60万歩の旅~巡礼の路を歩くⅢ-① 2017・08・21~09・11

 『旅は歩くことなり』=名古屋の古本屋でこの本を見つけた時、《然り》と思った。
 
私たちが旅に出るとき、車や鉄道、あるいは航空機を利用するようになったのはほんの150年前のことである。
長い人類の歴史を考えると《旅は歩くこと》が基本なのだ。江戸時代の《お伊勢参り》にしても、12世紀に始まった
と言われるサン・チャゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の旅にしても、人々は黙々と歩いて目的地へと向かった。
当時年間50万人もの人々が歩いてピレネーを越えたという。

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1回目:パリ⇒リモージュ    2014.8.7~9.1   歩行日数:25日間 
472.4km 706,517歩(万歩計)
2回目:リモージュ⇒オルテズ 2016.8.6~8.2
  歩行日数:24日間 493.3km 725,063歩
3回目:オルテズ⇒ブルゴス  2017.8.21~9.11 歩行日数:22日間 
382.8km 589,078歩(今回) 

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 8月18日(金)朝セントレアを発ち、パリ・シャルル・ド・ゴール空港には、予定通りその日の午後4時過ぎに着いた。
パリで1泊した後、翌日パリから150kmほど離れた友人宅へ鉄道で行く。1泊し、いよいよ
《巡礼の路を歩く旅》
出る。

8月20日(日)晴れ Vierzon==(TER)==St.Pierre de Courp==(IC)==Bordeaux==(TGV)==Bayonne==(TER)==Orthez
 日曜日は鉄道の便数が極めて少なく、乗り換えで電車の待ち時間ばかり多くなって、ヴィエルゾンを午前8時過ぎ
に乗って、先回の最終地、今回の出発地オルテズには午後5時過ぎに着いた。駅頭に立った時、
《いよいよ明日
から始まる》
という気持ちの高ぶりを感じた。


《フランス国鉄:オルテズ駅》 

《オルテズのジット(巡礼者専用の簡易宿泊所)にて》


 オルテズのジットには昨年も泊まっているので、迷うことなく駅から歩いて15分位で着くことができた。ただ、ベッドが
6人分しかないので、《満員だったらどうしようか》と考えながら行くと、幸い先客は3人で入ることができた。
!(^^)!
写真左側のご夫婦はオランダ人。何と自宅から約1000kmを歩いて来たという。そして、勿論、これからサン・チャゴ
・デ・コンポステーラまで約900kmを歩いて行くらしい。そう言えば、フランスを歩いていると昨年もオランダやドイツの
自宅から歩いているという人に出会ったことがあった。( ゚Д゚)
 写真右側奥の人とは同室だった。彼は、ブールジュの友人宅の直ぐ近くの小さな町に住んでいる人だったので、いろ
いろと話したが、大人しい謙虚な人だった。ただ、私の語学力の無さで何となく理解しがたい事があった。それでもゆっ
くり話を聞くと、何と、何と、彼は、自宅からサン・チャゴ・デ・コンポステーラまで歩いて行き、その帰りも歩いているのだ
という。3400km位歩くことになる。《あと600km位だからもう直ぐ家族に会えます。》とニコニコしながら話していた。
 最初に度胆を抜かれた思いだった( ゚Д゚)

 尤も、昔はみんなそうだった。《旅は歩くことなり》

《巡礼の路を歩く旅》第1日目
8月21日(月)快晴:Orthez(オルテズ8h35--13h20L'Hopital d'Orion(ロピタル ドリオン) 15.9km 23,344歩 CH泊(20€:2食付)
 
=早々に、失敗その1=
 
夜中、寝ている耳元で電話が鳴った。『エッ?』日本からの電話だ。直ぐにスイッチを押して音を消した。『しまった!』
寝るときにスイッチを消し忘れていた。フランスと日本では7時間の時差がある。つまり、フランスの午前3時は、日本の
午前10時。私がフランスに来ていることを知らない人からの電話なのだ。夜中に電話が掛かって来て、起こされること
がある。気を付けてはいるもののついつい忘れてしまい、辛い破目になることがあるのだ。それにしても、同部屋のミッ
シェルには迷惑を掛けてしまった。朝起きて、「夜中に電話が鳴って申し訳なかった。」と謝ると、「大丈夫ですよ。」と優し
く言ってくれた。彼の寛大さに感謝した。


 
《オルテズのシンボル:中世の橋:何人の巡礼者が渡ったのだろう》             《オルテズ遠景》

 
《ドリオンの中世の橋》                                               《シャンブルドットの中庭の木陰でのんびり:利用者は私一人だった》


 朝、オルテズの大聖堂の前に立った時、
《いよいよ出発だ。》と少しの緊張感を覚えた。

*巡礼路 千里の先も 一歩から* 昨年歩いて、自ら詠んだ川柳を思い出した。

 オルテズのシンボルの橋を渡り、見渡す限りの緑の丘陵地帯を行く。森を抜け、教会に寄り添う小さな集落を通って、
昼頃、ロピタル・ドリオンの村に着いた。村の入り口の公園には、巡礼者のモニュメントが立っていた。グーグルマップ
のストリートビューで見慣れた景色であった。
星の数程の人々が渡った中世の橋を渡り、バス停のベンチで昼飯を採る
ことにした。快晴の炎天下を歩き、ぐっしょり汗を掻いていたのでまずググッと水を飲んだ。咽喉を心地よく潤してくれた。
暑い昼間、小さな村で人っ子一人姿はなかったが、車の往来は結構あった。
 20分程休んで、《あと30分。頑張ろう。》と声を出してリュックを担いだ。あらかじめ地図でCH(シャンブルドット)の場所
を調べておいたのですぐに分かった。

第2日目
8月22日(火)快晴:L'Hopital d'Orion7h50---15h45Sauveterre de Bean(ソヴェテレ・ド・ベン) 17.7km 25,958歩 Hotel泊(45€:2食付)
 今日も快晴。暑くなる。朝の涼しいうちにできるだけ歩いておきたい。ガイドブックを参考にしながら、畑の中、森の中を
軽快に歩く。ブラックベリーの実がたわわに生っている。摘まんで口に入れると、甘い果汁が口いっぱいに広がった。
旨い!
遠くの方にピレネーの山並みが見えた。《あの山を越えて行くんだ。》と思った。


 
《ブラックベリーがたわわに生っている》           遠くにピレネーの山並みが見える》

 12時頃、ソヴェテレ・ド・ベンの町に着いた。先ず、インフォメーションに行って《今日の宿を決めよう》と尋ねたが、《昼休みに
入るので、14時に来てください。》ということだった。近くのBarで昼食とする。土地の人でかなり賑わってた。サラダ、鳥のモモ肉
(カレー風味)&グラスワインで13.3€(1500円位)だった。
(^_-)-☆
 昼食後、時間になったのでIFを再び訪ねた。若い係の女性が心当たりのGiteに電話してくれたが、満室だったり、通じな
かったりで苦戦。結局、《少し高くなるが》と前置きして、2食付45€のホテル兼シャンブルドットを予約してくれた。そして、
《3時半になったらホテルのマダムが車で迎えに来てくれるから、その頃またここに来てください。》と言われた。私は、リュックを
預かってもらい、景色の良い川沿いを散歩することにした。川では家族連れや子供たちが水遊びをしていた。
 ホテルのマダムが時間通り私を迎えに来てくれた。車で10分程するとHotelに着くことができた。

  

 

第3日目
8月23日(水)曇り
Sauveterre de Bean8h00---13h15Saint Palais(サン・パレ) 17.3km 25,610歩    Gite泊(14€:朝食付)
 
朝早く起きたが、朝食が7時半ということでゆっくり出発の準備をした。時間になったので食堂へ行くと、すでに朝食の
準備はできていた。直ぐに朝食を取り、代金を支払おうとすると、《水は持って行かないのか。》と言われ、ハッとして
頼んだ。ペットボトルに1.5リットル分入れて貰った。そして
昼食用に、サンドウイッチとバナナを持って行きなさい。》と
袋に入れて出してくれた。《これは、少し多く取られるかもしれないな。》と思いながら、《いくらですか?》と聞くと、約束通りの
2食付での45€だった。優しい心配りのできる、陽気なおばちゃんだった。
(^_-)-☆ 感謝感謝である。

 途中、私のガイドブックとコースが変わったところもあり、少しとまどった。しかし、オルテズのジットで渡されたコース
のプリントが役に立った。また、標識も要所要所にきちんと整備されていて大いに助かった。丘陵地帯に広がるトウキビ畑、
羊や山羊の放牧。豚や牛の群れ。牧歌的なのんびりした時間の流れ、空間。何一つストレスがない。
《こんな贅沢があって
良いものだろうか。》
ふと思った。

 
《若者が自転車で通り過ぎる。ボン・コラージュ!(頑張って!)》

 
《森の緑が素晴らしく綺麗》                                                          《ジットのおかみさん:お世話になります》

 サン・パレには12時過ぎに着いた。町の中心広場のベンチで、朝CHのおばちゃんにいただいたサンドウイッチを頬張っていると、
リュックを背負った男性が歩いて来た。《カミーノですか?》と聞くと、《ウイ!》 パリ近郊に住む男性だった。《ル・ピュイからの道》を
歩いて来たという。そう言えば、このサン・パレの町は、私の歩いている《ヴェズレイからの道》と《ル・ピュイからの道》が合流する所
なのだ。彼も私と同じジットに泊まると言っていたが、彼は翌早朝パリの自宅に戻るということで、その後ほとんど話せなかったことは
残念であった。



                                                                  つづく