445(よし子)のページ「今日という日」日高よし子更新2009年3月2日 7:47:41 【目次】タテマエ(東京人)とホンネ(大阪人)『マスコミ』と正岡子規絶対反対「「人権擁護(救済)法案」マスコミの井伏鱒二現象第2次世界大戦時の戦闘装備の各論
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菜の花忌と『タテマエ(東京人)とホンネ(大阪人)』 
 平成21年2月22日(日)午後2時からの司馬遼太郎第13回菜の花忌』シンポジウムに行った。 以前NHKFM放送「BKプラザ」午後6時からの生放送を観に行った事があり場所は分っていたがその時は車だったのでNHK大阪ホールを見付けるのに少し苦労して10分ほど遅れてしまった。会場では司馬氏夫人の福田みどりさんの『ご挨拶』がほどなく終る処だった。それからの第1部は司馬遼太郎賞贈賞式があり、『昭和天皇』で受賞した原武史氏(明治学院大学教授)の言葉があった。「東大の教授は司馬文学を読まなくていいと言う。(略)・・・言葉のアクセントにしても東京と大阪は違う。又大阪といっても北、中、南部と幅広い。大阪近辺を巡り、司馬遼太郎記念館へも行ったが、蔵書の物凄い量、それを収納させている建物の設計に(この日出演の安藤忠雄氏の設計)、この記念館へ行っただけでも大阪へ来た値打ちがあった。又その周辺を歩いてみて、司馬文学『坂の上の雲』はこの地に住んでこそ生まれたものと思った。」との事でしたが、東大出の官僚が国民の意識と乖離しているのが何故なのか解りました、司馬遼太郎氏の本を読まないからです。大衆、庶民の情感を知ろうともしないという事
  それで思い出したのは産経新聞夕刊わかぎゑふさんのコラムに、【東京のオフィス街のランチタイム一人で食べに来る女性が何人かいた。皆それぞれ、音を立てずに椅子に座り、音を立てずスバゲティを食べ、音を立てず帰って行った。それを見て何かゾーッとした、と書いてあった(と思う)。一方大阪へ帰ると全く正反対である。】と東京人と大阪人の違いを書いてあったが、これを見た時、東京人は息止めて生きてるのかと笑ってしまった。(もしかしたらわかぎえふさんが見たのは昼間のユウレイ違う?笑)ざっくばらんに生きてるのが大阪人だから、東京は「圧搾空気」が充満していそうで、絶対住みたくないと思った。タテマエとホンネの極端な例がこの東京と大阪でしょうね。以前にもやはり夕刊コラム担当していた元NHK職員の寺谷さん(名前健忘)は東京勤務を蹴って大阪に住みたい為にNHKを退職したほど「大阪好き人」でしたねー。
『マスコミ』と正岡子規
 先程の『第13回菜の花忌』シンポジウム坂の上の雲正岡子規とその時代の明るさーの始まる前、今秋に放映されるNHKの同名ドラマ化された冒頭画面が映し出され、『明治というこの時代の明るさは、地方のどんな階層の人間でも努力さえすれば軍人にも大臣にも、どんな職業にも就つけるという可能性と、希望を抱くことが出来た時代だった。』という様なナレーションが流れる。主人公3人はともに愛媛県松山出身の若者で秋山好古は後に陸軍大将に、弟の真之は海軍大将となるがこの秋山兄弟の子供の頃、家はとても貧しく好古が『大きくなったら東京へ出て豆腐が立つ位のお札を稼いでやるから』と言う箇所がある。この「明治時代」の『明るさ』をいうのには、それ以前の時代の捉え方の前提がある。その江戸時代は「士農工商」という身分制度が確立していた(但し、司馬遼太郎氏の他の著作物に【幕末の頃の長州藩では百姓の伊藤博文でも帯刀し武士とも対等の付き合いをしていた】という風に時代が綻びを見せ始めていた)。
 もう一人の正岡子規はあの有名な【柿食えば 鐘がなるなり 法隆寺】俳句を詠した人だが、俳句短歌にも『写生』表現を徹底した。当日のパネリストの篠田正浩氏(映画監督)は【『坂の上の雲』を司馬遼太郎氏が書いた背景には、太平洋戦争敗戦後、GHQ統治下では検閲があり「忠臣蔵」は本、舞台も禁止された。だから講和で独立後に司馬氏はその鬱憤を晴らす如く書いたのではないか。又正岡子規は東京で新聞記者をした事があり、『目の前の事実を報道』という報道者の使命的こだわりとして『写生表現』を生んだ。だから『坂の上の雲』で正岡子規を主人公の一人に取り上げたのではないか。
 『朝日新聞』は太平洋戦争(第2次世界大戦)途中からの日本不利を伝えずずっと日本攻勢を伝え続けた、そのミスリードが敗戦被害を大きくした】。以上講演要約ですが、第2次世界大戦へ繋がっていく『天皇統帥権干犯』事件でのマスコミの、「干犯ではない」と言った『美濃部叩き』報道、同じく若い将校達による5.15事件の犬養首相暗殺でも報道は将校側に立ち、国民世論を煽り結局将校達は罰せられなかった。後にこの将校達は満州へ赴く。
 そして昭和48年位の日本のマスメデア界は『中国賛辞』ばかりで少しでもそれに異な事を書くとボツで日本は民主主義が機能していなかった。最近の産経新聞の昭和正論講座に曽野綾子氏の当時の論文が再掲載されている。

 現在でも『マスコミ』は産経新聞を除いては、例えばこれから民主党が政権を獲った場合人権擁護(救済)法案」「外国人参政権」が成立する可能性大の様だが、「人権擁護法案」に関して以前の侭なら日本国民の人権の方が制圧される。だが昨年インターネットでよく取り上げられたこの法案はテレビでは見たことがあるのは1回だけ。「外国人参政権」を認めれば、いずれ「立候補」も認めなければならなくなる。その場合例えば領土問題がらみの時、どちらに与するかという問題もあるし、全てにおいて日本国に「忠誠を尽くす」という事が(国益に繋がる)立法府における議員の条件なのだから、結局日本国籍取得という事がその証とみなされる。テレビメディアもこれらを取り上げ問題点を広い視野から論じて貰いたい。
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『絶対反対「「人権擁護(救済)法案」』
【今日という日】より。2008/3/14付/ この「人権擁護法案」は、国連の「人権基本法」制定時の下地となった『パリ原則』を意識したものである。これには先ず【政府や行政、警察機関が人権侵害を為した場合、独立性のある「人権委員会」がその調査を為し善処する】というのが本旨である。しかし、それは世界各国の「国富」「国柄」に則るだろうし、先ずもって「国益」が第一に優先されるべき事だろう。それに現在も各都市、都道府県にもある人権委員会で何故駄目なのかという事を民主党は国民に説明すべきだろう。
 
 若し「人権擁護法」を制定するのなら、
@北朝鮮による日本人拉致被害者救済法】を制定し、その為の(現在の)措置法の継続の必要性を明記する事。
A「人権擁護法案」には現在の個別法(高齢者、児童虐待防止法やDV法等)で施行されているものを明示して含ませ、現在新たに【必要な事案】を明記する事。
Bそしてこの「人権擁護法案」は日本国憲法に則り、抵触しないことを基本とする事。(憲法を超越した、基本的な人権侵害行為は民主主義に反する)
 『日本国憲法』の「基本的人権」の要基本的『平等』とは、出自を問わず【努力した者の評価→能力の差(個人差)→これに即応した職業(採用)の選択の自由】が基本であるということ。それでなければ何人にも向上心が育まれない(その為に日本に於いては「義務教育」が付与されている)。

 今回の「人権擁護法案」(リンク)はその罰せられる「対象」が明確でなく定義もない。漠然と「差別した」という「被害者」側の言動を主としている

。最近テレビ放映された映画『それでも私はやっていない』を地でいくような『冤罪』行為の犯罪が此処大阪であった。示談金搾取目的で男女が共謀して一人の男性を痴漢の犯人と糾弾し、その男性は逮捕され無実を訴えたが22時間拘留された。その後約1週間後に被害者の女が痴漢行為は『嘘』だったと自首してその男性は晴れて『無実』が判明した。いやはや恐ろしい事です。
 この今回の「人権擁護(救済)法案」もこういう一方的な糾弾行為で加害者とされる危険性を伴う。その根拠性は【根拠を示さぬ『令状なしで家宅捜査』する・・・・】という案文にある

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マスコミの井伏鱒二現象
 話は外れますが「マスコミ」に関して、一般にいう(以前にも触れた『東京裁判の件では産経新聞以外、マスメディアが報道しなかった事、教育界も同じくで、それが『日本侵略史観』を定着させた最大の原因です。そして未だにテレビ界では渡部昇一氏のような言論人を出演させない。だから偏向しバランスが悪い。民主主義が日本に根づかないのは放送界にも責任がある。以下は渡部昇一氏「反日に勝つ・昭和史の常識」より、【先ずこの裁判には(1)『管轄権』が明記されていない事。その事を東条英機(刑死)の清瀬弁護人がウェップ裁判長に訴えたが後で回答すると続行しようとした。するとスミス弁護人が「この場で明らかに出来なくては直ちに公訴棄却すべき」とまで言った。しかし、強引に裁判は進行した。(2)「法の不遡及」、法律制定以前の事実に対して遡って適用してはならないという事。法治国家の根本原則。(3)英文原文は戦犯が認識の『東京裁判』ではなく『諸判決』を講和条約で受け入れる。そして第11条後半には講和条約締結後はこの諸判決を『廃止させる』、という条件が付いている。 日本はこれに基づき諸判決を廃止した。どの国からも文句は出なかった。この後昭和28年、第16回特別国会で全会一致(社会党、共産党含む)で改正遺族援護法が成立、「東京裁判」の戦犯となった人間を『通常の戦死者』と同様に扱う事を決定した
(4)『日本が侵略』と断罪した米連合軍最高司令官マッカーサー元帥が、昭和26年にアメリカ上院議会で『日本の戦争は自衛の為だった』と証言したこと。当時は未だ占領されていて検閲にかかるかも知れないが、独立後も殆どのメディアは報道しなかった。】  
【この現象を私は「井伏鱒二現象」と呼んでいる。この作家の文化勲章受賞作品と言われる『黒い雨』は、重松静馬という人物が書いた『重松日記』の剽窃だったと猪瀬直樹氏は『ピカレスク』(小学館)の中で暴いている。それだけでなく井伏の最初の作品『山椒魚』がロシアの風刺文学作家サルティコフリシチェドリンの『賢明なスナムグリ』にそっくりな事を明かし、『さよならだけが人生だ』という漢詩の訳文など井伏の作品の多くが盗作やリライトだった事を明らかにしている。これだけのことが書かれているのに、文芸雑誌や文壇から無視、或いは黙殺されてしまった。朝日新聞、NHK、民放、どの新聞も問題にしなかった。その後文献学者の矢沢永一氏が、それが事実であることを論文にしたが、何処の文芸誌も採用せず、PHP月刊誌VOICEに出ただけだった。思うにこの事を取り上げ検証すれば井伏氏に文学賞を与え「井伏神話」をつくってきた人達の面子が立たないからだろう。
 先の『マッカーサーの証言』が黙殺されたのもこれと同じだが、井伏鱒二の行為よりも何百倍もの害悪、禍根を残した。「日本悪しかれ」史観の立場に立つ事で出世したり、利権を貪リ続ける大学教授や知識人、ジャーナリスト達が平然といる分けで「日本は自衛戦争だった」と言われたら面子が立たないどころか、自分の社会的立場が危うくなってしまう、だから世に知らしめる事をしなかったのでしょう。】以上。【】部分渡部昇一氏「反日に勝つ・昭和史の常識」より。
第2次世界大戦時の戦闘装備の各論/ 著書『日本人とは何か』の司馬遼太郎氏と井上ひさし氏の対談には司馬氏【ノモハン事件(昭和19年)を研究しているアメリカ人でコックスという学者にあったことがあるが「なんで司馬さん、あんなジャンクみたいな戦車に乗って・・・・」と言われまして(笑)。ジャンクというのはアメリカのスラングで相当なボロのことをいうらしいですね。そのろくでもない戦車でも昭和12年に製造費が35万円模した。戦闘機が20万円の時に。後年調べると須見新一郎という大佐がいきなり連隊長になって千数百の部下を率いて荒野を行軍しています。須見さんの晩年、話を聞きに行くと「あれは元亀天正の装備だ」、つまり織田信長の時代程度の貧相な武器という。・・それが日本開戦前の実態だというのに、参謀本部はいったいどんな空想力があったのか。その2年後に国家を対米戦争にたたき込んでしまうような妄想集団が居たわけですね。」】又【石橋湛山の『小日本主義』、日本の伸張主義を戒め、台湾も朝鮮もすてよ、日本は江戸時代のままでやっていけると紙と鉛筆で計算した。】という件りがあり石橋湛山に見習え、とある。これに関しては、ならば何故日本が日露戦争を戦ったのかという原点、ロシアの台頭、脅威をどうすればよかったのか?という問題にぶつかるのではないかと思う。若し日本が日露戦争を戦わなかったら、若し敗れていれば、現在のアジア極東の版図、地図は大きく違っていただろう

 一方、『日本人の底力』渡部昇一氏の著書には【(第2次世界大戦)航空母艦を造ったのは日本、アメリカ、イギリスだけだった。しかし、『機動部隊』という航空母艦を何台も使って更に巡洋艦、駆逐艦で編成し航空戦を主とする高速艦隊によって作戦を立てるという発想がイギリスにもなかった。そういう機動部隊を最初に作ったのは日本で、その底力を知って、さらに大規模な物を造ったのがアメリカである。日本は航空母艦を十数隻持っていた。チャーチルの著書『第2次世界大戦回顧録』にある様に、イギリスの海軍が日本のインド洋作戦においては、ハーミスばかりでなく、重巡洋艦ドーセットシャーやコンウォールが撃沈させられている。その時の命中率は90%と練習でも出ない確率で、そのドーセットシャーは大西洋でドイツのビスマルク号と戦った強剛の重巡洋艦だった。最新鋭の戦艦プリンスオブウエールズも日本軍とのマレー沖海戦で沈没した。プリンスオブウエールズはチャーチルのお気に入りの戦艦であり撃沈の知らせを聞いたチャーチルは絶句したという。のちにヌ「あのような衝撃を自分に与えたことは他にない」とその著書で語っている。以降、撃沈された国も、傍観していた国も日本の真似をし始めた。】とある。

 司馬さんや井上氏は、直接の軍上司、部隊の程度によって日本軍隊のあるイメージが固定化され、敗戦という結果に依って『敗戦とみなされるもの』を拾い上げていった、これが日本の戦後の主流史観となり、どちらかというと「左翼的」傾向に括られてしまった。/だからその反動のように渡部昇一氏や田母神前空幕長の様に「日本ばかりが悪かったのか」という論を述べる人が出てきた。でもそれも約3年前「戦後レジーム(自虐史観)からの脱却」を掲げる安部総理が誕生した位からで、その類いの出版物も多く見られる様になったが、それまでの日本の思想界は社会主義の如くだったと言えるだろう。
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