掛川と大日本報徳社


|トップページに戻る概要現代への適用


二宮尊徳は小田原の出身です
200km離れた掛川でどうして尊徳さんが・・・と思いますね。
人物を中心として掛川と報徳社の関係をお伝えします

関係者略歴

安居院(あごいん)庄七 [1788(寛政元)〜1863(文久3)
米穀商、二宮門下に学び報徳の教え普及のために諸国を遍歴す。
岡田佐平治[1812(文化9)〜1876(明治9)
掛川市倉真(くらみ)の大庄屋
岡田 良一郎 [1839(天保10)〜1915(大正4)]
明治時代の農政家。岡田佐平治の子、岡田良平・一木喜徳郎の父。 1877(明治 10)現在の県立掛川西高校のルーツである冀北(きほく)学社を創立 1879(明治12)掛川信用金庫の前身である勧業資金積立組合を創設
岡田 良平 [1864(元治元)〜1934(昭和 9)]
明治末〜昭和前期の文部官僚・政治家。東京大学卒業。岡田良一郎の長男、一木喜徳郎の実兄。1887(明治20)帝国大学(現:東京大学)哲学科卒業。第一高等中学校(第一高等学校の前身 )教授を経て、1893(明治26)文部省に入る。参事官・視学官・書記官兼会計課長。 1900(明治33)実業学務局長 1901(明治34)総務長官 1904〜1929(明治37)〜昭和4)貴族院勅選議員 1907(明治40)京都大学総長 1908(明治41)第2次桂太郎内閣(小松原英太郎文部兼農商務大臣)の文部次官。寺内正毅・加藤高明・第1次若槻礼二郎内閣の文部大臣 1929(昭和4)枢密院顧問官 1930(昭和5)産業組合中央会会頭
一木喜徳郎[〜1944(昭和19)]
法学博士 枢密院議長 内務大臣 宮内大臣

遠州報徳社活動略年表

1847(弘化4年)安居院庄七
遠州長上郡下石田村(現浜松市下石田)の豪農 神谷与平治に報徳を説き下石田報徳社を起こす
1848(嘉永元)岡田佐平治
安居院の指導を受け掛川に乙星(おとぼし)耕地報徳社を創設。遠州各地に報徳社が設立される
1853(嘉永6)岡田佐平治
遠州7人衆の一人として二宮尊徳を訪れ、各地に設立された報徳社存在の許可を受ける。このことから遠州報徳社は尊徳直系を名乗ることになる
1854(安政元)岡田良一郎
16歳で二宮尊徳の塾に入門
1860(万延元)岡田良一郎
22歳の若さで倉真村庄屋就任
1875(明治8)岡田佐平治
各地報徳社の思想統一、教育普及、連携を図るため遠江国報徳社(地区の本社)設立を主導。初代社長に就任
1876 (明治9)岡田良一郎
遠江国報徳社 2代社長に就任。
1898(明治31)
遠江国報徳社が社団法人認可を受ける。浜松、見付(磐田)掛川に分散していた事務所を掛川に統一
1903(明治36)
現大講堂完成
1911(明治44)
社名を大日本報徳社と改称
1912(明治45)岡田 良平
大日本報徳社3代社長
1924(大正13)
全国の報徳本社を束ね大日本報徳社に統合
1930(昭和5)
昭和天皇本社ご臨幸
1934(昭和9)一木喜徳郎
大日本報徳社4代社長
というように安居院庄七の伝えた報徳が遠州の農村復興につながり、岡田家3代の力で報徳が全国組織として統一されたことになります。

報徳本社敷地内の建物群

大講堂 大講堂
明治36年完成総工費11629円17銭3厘、明治期の公会堂として数少ないものの一つ。老朽化が進んでいたが、平成15年に大講堂創建100年記念事業として大講堂保存修復を決議、修復基金の造成を行い平成16年着工、平成19年12月25日に耐震性を大幅に向上させながら新築当時のままの姿を取り戻し竣工した。
仰徳記念館仰徳学寮
仰徳記念館(左)と仰徳学寮(右)昭和13年、一木喜徳郎社長の尽力により皇紀二千六百年記念事業として有栖川宮旧邸の下付を受け移転したもの。
淡山翁記念報徳図書館 淡山翁記念報徳図書館
岡田良一郎13回忌の記念事業として昭和2年完成の鉄筋コンクリート造図書館、報徳関係書籍を所蔵すると共に一時市図書館としても使用された。淡山は良一郎の雅号

|トップページに戻る概要現代への適用