445(よし子)のページ「今日という日」日高よし子
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2009年1月21日 4:07
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1/19『荒城の月』にも”戦後教育”の誤魔化し
カルロス・クライバーの指揮
松方コレクション
『日本人はアッケラカン、相対性民族』
誇れる日本の元祖、天皇家
 2009/1/19(月)  
      『荒城の月』にも”戦後教育”の誤魔化し
  前回の『元旦に 日章旗なく 古都京都 悔し涙も嬉し涙も 継がぬ 日本』の事。
日本の誇れる古の歴史、文化引き継ぐ街京都に日本の旗の見られない事の異常さ。
こんな事が定着していい筈がない。 以前の蓮の花がさく↓に書いた如く、その時代時代に生まれて来たことの意味、意義は、真に自分の知り得た事、その「自身の歴史」を語り継ぐこと。これから先、政権が民主党に移るだろう。これは致し方ない部分がある。そして歴史教育はもっと自虐的になる可能性大である。だからこそ、戦後教育であっても昭和21年生まれの私だからこそ、未だマシだった歴史の事を伝えねばならないのだ。田母神前空幕長の論文のように『日本だけが悪かった』のではない事。戦勝国はもっと酷かったのに全部蔽われてしまった事ーーー。敗戦国として受け容れざるを得なかった歴史観と違う歴史観をも『知る権利』が国民にはあるのに『知らされず』にずっと来たのだ。教育が教えないから。それが何故必要かと言えば田母神氏の言の如く『自分の国を愛せない国民は自国を亡国化させる』からだ。
 日本のこの定着は、音楽『荒城の月』にも表れている。♪春高楼の花の宴・・・の”えん”の”え”の部分は元々、作曲者の滝廉太郎が半音下げて作ったそうだが戦後の(私達の)音楽教育では山田耕作の編曲により”半音上げて”平調にしてしまったと、以前「題名のない音楽会」というテレビ番組で今は亡くなられた黛敏郎氏が語っておられた。ここにも”戦後教育の誤魔化し”があった。明治維新で『近代化』を成し遂げた日本だったが、その心内には哀感があった。それでしか当時の西欧列強からの被植民地化を免れ得なかった。だから「猿真似」と言われても『日本の文化、文明』を捨てざるをえなかった・・・・・。その想いが滝廉太郎をして”えん”の”え”を短調と為さしめたのだろう。その滝の思惑も鑑みず、第2次世界大戦後の日本は悔しくて、悲しかった筈なのにもそれをも総括せず”誤魔化し”ーーーーー現在に至っている。もう一度『荒城の月』を原曲に戻し、滝廉太郎の心音(こころね)に耳を澄ますべきだろう。そして、黒船来航からの日本の近代史を教えるべきである。
       〇〇〇〇〇〇             

再掲『蓮(はす)の花が咲く          

 死ねば、その人生の一冊の本が自ずと出来上がる。  
その刻、「決定された一生」となる。         
 変容、変節を経て、「歴史の証人」となる。     
それは、この時代に生きたわたしにしか、出来ないこと。 
 生き継ぐべきは、それしかないではないか。     

 死ぬ時は何も要らぬ。               
「六文銭」(現在の貨幣で100円位)あればいいと言う。
三途の川の渡り賃。なんと身軽なことだろう。
   しかし、       
 その河がドブ河でない事を願う。          
 澄んだ自分を映してくれる河である事を、希う。   
                          
 そこに、蓮の花が咲く。 


        〇〇〇〇〇〇 
同じく『こりゃー新春(はる)から縁起がいいよー』の第2弾は、
  ”新春に クライバー再聴 「縁」起よし ”
 1/9から日付の変わった1/10午前0時半位からNHK教育テレビを観ると「ETV50周年クラシックアーカイブ/世紀の名演奏」が放映されていて、丁度カルロスクライバー指揮で『ベートーベンの交響曲第7番』が演奏されるところだった。急遽録音準備の為空きのMDディスクを探し、深夜なのでヘッドホンをあて視聴する。
すぐに第2楽章になった。この曲を最初に聴いたのは忘れもしない平成8年9月27日のFM放送からだった。その翌日に下の弟が亡くなった(私の歌『秋』の歌詞2番に書いている)。だから感動感も大きかった事と併せて忘れられない曲となった。その当時一番印象的だった第2楽章を聴いた時の情況・・・・・

 ”光仏の 足音微か 眼前に 眩しき大きさ  『7番』聴きて”
  (「夢現」収編)

 この第2楽章はカルロスクライバーの指揮でしか見ることの出来ない音景で、最初の「かすかな、かすかな」音の出始めから”神々しさ”を感じる。
 そして、第4楽章の運命的破壊力。”この地球””宇宙”のエネルギーを彷彿させる。
それはやはり人間、万物は抗えないものの営みの中にある事を実感すると同時に、それらを創り表現しているのが『人間』、人間の集団であること。そこにはその『抗えない力』の一端が宿されていると思わせずにいない演奏。
 指揮しているクライバーを観たのは初めてだったが、指揮者すべてに共通の音楽に没頭、というのは勿論だが、指揮者(演奏者も)のエネルギーの大消費が共有された様な、聴いた後の疲労困憊の充足感、暫く音楽を聴かなくてもいいという満足感。しかし指揮するその姿は楽しくて仕方ないと見てとれ、まさに最高の『音』『楽』でした。
2009/1/19(月   松方コレクション
 1/16に炬燵に入り座椅子に凭れ乍ら本を読んでいて居眠ってしまった。目が覚めた時、右腰部に軽い痛みを感じてからアンメルツを塗り、昨日は湿布薬を貼り当日より幾分マシになったが未だすっきり戻らない。だから毎朝の洗濯機への風呂の残り湯運びも大事をとって控えている。その洗濯物を干す為、2階のベランダ迄持って上がるのだが、昨日今日と上の甥子が仕事から帰って来るのを待って持って上がって貰った。大体毎日やっているラジオ体操も暫く休止となる。ちょっとの身体の「異変」なのに差し障りは小さくない。深く座椅子に凭れていたので姿勢が歪んでいたのだろうか?他の要因と思い返せば年末の毎日の大掃除と、極めは前回も触れた墓参時の”落葉拾い”か、前屈ばかりしての作業だったから。人間、ホッとした時に疲れが出る、とは古からの言葉だが、本当にそうなったようだ。というわけで昨日の日曜は雨でもあったし2人の甥子の朝食の準備(仕事と個人的用事で出掛けた)した後ずっと昼まで横になっていたが、仕事から帰った上の甥子と昼食を摂り乍らテレビ『そこまで言って委員会』とその後の『松方コレクション』を観た。
 日露戦争の勝利の蔭には民間の力がアリ、である。先見の明の数多くの大型造船建造。第2次世界大戦ではこれからは戦闘機の時代とその製造に備えての屑金属迄の収集。そしてその収益は世界の絵画を蒐集して文化に還元した。現在その絵画を展示している美術館の上がって行く階段は飛行機のタラップの様に細長い。「搭乗口」の入口から中へ入れば飛行機に乗って『絵画』の各国へと、日本に居ながらにして絵画で「外国」を知ることが出来、松方氏の遺志(友好)を美術館の形に留めている、「松方コレクション」とともに。
                   ◎◎◎◎
2009/1/20(火) 『日本人はアッケラカン、相対性民族』
 しかし、絵画は絵画として実際の外国の国民性迄知ると仲々大変なようです。
文芸春秋刊司馬遼太郎氏著の『日本人とは何か』の中の「犬養道子氏との対談/”あっけらかん民族”」(文芸春秋1970年2月号掲載)の中に、犬養氏が「日本人は単一民族で周りが海に囲まれているから他の民族と触れ合うことがない。だから他の国に幻想を抱くが、何処の国にも泥棒もいれば、人殺しもいる,ヨーロッパでは国境を接して、肌で触れ合っているから100%善良な国などないことを実感として理解している」。司馬氏も「絶対平和の幻想、世界連邦なんて言うのは日本の特産物」と同感しているが、それは「日本が『相対の国』だから日本人は絶対権威主義は力学的に落ち着かず東大に京大、早稲田と慶応、最澄あれば空海、平安朝からずっと朝廷での祈祷は天台宗と真言宗のバランスの上に行なわれていた。必ず対になっていて、日本では2つの権威が成立する。これは長い間の不思議な民族的心理」。(天皇と将軍という制度も445)/犬養氏も「そういうところが日本人をかくも好人物にしている。一神教をひとたび引っくり返した後に出てくる西洋のメフィストフェレスの世界の恐ろしさは、とても日本人には想像もつかないもの。日本人の場合、神が死んだとなっても、いつの間にか生き返ってくる。相対の国だから」。司馬氏「別の神様、別の思想が来る」。

 犬養氏「ヨーロッパでは1つの絶対神という巨大なプリンシプルがある」「とにかく何かにつけて理屈や建て前で押してくるのがヨーロッパなので、こちらはくたびれてしまう。ドイツなんか一日に何回も聞く言葉が『原則、秩序、能率』、美容院に行ったって原則として、これを使って・・・とくる。電車で足を踏もうものなら、何故踏んだか、電車が揺れてどうしたかとか、理屈をつけないと具合が悪い気がする。フランスへ行けば行ったでサルトルの講義を聴いてきたと言おうものなら、門番のお婆ちゃんに捉まって3時間も延々とやられたり。知識の高低が問題ではなく彼女は彼女としての意見を、それを順序づけて終わりまで喋り通す。いい加減で話の腰を折ろうとすれば怒るし、うんざり黙っていればそれもいけない。お前の意見を聞こうじゃないか、とこれ又怒る。だからヨーロッパで、向こうから一見してアメリカ人と分るのが来るとホッとして、ついニコニコしてしまう。全然知らないのに『ハロー』とかなんとか言うでしょう。まぁ日本人とアメリカ人というのは、似てます」。司馬氏「面白い、昨日帰って来た私の友人が同じことを言っていた。パリでアメリカ人のゆく酒場があるが、そこへ行くとホッとしたって」。

 犬養氏「アメリカは1800年頃にはもう人種のルツボで宗教もいろんなのが入ってきているが、新しく国を開拓していくのにやれカトリック、プロテスタントを言ってたんではやっていけない。そこで初めて宗教の寛容性が理屈なしに実際的になってくる。なにしろ激しい生存競争。100年かかって東海岸から西海岸へ辿り着くのに落伍者や病人も相当出る。これを救済するのが宗教の1つの役目になって、いつしか宗教は社会事業団的なものになっていく。そうすると。、ヨーロッパのような原理、原則を真っ先に掲げる厳しさがなくなって、日本人とは又違う意味だがお人好し的なものが出てくる」。中略/
 司馬氏「逆に言えば日本はプリンシプルがないから助かっているのではないか、相対的思考でアッケラカン主義だからこそなんとかやってきた」。犬養氏「その通りでアメリカ人が入ってきた時、プリンシプルを変えずに抵抗していたら大変なことになっていたでしょう。ところがアッケラカンとしてチューインガムから6334制まで戴いた。その為にずっと助かってきたのではないか」。

 司馬氏「例えば安保、佐藤訪米、独占資本、”絶対反対”ーーなどの運動でも若いのが”お題目”だけで走っているところが相対性民族の面白さ。お題目、お念仏だけで走れるところがね。さっきの浄土真宗は一時期国民の1割近くの信徒がいた。南無阿弥陀仏を唱えるだけで浄土に行けます、他の宗派のように難しい仏法理念を言わなかった。一声でいいと言うので一向宗が賑わった。いまだってマルクス、レーニン、毛沢東・・・・一声か二声唱えれば難しいことは知らなくても何やら有難いというようなもの」。犬養氏「嘘も方便、などと言う言葉日本にしかない。皆建て前民族だから、日本人はつくづくノー建て前」。

 司馬氏「知り合いのマルキシストがアメリカに留学した昭和30年頃、圧倒的なアメリカ文明に打ちひしがれて一人淋しく田舎道を歩いていたその時、フッと『そうだ、日本には天皇がいる』と思った時に、非常に安心したと言うんです。日本人の最大の発明は天皇です。明治以後の80年の天皇は別にして、皇帝でも、王様でもない、なんかつかまえどころのない存在。ちよっと外国に例をみない存在です。(天孫降臨の神話の代からの万世一系のお血筋の継続2600年余りです445)。犬養氏「よその国なら将軍が天皇を倒して自分が天皇になる」。司馬氏「そう、応仁の乱でも御所の壁ひとつ崩れていない。大体、天皇と言うのは神主みたいなものだが神道には教義がない。清浄であればいいという教義だけで、それはお祓いをして清めるというだけで、なんのことやらわからなくなる。実に不思議といえば不思議なものなんですね。ここらの捉えどころのない、あいまいな神道的あかるさというものが日本民族を支えるあっけらかんとした、非常にだだっ広い底辺につながるんではないかとは思うんですが、なにかもう1つはっきりつかめませんな。」犬養氏「本当にあっけらかんで、物事をまずもって考えるという事をしませんから。
 道が狭くて走れないのに自動車を買ったり、それでも不思議になんとかなっていく。」司馬氏「東京や大阪など闇雲に高速道路を造ったり、こんな事パリやロンドンでは出来ないでしょう」犬養氏「ヨーロッパは文学、音楽、美術の全てが建て前の体系の上に成り立っていて、うまくいっている時には素晴らしい効果を発揮できるが、それの一角が崩れると、全てがガラッと崩れてしまう。処が日本はノー建て前だから全部崩れることがない」。

 司馬氏「明治以後ずっと、ドイツ流の観念論的思考が日本の知識界を支配してきたが、そんなものは昔も今も少しも日本人の身についちゃいない。ドイツ流にシチ面倒臭い事を言わなくとも日本人には非常なエスプリがあって、ちょっと聞けばみんな分る。良くも悪くもお題目、お念仏だけでわかっちゃうところがある」。
 犬養氏「なにしろヨーロッパは建て前を説明する建て前、又それを聞くという建て前もある。だから談議のプロセスを大切にする。日本は十七文字かなんかでパッと分る。そういうところ議会政治や外交なんかで弱みになる。既に分っていることでもくどくど説明しなければならないのにパッと飛んじゃう。説明する建て前がないんですから」。

 司馬氏「例えば坂本竜馬などは勝海舟から聞いた話から自分のいわば革命への主観世界を創る。猛烈にエスプリの利いた話で単純軽薄といったことではない。日本人というのは猛烈に聡(さと)い民族なんですよ」。犬養氏「その通り、聡いから飛躍しちゃうし、おれにはわかったところで決めてしまう」。司馬氏「それができるのは、あっけらかんとして、プリンシプルというか建て前がないから、融通無碍どうにでも考えられる。
犬養氏「日本人というのは大変なバイタリティがあるというか、不死鳥の様な民族です。外から第3者としてこの民族を眺めていたら、こんな面白い民族って他にはないと思うんです」。司馬氏「兎に角世界で一番研究に値する民族でしょう」。

 犬養氏「これからの日本は益々外へ出て行かなくてはならないが、外には2000年から3000年来の原則を頑なに守る執着心のつよい粘着質の民族がうようよいて、これと否応なく付き合わなきゃならない。日本人の淡白で、あっけらかんとした好人物の性格をなんとか変えない様にしながら、そういう民族と対等に太刀打ちしながらやっていく為には、これはどうしたものかしらねぇ」。司馬氏「という事はつまり、極端に言えば日本人は変わらずに向こう様が変わってくれという事で、これはもうそれこそ神様におすがりする以外には、手はないでしょうなぁ(笑)」 了。(司馬遼太郎氏著の『日本人とは何か』の中の「犬養道子氏との対談/”あっけらかん民族”」)より。
                       ◎
 以上同本からの抜粋ですがドイツ、フランスの箇所では思わず笑ってしまいました。
”行く川の流れはたえずして・・・・”の如く、その水に浮かぶ木の葉も流れに乗って、あとはままよと、そういう四季もつ風土に、たえず移りゆく気候に委ねて生きてきたのが日本人それはどうしようもないこと、という無常観、諦観となり、あとは”笑うしかない”。それが民族性『アッケラカンとした、相対的民族』になったという事だろう。
 『相対的』理論を物理式で表したのがアインシュタイン博士だが、宇宙的(理論的)行動法を身体に覚知させてきたのも、やはり日本人が大自然の恩恵の中で生きてきたゆえの民族の特徴となったと思う。
 私も『時間』というのには、各自その行動の『内容』によって「経過時間」が違う、と常々思っていた(料理している時など、煮炊きしていて側で待っていると仲々煮上がらないが、待つ間他の事をしているとアッという間に沸騰するなど)。だから、私も日本人特有の『相対性的民族』であると、自覚する(笑)。
 アインシュタイン博士が偉大なのは、それを公式化出来た事。
 
            誇れる日本の元祖、天皇家
 アメリカの文明に圧倒されそうになった日本人留学者が『日本には天皇がいる』と自信を取り戻したいう件は、明治以降80年ほどの西洋を真似た「現人神」的天皇は別にして、それまでの日本の天皇は「天孫降臨」神話を受け継いだ体系が『皇帝でも王様でもない』『日本の最大の発明』という表現の如く万世一系のお血筋とともにずっと崇敬されてきた存在を(皇紀にして2600年余り)現在も持つ、と言う国の歴史に『日本人の誇り』を見出したと言えるものだったのでしょう。この日本の神話時代から継承された『天皇制』は何がなくなっても唯一、世界に誇れる日本の元祖、宝である。渡部昇一氏の『日本人の底力』にもあるが、中国は永い歴史と言っても”易姓革命”の国でその都度統治する「民族」が変わっている。日本の天皇家は継続しているが故に、何処の国も真似出来ようがない。これから日本の政治も政権が民主党になった場合、大幅に変わるだろう。日教組の親玉(ドン)輿石民主党議員が最近、”教育に政治的中立はない”と放言しているようだが、これほど傲慢な言葉があるだろうか?もう民主党は勝つのだからと何でも言いたい放題である。教育基本法という法律にも違反した言葉を堂々と言い放つのだからーーーーこの先思いやられる。
 なんとか、もう少しマシな保守の人間集団が奮起してくれないかねー。『絶対、天皇家を解体させてはならない』ーーーその時、日本は本当に壊滅する。
 日本国民はどうなるか? よーく考えてみることだ、各自。
2009年1月21日 3:48:37
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