一作目が好評だとつい欲が出る。

  柳の下の蛙をねらってPartU、PartVと続けたくなる。
  柳の下の蛙をねらってどうする、ドジョウだろうが、

  と、つっこまないでほしい。

  いま、柳の下にドジョウはいない。

  いま、ドジョウはすべて養殖である。
  そういうわけだから、
 「ドーダの人々」もドジョウをねらうわけにはいかないのだ。  
  せめて蛙をねらって「PartV」を敢行したと、
  こういうわけなのである。   

 

ドーダの人々 T
↑クリックしてネ。

  ドーダの人々 PartT は、傑作です。(^ ^;

       
 

ドーダの人々 U

  ドーダの人々 PartU も、オススメです。(^ ^;
       
 

↓ ドーダの人 V
  
   「ドーダ学会が認証する ”ドーダのポーズ”」    

    として推奨したい。









































    ★
    
  「真紀子とホテルのトイレでいっしょになった」    
    ★




























































  「ダレソレの奥さんとウチの家内と
   名前が同じでさ、やんなっちゃう」      


























    ★
       趣味悪いわねー この家     
    ★









  ユングさんもそういってるわけだ      





    ★
    
  『太宰治も青森県出身なんだよね』   

   と言って遠くを見る目になりました。
    ★




























  イチロードーダのおとうさん      




























 

                                   2007.4.1. 丸写し、しました。


文春文庫 東海林さだお 著 『もっとコロッケな日本語を』(定価476円+税) 42pより

         ドーダの人々 PartV

  「ドーダの人々」はいよいよPartVに突入した。   
   わたくしとしては、いささか誇らしい気持で 
  「いよいよ」 という言葉を使ったのだが、   
   読者側の気持はそうではあるまい。  「とうとう」とか、「あーあ」とか、
   そういう気持でこれを読んだにちがいあるまい。      やるんじゃないかと思っていたが、
   とうとうやってしまったか、という気持だと思う。       映画などもそうだが、
   作る側と観る側には 
   常にこうした乖離(かいり)があるものなのだ。   


           いつもの丸写しですオモロイので紹介しまっせ

        文春文庫 東海林さだお 著 『もっとコロッケな日本語を』(定価476円+税) 42pより
 『ドーダの人々 PartV

 「ドーダの人々」はいよいよPartVに突入した。
 わたくしとしては、いささか誇らしい気持で 「いよいよ」 という言葉を使ったのだが、読者
側の気持はそうではあるまい。
 「とうとう」とか、「あーあ」とか、そういう気持でこれを読んだにちがいあるまい。
 やるんじゃないかと思っていたが、とうとうやってしまったか、という気持だと思う。
 映画などもそうだが、作る側と観る側には常にこうした乖離
(かいり)があるものなのだ。
 一作目が好評だとつい欲が出る。
 柳の下の蛙をねらってPartU、PartVと続けたくなる。
 柳の下の蛙をねらってどうする、ドジョウだろうが、と、つっこまないでほしい。
 いま、柳の下にドジョウはいない。
 いま、ドジョウはすべて養殖である。
 そういうわけだから、「ドーダの人々」もドジョウをねらうわけにはいかないのだ。
 せめて蛙をねらって「PartV」を敢行したと、こういうわけなのである。
 なんだかよくわからないが、ようくわかった、ということにしてPartVになだれこむことに
しよう。

 われわれ西荻ドーダ学派の奮闘努力によって、ドーダ学はようやく世間に認知され、浸
透しつつあるようだ。
 正規のドーダ学会員の他に、各地に賛助会員、友の会会員、支部会員、支援団体など
ができ、それらの会員からのドーダ学フィールドワークの報告が続々と寄せられてきてい
る。
 地方会員からの報告で多いのは、
 「わたしは有名人を見た」
 というドーダである。
 「見た」にもいろいろ段階があり、
 「遠くから見た」
 「近くから見た」
 「すぐ隣で見た」
 というふうに分かれ、距離が近ければ近いほどドーダ度は高くなる。
 「わたしは中田を見た」
 という例では、
 「ホテルのロビーで見た」
 というのと、
 「サッカー場で見た」
 というのとでは雲泥の差がある。
 女性地方支部会員のM・Tさんは、
 「真紀子とホテルのトイレでいっしょになった」
 と報告してきている。
 この場合は、距離は関係ない。
 もっと濃密な関係のひとときを共にした、という意味で、本部としては「ドーダA」とランク
付けし、本人にもそう報告した。
 最近はこういう事業にも手を染めているのである。
 この報告には、
 「ドアをバーンと音をたててしめた」
 という部分があって報告の信頼度をいっそう高めており、むしろ、「ドーダ特A」に値する
のではないか、という声も本部評議会会員の中から出ている。
 ドーダは自慢である。
 人に誇り得るものである。
 と同時に、人に羨
(うらや)まれるものでもある。
 ドーダは本質的に、誇る←→羨むの相関関係がなければならない。
 「大したものだ」と思われなければならない。
 その点、この「真紀子とトイレ同席事件」(同席でいいのかな)は少し問題があるような
気がしないでもない。
 「わたしは真紀子とトイレでいっしょになった」
 と聞いて、
 「それは羨ましい」
 「大したものだ」
 という反応になるのかどうか。
 このあたりの評価の仕方も、今後の学会の大きな課題となるであろう。
 福島友の会男性会員のS・Tさんは、
 「東京に行ったときタクシーに乗ったら、『お客さんラッキーですね。そこキヨハラがすわ
ったとこですよ』と言われた」
 と報告してきている。
 そして、
 「『オレ、キヨハラがすわったとこにすわっちゃったよ』と友人たちにドーダしている」
 のだという。
 このドーダは複雑である。
 まずタクシーの運転手がS・Tさんに、自分がキヨハラを乗せたことをドーダしている。
 たぶん、S・Tさんに限らず、客を乗せるたびにドーダしているはずだ。
 この運転手にとっては、一生もんのドーダであるにちがいない。
 一方、そこにすわったS・Tさんのほうはどうなるのか。
 キヨハラがすわったあと、おそらく大勢の無名の人々もそこにすわったにちがいない。
 大勢の無名の人々が、せっかくのキヨハラの効能をダメにしてしまった、ということも考
えられる。
 S・Tさんのドーダ度をどのあたりにランクしたらいいのか。
 「真紀子と同席」と「キヨハラのすわったとこに同席」と、どちらのランクが高いのか。
 このあたりも今後の大きな課題となるであろう。
 これは評価の問題とは関係ないのだが、その評議会のとき、「キヨハラの弘法大師化」
ということもちょっと話題になった。
 弘法大師は日本各地で、石の上にすわったり、ノドが渇いて泉の水を手ですくって飲ん
だりした。
 そうした石や泉が、
 「弘法大師が○○したところ」
 として各地に残っている。
 「キヨハラが○○したところ」
 も、今後、日本各地に増えていくにちがいない。
 ここまでは ”有名人にあやかったドーダ” である。
 ”有名人にあやかったドーダ” の上を行くのが ”有名人を知ってるドーダ” である。
 「うん、オレ、イナガキ、よく知ってんだよね」
 と、スマップの話が出たときなどに軽く言う人がいる。
 話をよく聞くと、
 「家が近くでさ」
 ということになり、
 「いや、いまじゃなくて、もうずっと前のことだけどね」
 ということになり、
 「よく見かけたんだよね、歩いてるとこを」
 ということになっていく。
 有名人を知ってんだよね、のほかに、
 「誕生日が同じでさ」
 というのもある。
 どう考えてもドーダになっていないのだが、本人はドーダをしているつもりなのだ。
 「血液型が同じなんだよね」
 というのもある。
 「ダレソレの奥さんとウチの家内と名前が同じでさ、やんなっちゃう」
 というのもある。
 もちろん、ドーダしているのはいうまでもない。

 東京の支援団体のM・Mさん(女性)からは、住宅ドーダの問題についての報告をいた
だいた。
 テレビ朝日の、渡辺篤史がレポートする「建もの探訪」について、
 「あの番組は、バブルのころにはやった、この床の間の柱を何と心得る、檜の五百万円
にあらせられるぞ、頭
(ず)が高い、といった『豪邸ドーダ』とはちがった、とても庶民的な家
の番組で、建築主の方々もみんな謙虚で出しゃばらないところはとてもいいのですが…
…」
 と報告を寄せている。
 それがどうして「住宅ドーダ」になるのか。
 「だいたいね、自分ちを人に見せたい、と思った時点ですでにドーダしているわけです。
 しかもですな、テレビでですよ、日本全国の人々に見せたい、見てもらいたい、これが
ドーダでなくて何がドーダですか」
 と次第に興奮の様相を帯びてくる。
 「誇りたい部分がどこにもない家を人に見せたい、なんて思う人はいません。
 誇りたい部分があるから見せたいのです。
 ドーダしたいのです。
 なのにですよ、夫婦揃ってですよ、あの番組は建て主が夫婦揃って出演して家の中を
紹介していくのが多いのですが、夫婦揃って妙に控えめに妙に神妙にしているのが気に
入りません。謙虚ドーダっていうんですか、一見ドーダしてないふりのドーダというのを、
学会としてぜひ追及してください」
 われわれはそういうことを追及したり、糾弾したりする団体ではないのだが、なにか勘違
いしているらしいのだ。
 「あの番組は土曜日の午前中の放映なので、主人と二人で見ることが多いのです」
 と、続き、
 「わが家も一戸建てなのですが、放映される家がわが家より少しでも劣っていると、たと
えば 『敷地二十坪に苦心の家』 とかだと、『うちは二十二坪だもんね』と、こっちがドーダ
したりします」
 と、あり、なかなか客観的な視点も持ち合わせている人のようなのだ。
 「その家を誉めたり、感心したりすることはまずありません。たいてい貶
(けな)しています。
 ダイニングルームの紹介になり、ダイニングテーブルが映ったりしますね」
 そうすると、夫婦で次のような会話になるという。
 「あら、テーブルが小さいわね」
 「五人家族だろ、この家」
 「五人であのテーブルじゃ、料理がたくさん載らないじゃないの」
 「料理あんまり作らないんじゃないか」
 「切りつめてんのよ、食費」
 「ホラ、家建てたばかりだからローンが」

 このように、人はドーダをするときは充分気をつけなけれないけない。
 ここには、ドーダ←→羨ましい、の図式は成立しない。
 むしろ反感を持たれた例である。
 番組に出演した夫婦は、反感を持たれないように、細心の注意を払っていたにもかか
わらず、このようにスルドク見破られてしまうのだ。
 ドーダ学会本部としては、常に、ドーダ←→羨ましい、の公式が成り立つドーダを推奨
していきたいと考えている。

 ユングを研究している友の会会員のU・Gさんは、次のような報告をしてきている。
 この人は知ってるぞドーダの人らしい。
 「結局、われわれの研究テーマ ”ドーダ” は、ユングのいう投影(projection)ではないで
しょうか。
 自分の内部にあるコンプレックスを認知することを避け、それを外部の何かに投影し、
外的なものとして認知しようとするわけです」
 そうだったのか、ドーダはコンプレックスとどこかでつながっている危うい概念であった
のか。
 だから一歩使い方を間違えると、このようなむずかしい局面に立ち至ることになるのだ。
 学会本部としては、こうした嫉妬ドーダ、深刻ドーダはテーマとして避けていきたいと考
えている。(面白いけどね)
 もっとたわいないドーダがいい。
 栃木県のY・Yさんからよせられた同県人ドーダというのはどうだろう。
 Y・Yさんは明治大学の文学部の女子学生で、
 「コンパのとき、同じサークルのS・Tさん(男性)は、自分が青森県出身であることを話
したあと、
 『太宰治も青森県出身なんだよね』
 と言って遠くを見る目になりました」
 と報告してきている。
 「だぶん、ドーダと言ってるんだと思います」
 と言ってきているのだが、わたくしもそう思う。
 その気持はわかるのだが、よく考えてみると、これ、どこでどうドーダにつながるのだろ
うか。
 論理的にはまったくつながらないのだが、同県人ドーダをする人は非常に多い。
 高校野球の甲子園大会のテレビ中継を見ていると、同県人ドーダをしている人が必ず
いる。
 大会も押しつまってきて、ベストエイトあたりになり、その高校がたとえば岐阜県だった
りすると、
 「オレも岐阜県なんだよね」
 という声が聞こえてくる。
 ドーダと言っているわけだ。
 同じ高校出身だったりすると、その人はもうムズムズしてくる。
 「オレ、同じ高校出身なんだよね」
 と言いたくてムズムズし、ムズムズムズムズしたあげく、
 「オレ、同じ高校出身なんだよね」
 と、ついに言ってしまう。
 「だからどうなんだーッ」
 と突っこむ人は一人もいず、みんな、
 「そうか、それは大したもんだ」
 なんて納得してしまうところがドーダの怖さである。
 このようにして、何の根拠もないドーダが世間にまかりとおる場合がある。
 学会本部としては、このような意味のないドーダ、意味がないのにまかりとおってしまう
”ドーダ” を一つ一つ拾いあげ、研究し、なぜそうなったのかを究明していきたいと考えて
いる。
 こうした意味のない同県人ドーダ、地域ドーダは意外なところにつながっている。
 イチロードーダがそうだ。
 日本人はいま、大リーグ中継をみてはイチロードーダをしている。
 イチローが深いショートゴロを打つ。
 相手のショートが追いすがってようやくゴロを捕り、ものすごいスピードで一塁に送球す
る。
 イチロー、一塁を駆け抜ける。セーフ。
 ドーダ、イチロー、やるだろ、ドーダ。マイッタカ、ドーダ。
 見ていたおとうさんは小躍りする。
 「おまえとイチローとどういう関係があるんだーッ。親戚かーッ」
 と、突っこみを入れる人はいない。
 日本人全員が小躍りをしている。
 これって、さっきの「オレも岐阜県なんだよね」の人と論理的に同じではないのか。
 イチロードーダは、同県人ドーダが同国人ドーダに発展したものに過ぎない。
 2002年に行われたサッカーのW杯はニッポンドーダである。
 初戦のころは毎日がニッポンドーダだった。
 ドーダ、ドーダ、ニッポン、やるじゃないか、ドーダ。
 考えてみると、オリンピック大会というものも、あれもドーダの一種ではないのか、地球
規模のドーダ総合大会……。
 どの競技も、ドーダ、ドーダと競り合い、最後に勝ったものが、ドーダ、と表彰台にのぼ
る。
 百メートル競走などは、一位になった選手が国旗をスタンドに向かって高くかかげ持っ
て、ドーダ、ドーダと、競技場を一周したりする。
 特に体操競技にドーダの傾向が見られるようだ。
 鉄棒の場合だとこうなる。
 鉄棒に飛びつく。
 グルリ、グルリと回転し、パッと手を離して空中に飛び出し、二回半ほど体をねじねじと
ねじったのち着地。
 両手を左右に大きく広げて、ドーダ。
 あのポーズは、ドーダの極地、ドーダの体現そのものではないのか。
 鉄棒に限らず、鞍馬にしろ、つり輪にしろ、体操競技と名のつくものは、最後のところは
あのポーズになる。
 ドーダ、ぐらつかなかっただろ、ホラ、だいじょぶだろ、ドーダ。
 学会本部としては、体操競技のあのキメのポーズを、
 「ドーダ学会が認証する ”ドーダのポーズ”」として採用したい。
 そしてこのポーズを全国的に普及させたい。
 いつ、いかなるときでも、自分がドーダをしたと思ったら、あのポーズを伴わせたい。
 「オレ、キヨハラと同じ座席にすわったんだよね、パッ (と、あのポーズ)」
 「真紀子とトイレが同じだったの、パッ (と、あのポーズ)」
 こういう使い方もある。
 いかにもドーダをした人に向かって、反省をうながすために、パッ (と、あのポーズ)。
                                       
<丸写し、オシマイ>


     日本人はいま、
   大リーグ中継をみては
   イチロードーダをしている。        ドーダ、イチロー、やるだろ、ドーダ。     
   マイッタカ、ドーダ。       見ていたおとうさんは小躍りする。       「おまえとイチローと
   どういう関係があるんだーッ。親戚かーッ」   
   と、突っこみを入れる人はいない。   日本人全員が小躍りをしている。       これって、さっきの
  「オレも岐阜県なんだよね」の人と    
   論理的に同じではないのか。   イチロードーダは、
   同県人ドーダが同国人ドーダに     
   発展したものに過ぎない。 
       
 

ドーダの人々 T

 
ドーダの人々 PartTは、傑作です。(^ ^;
       
 

ドーダの人々 U

  ドーダの人々 PartU も、オススメです。(^ ^;
       
 

 「オレ、キヨハラと同じ座席にすわったんだよね、
  パッ (と、あのポーズ)」

            トップページも、針小棒大です。(^ ^;   

  ←トップページのみんなの掲示板に、ご意見ご感想おたより等お寄せください。
       
 

鍋  奉  行


  ←アタイの鍋奉行日記シリーズ鍋の1〜11
  
鍋の11『駅弁のスルリ(東海林さだお著) が、おススメです。丸写しです。(^ ^;
                      ↑クリックしてネ。(^ ^;
       
 

目次へジャンプ
 

  ←目次のオススメは、やっぱ 忍法流水抄 かなぁ。
 
『乾きもの一族(東海林さだお著)』 in『慶長大食漢』 が、オモロイでっせ。(^ ^;

  「真紀子とトイレが同じだったの、パッ (と、あのポーズ)」  

                  by『ドーダの人々 PartV』