める。私の左側は欧米人の カップルで、大柄な男性は立ったり坐ったり落ち着きがない。その横の 妻らしい女性はブロンドというには薄すぎる色の髪をオカッパに切り揃え、 40歳くらいに見えるがおばさん風ではなく美しい。デニム地のスカートに サンダル履きで、エメラルドグリーンのカーディガンがよく似合っている。 と、彼女の携帯電話が鳴り出した。

私はノートにシャープペンを走らせながら、そんなエトランゼたちを文字で スケッチし、耳は彼らの発する音声に集中している。携帯電話の彼女は 何度も肯定を表わす「ダー」を発しているから、たぶんロシア人だろう。 長い話の途中で「アンニョンハセヨ」とも言った。たそがれのバンコク空港 の待合所。いろんな言葉が交じり合い、いま外国にいるんだということが 実感として湧いてくる。

そんな印象をほの暗い明りの下でノートに書きとめていると、 「ベトナムは初めてですか?」 と、席を空けてくれた右隣りの男性。日本人だったのか。 「いいえ二度目です。最初は7年前、ハノイとサパなど北部へ行きました から、今回は南のホーチミンやダラット。年明けにはメコンデルタにも行き ます。」と私。たぶん私がノートに日本語を書いているのに気が付いたの だろう。

「私は仕事でバンコクに来たんですが、これからホーチミン、ハノイと遊ん で、正月には日本に戻ります。楽しんできてください。」関東の人らしい。 ほどなくアナウンスがあり、私は再び機上の人となった。

約1時間半後の20時ちょうど、ホーチミン国際空港着。こじんまりした建物 だ。入国審査を済ませて荷物を受け取り、すぐ駅前からタクシーに乗り込 み、約20分で市の中心部にほど近いリバティーホテル1に到着。パスポー トをカウンターに預け、鍵(カード)を貰って401号室へ。ホテルは交差点の 角に建っている。私の部屋はそれを見下ろす角部屋だ。ここも真夏の暑さ なので、さっそくエアコンのスイッチを入れる。

二度目のベトナム旅行なので道路を席巻して走るバイクの多さには驚きは しないが、車が増えるよりもっとバイクが増えている気がする。ホーチミンに は人口と同じ300万台のバイクがあるとも聞いた。ホテル前の交差点には さすがに信号機があったが、日本のように双方の信号が赤になる一瞬、 交差点内がからっぽになり静寂になるという現象は、ここにはない。

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ドドドドッというバイク特有のエンジン音が何十台分も重なり合い、その音は 一瞬も途切れることはない。重低音のように響き体にまとわりつくその音に、 さらにバイクの波を蹴散らすために鳴らすクラクションの音が加わる。サッシ 窓は閉めてあるのに、開いているのかと思うほどの騒音に思わず確かめる。 深夜2時すぎてもその音は絶えず、朝は4時からもうあの重低音がうなり出す。 ベトナムの夜は遅く、朝はとてつもなく早い。(2007.1.10)
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◆2.高原都市ダラットをめざす
こんな夜更けに、彼らはどこへ何をしに行くんだろう。時計の針はとうに 午前零時をまわっているというのに。明日の移動にそなえて眠ろうとして も、耳元に絶え間なくまとわりつくバイクのエンジン音が眠りを妨げる。 朝6時に家を出て、タクシー、JR、飛行機2回、タクシーと乗り継いで午後 の9時(日本時間で午後11時)やっとたどり着いたホーチミンのホテル。 疲れた頭でぼんやりそんなことを反復しながら寝入ろうと努力する私。
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うとうとと浅い眠りを貪っていると、ドドドドッと体に響く重低音に眠りを 破られる。明りをつけ腕時計を見るとまだ午前4時過ぎ。外は真っ暗だ。 勘弁してよとまたベッドにもぐりこんだが、時間がたつにつれ、バイクの 騒音は徐々に増幅されていく。6時半には支度をすませて朝食のテーブ ルにつき、7時すぎにチェックアウトして一同ロビーに集合。私たちはドラ イバー付借り上げ車に乗り込む。あまり英語を話せないドライバーは無 口で、私たちもベトナム語を話せないが、元気に出発。

ホーチミンから目的地ダラットまで一日一便の飛行機の予約が取れず、 やむなく陸路での移動を余儀なくされたのだ。その間の行程約300キロ メートルは、鹿児島市から福岡市までとほぼ同じ。飛行機なら1時間足ら ずの距離だ。私はたまに鹿児島=福岡間を九州自動車道を使って往復 するが、片道3時間半もあれば足りる。しかしここはベトナム。自動車専 用道などまだ整備されていないから、倍の7時間近くのドライブになるら しい。陸路だから風景や人々の暮らしをじかに見ることができる。その楽 しみのほうが、私には嬉しい。

私たちを運ぶ車はトヨタZACE。腰高で天井も高く、悪路でも大丈夫そう。 このタイプの営業車は街中でよく見かける。ホーチミンから国道1号線を 北東へ向け走るが、ホーチミン市内を抜けるまでの約30分、乗っているだ けでハラハラドキドキの劇場的な、ベトナム特有の交通事情を十分堪能で きる。私たちの乗った車を舟にたとえるなら、それを前後左右から取り巻 き押し寄せるバイクは波だ。波の中にはのんびり走る自転車やリアカーを 引いたバイクも混じっている。それらの波をかき分け蹴散らし車は走る。

約1時間30分走ったところで1号線と別れ、北に進路を変えて国道20号線 に入る。そこはドン・ナイ省だ。まもなく左手に大きな湖を見ながら走る。 ゆるい坂道を登り始めると急に交通量が減り、バイクもまばらだ。平地と は違う風景になり、車にもめったに出合わない。市街地に多いコンクリー ト製の2階建3階建ての家は姿を消して、平屋が多くなる。板壁にトタン屋 根のマイノリティー(少数民族)の家だ。ベトナムは人口約8千300万人のう ち90%はキン族(いわゆるベトナム人)が占め、10%が独自の生活様式 をもつ53のマイノリティーで構成される多民族国家。

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出発して3時間ほどでカーブの多い山道に入る。途中で真っ白なアオザイの 制服を着た、女子高生の自転車の列を追い越す。やがて両側に山が迫る。 11時20分、パオ・ロック着。賑やかで大きな街道の町だ。ダラットまであと 110キロメートルの標識が見える。車外へ出ると目も眩むばかりの太陽。 汗ばむ陽気だ。車を停めたレストランの2階では結婚披露宴が行なわれる らしく、入口では若い新郎新婦が盛装して客人を迎えている。客の男性は 白シャツ姿のシンプルな装いに対し、女性は華やかな色合いのアオザイ姿 が眩しい。レストランは若い人たちで溢れ、喧騒と活気に満ちている。

15分の休憩のあと出発。すでに高原台地を走っているので、目にする植生 が平地とは違っている。周辺は畑地が延々と続き、農家らしい建物の前庭 には、庭いっぱいに広げたシートに何か広げて干している。茶色っぽいもの、 緑っぽいものもあり、豆のようだ。天日干しの風景を車窓から見ていると、 私の育った田舎の家々で庭いっぱいに広げたムシロの上で、収穫した籾 (もみ)を天日干ししていた光景が不意に甦る。時にはアスファルトの熱を利 用して、道路の一部にトウモロコシの粒を広げて干している。ここまで来ると バイクも車もたまに通るだけ。道行く人にも出会わない。真昼だからなのだ ろうか。不思議なことだ。

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あれだけの量のものがどの農家の庭先にも干してあるということは、この 産地の特産品だろう。同行の面々と話し合っているうち、あれはコーヒー 豆に違いないという結論になった。ベトナムのコーヒー豆生産量はブラジ ルに次いで世界第2位。その生産地を通っているのだろう。豆の乾燥風景 が見られなくなるとさらに高度は上がり、周囲は一面の野菜畑へと変化し た。なだらかな丘陵地をさまざまな種類の野菜畑が彩っている。

ダラットで生産された高地野菜は大都会ホーチミンに運ばれるだけでなく、 ホウレン草などは冷凍されて遠く日本にも輸出されているらしい。中国産 野菜の残留農薬が問題になって以来、冷凍野菜を扱う業者が安全なベト ナム産高原野菜に産地を切り替え、生産・加工しているという。

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ダラットまで10キロメートルの標識が見えると、車は狭く急な山道に入る。 あとひと息だ。切り立った左側斜面には美しい赤松の林が続く。日本の松 のようにひねこびていなくて、まっすぐに伸びた立ち姿の美しい松林だ。 車はでこぼこの多い坂道をなおも登る。高原都市ダラットは標高1500メー トルに位置する避暑地で、約百年に及ぶフランス植民地時代にフランス人 が開発したといわれる。高地野菜の産地であり一年中花咲くダラットは、 ベトナム人憧れの地でもあるようだ。13時45分ついにダラット市街に入り、 ほどなく中心部のダラット大教会横のノボテルホテルに到着。6時間半の ドライブは終わった。
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ホテルには調査一行が頼んでいた通訳のティック氏が待ち受け、私たち を歓迎してくれる。一休みのあと、一行はさっそくダラット近郊の高地野菜 の加工会社へ出発。私がダラットをめざした理由は、もちろん別にある。 ホテルの私の部屋は道路側の3階だった。向かいには朝食を取る黄色い 壁のレストランが見える。
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第2次世界大戦中の1940(昭和15)年、日本軍は「大東亜共栄圏」という 侵略を合法化した美名のもと、初めてベトナムに進駐している。当時仏印 と呼ばれていたインドシナ半島はフランス領だったが、ベトナムからフラン スを追い出した日本軍は米(コメ)の統制を管理下におき、ベトナム人から 米を奪い取ったため、戦争末期には膨大な餓死者を出したといわれる。

ベトナムの豊かな自然はいまもそうであるように、70年前も豊かさに満ち ていたのだろう。松林も竹林もメコンデルタの豊富な米も魚介類も宝の山。 フランスからそれを奪い取った日本軍は、しかし1945年の敗戦と同時に 全てを失い「大東亜共栄圏」も夢まぼろしに終わる。私の父の世代が軍靴 で踏みつけたベトナム。私の青春時代にずっと続いた、米軍の北爆とベト ナム戦争。アメリカに勝った国ベトナム。

私の青春の一ページに鮮烈な印象を刻み続けたベトナム。その土地に立 ち、日差しを受け、風に吹かれ、ベトナムの人々と会い、話をしたい。いろ んなことを聞きたい。そしてベトナムから日本のことを考えてみたいという ささやかな決心が、今回私をダラットへと誘ったのだ。

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(2007.1.17)
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◆3.ランビャン・マウンテン

標高1,500メートルの高原に開けたダラット。私の滞在中の気温は、 ホーチミンより約10度も低い摂氏20度と快適そのもの。町の中心部に ある湖を取り囲む小高い丘には、緑に囲まれた白い瀟洒なヴィラがい くつも建っている。ベトナム戦争中、ダラットはその美しさゆえに空爆を 免れたと聞く。アメリカもベトナムを占領したときのために、この避暑地 は残しておきたかったのだろう。湖を抱いたダラット市街地の北側には ランビァン・マウンテンの姿を見晴らすことができる。

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ダラット滞在2日目。調査隊一行は昨日に続き現地調査のため、通訳 (英語)のティック氏とフォードに乗って朝8時に出発。一人残った私は ダラット観光だ。前日ホテルから貰ったツアー・プログラムをチェックして、 ランビァン山を含む4時間コースを予約。ガイドと車とドライバーがセット になっていて、1人だと25USドル(約3,000円)。2人だと20ドル、3人なら17 ドルと、1人当たり料金が安くなる。日本語ガイドはいないので英語だと いう。1人なので割高だけど、英会話レッスン付観光だと思うことにする。

ガイドの青年がやってきた。名前はJany(ジャニィ)、私の末娘と同年代の 25歳くらいだろう。トヨタのランドクルーザー8人乗りに乗り込み、9時に出 発。最初の目的地マイノリティ(少数民族)の村までの約1時間、さっそく when,where,how long,who など初歩的な英単語を並べて質問すると、 ジャニィ君は助手席から身を乗り出して後ろ向きになり、熱心に説明して くれる。彼も歴史が好きなのだろう。分からない単語も多いが気にしない。

マイノリティの村はランビァン山の麓にあった。校庭のような広場に駐車。 ジャニィ君は広場の中央にあるどでかい板壁の建物を指して、カソリック の教会だという。この村には1880年代前半にキリスト教が入ったという。 古びた扉を開けて中に入ると、トタン葺きの大屋根とそれを支える木組み が丸見えのシンプルな教会だ。正面には木の十字架と磔(はりつけ)になっ たキリスト像。祭壇の右手にはクリスマスの飾りつけがしてあり、その奥 には民族の象徴の大きな酒壷が鎮座している。取り合わせが面白い。

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祭壇左手にはトーテム・ポールのような天井まで届く長い木の幹に、稲穂 やトウモロコシや魚(模型)などが下がっている。豊作を祈願する飾りなの だろう。根元の方には水牛の頭部が3つも重なっている。どうみてもキリス ト教と関係なさそうだ。「これは何?」と聞けば、宗教的な祭りで使われ る飾りで、水牛の頭は生贄(いけにえ)として神に捧げられたものだという。

つまりこの飾りはアニミズムに由来するもので、このマイノリティの人々は 民族の伝統的な宗教行事を残したまま、キリスト教も受け入れた。だか らこの教会は共存共栄の姿を示している――そのような意味のことを詳 しく説明するジャニィ君。一息ついて「ところで僕の話、理解している?」 と彼。私は「多分60%くらいかな。だからどんどん話して!」と返事して、 2人して大笑い。時には私の電子辞書で英単語を確認しながらの会話。

だんだん面白くなってきた。 村の中には立ち入れなかったが、教会を見せてもらったお礼に、みやげ 物屋で手刺繍入りのクッションカバーを買う。さらに30分ほど坂道を登り、 山の中腹の駐車場へ到着。ランビァン山のピークへ行くためには、歩くか ここからジープを雇わないといけないらしい。5ドル支払ってジャニィ君と オンボロジープに乗り込む。アメリカ軍の置き土産のようなジープは、塗 料も剥げてあちこちへこんでいるが、曲がりくねった急坂をうなりながら 登る。途中、1人やグループで歩いて登っている外国人を何組も追い越す。

15分ほどで頂上へ到着。山頂までの道も駐車場も整備され、比較的広い 頂上には展望台まである。「ここには1965年から1975年まで、アメリカ軍 のベースがあったんだ」とジャニィ君。四方八方の展望の良さに納得する。 ダラット方面を教えてもらうと、南に向かって左手丘陵の奥に白く横たわる 湖と白い建物群が見晴らせた。手前の山麓に長く連なる集落は先ほど行 ったマイノリティの村で、約5,000人が住んでいるという。少し離れて広い 野菜畑の中に点在する小規模の集落は、別のマイノリティの家らしい。

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ずっと右手に目をやると、大きな湖(ゴールデン・レイク)がある。その先に は亜熱帯の緑深きなだらかな山々の稜線が、幾重にも重なっている。こ の西方向にはマイノリティの家屋のほかには、何も人工物が見えない。 空と森と湖と畑の緑の中にばらまかれたような白い家々。大自然のパノ ラマとは、こういう場所のことだろうか。山頂の心地よい風に吹かれなが ら、私は鳥瞰的な雄大さをほしいままにする風景を、飽かず眺める。

その時だ。私の立っている数メートル横で、小さなつむじ風が起きた。 地面の砂や枯草を巻き込んでクルクル渦巻き、数メートルの高さまで達 している。初めて見る珍しい現象だ。直径30センチくらいだろうか。円筒 形に渦巻き、同じ場所から動かないのも不思議なことだ。渦巻きが消え るまでの2分間くらい、あっけに取られて観察した。ジャニィ君も気づいた らしく「それゴースト・ウインドっていうんだ」と、いたずらっぽく笑う。

ランビァン山にはピークが2つある。木に覆われている少し離れた山頂は 少女で、こちら側が少年。2人は愛し合っていたが誰かの邪魔で(このあ たりが聞き取れなかった)結ばれず、悲しんだ少女の流した涙が溜まって ゴールデン・レイクになったという。ジャニィ君はランビァン山にまつわる 悲恋の伝説を熱心に語ってくれたが、6割も理解できたかどうか怪しい。 私たちのほかに若い男女のグループも来ていたが、この山頂は新婚さん のメッカになっているという。

場所を変えながら写真を撮っていると、「マダム!」とジャニィ君の大きな 声。何とさっきと全く同じ場所で、クルクルとつむじ風が発生している。 下から上へと枯草を筒状に巻き上げるので、見えないはずの風が身をく ねらせているように見える。まるで生き物のよう。本当にゴースト・ウイン ドだ。2度もゴースト(幽霊)に会えるなんて、何て運がいいんだろう。あの 2つのつむじ風は少年と少女の精霊だったのかもしれないのだから。

まもなく私たちは頂上を離れ、ジープから車に乗り換え、砂ぼこりをあげ ながら次の目的地マリエ教会へと向かった。 (2007.1.24)

■ベトナム歴史豆知識:
 フランスとベトナムの関係は17世紀初頭にベトナムで宣教師が伝道 を始めたことに始まります。フランスの軍事侵攻は1858年に始まり、 1887年以降にベトナム全土がフランス領になります。この後フランス によるインドシナ同化政策が強化され、漢字が廃止されローマ字化 されたベトナム語表記法が普及します。
 第2次世界大戦中には日本とフランスが支配し、戦後再び第2次インドシナ 戦争が起り、敗北したフランスが1954年に去ると、今度はアメリカが介入 してベトナム戦争勃発。1975年のベトナム勝利まで戦火が続いたのは ご承知の通り。
 もっと遡ると、ベトナムは10世紀に「大越」として中国から独立する  までの約1,000年間、中国の支配が続きました。
 
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◆4.ベトナム・アンビリーバボー!

外国に行ってまっ先にそのお国柄と出くわす場面は、交通事情とトイレ だと思う。特にアジアの発展途上の国々では、団塊世代といわれる私で さえ経験してないような、面白い場面に出あうことがある。興味津々な発 見も不便もその国の文化として楽しめば、東南アジアには日本や欧米の 旅では味わえない新鮮な驚きに、けっこうたくさん出あえるものだ。ベトナ ムでの驚きの筆頭は、やはり交通事情だろう。

今回訪問したベトナム一の大都会ホーチミンでは、片側2車線くらいの道路 の交差点にはたいてい信号機があった。しかし広い道と広い道が交差する 四つ角や六つ角などでは、交差点の真ん中に大きなロータリーがあって、 車輌はそのロータリーを時計回りと逆方向に回りながら、各自の目指す道 へと入っていく。そこには四方八方からバイクが大量に集まってくるので、 車やバスなどニッチモサッチモ動きが取れず、立ち往生することもしばしば。 そのあまりの混雑・混乱ぶりに、私は唖然とするばかり。

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バイクの免許は18歳以上で、高校生は卒業してからと聞いた。車といって も自家用車というものはほとんど走っておらず、トラックとバスと観光客を 乗せた営業車がほとんどなので、運転している人は一応プロのドライバー ということになる。ホーチミン市内の中心部では車もバイクも自転車もシクロ も混然一体となって走っているので、車もスピードは出せない。ところが市 内の繁華街を抜けて幹線道路に入ると、ドライバーはがぜん張り切りだす (ように私には思える)。   ※写真は観光客を乗せた車
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ベトナムは右側通行。幹線道路はだいたい広くて中央線が引いてあるの で、車はバイクや自転車を避けるように中央ライン側を走る。ラインがない 道では、道の真ん中を走っている。バイクも自転車も横並びに走るので、 車はやたらクラクションを鳴らして横へ押しやり、どんどん追い越していく。
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前の車が遅いとピッタリ後ろにつけて、少し左側に頭を出し、前方から対 向車が来ていないと見るや左側のウインカーを点滅させ、クラクションを 鳴らしながら猛然と加速し、反対車線にはみ出して追い越す。その防止 対策なのか、今回走った国道の一部では、ラインではなく高さ1メートル・ 幅20センチくらいのコンクリート壁で上下線を分離していた。

遅い車の後ろに2台、3台と車がつながっていると、まとめて追い越そうと する。私の乗った車が追い越しをかけるときは、毎度毎度ドキドキする。 クラクションとウインカーで前の車に合図し追い越す態勢になったとき、 対向車がぐんぐん近づいてくることがある。そんな時、こちらの車はパッ シングして合図するが、相手も負けじとパッシングする。それは互いに 「俺様が先だ、どけどけ!」と言っているように私には思える。なぜなら 広い道でも、追い越しは通常反対車線を使って行なわれるからだ。

パッシングしながら反対車線に大きくはみ出し、対向車と衝突寸前と思え るほど接近したとき、追い越してもとの車線に戻る。思わず手に汗握る私。 この調子で何時間も移動するので、肝は冷えるし疲れる。広くてまっすぐ な幹線道路では、どの車もけっこうスピードを出しているから、一層怖い。 現に移動中、交通事故直後の現場に2度遭遇した。いずれも車とバイクの 衝突事故だった。ベトナムには一旦停止というルールはないのか、バイク も車も、ろくに確認もしないでわき道から入って来る。

問題はバイクの運転の仕方だ。信号機や横断歩道のない時代が長かっ たせいか、人々は道路の横断や左折(日本なら右折)を「あうんの呼吸」 でやってのける。バイクも自転車も人も自分の好きなところで横断し、左折 する。例えば左折の場合、対向車線の直進車やバイクの流れの間隙を縫 って行なわれる。つまり対向車線内を逆斜めに横切りながら向こう側へ。 大胆というか信じがたい光景だ。自転車も人も同じ方法で渡っている。 横断が面倒なのか、道路の路肩部分では逆走しているバイクも多い。

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ベトナム人のバイクは日本の乗用車と同じ感覚だ。バイクの3人4人乗り は普通で、1台に一家4人が、前から子ども・父親・子ども・母親とサンドイ ッチ状に乗っている。それにホーチミンでは誰もヘルメットをかぶっていな い。法律で義務づけられたらしいが、なぜか守られていない。今回の移 動中、私が目撃したアンビリーバボー!(信じられなーい!)は、こんな ケースだった。

何と、バイクの若い男性が左手に赤ん坊を抱き、右手でハンドルを握り、 あの恐ろしく混雑した道路を走っていた。もう1つは、田舎道をバイクで走 る女性の後ろに、2歳くらいの女の子が女性の服にしがみつくように乗って いた。スピードも出ているし、眠気でも起きたら振り落とされそうだ。聞けば 年間の交通事故による死者は1万4千人だったという。抜本的な交通対策 をしないと事故が増え続けるのは必定。もうあの「あうんの呼吸」も限界に 来ているのではないだろうか。

トイレ事情もお国柄や土地柄が表れて、面白い発見の宝庫だ。日本でも 私の子ども時代の田舎では、トイレというより便所。小さな子どもにとって、 そこは落とし穴のある怖い場所だった。今回のベトナムでは異なるマイノ リティの村々を訪問したが、そこで共通していたのが借りたトイレの形態。 観光客用に長屋のように横並びに4つ5つの個室が並んでいた。どんな トイレが出現するのかあけてビックリ玉手箱。借りるとき、いつも、妙な期 待感が湧いてくる。

その1つに入ると、広さは日本のトイレと同じくらいあるものの、思わず 「ん?」。何もない。便器もペーパーもなく、平らなコンクリートの床がある だけ。ままよとよく見ると、床面がかすかに傾斜して、壁の四隅の一角 に穴が開いて外の雑草が見える。隣室との壁の一部に作りつけの水槽 があり、手桶もある。つまり水洗トイレだ。バケツに水が貯めてある場合 もあった。さて流した先がどうなるのか、さすがにトイレの裏側を見る勇気 はなかった。3回も遭遇した初めての床式?トイレだった。

ベトナムのあの絶え間なく走り回っているバイクの洪水を見ていると、私 は鹿児島の有名なソーメン屋さんで見た、卓上の輪っかの中をぐるぐる 回るソーメンを連想してしまう。早朝から深夜まで、それも恋人や家族全 員で、一体どこへ何しに行くんだろうとずっと不思議だった。その疑問が 解ける日が来たのは、ベトナムの最南端、メコンデルタ地帯に位置する アンジャン省を訪問したときのことだ。そこに滞在中、食事や買い物に出 かけるために数回、ベトナム人知人の奥さんのバイクに乗せてもらった。

興味半分、怖さ半分、緊張モードで後ろにまたがると、奥さんが「私のウ エストに手を置いて」という。まっすぐ走っている分にはいいけれど、左 折やロータリーのところでは案の定スピードが落ちてバイクはフラフラ。 でもお互い衝突を避けて徐行して走るので、想像ほど怖くはなかった。メ ーターを見ると、30キロ少々のスピードしか出ていない。運転中の携帯電 話も気になるが、それより排気ガスとホコリがものすごい。女性は目から 下を特大マスクやスカーフで覆い、日除け帽に長手袋の人が多い。

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奥さんから帽子とマスクをプレゼントしてもらい、バイクに乗っての一番の 発見は、とにかく涼しくて、その気持の良さだ。1月とはいえベトナム南部 では、日中は30度近い炎天下の毎日。エアコンなど一般家庭では普及し ていないから、人々はこぞって涼しい風にあたりたくてただ走り回るんだと 思った。家族全員でバイクに乗り、おしゃべりしながらドライブを楽しんで いる。道路は涼しさを求めて繰り出す、一家団らんの場なのだ。

家から職場へ、学校へ、買い物へ、食堂へ。どこに行くにも近くでもバイク にまたがり、歩かないベトナムの人々。昼に夜に涼しい風を求めてバイク を走らす人々。長い長い他国の支配と戦乱の世を経て、自分たちの力で 勝ち取った自由と平和を、その喜びを、ベトナムの人々はいま全身で満喫 しているのだ。その象徴があのバイクの洪水ではないだろうか。(2007.1.31) [上へ戻る]


◆5.食の宝庫・メコンデルタ

観光もさることながら、外国へ行っての最大の楽しみは食事。ベトナム の主食はコメだし、麺料理や鍋料理のメニューも豊富。特にエビ・カニは 安くて量もたっぷりなので、食べ過ぎにご用心。歴史的な関係から、ベト ナム料理は中華とフレンチの影響を受けているといわれる。料理自体は 辛くないので、日本人の口に合う。料理に添えてヌック・マム(魚で作った 醤油)、ライム、唐辛子などが小皿で出てくるので、それらで味にアクセン トをつけていただく。

宿泊したホテルの朝食は、日本のホテルでもよくみられるブッフェスタイ ル。ベトナムらしい食べものとしては、コメで作った麺類と、南国ならでは の豊富なフルーツ類。マンゴー、ドラゴンフルーツ、ランブータン、ザボン、 ジャックフルーツ、バナナ、ライチなどが並んでいた。おかゆも必ずあり、 私は毎度おかわりしていただいた。塩味のゆで卵や漬物のようなトッピ ングをいろいろ乗せていただく食べ方も、とても美味しかった。

ベトナム人は麺が大好き。うどんのように具と一緒に温スープで食べたり、 ざるソバのようにつけ麺にしたり、焼きそば風にしたり、食べ方も日本と似 ている。コメでできた蒸し麺をフォー、ゆで麺をブン、春雨はミェンと呼ぶか ら、語源は麺。具は牛肉、チキン、アヒル、うなぎ、ゆで卵などに、きざんだ 香草がたっぷり入る。香草が苦手な人にはちょっと香りが強すぎるかもし れない。

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香草はいろいろ種類があって、どくだみ、赤紫蘇、青紫蘇、ミント、バジル、 ディル、レモングラス、コリアンダーなど豊富だ。これらは鍋料理にも山ほ ど出てくる。ごはんも普通の白ご飯、チャーハン、ハスの実ごはん、おこわ、 おかゆと何でもある。川魚も煮付けで出てくるが、なぜかウロコはついた まま。バナナの花はサラダに使い、野菜炒め、エビのすり身揚げ、生春巻 き、揚げ春巻き、ベトナムお好み焼き、貝類、蒸しエビ、蒸しカニ、焼きカニ、 焼きエビ、魚のから揚げ、ハスのサラダ、エビせんべいとメニューも豊富。
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変わったところでは、にわとりの足、ブタの尻尾、イナゴ、カエルなど何で も無駄なく食べるのは、長い戦乱と関係があるかもしれない。イヌ料理、 ネコ料理もあるらしいが、観光客向けではないと思う。カエルは何度か食 べた経験がある。ミートボールくらいの大きさに衣をつけて揚げてあったの で、最初は知らずに食べた。白身のような淡白な味だったが、材料を聞い てからはその姿が目の前にちらついて、どうも手がでなかった。

私が同行した一行はダラットからさらに北上してダクラック省まで足を延ば し、調査終了後の12月30日、空路ホーチミンへ戻り、一行のうち半分は その日の深夜便で日本に帰国。残りの一行は元日午後から、さらに南部 のメコンデルタ方面へと向かった。ベトナム渡航歴18回という知人が、カン トォー省やアンジャン省へ行くというので私も同行したのだ。知人はベトナ ムに人脈を築いているらしく、彼らに会いに行くという。

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ホーチミンから車で4時間半かけて、カントォー省に到着。翌日は早朝から メコン河流域で盛んなフローティング・マーケット(水上マーケット)を見に行 った。広いメコン河をココナツや大根、ジャガイモ、人参、ザボン、パイナッ プルなど農産物を満載した小舟が行き交い、作物を買い付ける業者の大 きな船がひしめきあう。そこへ小船をチャーターして向かう。十分ほどで水 上マーケットに到着。業者の船は自宅も兼ねているらしく、子どもがいて 洗濯物が干してあり、テレビのアンテナまで立っている。
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川のそばの市場にも、野菜・くだもの・コメなど、メコンデルタの恵みともい うべき豊富な食材が満ち溢れ、多くの女性たちが早朝からエネルギッシュ に立ち働いている。ベトナムの女性たちはどこへ行ってもよく働いている。 雇われて働くという発想ではなく、自分でできる商売をやるようだ。道端で は女性たちが小さな屋台を引いて、朝食の麺や、サンドウィッチ、飲み物、 クレープ、肉まんなど、手製のものを堂々と売っている。
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1月2日と3日の2日間。知人は行く先々で歓待を受けるので、同行してい る私までその恩恵に浴した。昼食からエビ・カニ・鍋料理三昧。鍋に入れる 野菜がものすごい量で、その種類16種類と聞いた。何かの花まであった。 あまりたくさん入れるので、何が何の味かわからないくらいだ。スッポン鍋 のとき、スッポンが十文字に切られてそのままの形で出てきたのにはびっ くり。ベトナムの人たちはスッポンの生き血を飲んでいたが、私はご遠慮 させていただいた。
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ベトナムのレストランでは、たいていぬるいビールが出る。ジョッキの中に 円柱形の氷を入れて、そこへビールを注いで飲むのが普通のようだ。でも その氷に使っている水がいまいち信用できない。水はミネラルウォーター しか飲めないので、私は氷が出ても念のため一切使わなかった。お腹を こわすのも困るけど、屋台などは衛生面で難があり、肝炎に感染する可能 性があるので日本人は安易に利用しないほうがいいとも聞いた。

大都会ホーチミンを離れると、行く先々には緑の山々、水田や野菜畑、道 路わきに整然と並び立つチーク林やゴム園。メコン河に近づくにつれ、一面 の水田が広がり、道路脇の水路に沿って、したたるばかりに緑溢れるニッパ 椰子が大きな葉を広げ、どの家々にもノッポのココナツ椰子がそびえ立つ。 メコン河支流の1つにはオーストラリア援助の大きな橋がかかり、橋のないと ころはフェリーが国道をつないでいる。フェリー上から見渡す先は、たゆとう メコン川と際立つ空の広さがあるばかり。年に3回もコメが収穫でき、野菜・ 果物・魚介類の宝庫となっているメコンデルタ。

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メコンデルタに位置するアンジャン省に滞在中、野菜農家や野菜加工工場 を訪問する機会があった。メコン川支流に近い、とある農家を直接訪問する と、快く家の裏手の細い道を案内して畑を見せてくれた。左手から右手まで 見渡す限りの広大な土地が若々しい緑の葉で覆われていて、一面の枝豆 畑だった。この枝豆は業者が買い取って、冷凍野菜に加工して、日本にも 輸出しているそうだ。また食品加工会社の所有する広大な畑では、ヤング コーンが栽培されていた。これらのほとんどは冷凍して欧米に輸出される という。

ベトナム人の農業に詳しい人と、私は1つのことを話した。日本は戦時中 ベトナム人からコメを奪い、100万とも200万人ともいわれるベトナム人を、 餓死もしくは餓死寸前に追い込んだこと。しかし敗戦後、日本が食糧難に 陥ったとき、日本の児童たちは「サイゴン・ライス」と呼ばれるメコンデルタ のコメで空腹を満たし、育ったということを。もちろんこの歴史を知るその人 は、コメが豊富にあったのだから輸出するのは当然と答えられ、私は正直 ホッとした。昔も今も、食料をよそに頼っている日本の現実を、メコンデルタ では一層生々しく考えさせられた。

ドイモイ政策により経済成長を続けるベトナム。私が初めて行った7年前、 人口7千400万人と聞いていたのが、今回は8千300万人に増加していた。 戦後30年を一昨年迎えたベトナムでは、戦後生まれの若い人がとにかく 多い。豊かさ便利さを求めてエネルギッシュに活動するベトナム人の姿は、 日本の高度経済成長時代を思わせられる。しかし経済発展の一方で河川 など環境汚染が進んでいるとも聞く。メコンデルタの恵みと河に生きる人々 の生活は、はたして保たれるのか。彼らののびやかな表情が、私にはま ぶしくて忘れられない。       

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