ドーダ学の発表はいよいよ第二回目を迎えることとなった。

 幸いにして第一回目の発表は好評であった。

                   by『ドーダの人々 PartU』 

 

↓ ドーダの人 U

   いかん、ついドーダをしてしまった。

   人はちょっと油断をするとすぐドーダをしてしまう。   





























    ★
    
  ドーダ、ドーダで半年暮らし、

  あとの半年は寝て暮らすどころか、

  やはりドーダ、ドーダで起きて暮らす。   
    ★







   これはわたくしの学者としての勘なのだが、    

   どうも「ドーダ」と「やらせてもらえる」との間に

   何らかの関係があるような気がする。


































    ★
     「あら、アクアスキュータムじゃないの」   
  と、マミちゃんが言ってくれればいいが、     
  マミちゃんはつい最近
  青森から出てきたばかりなので
  アクアスキュータムを知らない。
    
























































 「ヘエ―、あいつ立教なの。
  立教タイプには見えないけどな――」    













































































 

                                  2007.3.25. 丸写し、しました。


文春文庫 東海林さだお 著 『もっとコロッケな日本語を』 26pより

         ドーダの人々 PartU
  こういう青年実業家は、
  身につけたひとつひとつについて、     
  それがブランド品だということを
  ママに知って欲しい。    入店したばかりのマミちゃんにも知って欲しい。  
  入店十年のカズコさんにも知って欲しい。  もし、万が一、そのブランド品の数々が、
  誰にも気づかれずに
  店を出ることになった場合のことを考えると、
  地団駄を十万回踏んでもまだ踏み足りないくらいだ。    そこで様々な工夫をこらすことになる。     
  店の入口のところでコートをあずける。  入口でマミちゃんに脱がしてもらうとき、   
  わざともがいて衿首のところについている    
  アクアスキュータムのブランドラベルが
  目立つようにする。



                 いつもの丸写しですオモロイので紹介しまっせ

                 文春文庫 東海林さだお 著 『もっとコロッケな日本語を』 26pより
 『ドーダの人々 PartU

 ドーダ学の発表はいよいよ第二回目を迎えることとなった。幸いにして第一回目の発
表は好評であった。
 わたくしのドーダ学の設立は各界の反響を呼び、賛同者は引きも切らず、某大学では
ドーダ学部新設との噂も伝え聞く。
 つい先だって、第一回ドーダ学会関東地区大会が千駄ヶ谷体育館で行われ、各地区
を勝ち抜いてきた人々が、それぞれのドーダ学を発表しつつ四百メートルを疾走すると
いう企画もその中にあったのだが、中止になったとも伝え聞く。
 ドーダ。
 いかん、ついドーダをしてしまった。
 人はちょっと油断をするとすぐドーダをしてしまう。
 このように妄想ドーダさえしてしまう。
 だが、先述の「幸いにして第一回目の発表は好評であった」の部分は本当である。
 わたくしの、
「あの原稿どうだった?」
 という質問に対し、担当のY田青年が、
「面白かったですよ」
 と言ったのである。
 わたくしはY田青年以外にはそういうリサーチをしなかったから、原理的には百パー
セント好評だったということになる。
 白状すると、われわれの商売はドーダそのものである。
 ドーダ心
(しん)が人一倍強い人がこういう商売を始める。
 こういう商売というのはいわゆる自由業と言われているものだ。漫画家、小説家、音
楽家、画家、俳優、タレント、カメラマン、歌を歌うアーチスト……。
 こういう人たちは朝から晩までドーダのことばかり考えているのだ。
 こういうドーダはドーダ、あういうドーダはドーダ、ドーダ、ドーダ、ホラ、ドーダ、と、ド
ーダ、ドーダで半年暮らし、あとの半年は寝て暮らすどころか、やはりドーダ、ドーダで
起きて暮らす。
 人間に限らず、動物の世界にもドーダはある。
 よく言われることだが雄のクジャクもヒマをみてはドーダをしている。
 羽根を大きく拡げ、その見事さ、美しさ、大きさをドーダする。
 たしか竹内久美子氏の本で読んだと思うのだが、雄のクジャクの羽根には目玉のよ
うな模様が無数にあり、その数が多いほど秀れたDNAを持っていて、雌のクジャクは
雄が羽根を拡げたときにその数をちゃんと数えているのだ、云々。
 NHKの3チャンネルの動物番組でも同じようなことを言っていた。
 雄の鹿はヒマさえあれば、あるいは折をみては、雄同士、角突き合わせて戦い、誰
が一番強いかを雌に見せておくのだ、云々。
 そうすると、交尾期が来たとき、雌はまっ先にその雄にやらせるのだ、云々。
 これはわたくしの学者としての勘なのだが、どうも「ドーダ」と「やらせてもらえる」との
間に何らかの関係があるような気がする。
 いまのところ単なる仮説なのだが、いずれきちんと体系化し、学問として成立させ、
とりあえずドーダ学会関東地区大会に於て、四百メートルを疾走しながら発表する機
会を得たいと考えている。
 最近はだいぶ鳴りをひそめているが、ひところ、すなわちバブルのころ、ブランドブー
ムというのが男の世界にもあった。
 若い人に限らず、おじさんまでもがブランドに狂奔していた。
 わたくしはいまでもはっきりと覚えているのが金色のセリーヌのベルトのバックルであ
る。
 終電車近い電車の中で、つり革につかまった背広もワイシャツもネクタイも靴もくたび
れているおじさんが、唯一、金色に燦然と輝くセリーヌのバックルを、背広の前スソをこ
とさら拡げ、腰を突き出して前にすわっているOL風に見せつけている光景を目にした
ものである。
 腰を突き出しては、
 ドーダ!
 と見せつけているのである。
 ここから「やらせてもらえる」段階に持っていくのは容易なことではないが、クジャクも
鹿も、ヒマをみては、あるいは折をみては見せつけておくという努力をしているのだ。
 このおじさんもそのことをよく知っていたにちがいない。
 ブランドを身につけているとなぜドーダになるのか。
 女性の場合は見栄とか競争心とか、その場その場で変化して複雑だが、男性の場合
は実に単純である。
 ”経済力の誇示” である。
 またしても銀座のクラブで恐縮だが、銀座のクラブにはいまでもこういうブランド男が
登場する。
 わたくしはブランドにくわしくないので、もし間違っていたらご勘弁願うことにして、まず
コートがアクアスキュータム、スーツがアルマーニ、ネクタイがエルメス、時計がピアジ
ェ、ベルトがロレックス、靴がバリー、小脇にかかえたセカンドバッグがグッチ、と、いっ
たような、歩くブランドみたいな青年実業家も登場する。
 コートのアクアスキュータムというのは、わたくしは知らなかったのだが、コート界では
超一流のブランドだそうだ。
 こういう青年実業家は、身につけたひとつひとつについて、それがブランド品だという
ことをママに知って欲しい。
 入店したばかりのマミちゃんにも知って欲しい。入店十年のカズコさんにも知って欲し
い。
 もし、万が一、そのブランド品の数々が、誰にも気づかれずに店を出ることになった
場合のことを考えると、地団駄を十万回踏んでもまだ踏み足りないくらいだ。
 そこで様々な工夫をこらすことになる。
 店の入口のところでコートをあずける。
 入口でマミちゃんに脱がしてもらうとき、わざともがいて衿首のところについているア
クアスキュータムのブランドラベルが目立つようにする。
 そのとき、
「あら、アクアスキュータムじゃないの」
 と、マミちゃんが言ってくれればいいが、マミちゃんはつい最近青森から出てきたば
かりなのでアクアスキュータムを知らない。
 青年実業家はあとでそのことをママにこぼし、ママは対策が必要であることを痛感す
る。
 空港にはアーチ型の金属探知器が設置されている。
 金属を身につけた人がその中を通過するとブーという音でそのことを知らせる。
 あれを店の入口に設置したらどうか。
 ブランド探知器に改良して設置したらどうか。
 この中を通過すると、音声で
 「アクアスキュータム」
 と知らせる。
 さっきの青年実業家の場合は、「アルマーニ」「エルメス」「ピアジェ」「バリー」と次々
に店内にも放送される。
 ブランド探知器の上のところには液晶板がついていて、「総額」と出、ついで、ジャカ
ジャンという音楽が鳴り、「¥11750000」と出る。
 店に入るときに、いきなりその人の経済力を示してしまうのだ。
 一つ一つ、小出しに、袖口をわざと突き出してはピアジェを見せたり、大きく足を組
んではバリーを誇示したり、しかし気づいてもらえず、というようないじましい努力をし
ないで済む。
 これは意外にうけるかもしれない。
 うん、ドーダ学会初の開発商品として、銀座方面、いやいや札幌、博多などのクラブ
などにも売れるかもしれない。
 クラブ関係にかぎらず、たとえば名門女子大の同窓会などでも便利がられるのでは
ないか。
「このダイヤの指輪いくらだとお思いになる?」
「二百万円ぐらいかしら」
「ブブー、三百万円よ」
 などと、実際は八十万円なのにそういうことを言う人のウソを見破ることにもなる。
 そうなのだ。
 わがブランド探知器は、不正防止にも役立つことになるのだ。
 だが、銀座のクラブの入口のところで、
「総額」
 と出、音楽も鳴らず、
「¥9880」
 と出た人の場合はどうなるのか。
 うん、開発はしばらく見合わせることにしよう。
 ブランドがどうのこうの、と、男の世界でも言われるようになったのはわりに最近のこ
とである。せいぜいバブル初期あたりからではないだろうか。
 それまで、人々は何をドーダしていたのだろうか。
 たまにピアジェの時計を腕にはめていても、それをきちんと評価してくれる人が少な
かった。
 その昔、跋扈
(ばっこ)していたのは、鼈甲(べっこう)の眼鏡だった。
 鼈甲の眼鏡の値段は高く、いまでも三十万、五十万、百万という世界である。
 眼鏡のフチの幅が必ず広く、必ず部厚く、全体がいやに大きく、なんだかずっしりと
重そうで、赤茶けた、なにやらいやらしい色をしている。
 ただ、値段が高い、というのが唯一の存在理由なのだが、いまでもこの鼈甲を愛用
している人たちはいる。
 地方の政治ボスとか、実業家の老人などが、このいやらしい眼鏡を、
「ドーダ」
 とかけている。
「ドーダ」
 と誇示して気持わるがられている。

 学歴ドーダは日本の伝統である。
 このドーダは誰にでも出来るものではない。ほんの一部の有資格者のみのドーダで
ある。
 フィールドワークを居酒屋に移してみよう。
 五、六人のサラリーマンが焼鳥屋で酒を飲んでいる。年取ったのや、若いのが入り
混じっている。
 飲み始めてから、もうだいぶ時間がたっていて、酒のピッチもすっかり落ち、話題の
ほうも尽きかかっているようだ。
 談たまたま、
「ヘエ―、あいつ立教なの。立教タイプには見えないけどな――」
 というような話になり、取引先のワタナベさんが慶応、うちの専務のヨシムラさんが、
エ? 横浜国大? へえ―、そうなの。横浜国大ねえ―、というようなことになり、
「ところでキミはどこだっけ」
 と、年取ったのが一番若そうなのに訊くと、一番若いのはしばらく口ごもり、急に下を
向き、両手を組んで祈るような姿勢になっていたかと思うと急に首を上げて、
「……いちおう……東大ですけど」
 と小さくつぶやく。
 一同急にシーンとなり、どう反応したらいいのか誰も急には思いつかず、なんだか急
に気まずくなったところで誰かが突然別の話題を振って急場を切り抜ける、という場面
がよくある。
 別の話題に興じてはいるものの、一同の心の中は複雑だ。
(あの ”いちおう” は何なんだ、”いちおう” は)
 と、わけのわからぬ怒りが胸の中を渦巻く。
 怒ってはいるものの、よく考えてみると怒る理由はどこにもないのだ。
 この怒りの根元は何なのか。
 もう一度、
(あの ”いちおう” は何なんだ、”いちおう” は)
 と繰り返し、
(バカ
してんのか、このオレを)
 と、突然飛躍する。
 ドーダ学会としても、長年、この、東大卒業生の ”いちおう” 発言を、大きな研究課
題として研究しているのだが、いまだ好結果を得られていない。
 ドーダ学会には東大卒の人は一人もいないのだが、いまのところ「バカ
してんじゃ
ないか説」が大勢を占めている。
 明治大学卒業の人が、
「いちおう、明治ですけど」
 って言うか。
 高千穂商科大卒の人が、
「いちおう、高千穂商科大学ですけど」
 って言うか。
 ”いちおう” の真意は、考えれば考えるほど複雑で、多分本人も複雑で、東大卒じゃ
ない人の心の中も複雑で、この解明には、あと十年ほどの期間をドーダ学会に与えて
欲しい。
 こうした ”訊かれれば答える東大卒の人” がいる一方、”どうか知って欲しい東大卒”
の人もいる。
 自分が東大卒であることをどうか知って欲しい。日本国中の人々のすべてに知って
欲しい。
 どういう人と、どういう会話をしていても、その会話を学歴の方向に持っていきたい。
どんなに不自然であってもいいから、そっちの方向に持っていきたい。
 ドーダ学会員のフィールドワークの結果として、
「三十分以内に自分が東大卒であることを言う人」
 の例が報告されている。
 この人は、どんな人と会ってどんな話をしていても、三十分以内に自分が東大卒であ
ることを盛り込むのだそうだ。
 多分、相当不自然に盛り込むことになるであろうことは想像に難くない。
 二十七分あたりになっても、会話がそっちの方向にどうしても向かわないときは、更
に不自然になることも想像に難くない。
 東大ドーダは、どんなに悔しがっても東大を出た人にしかできないドーダである。
 ところが、学会員の報告によると、東大卒でないのに東大ドーダをしている人の例が
取りあげられている。
「オレの友だちのイワムラ、知ってるだろ。あれ東大なんだよ。それから、このあいだ
紹介したヨコタ、あれも東大なんだよ。それから覚えてるかなあ、ホラ、去年の暮れ、
スナックでキミといっしょに飲んでたら入ってきたタニザキ、エ? 覚えてない? あれ
も東大なんだよ。オレの周り、東大が多いんだよな――」
 これは「東大が多いドーダ」として学会本部の資料室に保存されている。
 「東大ドーダ」も、もちろん、いずれ「やらせてもらえる効果」を狙っていることは言うま
でもない。
 「東大が多いドーダ」もまた同様である。
 「東大ドーダ三十分以内」の人は、この「あせり型」と考えられる。
 ここまで述べてきたドーダは、いずれも自分の優位性を誇示するドーダで、われわれ
の学会では「優位性誇示型ドーダ」と名付けられている。
 まんまじゃないか、と言う人もいるかもしれないが、われわれの学会はまだ設立途上
の状態にあり、ホラ、これからマンションを建てるというとき、建築地にそのマンション
の大綱を示す立て札を立てますよね、そのとき、まだマンションの正式名が決まってお
らず、「立川駅南口前マンション(仮称)」なんて書いてあったりしますね。あれです。
 ドーダはすべて、「優位性誇示型」である、と考えがちだが、あながちそうとばかりも
言えない。
 原宿や歌舞伎町あたりでよく見かける鼻ピアス、唇ピアスのにいちゃんたちの場合
はどうなるのか。
 彼らの心理から考えれば、鼻ピアスドーダ、であり、唇ピアスドーダであることはまち
がいない。
 彼らは明らかに得意である。
 ドーダである。
 しかし世間一般はただのバカとしか見ない。軽蔑さえしている。
 これではわれわれの学会が唱える「ドーダ→やらせてもらえる学説」がもろくも崩れ
ることになる。
 しかし鼻ピアスにいちゃんはただのバカではない。鼻ピアスの有効性をちゃんと知っ
ているのだ。
 彼らは勇気をドーダしているのだ。
 痛いのを我慢したオレ、突拍子もないことをしてしまう勇気あるオレ、時代の先端を
行くオレ、というドーダに対し、そのことをそのとおりに評価してくれるバカねえちゃん
がいて、ちゃんとやらせてくれるのである。
                         
<丸写し、オシマイ>


              別の話題に興じてはいるものの、
  一同の心の中は複雑だ。 
 (あの ”いちおう” は何なんだ、”いちおう” は)
  と、わけのわからぬ怒りが胸の中を渦巻く。       怒ってはいるものの、
  よく考えてみると怒る理由はどこにもないのだ。  
  この怒りの根元は何なのか。  もう一度、
 (あの ”いちおう” は何なんだ、”いちおう” は)  
  と繰り返し、
 (バカ ん してんのか、このオレを)
  と、突然飛躍する。  ドーダ学会としても、長年、この、
  東大卒業生の ”いちおう” 発言を、
  大きな研究課題として研究しているのだが、 
  いまだ好結果を得られていない。  ドーダ学会には
  東大卒の人は一人もいないのだが、  
  いまのところ
 「バカんしてんじゃないか説」が
  大勢を占めている。
       
       
 

ドーダの人々 V

  ドーダの人々 PartV』 もおオススメです。(^ ^;

       
 

ドーダの人々 T

  ドーダの人々 PartT』 に戻ります。(^ ^;

       
 

目次へジャンプ


  ←目次のオススメは、やっぱ 忍法流水抄 かなぁ。
 
『乾きもの一族(東海林さだお著)』 in『慶長大食漢』 が、オモロイでっせ。(^ ^;
                        ↑クリックしてネ。
(^ ^;

  「東大ドーダ三十分以内」の人は、
   この「あせり型」と考えられる。
               by『ドーダの人々 PartU』 

 「東大ドーダ」も、もちろん、
  いずれ「やらせてもらえる効果」
  を狙っていることは言うまでもない。

            トップページも、虎視眈々です。(^ ^;