デッドマンズ・チェア/阿津川辰海
まず「射る」のコトダマによる事件については、“S文書”の“光のように速く、鋭いエネルギー体”
(28頁)という説明から、反射の可能性に思い至るのはさほど難しくないでしょうし、読者にとっては“鴉が止まっている位置と、ビルの位置関係を見て”
(127頁)という犯人の独白も大きなヒントになっています。ということで、射殺トリックそのものはかなりわかりやすくなっていますが、本来はこちらの事件と関係のない、“もう一人”の「射る」のコトダマ遣いである梁の戦い方が手がかりとして使われるところがよくできています。
標的とされた“鳥”の大きさが、雀→鳩→鴉→“鷹”(鷹宮)→“鷺”(鷺沼)と次第に大きくなっていく……と見せかけて、“鷹”と“鷺”の順序を逆転させたアリバイ工作は、なかなかよくできていると思います。犯行が次第にエスカレートしていくシリアルキラーものの定番をなぞっているのが効果的ですし、順序の誤認だけのために鷺沼が殺されたというところもミスディレクションとしてはまずまず(*1)。
桐山がたびたび犯人の“下手な狙撃”を指摘していましたが、梁との差別化が強調されることによって、“失敗した鳩より小さい雀をどうやって狙撃したのか”という、当然浮かんでしかるべき疑問が隠蔽されているのが巧妙で、雀の死体が置かれた現場で発見された“目撃者”――アクリルスタンドが、証拠として犯人(川添)に突きつけられるのが面白いところです。
川添と梁の二人が同じコトダマ遣いとなっている謎は、「曲げる」が中国語に翻訳された「弯」が「射る」(弓を引く)にも該当するということで、少々都合がよすぎるように感じられる部分もありますが、三笠がいうようにコトダマが日本語ベースとなっているのは興味深いところです。今にして思えば、前作『バーニング・ダンサー』に登場した「化ける」の能力などは、言葉の本来の意味とは異なるものだった(*2)わけで、コトダマという設定の構想段階から周到に仕組まれていたところに脱帽です。
*1: 目的外の被害者を被害者を組み込んで動機を隠蔽する、某海外古典((作者名)アガサ・クリスティ(ここまで)の長編(以下伏せ字)『ABC殺人事件』(ここまで))のような効果も見逃せないでしょう。
*2: “化ける”を外国語に直訳すると、化学反応を操る能力とは別のコトダマになる可能性が高いと考えられます。実際に『バーニング・ダンサー』でも、永嶺が“化ける、で化学というと、極めて日本語的な発想に聞こえる。外国語訳はどうなっているのだろう。”
(同書167頁)と疑問を抱いており、これが“翻訳の問題”の伏線といえるかもしれません。
クライマックスで明らかになる、“沙雪が死んでいた”という真相には仰天しました。沙雪の靴に付着していた葉っぱから、山下公園での出来事の順序を解き明かすことで真相に至る推理もよくできていますが、李の無力化を狙った趙の「封じる」のコトダマ(*3)によって、時を同じくしてバトルの側でも真相が発覚するという演出がお見事。そして、本書の冒頭からすでに作者の術中にはまっていたことにうならされます。
よくよく考えてみれば、「射る」のコトダマの事件だけでは長編ミステリの謎解きとして物足りないのは明らかですし、(ジェフリー・ディーヴァー『エンプティー・チェア』を下敷きにしたような)『デッドマンズ・チェア』という題名からして、“誰が死者なのか”が重要なポイントであることを暗示している(*4)のですが、にもかかわらず、完全に騙されてしまったことに脱帽。
美鈴が「蘇らせる」のコトダマ遣いであることを明かした後、“李も、本当は殺されるところでした”
(40頁)から“李も銃で胸を撃たれて……”
(41頁)という言葉が絶妙で、沙雪ならずとも“李を蘇らせた”と思い込まされてしまうのは不可避。そして、沙雪から情報を得るSWORDの面々も同じように思い込む(*5)のはもちろんのこと、李が撃たれた状況から楊会までもが同様に誤認することで、非常に強力なミスリードとなっています。
“死者には記憶の混濁が見られることがある”
(94頁)という設定が不可欠なのはもちろんです(*6)が、まさか自身が死んでいるとは思いもしない沙雪の視点で進んでいくのが効果的ですし、美鈴も沙雪に対して積極的に真相を明かすはずがないのは確か。そしてそもそも、(少なくとも当初は)沙雪が死ぬ理由/経緯がまったく想定できない(*7)わけで、沙雪がすでに死んでいる可能性など頭に浮かびもしないのも当然でしょう。仮にその可能性に思い至ったとしても、沙雪が命を落とした経緯そのものがもう一つの謎として立ちはだかるところが非常によくできていると思います。
*3: 楊会の能力者狩りについての、“どんなコトダマ遣いであろうと、殺せるのはなぜだろう?”
(39頁)という沙雪の疑問が、能力のよくできたヒントになっています(これも言葉の第一義的には、“(物理的に)密封する”能力になりそうな気が……)。
*4: 題名だけではややわかりにくいかもしれませんが、“死者の座る椅子は一つ。”
(47頁)という沙雪自身の独白が、よりストレートなヒントになっています。
*5: ただ一人真相を知っている三笠が、“美鈴は現在、一人蘇生させている。”
と“フェア”な表現をしているのはご愛嬌ですが、それを受けた望月の“そうか。李を生き返らせて”
(いずれも304頁)という独白で目立たなくなっています。
*6: もう一つ、“蘇生されたコトダマ遣いは、生前遣っていたコトダマを遣える”
(96頁)という設定も重要で、沙雪の死を隠蔽すると同時に、李がコトダマを遣っても不自然ではない状況がうまく作り出されています。
*7: 最終的にはやや浮いている感もある川添の事件ですが、それが発生したことで、本書の冒頭で沙雪が横浜にいることに自然な理由が用意されているのが見逃せないところです。
沙雪の死が明らかになると、小鳥遊姉妹が三笠に強い疑いを抱いていたことや、現場が三笠の住む横浜であることなどから、三笠に殺されたことまでは見当がつきますが、そこに本物の「読む」のコトダマ遣いが関わってくるのが予想外。三笠が前面に出している「読む」のコトダマは、てっきり「真似る」で獲得したものだと思い込んでいましたが、そうであれば本物の「読む」のコトダマ遣いが別に存在するはず――というのは確かにそのとおりで、「読む」のコトダマ遣い・周防(*8)が三笠の手の内にある、という沙雪の推測にも納得です。
実のところ、「真似る」のコトダマを念頭に置けば、三笠が「読む」のコトダマを遣えたとしても何の証明にもならないわけですが、にもかかわらず、“三笠課長の「読む」は(中略)発動している瞬間を押さえるのは難しい”
(173頁)という永嶺の独白や、“『読む』なんて持っていようがいまいが、証明出来ない能力”
(175頁)という趙の言葉で、あえて三笠が「読む」を持っていること自体に疑問を投げかけてあるのは、“本物”が登場してくることを暗示する伏線といえるかもしれません。
三笠の尻尾をつかむための切り札となるはずった周防が、三笠の“犬”だったという致命的な誤算は、やはり何ともいえないものがあります。もっとも、沙雪は周防に関して“仲間として協力しているのか”
(330頁)とまで想定していたわけですから、まずは慎重に“思考の盗聴”から始めるべきだったはずですが、物語の展開上致し方ないところではあるでしょう。いずれにしても、“「伝える」が姉妹間に限らないことを三笠に知られた上で、沙雪が三笠に殺された”経緯の説明として、十分に納得のいくものになっているのがさすがです。
川添の「射る」や沙雪の「伝える」を新たに手に入れるなど、底の知れない三笠ですが、「真似る」に対抗できそうな「封じる」(*9)を持つ趙の協力をとりつけ、さらに三笠の弱みとなり得る周防を手に入れたとなれば、まだまだ逆転の目はありそうで、今後の展開からますます目が離せません。
*8: 序盤に勅使河原が、“周防とかなんとかとか言ったかな。予言が出来るだなんだと宣って、少し騒ぎになってから、失踪した”
(25頁)と言及しています。
*9: 一時的に能力を“封じる”だけでなく、「蘇らせる」に対してと同じように“リセット”
(348頁)までかけられるとすれば、三笠が「真似る」で獲得した他のコトダマがすべて遣えなくなる可能性もありそうですが、はたして……?
ところで、「偏る」のコトダマについて“S文書”には“多くの能力者はその所持を自覚しない”
(171頁)とあり、また客観的に判別できない「偏る」のコトダマ遣いを“『封じる』の応用”
(174頁)で見つけ出したとされています。この発見法そのものはよくできていると思うのですが、客観的に判別できない能力の所持を“自覚しない”
ということは、能力による現象を認識して初めて自身がコトダマ遣いだと気づくということになりそうですが、これは大いに疑問です。
例えば、桐山の「硬くなる」などはいわば“自動詞的”な能力であり、かつ限定条件が単純なので偶然発動することもあるかもしれません(*10)が、永嶺の「入れ替える」のように対象を操作する“他動詞的”な能力の場合には、意図して操作の対象を選択する必要があるわけですから、自覚なしに能力を発動させることができるとは考えにくいものがあります。さらに、三笠の「真似る」や趙の「封じる」などは完全に“コトダマ遣いありき”の能力なので、能力が偶然発動するような機会そのものがまずない(*11)といえますし、「真似る」に至っては相手のコトダマ遣いを殺さない限り発動しないので論外です。
作中では今のところ、“コトダマ遣いがどのような経緯でコトダマを得た(ことを知った)のか”がまったく描かれていませんが、前述の問題を踏まえると、“コトダマに“選ばれた”際に限定条件も含めて“天啓”を得た”というのが自然で、「偏る」の“自覚しない”
というのは少々筆が滑ってしまった(*12)、といったところではないでしょうか。
*10: 郭の「潜る」は、現象が自身の変化によるものかどうか判然としませんが、周囲の環境の方が変化しているとしても対象(範囲)が限定されているようなので、「硬くなる」と同じく偶然発動することもあり得るのではないでしょうか。
*11: SWORDにコトダマ遣いが揃っていることが「偏る」で説明されているところをみると、“スタンド使いコトダマ遣いは引かれ合う”といったことはなさそうです。
*12: もちろん、「偏る」だけが特殊(なので“S文書”に書かれている)ということもあるかもしれませんが……。