445(よし子)のページ「今日という日」日高よし子更新2009年11月7日 6:55【目次】 報道は真実を!10.17デモ/民主党国会提出「外国人地方参政権」付与法案/「日本が危ない!」/故中川昭一氏を語る/ |
445TOPへ 今日という日TOPへ 詩歌集『夢幻』へ マイメードソングへ/2009年<【音声画像】北方領土関連☆yoshiko@y5.dion.ne.jp*歌愛いのちひとくものこと/中川昭一氏とと日章旗/悔し涙(video DION |
「外国人地方参政権」や「人権擁護法案」などに反対する国民集会が行われた。インターネットのYOUTUBE「チャンネル桜」等を通じた呼び掛けに国民総決起集会講演には約1600人ほどの国民が参加したようです。 講演会の模様もYOUTUBEに掲載されていますが、山谷えり子参院議員の日本への熱いおもいには圧倒されます。安部内閣当時、教育基本法改正に伴い首相補佐として道徳教育導入にも力注がれた山谷議員であれば、民主党の政権となり早速の日教組の先祖返りに憤慨この上なしでしょう。【各地から日教組への懸念の声が寄せられている。日教組は「こころの読本」も回収し道徳教育は後退、子供に過激な性教育を又やり始めている。北海道の日教組の指導要領には竹島を韓国領と入れている。対馬は自衛隊の建物の両隣を含めた土地が韓国に買い占められている。 横須賀は中国、ロシアが狙い、(アメリカ大使館が止めているが)、青森や三重、岡山、宮崎などの森は中国に買われている、「水資源」確保の為。そして地下水を汲み上げペットボトルで中国国内に運んでいる。 『 報道は真実を! 』 ↓故中川昭一氏の言葉「日本が危ない!」、そのままの状況となっていきそうです。 何故放映されないか?いまや電通やテレビ局の中枢に韓国人が影響を及ぼしているからか。 中川昭一氏の2/4の朦朧会見だけでなく、「IMFでの戦略的融資」もテレビで放映されていれば、選挙の結果も違ったものになり、心労も免れ、命が削られることもなかったかも知れない。 報道は真実を! |
『故中川昭一氏を語る』 (各太字は445) ★産経新聞 阿比留瑠比記者 |
シャイな人だった。何より、繊細な人だった。衆院当選8回、農水相、経済産業相、財務相、自民党政調会長…と要職を歴任した大物政治家であるにもかかわらず、はにかんだ笑顔のよく似合う、子供のような純真さを持ち合わせていた。 中川昭一氏は拉致議連会長を務めていた当時、政治家としてのこんな覚悟を語っていた。だが、死はもっと皮肉な回り合わせであっけなく訪れた。56歳という若すぎる最期には、ただ言葉を失うしかない。 「あの件さえなければ、今ごろ昭ちゃん(昭一氏)が自民党総裁だった」 盟友の安倍晋三元首相は故人を悼む。「あの件」とは中川氏が財務・金融相時代の今年2月、先進7カ国財務相・中央銀行総裁会議(G7)後の記者会見で「酩酊(めいてい)」したかのような姿を見せて、引責辞任したことを指す。 この一度の失敗で、中川氏が長年積み上げてきた実績も名声もはかなく吹き飛んでしまった。先の衆院選で落選し、議席も失った。 確かに中川氏は酒席で、ときにはめを外し深酒することもあった。それも、強すぎる感受性をまひさせたかったからだろうと思う。素顔は、少し人見知りのまじめな勉強家だった。 平成9年、中学歴史教科書のすべてに慰安婦記述が載ったのをきっかけに、安倍氏らと自民党「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」を結成した。左派イデオロギー色満載だった教科書が是正されていく第一歩だった。 14年には超党派の拉致議連会長に就任したほか、永住外国人への地方参政権付与や民間の言論抑圧につながる人権擁護法案に反対した。一方、靖国神社参拝を推進するなど、常に保守系議員活動の前面に立った。 今や保守系の諸運動は衰退期にあるようなありさまだ。その中で忘れられるか過小評価されているが、10年代の保守勢力の勃興(ぼっこう)と伸長は、中川氏が安倍氏らとともに推進役を担ったのは間違いない。 一方で、現実を見据えたリアリストでもあった。20年6月、日中両国が東シナ海のガス田共同開発で合意した際には、表向き「日本のものを向こうにあげて資本参加するのでは互恵にならない」と厳しいコメントを発表した。だが、その裏では担当外交官らを集め「よくここまでこぎ着けたな」と慰労もしていた。 対中強硬派と目されてきた自分が、仮に交渉結果を評価しても、甘い顔を見せると中国側に「日本側では、あの中川氏まで喜んでいる」というメッセージが伝わる。それは今後の交渉、駆け引きのハードルを上げ、足を引っ張ることと理解していたからだ。 対中姿勢では、こんなことも語っていた。 「中国批判はたやすいが、むしろ『誠意を持って話せば分かる』と言うばかりで行動しない日本側の方が問題だ。私が中国の政治家なら、やはり今の中国のようなやり方をする」 本当に惜しい人が亡くなった。せめて自民党の中では、中川氏の志が受け継がれていくことを願ってやまない。 |
★産経新聞パリ支局 山口昌子記者 中川氏の思い出 2009/10/10 23:59 やっぱり、中川昭一氏の思い出を書かせていただこうと思う。死後、中川氏がどんなに真面目で勉強家で、繊細で純粋だったかが、産経新聞をはじめ、多数のメディアが伝えているので、ほんの数えるほどしか、お目にかかったことのない私が、いまさら、付け加えることはないのだが、亡くなった人の思い出を話すことは、その方の供養にもなると以前、母や父が亡くなったとき、僧侶が言っていたので、少しでも供養になればと思って書かせていただくことにした。 初めてお目にかかったのは、中川氏が、閣僚として初めて、OECD閣僚会議に出席したときだった。何年か忘れたが、農水相か経産相だったと思う。パリの日本大使館から、「明日朝、大臣がお目にかかりたいから、宿舎のホテルに来て欲しい」といわれた。わが社は同行記者が来ていなかったので、同行記者を対象にした大臣のブリフに現地の記者が呼ばれることがあるので、そうしたブリフだと思って行ったら、私一人だった。産経新聞の愛読者だと、照れくさそうにおっしゃった。そのとき、フランスのさまざまなことを聞かれたが、驚いたことに、メモを詳細に取り出したことだった。 記者として大臣の話のメモを取るのは私の方だったので、これは、間違ったことを言っては大変だと思って、緊張してお話したことを覚えている。その後もお目にかかるたびに、メモを取られた。一時帰国したときに、やはり、外務省のお役人といっしょに大臣室でお弁当の昼食をご馳走になったことがあるが、その時も、熱心にメモを取られた。 パリではOECDの閣僚理事会やジュネーブでのWTO閣僚会議があるたびに、お目にかかった。あるとき、ちょうど激しい腰痛をかかえておられていたので、大変だなと思った。パリに一軒だけあるお蕎麦屋で会食したこともあるが、周囲が、自分が飲みたいからか、しきりに、「大臣、もう一本、頼みましょう」などと言って、ワインを勧めていたが、ご自分から積極的に飲んではいられなかった。政治家は勧められたら、断れないから大変だな、とそのとき、つくづく思った。それに、中川さんは優しい人だったので、他人を傷つけたくなかったし、そういう人の本性がわかっていただけに、かえって断れなかったのだと思う。 一番の思い出は、携帯に電話がかかってきて、フォアグラについて熱心に質問された時だ。 中川さんは、電話で、フォアグラの安全性について詳細に質問された。日本に輸出されるのは加工食品の缶詰のものが多いし、高級レストランで出される「生フォアグラ」も実際は熱を通したものだから、大丈夫といった話をした。中川さんは、加熱の温度についても詳細に訊かれた。もし、フォアグラを食べた日本人が鳥インフルエンザに感染したら、大変だと非常に心配しておられた。ああ、この人は本当に日本人のことを心配しておられるんだな、と頭が下がる思いだった。こういう政治家がいる限り、日本の将来も安泰だと思ったものだ。 電話は日本時間の真夜中の3時ごろだった。「こんな遅くまでお仕事ですか」とお伺いすると、「やることが多くてね。ちょっと不眠症気味」ともおっしゃったが、メモをみながら、疑問点を質していられるのだと思った。あるいは、朝刊の最終版の締め切り時間が終わったころを見計らっての、こちらに配慮した時間だったのかもしれない。 拙書「エリゼ宮物語」をお送りしたとき、ご自分のブログで、コメントを書いてくださった。それが、また、驚いたことに、本当に熱心に読んでくださった方しか書けないコメントだった。というのも、この本はフランス革命前に建てられた「エリゼ宮」の住人の話を書いたので、ルイ15世の愛人のポンパドールやナポレオン、それに代々のフランス大統領のエピソードが中心だが、私が、もっとも熱を入れて書いたのが、ドゴールだったからだ。中川さんは、そのことを喝破していた。お忙しいのに、拙書にまで、時間を割いてくださったことに感謝感激した。中川さんに、選挙戦中、土下座を迫った講演会の人がいたそうだが、土下座を断固、拒否した中川さんに拍手喝さいを送る。中川さんには土下座は似合わない。 最後にお目にかかったのは、一時帰国した時で、ちょうと自民党の政調会長に就任したばかりの時だった。部屋がお祝いのランの花で埋まっていた。その白い花に囲まれた中川さんの少年のような笑顔が忘れられない。 合掌 |
★西村真悟氏 中川昭一氏のお父様中川一郎氏の政治家としての信念は、「日本の共産化を阻止しなければならない」ことであったそうだ。そういわれてみれば、昭一氏の政治活動の根幹にも、「日本の国体を護ろう」という強い意志があった。 |