◆1.エトランゼ
◆2.高原都市ダラットをめざす
◆3.ランビャン・マウンテン ◆1. エトランゼ 時間とお金があり健康なら、すぐにでも旅に出たいと考える人は多い と思う。しかし三つ全てが潤沢に揃わなくても、旅はできる。どうしても かの地へ行ってみたい、その強い思いさえあればチャンスはめぐって 来るものだ。あとは少しの時間と少しのお金を何とか工面しよう、という より、何とかなる。 知人グループがベトナム南部の高原都市ダラット方面へ調査に行くと 知ったのは、昨年晩秋のこと。チャンス到来。前々から今度ベトナムへ 行くならダラットと決めていた私は、彼らの邪魔にならぬよう随行する ことにした。いくつか現地で調べたいこと、行ってみたい場所など、私 なりのテーマを携えて。 2006年の暮れも押し詰まった12月25日。正午発のタイ航空機で福岡 国際空港を飛び立つ。約6時間のフライトで中継地タイのバンコクへ降り 立つ。着陸直前に見た空港周辺は、畑や潅木の林が延々と広がる平坦 地だ。アーチ状をした曲線の重なりが美しいモダンな建物が見える。 機内アナウンスが摂氏28度、と地上の気温を伝える。 乗り継ぎのため飛行機を下り、建物までバスで運ばれる。この新空港 は昨年9月に開港したばかりで、スワンナプーム国際空港というらしい。 A・B・C・Dと4つのウイングが十文字に長く腕を伸ばした構造になってい て、旅客ターミナルビルの総床面積は世界一とか。アジアのハブ空港 をめざすタイ国の心意気が感じられる巨大な空港だ。 バンコクを首都とするタイも、これから行くベトナムも、日本との時差は2 時間。待つ間に時計の針を2時間戻す。ホーチミン行の搭乗手続きを済 ませ待合所へ行くと、たくさん並んだイスはエトランゼでほぼ埋まってい る。空きイスなしかと諦めかけたとき、近くに腰かけていた男性がイスに 置いた荷物を床に下ろして席を空けてくれた。会釈して腰をおろす。 この新空港は全体的に照明が暗めになっている。目には悪いが私はさっ そくノートを取り出し、旅日記の続きをつけ始める。私の左側は欧米人の カップルで、大柄な男性は立ったり坐ったり落ち着きがない。その横の 妻らしい女性はブロンドというには薄すぎる色の髪をオカッパに切り揃え、 40歳くらいに見えるがおばさん風ではなく美しい。デニム地のスカートに サンダル履きで、エメラルドグリーンのカーディガンがよく似合っている。 と、彼女の携帯電話が鳴り出した。 私はノートにシャープペンを走らせながら、そんなエトランゼたちを文字で スケッチし、耳は彼らの発する音声に集中している。携帯電話の彼女は 何度も肯定を表わす「ダー」を発しているから、たぶんロシア人だろう。 長い話の途中で「アンニョンハセヨ」とも言った。たそがれのバンコク空港 の待合所。いろんな言葉が交じり合い、いま外国にいるんだということが 実感として湧いてくる。 そんな印象をほの暗い明りの下でノートに書きとめていると、 「ベトナムは初めてですか?」 と、席を空けてくれた右隣りの男性。日本人だったのか。 「いいえ二度目です。最初は7年前、ハノイとサパなど北部へ行きました から、今回は南のホーチミンやダラット。年明けにはメコンデルタにも行き ます。」と私。たぶん私がノートに日本語を書いているのに気が付いたの だろう。 「私は仕事でバンコクに来たんですが、これからホーチミン、ハノイと遊ん で、正月には日本に戻ります。楽しんできてください。」関東の人らしい。 ほどなくアナウンスがあり、私は再び機上の人となった。 約1時間半後の20時ちょうど、ホーチミン国際空港着。こじんまりした建物 だ。入国審査を済ませて荷物を受け取り、すぐ駅前からタクシーに乗り込 み、約20分で市の中心部にほど近いリバティーホテル1に到着。パスポー トをカウンターに預け、鍵(カード)を貰って401号室へ。ホテルは交差点の 角に建っている。私の部屋はそれを見下ろす角部屋だ。ここも真夏の暑さ なので、さっそくエアコンのスイッチを入れる。 二度目のベトナム旅行なので道路を席巻して走るバイクの多さには驚きは しないが、車が増えるよりもっとバイクが増えている気がする。ホーチミンに は人口と同じ300万台のバイクがあるとも聞いた。ホテル前の交差点には さすがに信号機があったが、日本のように双方の信号が赤になる一瞬、 交差点内がからっぽになり静寂になるという現象は、ここにはない。 [ホームへ戻る] [上へ戻る] ◆2.高原都市ダラットをめざす こんな夜更けに、彼らはどこへ何をしに行くんだろう。時計の針はとうに 午前零時をまわっているというのに。明日の移動にそなえて眠ろうとして も、耳元に絶え間なくまとわりつくバイクのエンジン音が眠りを妨げる。 朝6時に家を出て、タクシー、JR、飛行機2回、タクシーと乗り継いで午後 の9時(日本時間で午後11時)やっとたどり着いたホーチミンのホテル。 疲れた頭でぼんやりそんなことを反復しながら寝入ろうと努力する私。 ホーチミンから目的地ダラットまで一日一便の飛行機の予約が取れず、 やむなく陸路での移動を余儀なくされたのだ。その間の行程約300キロ メートルは、鹿児島市から福岡市までとほぼ同じ。飛行機なら1時間足ら ずの距離だ。私はたまに鹿児島=福岡間を九州自動車道を使って往復 するが、片道3時間半もあれば足りる。しかしここはベトナム。自動車専 用道などまだ整備されていないから、倍の7時間近くのドライブになるら しい。陸路だから風景や人々の暮らしをじかに見ることができる。その楽 しみのほうが、私には嬉しい。 私たちを運ぶ車はトヨタZACE。腰高で天井も高く、悪路でも大丈夫そう。 このタイプの営業車は街中でよく見かける。ホーチミンから国道1号線を 北東へ向け走るが、ホーチミン市内を抜けるまでの約30分、乗っているだ けでハラハラドキドキの劇場的な、ベトナム特有の交通事情を十分堪能で きる。私たちの乗った車を舟にたとえるなら、それを前後左右から取り巻 き押し寄せるバイクは波だ。波の中にはのんびり走る自転車やリアカーを 引いたバイクも混じっている。それらの波をかき分け蹴散らし車は走る。 約1時間30分走ったところで1号線と別れ、北に進路を変えて国道20号線 に入る。そこはドン・ナイ省だ。まもなく左手に大きな湖を見ながら走る。 ゆるい坂道を登り始めると急に交通量が減り、バイクもまばらだ。平地と は違う風景になり、車にもめったに出合わない。市街地に多いコンクリー ト製の2階建3階建ての家は姿を消して、平屋が多くなる。板壁にトタン屋 根のマイノリティー(少数民族)の家だ。ベトナムは人口約8千300万人のう ち90%はキン族(いわゆるベトナム人)が占め、10%が独自の生活様式 をもつ53のマイノリティーで構成される多民族国家。 15分の休憩のあと出発。すでに高原台地を走っているので、目にする植生 が平地とは違っている。周辺は畑地が延々と続き、農家らしい建物の前庭 には、庭いっぱいに広げたシートに何か広げて干している。茶色っぽいもの、 緑っぽいものもあり、豆のようだ。天日干しの風景を車窓から見ていると、 私の育った田舎の家々で庭いっぱいに広げたムシロの上で、収穫した籾 (もみ)を天日干ししていた光景が不意に甦る。時にはアスファルトの熱を利 用して、道路の一部にトウモロコシの粒を広げて干している。ここまで来ると バイクも車もたまに通るだけ。道行く人にも出会わない。真昼だからなのだ ろうか。不思議なことだ。
ダラットで生産された高地野菜は大都会ホーチミンに運ばれるだけでなく、 ホウレン草などは冷凍されて遠く日本にも輸出されているらしい。中国産 野菜の残留農薬が問題になって以来、冷凍野菜を扱う業者が安全なベト ナム産高原野菜に産地を切り替え、生産・加工しているという。 ベトナムの豊かな自然はいまもそうであるように、70年前も豊かさに満ち ていたのだろう。松林も竹林もメコンデルタの豊富な米も魚介類も宝の山。 フランスからそれを奪い取った日本軍は、しかし1945年の敗戦と同時に 全てを失い「大東亜共栄圏」も夢まぼろしに終わる。私の父の世代が軍靴 で踏みつけたベトナム。私の青春時代にずっと続いた、米軍の北爆とベト ナム戦争。アメリカに勝った国ベトナム。 私の青春の一ページに鮮烈な印象を刻み続けたベトナム。その土地に立 ち、日差しを受け、風に吹かれ、ベトナムの人々と会い、話をしたい。いろ んなことを聞きたい。そしてベトナムから日本のことを考えてみたいという ささやかな決心が、今回私をダラットへと誘ったのだ。 [ホームへ戻る] [上へ戻る]
◆3.ランビャン・マウンテン 標高1,500メートルの高原に開けたダラット。私の滞在中の気温は、 ホーチミンより約10度も低い摂氏20度と快適そのもの。町の中心部に ある湖を取り囲む小高い丘には、緑に囲まれた白い瀟洒なヴィラがい くつも建っている。ベトナム戦争中、ダラットはその美しさゆえに空爆を 免れたと聞く。アメリカもベトナムを占領したときのために、この避暑地 は残しておきたかったのだろう。湖を抱いたダラット市街地の北側には ランビァン・マウンテンの姿を見晴らすことができる。 ガイドの青年がやってきた。名前はJany(ジャニィ)、私の末娘と同年代の 25歳くらいだろう。トヨタのランドクルーザー8人乗りに乗り込み、9時に出 発。最初の目的地マイノリティ(少数民族)の村までの約1時間、さっそく when,where,how long,who など初歩的な英単語を並べて質問すると、 ジャニィ君は助手席から身を乗り出して後ろ向きになり、熱心に説明して くれる。彼も歴史が好きなのだろう。分からない単語も多いが気にしない。 マイノリティの村はランビァン山の麓にあった。校庭のような広場に駐車。 ジャニィ君は広場の中央にあるどでかい板壁の建物を指して、カソリック の教会だという。この村には1880年代前半にキリスト教が入ったという。 古びた扉を開けて中に入ると、トタン葺きの大屋根とそれを支える木組み が丸見えのシンプルな教会だ。正面には木の十字架と磔(はりつけ)になっ たキリスト像。祭壇の右手にはクリスマスの飾りつけがしてあり、その奥 には民族の象徴の大きな酒壷が鎮座している。取り合わせが面白い。 つまりこの飾りはアニミズムに由来するもので、このマイノリティの人々は 民族の伝統的な宗教行事を残したまま、キリスト教も受け入れた。だか らこの教会は共存共栄の姿を示している――そのような意味のことを詳 しく説明するジャニィ君。一息ついて「ところで僕の話、理解している?」 と彼。私は「多分60%くらいかな。だからどんどん話して!」と返事して、 2人して大笑い。時には私の電子辞書で英単語を確認しながらの会話。 だんだん面白くなってきた。 村の中には立ち入れなかったが、教会を見せてもらったお礼に、みやげ 物屋で手刺繍入りのクッションカバーを買う。さらに30分ほど坂道を登り、 山の中腹の駐車場へ到着。ランビァン山のピークへ行くためには、歩くか ここからジープを雇わないといけないらしい。5ドル支払ってジャニィ君と オンボロジープに乗り込む。アメリカ軍の置き土産のようなジープは、塗 料も剥げてあちこちへこんでいるが、曲がりくねった急坂をうなりながら 登る。途中、1人やグループで歩いて登っている外国人を何組も追い越す。 15分ほどで頂上へ到着。山頂までの道も駐車場も整備され、比較的広い 頂上には展望台まである。「ここには1965年から1975年まで、アメリカ軍 のベースがあったんだ」とジャニィ君。四方八方の展望の良さに納得する。 ダラット方面を教えてもらうと、南に向かって左手丘陵の奥に白く横たわる 湖と白い建物群が見晴らせた。手前の山麓に長く連なる集落は先ほど行 ったマイノリティの村で、約5,000人が住んでいるという。少し離れて広い 野菜畑の中に点在する小規模の集落は、別のマイノリティの家らしい。 その時だ。私の立っている数メートル横で、小さなつむじ風が起きた。 地面の砂や枯草を巻き込んでクルクル渦巻き、数メートルの高さまで達 している。初めて見る珍しい現象だ。直径30センチくらいだろうか。円筒 形に渦巻き、同じ場所から動かないのも不思議なことだ。渦巻きが消え るまでの2分間くらい、あっけに取られて観察した。ジャニィ君も気づいた らしく「それゴースト・ウインドっていうんだ」と、いたずらっぽく笑う。 ランビァン山にはピークが2つある。木に覆われている少し離れた山頂は 少女で、こちら側が少年。2人は愛し合っていたが誰かの邪魔で(このあ たりが聞き取れなかった)結ばれず、悲しんだ少女の流した涙が溜まって ゴールデン・レイクになったという。ジャニィ君はランビァン山にまつわる 悲恋の伝説を熱心に語ってくれたが、6割も理解できたかどうか怪しい。 私たちのほかに若い男女のグループも来ていたが、この山頂は新婚さん のメッカになっているという。 場所を変えながら写真を撮っていると、「マダム!」とジャニィ君の大きな 声。何とさっきと全く同じ場所で、クルクルとつむじ風が発生している。 下から上へと枯草を筒状に巻き上げるので、見えないはずの風が身をく ねらせているように見える。まるで生き物のよう。本当にゴースト・ウイン ドだ。2度もゴースト(幽霊)に会えるなんて、何て運がいいんだろう。あの 2つのつむじ風は少年と少女の精霊だったのかもしれないのだから。 まもなく私たちは頂上を離れ、ジープから車に乗り換え、砂ぼこりをあげ ながら次の目的地マリエ教会へと向かった。 (2007.1.24)
■ベトナム歴史豆知識: ◆4.ベトナム・アンビリーバボー! 外国に行ってまっ先にそのお国柄と出くわす場面は、交通事情とトイレ だと思う。特にアジアの発展途上の国々では、団塊世代といわれる私で さえ経験してないような、面白い場面に出あうことがある。興味津々な発 見も不便もその国の文化として楽しめば、東南アジアには日本や欧米の 旅では味わえない新鮮な驚きに、けっこうたくさん出あえるものだ。ベトナ ムでの驚きの筆頭は、やはり交通事情だろう。 今回訪問したベトナム一の大都会ホーチミンでは、片側2車線くらいの道路 の交差点にはたいてい信号機があった。しかし広い道と広い道が交差する 四つ角や六つ角などでは、交差点の真ん中に大きなロータリーがあって、 車輌はそのロータリーを時計回りと逆方向に回りながら、各自の目指す道 へと入っていく。そこには四方八方からバイクが大量に集まってくるので、 車やバスなどニッチモサッチモ動きが取れず、立ち往生することもしばしば。 そのあまりの混雑・混乱ぶりに、私は唖然とするばかり。 遅い車の後ろに2台、3台と車がつながっていると、まとめて追い越そうと する。私の乗った車が追い越しをかけるときは、毎度毎度ドキドキする。 クラクションとウインカーで前の車に合図し追い越す態勢になったとき、 対向車がぐんぐん近づいてくることがある。そんな時、こちらの車はパッ シングして合図するが、相手も負けじとパッシングする。それは互いに 「俺様が先だ、どけどけ!」と言っているように私には思える。なぜなら 広い道でも、追い越しは通常反対車線を使って行なわれるからだ。 パッシングしながら反対車線に大きくはみ出し、対向車と衝突寸前と思え るほど接近したとき、追い越してもとの車線に戻る。思わず手に汗握る私。 この調子で何時間も移動するので、肝は冷えるし疲れる。広くてまっすぐ な幹線道路では、どの車もけっこうスピードを出しているから、一層怖い。 現に移動中、交通事故直後の現場に2度遭遇した。いずれも車とバイクの 衝突事故だった。ベトナムには一旦停止というルールはないのか、バイク も車も、ろくに確認もしないでわき道から入って来る。 問題はバイクの運転の仕方だ。信号機や横断歩道のない時代が長かっ たせいか、人々は道路の横断や左折(日本なら右折)を「あうんの呼吸」 でやってのける。バイクも自転車も人も自分の好きなところで横断し、左折 する。例えば左折の場合、対向車線の直進車やバイクの流れの間隙を縫 って行なわれる。つまり対向車線内を逆斜めに横切りながら向こう側へ。 大胆というか信じがたい光景だ。自転車も人も同じ方法で渡っている。 横断が面倒なのか、道路の路肩部分では逆走しているバイクも多い。 何と、バイクの若い男性が左手に赤ん坊を抱き、右手でハンドルを握り、 あの恐ろしく混雑した道路を走っていた。もう1つは、田舎道をバイクで走 る女性の後ろに、2歳くらいの女の子が女性の服にしがみつくように乗って いた。スピードも出ているし、眠気でも起きたら振り落とされそうだ。聞けば 年間の交通事故による死者は1万4千人だったという。抜本的な交通対策 をしないと事故が増え続けるのは必定。もうあの「あうんの呼吸」も限界に 来ているのではないだろうか。 トイレ事情もお国柄や土地柄が表れて、面白い発見の宝庫だ。日本でも 私の子ども時代の田舎では、トイレというより便所。小さな子どもにとって、 そこは落とし穴のある怖い場所だった。今回のベトナムでは異なるマイノ リティの村々を訪問したが、そこで共通していたのが借りたトイレの形態。 観光客用に長屋のように横並びに4つ5つの個室が並んでいた。どんな トイレが出現するのかあけてビックリ玉手箱。借りるとき、いつも、妙な期 待感が湧いてくる。 その1つに入ると、広さは日本のトイレと同じくらいあるものの、思わず 「ん?」。何もない。便器もペーパーもなく、平らなコンクリートの床がある だけ。ままよとよく見ると、床面がかすかに傾斜して、壁の四隅の一角 に穴が開いて外の雑草が見える。隣室との壁の一部に作りつけの水槽 があり、手桶もある。つまり水洗トイレだ。バケツに水が貯めてある場合 もあった。さて流した先がどうなるのか、さすがにトイレの裏側を見る勇気 はなかった。3回も遭遇した初めての床式?トイレだった。 ベトナムのあの絶え間なく走り回っているバイクの洪水を見ていると、私 は鹿児島の有名なソーメン屋さんで見た、卓上の輪っかの中をぐるぐる 回るソーメンを連想してしまう。早朝から深夜まで、それも恋人や家族全 員で、一体どこへ何しに行くんだろうとずっと不思議だった。その疑問が 解ける日が来たのは、ベトナムの最南端、メコンデルタ地帯に位置する アンジャン省を訪問したときのことだ。そこに滞在中、食事や買い物に出 かけるために数回、ベトナム人知人の奥さんのバイクに乗せてもらった。 興味半分、怖さ半分、緊張モードで後ろにまたがると、奥さんが「私のウ エストに手を置いて」という。まっすぐ走っている分にはいいけれど、左 折やロータリーのところでは案の定スピードが落ちてバイクはフラフラ。 でもお互い衝突を避けて徐行して走るので、想像ほど怖くはなかった。メ ーターを見ると、30キロ少々のスピードしか出ていない。運転中の携帯電 話も気になるが、それより排気ガスとホコリがものすごい。女性は目から 下を特大マスクやスカーフで覆い、日除け帽に長手袋の人が多い。
家から職場へ、学校へ、買い物へ、食堂へ。どこに行くにも近くでもバイク
にまたがり、歩かないベトナムの人々。昼に夜に涼しい風を求めてバイク
を走らす人々。長い長い他国の支配と戦乱の世を経て、自分たちの力で
勝ち取った自由と平和を、その喜びを、ベトナムの人々はいま全身で満喫
しているのだ。その象徴があのバイクの洪水ではないだろうか。(2007.1.31)
[上へ戻る] ◆5.食の宝庫・メコンデルタ 観光もさることながら、外国へ行っての最大の楽しみは食事。ベトナム の主食はコメだし、麺料理や鍋料理のメニューも豊富。特にエビ・カニは 安くて量もたっぷりなので、食べ過ぎにご用心。歴史的な関係から、ベト ナム料理は中華とフレンチの影響を受けているといわれる。料理自体は 辛くないので、日本人の口に合う。料理に添えてヌック・マム(魚で作った 醤油)、ライム、唐辛子などが小皿で出てくるので、それらで味にアクセン トをつけていただく。 宿泊したホテルの朝食は、日本のホテルでもよくみられるブッフェスタイ ル。ベトナムらしい食べものとしては、コメで作った麺類と、南国ならでは の豊富なフルーツ類。マンゴー、ドラゴンフルーツ、ランブータン、ザボン、 ジャックフルーツ、バナナ、ライチなどが並んでいた。おかゆも必ずあり、 私は毎度おかわりしていただいた。塩味のゆで卵や漬物のようなトッピ ングをいろいろ乗せていただく食べ方も、とても美味しかった。 ベトナム人は麺が大好き。うどんのように具と一緒に温スープで食べたり、 ざるソバのようにつけ麺にしたり、焼きそば風にしたり、食べ方も日本と似 ている。コメでできた蒸し麺をフォー、ゆで麺をブン、春雨はミェンと呼ぶか ら、語源は麺。具は牛肉、チキン、アヒル、うなぎ、ゆで卵などに、きざんだ 香草がたっぷり入る。香草が苦手な人にはちょっと香りが強すぎるかもし れない。
私が同行した一行はダラットからさらに北上してダクラック省まで足を延ば し、調査終了後の12月30日、空路ホーチミンへ戻り、一行のうち半分は その日の深夜便で日本に帰国。残りの一行は元日午後から、さらに南部 のメコンデルタ方面へと向かった。ベトナム渡航歴18回という知人が、カン トォー省やアンジャン省へ行くというので私も同行したのだ。知人はベトナ ムに人脈を築いているらしく、彼らに会いに行くという。 大都会ホーチミンを離れると、行く先々には緑の山々、水田や野菜畑、道 路わきに整然と並び立つチーク林やゴム園。メコン河に近づくにつれ、一面 の水田が広がり、道路脇の水路に沿って、したたるばかりに緑溢れるニッパ 椰子が大きな葉を広げ、どの家々にもノッポのココナツ椰子がそびえ立つ。 メコン河支流の1つにはオーストラリア援助の大きな橋がかかり、橋のないと ころはフェリーが国道をつないでいる。フェリー上から見渡す先は、たゆとう メコン川と際立つ空の広さがあるばかり。年に3回もコメが収穫でき、野菜・ 果物・魚介類の宝庫となっているメコンデルタ。 ベトナム人の農業に詳しい人と、私は1つのことを話した。日本は戦時中 ベトナム人からコメを奪い、100万とも200万人ともいわれるベトナム人を、 餓死もしくは餓死寸前に追い込んだこと。しかし敗戦後、日本が食糧難に 陥ったとき、日本の児童たちは「サイゴン・ライス」と呼ばれるメコンデルタ のコメで空腹を満たし、育ったということを。もちろんこの歴史を知るその人 は、コメが豊富にあったのだから輸出するのは当然と答えられ、私は正直 ホッとした。昔も今も、食料をよそに頼っている日本の現実を、メコンデルタ では一層生々しく考えさせられた。 ドイモイ政策により経済成長を続けるベトナム。私が初めて行った7年前、 人口7千400万人と聞いていたのが、今回は8千300万人に増加していた。 戦後30年を一昨年迎えたベトナムでは、戦後生まれの若い人がとにかく 多い。豊かさ便利さを求めてエネルギッシュに活動するベトナム人の姿は、 日本の高度経済成長時代を思わせられる。しかし経済発展の一方で河川 など環境汚染が進んでいるとも聞く。メコンデルタの恵みと河に生きる人々 の生活は、はたして保たれるのか。彼らののびやかな表情が、私にはま ぶしくて忘れられない。 |