日記のフリ 日記というよりは、気になったこと、興味のあることを忘れないようにメモしてる、ってほうが正しいので「フリ」。
日付ごとにアンカー付けています。e.g. http://www5a.biglobe.ne.jp/~nanatsu/diary0111.htm#20011101
2001年11月
読・観・聴・その他
行定勲『GO』@池袋シネマサンシャイン
ロベール・ブレッソン『抵抗』@下高井戸シネマ
アルノー・デプレシャン『エスター・カーン めざめの時』@シャンテ・シネ
阪本順治『王手』
エリオット・リード『恐怖へのはしけ』
ジャン・ルノワール『ゲームの規則』@下高井戸シネマ
カトリーヌ・アルレー『理想的な容疑者』
ジョン・カサヴェテス『グロリア』
アルフレッド・ヒッチコック『バルカン超特急』
鈴木清順『ピストルオペラ』@テアトル新宿
ランダル・ウォレス『仮面の男』
カトリーヌ・アルレー『呪われた女』
ジョニー・トー『Needing
You』@新宿ピカデリー4
ルイ・マル『鬼火』
ノルシュテインとコズロフ・作
ヤルブーソヴァ・絵『きりのなかのはりねずみ』
ウォーレン・ビーティ『天国から来たチャンピオン』
ロベルト・ロッセリーニ『神の道化師、フランチェスコ』@東京国立近代美術館フィルムセンター
岩井俊二『リリイ・シュシュのすべて』@シネマライズ(11/17)
石井輝男『恐怖奇形人間』@自由が丘武蔵野館
よしながふみ『西洋骨董洋菓子店』(3)
ジム・ジャームッシュ『ナイト・オン・ザ・プラネット』
岩井俊二『打ち上げ花火、下から見るか?
横から見るか?』(11/20)
岩井俊二『四月物語』
『「リリイ・シュシュのすべて」オリジナル・サウンドトラック [アラベスク]』
アドヴェンチャーズ・イン・モーション・ピクチャーズ チャイコフスキー:バレエ『白鳥の湖』 マシュー・ボーン振付
藤村和夫『蕎麦屋のしきたり』
岩井俊二『打ち上げ花火、下から見るか?
横から見るか?』(11/25)
岩井俊二『リリイ・シュシュのすべて』@シネマライズ(11/28)
カトリーヌ・アルレ『21のアルレー』
オキサイド&ダニー・バン『RAIN』
高田明和『ウツな気分が消える本』
30(金)
先日食べた鯖のコチュジャン煮が急に食べたくなって、あのやわらかさと味には絶対及ばないと知りつつも作ってみた。やっぱり、あの骨までやわらかい仕上がりにはならなくて残念。
会社で配られたクッキーを食べて驚く。ほろっと崩れるチーズ風味のや、薄い薄いチュイール……。クッキーを食べて感動したことなんて今まで経験ない。配ってくれた人に「どこの?」 と聞きに行くと、ちょうど別の人とそれを話題にしてて、「やっぱり! すごくおいしいよね。それがねー、大阪らしいんだけど聞いたことないの」と言ってクッキーの入っていた青い缶を見せてくれた。「ロー(なんとかかんとか)」。「東京では聞かないねえ」。会社の住所は大阪でした。自分で買って食べたいくらいおいしい。大阪でクッキーの有名なお菓子屋さん、あるいはクッキーもおいしいお菓子屋さん、てことかあ。気になります。(判明→see12/3)
高田明和『ウツな気分が消える本』光文社カッパ・ブックス,1999 を読んだ。ウツな気分を吹き飛ばすための精神論ではなく、ウツという状態になる理由などの具体的な説明がなされる。というより、ロボトミーの話を読んだという印象。結局ウツへの対処法は最後の最後にちょちょっと出てくる。……微妙にトンデモ本ぽかったです。
29(木)
試写会に連れていってもらいました。オキサイド&ダニー・バン『RAIN』(タイ・2000)。耳の聞こえない殺し屋が純粋な少女と出会うが…。
映像は頑張っているけど物語は物足りなかった。彼女と出会うまでは殺し屋として淡々と仕事をこなしていたのだろうが、出会ってからも葛藤を感じる場面は見受けられず、気持ちの揺れがあまりわからない。だから、彼女を思う気持ちも淡白すぎていまいち伝わってこなかった。ただ、彼の静寂を感じつつも画面の盛り上げ方には迫力のある音づかいをしているという落差は興味深かったし、タイトルに使っているだけあって、雨、というより雨粒の表現は美しかった。
渋谷東急3ほかで2002年1月下旬より公開予定。
28(水)
シネマライズに、2回目の岩井俊二『リリイ・シュシュのすべて』をみにいった。ここ1週間くらい英語字幕付きで上映しているようです。男の子が日本人、女の子が外国人のカップルがみに来ていました。この間も今回もお客さんがやけに静かです。シーンとしてみている。エンドロールの時に出てゆかない。というより、出て行けない気分になるのは必至。
前回みたときよりは冷静にみられましたが、後半にいくにしたがって心に揺さぶりがかかってくるのがわかる。エンドロールが流れているところにかかる音楽と映像で、はああああと決定的に沈み込んでしまう。そして帰りはずーんとした気持ちで賑やかな渋谷の街を駅まで歩くという苦痛が待っているのだった。
上のシネマライズで上映しているジャン=ピエール・ジュネ『アメリ』は立見だって〜。めちゃ混みみたいです。
カトリーヌ・アルレー『21のアルレー』安堂信也訳 創元推理文庫,1985(Catherine Arley,"AMOURS,DELITS ET MORGUE & LE PARTI LE PLUS HONORABLE",1985)を読み終わる。21入っていることもあり、とても短いものも多く、短編が苦手な私でも楽しく読みました。SFちっくな作品があったり、完全犯罪+良心の呵責という作品もあったり、意外なアルレーを読めて面白い。ダントツで印象の強いのが「地獄へのツアー」。無謀な砂漠ツアーの果ての地獄行といった物語ですが、残酷で冷たく容赦のない描写がアルレーの本領発揮といったところ。
27(火)
『明治の文学 永井荷風 谷崎潤一郎』筑摩書房,2001/「ERIO
vol.23 週末、料理にはまる。」NHK出版,2001 を買いました。「ERIO」の記事で、「手みやげセレクション」と「週末音楽」が役立ちそうでいい感じです。
フランク・キャプラ『或る夜の出来事』(米・1934)。一番最初にみたフランク・キャプラ作品でした。細かいところを忘れているので、みなおしてみた。
フランク・キャプラだし、ハッピーエンドに決まってるーと思ってみててもハラハラする。ぎりっぎりまでひっぱるのがうまい。意地張ってる間には「似合いの夫婦」なんて3回も言われてて、やっと一緒になったら「あれは結婚してないね」だって。面白い。
26(月)
水野晴郎『シベリア超特急』(日・1996)(感想)のDVDが発売されたようです(→内容)。“※諸般の事情により主題歌「シベリア超特急」は収録されておりません。”だって。劇場版では2回(?)あったとかいうどんでん返しがDVDだとみられるのかな。ビデオでしかみたことがなく、それは普通(!?)に終わります。
25(日)
返事を読んで、伝わったのかもしれないと思った。
アドヴェンチャーズ・イン・モーション・ピクチャーズ チャイコフスキー:バレエ『白鳥の湖』 マシュー・ボーン振付,1995(WPVS-4108)
たたみかける展開に釘付けでした。白鳥をアダム・クーパーが演じています。スティーブン・ダルドリー『リトル・ダンサー』(英・2000)(感想)で最後にちらっと後姿が見える人です。白鳥とその群を男性が演じるというのには全く違和感がなく、それよりも、「これもバレエなんだ?」という全体の雰囲気や振付の斬新さに驚きました。型のあるものは美しいし、その制限の中で表現されたものを感じる楽しさがあると思います。同じ動作でも、ちょっとした角度や広げる大きさ他の身体の部位とのバランスによってこちらに伝わるものが違ってくるからです。
藤村和夫『蕎麦屋のしきたり』NHK出版 生活人新書,2001 を読み終わる。そでの部分には、「蕎麦屋での粋な作法を、元「有楽町・更科」の四代目店主が、豊富な薀蓄とともに伝授」とあります。「豊富な薀蓄」が9割方といったところ。蕎麦屋にとっての上客はこういう人ですというのが書かれていますが、飲食店共通のような気がするので、客として参考にしようと思います。
岩井俊二『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』をもう一度みた。小学校高学年頃は、女の子のほうが外見も内面も大人っぽい。それでも、夜のプールの中にいるときの男の子は女の子と同じような大人な顔をしてた。水の揺れと心の揺れが手持ちカメラ(?)で表現されていてきれい。せつない一言を残し丸い光の輪となって行ってしまう彼女。下から見る花火、横から見る花火、どちらの構図もいい。そして花火はさまざまな「終わり」を表現しながら、ふっとはかなく消えゆく。
より好きだと思った。
24(土)
板橋付近から巣鴨を経由して、紅葉が美しかった飛鳥山公園まで散歩。巣鴨は4のつく日は縁日なので、もんのすごい混みよう。商店街を抜けるのに1時間かかってしまった!
若者が小さくなって歩く街です。
心配している、元気になってほしい、その2つを伝えるために、その言葉以外でなんて言ったらいいのかわからない。言葉が自分から一番遠く感じるのはこういうときだ。いっそ飛んでいって抱きしめたいと思う。
23(金)
国会議事堂前で降りて、国会議事堂を一周。六本木を経由して、麻布十番まで歩く。「更級堀井」(港区元麻布3-11-4)で蕎麦を食べてから、善福寺の樹齢650年だか750年だかの逆さイチョウを見にいく。霊感の全くない私でも、なにかが宿っていそうな気がした。その後、広尾まで歩いて地下鉄に乗った。
『「リリイ・シュシュのすべて」オリジナル・サウンドトラック [アラベスク]』(TOCT-24689)を買いましたが、映画での印象より弱い。音楽を聴いたからといって映画の場面がよみがえってくる、ということがない。自分の頭の中で再現されるオープニングの映像と曲のほうが、“耳には聴こえてない音”だというのに映画全体を鮮明に思い出させる。
22(木)
朝の満員電車の中で、自分と似た男の人を見た。自分で似てると思っただけで、人からみたら違うかもしれない。でも、髪は短く色を入れていて、その感じがまず似てると思ったし、眼鏡のセルフレームのはりあわせの色まで似ていた。横顔を眺めながら、どうして男の人だと思ったんだろう?
と考える。顔を見て、瞬間、男の人だと判断したそれはどこから来るんだろう。駅に着いて彼の服装を見て、やっぱり男性だとわかった。服装で?
それも、どうして? だなあ。目に見えるものではなく、「たたずまい」なのかなあ。
21(水)
岩井俊二『四月物語』(日・1998)。
『Love Letter』は冬、『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』は夏、そしてこれは春。
最初の桜が雨に似すぎてて降らせすぎだと思った。でも、最後の雨に今度は桜を思い出し、あれで良かったんだ、に変わった。どちらも「これから」を祝福し、あたたかく降り注ぐもの。
光の使い方もたまらないし、雨の音にかき消されそうな声を聞いていたら「そうか、音が邪魔にならずに、逆に発話を助ける場合もあるんだ」と気付いた。ここまで甘酸っぱいと最後のセリフが逆にすがすがしい。
それにしても、大学入って一人暮らしってこんなにドキドキするものなんだ! はぁ〜〜。メイキングはともかく、『生きていた信長』の本編が入っていたのにはびっくり。
20(火)
家に帰って顔を洗うと、やる気が出ます。家では別にやる気を出す必要はないですが、少し眠いのや怠け心がきれいになくなります。するべきことをしてしまいますか、って気になる。
岩井俊二『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』(日・1993)。
夜のプールの場面の美しさには胸が苦しくなった。夜も水もなんて優しいんだろう。この場面からの余韻がぶつりと切れることなく静かに続き、最後の場面でさらに深まる。映画が終わっても、せつなさの余韻がずっと続く。
19(月)
昨晩。横になっても眠れないまま時間が過ぎ、そのうち「わー」という声が聞こえてきて流れ星が見え始めたことを知った。外に出て空を見る。確かに流れ星を見た。
Nさんと福田屋に行った。Nさんは今月末で定年退職です。お酒とおつまみと最後に蕎麦。自分ばかり喋ってた気がする。
..
ここ数日、自分の中に入ってきた気がかりなメールとほっとするFAX、感情を揺さぶられるのは音と映像、翻弄されるのはいつも言葉によってだ。鈍感な私にもセンサーというものは確かに存在していて、それに触れられると途端に面倒くさくなる。面倒で気詰まりで落ち込む。でもどうってことない。
18(日)
よしながふみ『西洋骨董洋菓子店』(3)新書館,2001を読んだ。
ジム・ジャームッシュ『ナイト・オン・ザ・プラネット』(米・1991)。
5つの街のタクシー内物語。
ロサンゼルス編は、ジーナ・ローランズも良いけれど、ウィノナ・ライダーの芯の通った感じが良い。パリ編は決まりきった話であまり面白くないし、ローマ編のロベルト・ベリーニ、うるさくてやっぱり好きになれない。同じ喋りだったら、NY編のほうが断然楽しい。二人(のちに三人)でちゃんと会話をしているから。最後のヘルシンキ編は、一番話を聞くべき(?)な人が置いてきぼりくらうのが面白いな。
夜中に見ると雰囲気盛り上がる。
しし座流星群か。
17(土)
岩井俊二『リリイ・シュシュのすべて』(日・2001)@シネマライズ。
心をかき乱された。物語からは目をそらしたいのに、美しすぎる映像がそうさせてくれない。映画館を出た後しばらく膝ががくがくし、みている間よりもみおわってからのほうが重さを感じる作品だった。細かい不満点はあっても今はただそれも気にならないくらいの圧倒的な余韻にひたっている。
この映画はきっと好きになる、と思う映画には最初の映像でノックアウトされることが多い。今回も、ざあっと遠くまで広がる(その遠さといったらない)田んぼの中で一人音楽を聴く主人公の映像(そしてひたすら遠くにある道路には車が走っている)で、「ああ、もうこの映画を愛さずにはいられなくなるんだ」と実感した。
場面で使い分けている映像の質感、色味が素晴らしい。そして映像の美しさに釘付けになっている目に映る物語はやりきれないのだ。なんて残酷なみせ方。
自分にリリイ・シュシュとドビュッシーを教えてくれた久野に対して、ああいうことをしてしまった星野、そしてそれを手引きした蓮見。傷つけ傷つき自分に刃を向けているようなあのエピソードの、張り裂けそうな精神的虐待。沖縄で死にかけた星野はあのとき死んでしまって、息を吹き返した時には別人になった、そう思うしかない。
津田と蓮見のファミレスでのシーンには泣きそうになった。「どうして断ったんだよ」。カイトを楽しんだ彼女のあまりにも普通の女の子の笑顔。
この映画のコピー、“十四歳の、リアル”。映画をみ終わった今、「これが彼ら十四歳のリアルな日常です」という意味ではないと思っている。ハタからみたら「リアル」に見えることも、彼らにとっては「リアル」ではない(「リアル」と思いたくない)ことがあると思う。彼らにとっては、信じられない、信じたくない日常の状態・環境を「リアル」とは呼びたくないし、呼べないのではないか。「リアル」と「日常」は結びつかないのだ。安らぎを感じるとき・こと・場所、それしか「リアル」とは呼べない。そして、逃げたい何かがあるから、「リアル」を求める。
いつのときであっても過去には戻りたくないし、ましてや14歳の頃なんて自殺したいと思ってたからその頃を思い出すような映画は少し怖かった。でも、みて良かった。またみに行きたい。
胸がいっぱいになると、お腹もいっぱいになる。でも、松翁(千代田区猿楽町2−1−7)に行き、ざるそばとけんちん汁というのを頼んだ。蕎麦は量がたっぷりしていて、おいしい。けんちんでさらに満腹。
石井輝男『恐怖奇形人間』(日・1969)@自由が丘武蔵野館
結構キツイ描写も多く、昨年(感想)みたとき、よくちゃんとみられたなあと我ながら感心。ほぼ満席の観客は“わかってる”人が多く、笑うところでは笑いが、そして最後は拍手が!
16(金)
東京国立近代美術館フィルムセンターで始まった「イタリア映画大回顧展」。ロベルト・ロッセリーニ『神の道化師、フランチェスコ』(伊・1950)をみに行った。300席完売。
「中世の聖フランチェスコと修道士たちの平和な共同生活を10のエピソードで描いた歴史物の名作。登場人物全員を実際の修道士が演じた。ニュープリント。」(上映スケジュール/上映作品より)
光がさした時の、穏やかだけれど確かな眩しさ。修道士たちは、(うまい表現が見つからないのだけど)無邪気な子供のように見えた。子供から残酷性を取り除いた純粋な存在というか。フランチェスコがらい病人と出会うエピソードが心に残っている。二人の間に言葉はなく、フランチェスコはそっと彼を抱きしめるだけ。14日にみたばかりの『鬼火』が思い出されてならなかった。
ジョン・カサヴェテス『グロリア』をみたときに、流れていた音楽に聴きおぼえがあるような気がしたけれど思い出せない。『アランフェス協奏曲』ではないよね……。うまく調べがつかない。
15(木)
久しぶりに本を買いました。
よしながふみ『西洋骨董洋菓子店』(3)新書館,2001……Nさんも読む気でいます。
カトリーヌ・アルレー『21のアルレー』安堂信也訳 創元推理文庫,1985
藤村和夫『蕎麦屋のしきたり』NHK出版(生活人新書),2001
坪内稔典『風呂で読む 俳句入門』世界思想社,1995……「湯水に耐える合成樹脂使用」です。
ノルシュテインとコズロフ・作 ヤルブーソヴァ・絵『きりのなかのはりねずみ』こじまひろこ訳
福音館書店,2000
『きりのなかのはりねずみ』。『霧につつまれたハリネズミ』という1975年のアニメーションがあるらしいのですが、ビデオが見つからないのでみることができないでいます。仕方がないので、昨年発売された絵本を買って我慢というわけです。
はりねずみが友達のこぐまの家に向かいます。一緒にお茶を飲みながら星を数えるのです。手にした水玉の包みは、こぐまの大好きな「のいちごの はちみつに」。もう薄暗い中、はりねずみの冒険のはじまりです。話も1ページ目から引き込まれるし(訳が素敵です)、絵の構図が迫力あるし、動物たちの表情がものすごく豊か。にやにやしたり、げらげら声に出して笑いながら読みました。お茶はロシアンティーだね。はぁ〜アニメーションでも見たいなあ。
..
ウォーレン・ビーティ『天国から来たチャンピオン』(米・1978)。交通事故で死んでしまったジョーだったが、それは天国のミスで、寿命は残っていた。ところが彼の身体は火葬で既に灰。出場が決まっていたアメフトの試合をあきらめきれない彼は目的に合った身体を探してゆく。
見事。既にどこかで経験してしまった物語のようでありながら、なぜか新鮮に感じられた。音楽と物語の雰囲気がぴったり。ベティ同様、私もじっとジョーの目を見つめてしまった。
14(水)
昨晩は映画をみながら寝てしまいました。
会社帰りに、新宿ピカデリー4へジョニー・トー『Needing You』をみに行く。この監督のアクション物は、クール、スタイリッシュ、渋い、という形容であらわされると思っている。でも、今回のこのラブコメディはそのどれもが当てはまらない。今までと全然異なるジャンルのものを作って正反対な雰囲気に仕上げるって、これもまた才能じゃない? 女の子をちゃんとかわいく表現するのにびっくりし、アンディ・ラウのさわやかさにこれまた驚いた。こういうアンディ・ラウだったらいくらでも見たい。ださロマンチックなジョニー・トー監督も楽しい。
..
ルイ・マル『鬼火』(仏・1963)の続きをみる。
アル中で自殺願望者のアラン。「縛っておきたかった」というセリフを聞いた瞬間、「この人、抱きしめられたいんだ」と感じた。彼が新しく人に会うたび、彼とその人の距離が絶望的に遠いのがわかり、たまらなくなる。人生がどうのこうのという会話の全てがむなしくて、そんなことを言うよりも心をこめて彼を抱きしめてあげてよ、と思った。
愛されたければ愛されたい人たちに会いに行く、人たちのいる場に出向く、そうしなければ始まらないのは頭ではわかっていても、耐えられないとわかっているからこそ行動できない(しない)こともある。傷つくのが怖いのは当たり前、それを「傷ついてもいいじゃないか」と言えるのは、例えば覚悟を決める時の自分自身に対してであって、他人には言えない言葉だと思う。傷つくのが怖くて、どうしていけないの? 生きたいから、自分をなるべく傷から守りたいと思うことが。
..
電車の降りぎわ、端の席の人の手にしていたメモがちょうど見下ろせてしまい、出だしのところで結婚式の挨拶だとわかった。席に座って本を読む時には隣の人や前の人の視線が気になるものだけど、自分に置き換えてみるとわかるように、隣の人が読んでいるものを知るには首を使ったり横目を使ったり、そういう見ようという意識がないと案外難しいし、前に座っている人の本なんて文字さかさまだし、カバーしてたら全然わからない。見やすいのは、ドア際に立ってる人が、端に座っている人の本を斜め後ろから見るのとか、同じ方向を向いて立っている人の、かな。人が読んでいる面白そうな本の題名を必死で解読したり探しあてたりして読んだのが今までに2冊ある。『シャャンプー・プラネット』と『イン・アンド・アウト』。どっちも合いませんでした。そういうものかも。
前におばさん2人が「重いけど嬉しいね」と袋にいっぱいの柿を持って立っている。片方のおばさんが私が死んだらどうのこうのと生命保険の話をしていたけど、柿の重さを感じてたら死はすごく遠く感じると思うから、このおばさんは死ぬなんて絶対実感してないよな、って勝手に思った。柿はどうも苦手な果物。
12(月)
留守電にFAXで答えると電話がかかってきて会話が始まる。私が妹に直接電話をすれば早い話なんだけど、FAXのほうがまとめて内容を送れるし、肉親にですますで書き送るというのが結構面白くて楽しい。相手を特定せずに通信手段のみで考えるならば、電話か手紙か、つまり音か文字かという比較よりも、リアルタイムか否か、そちらのほうが私が通信手段を選ぶときには重要。
電話:音+リアルタイム
ICQやIRC:文字+リアルタイム
FAXやメール:文字+リアルタイムではないが、発信したらすぐに相手に届く
手紙:文字+リアルタイムではなく、発信しても時間を経て相手に届く
電話は、こちらが何かをたずねた時に相手が答えるまでの時間や周りに漂っている空気もひしひし感じられるので疲れることがあります(もちろん、恋人同士だったらだからこその楽しさがあるのもわかりますが)。ICQやIRCもその即時性ゆえに返事を待っている間が少し苦手です。FAXや手紙は送ったら返事なんて忘れてしまえるのがいいです。本当に相手に届いたのかが不確かな感じがいいんです。
11(日)
カトリーヌ・アルレー『呪われた女』安堂信也訳 創元推理文庫,1984(Catherine
Arley,"L'OGRESSE",1981)
死んだ女の霊の支配を受けているとしか思えない超常現象がマリカの身に起きる。周囲の人間もそれを目にしており、それまでのマリカとのあまりの違いから「もしや本当に霊の仕業では」と半分信じてしまいそう。読んでいる人間は、地の文を信じて読んでいくしかありません。さあ行きましょう。
超常現象の解決は多分想像する通りです。それはいいとして、その他の処理の仕方に脱力します。これは人にすすめられない。やだわ、アルレーでこんな後味のいい(?)話。かえって落ち着かないよ!
..
夢を見た。友達と二人、田んぼの中を通ってたどり着いたような場所へ行った。その帰り、JRの駅へ向かうが、友達はカードを持っているのか先に行ってしまい、私は切符を買うために窓口へ行った。窓口で120円の切符1枚というと、硬い紙の切符を渡してくれながら「サイを」と言われる。サイ? 「サイってなんですか?」。手のひらのことらしい。両方の手のひらを窓口の人の前に出す。右手を握手される。握手されたまま窓口の彼は書き物を始める(いつのまにか私も座っている)。
「私の世代(確かに私は世代と言った)では、サイなんて言葉つかいません」と言うと、「サイが通じない人がいるなんて。私の周りではみんな知ってる」と逆に驚いた顔をされてしまった。
窓口のところに指輪がたくさんぶら下がっていて、結構安価で作ってもらえるようだ。多くは素材は判らないが象牙っぽい色の彫り物をした指輪。中にブルーを基調にしたビーズの指輪が2種類あった。書き物も終わり解放された帰り際、「これは全部あなたが作られたんですか」とたずねると、「そうです。なにか気に入ったのありますか」と聞かれる。「ブルーのこれ、きれいですね」と何気なく言うと、「その服に合いますね」と、私が手にしていたベージュのコートを指される。「コートには合うかもしれないけど、私自身には合わないから」と言ってその場を去りました。その窓口の男の人はちょっと私の好みでした。おしまい。
..
初めてモンサンクレールのケーキを食べ、あまりのおいしさにフォークを持つ手が止まって静止状態になった。そのままパタッと椅子にもたれかかりちょっと休止。ショートケーキを選ぶ人間の気持ちを知り尽くした見事な味。ここ最近、ロートンヌというケーキ屋さんにはまっていたのですが、webで検索してみると、このロートンヌはモンサンクレールの辻口氏がいたケーキ屋さんということがわかりました。つまり辻口氏はロートンヌから渡仏し、帰国後にモンサンクレールを開店したもよう。それで、モンサンクレールのケーキを食べてみたかったのです。……がんばれロートンヌ。
ロートンヌにはwebページはありませんが、こちらのページや辻口氏がいたころの紹介ページがありました。お互いの親交が続いているのを紙媒体で見ることがあります。ちなみに、それぞれのショップカードは双子のようにそっくりです。
10(土)
鈴木清順『ピストルオペラ』(日・2001)をみにテアトル新宿へ。2時の回はほぼ満席で、外に出たときには次の回の列もかなり伸びていました。
色づかいは期待したとおり凝っていて、物語より画面の中のそればかり目で追っていた気がする。反面、色づかいのインパクトのわりに、みおわってみるとあまり印象に残らない。
もし私の理解できない会話がされていても、会話をしている人たちの間で噛みあっているのを感じられたらそれで良い。今回は理解できる会話なんだけど、各人のセリフが物語や会話の流れの中での一つというよりも、それ自体で独立しちゃっているような気がした。
なので、物語の流れはわかりやすかったのにも関わらず、各人がバラバラな世界に存在しているように思えてしまった。バラバラなままでも良いけれど、一つの物語の中に収まったときに全体で構築される雰囲気とか、見かけは違ってもそれぞれの世界がどこかで通じてる感じ、というのをあまり感じられなかった。
予告でみた佐藤信介『修羅雪姫』の釈由美子、いい感じ。あのさみしげな顔と設定が合っていると思う。アクションももちろん、アクション時のきりっとした表情にも期待。みにいきたい。
ジョニー・トー『Needing You』と続けてはしごしようと思ったのですが、気温が低いせいか、またおでこが冷たくて頭が痛くなってきたので帰りました。身体をあたためたらすぐに回復。
ランダル・ウォレス『仮面の男』(米・1998)。
友達に聞けば誰もが「ディカプリオはどうでもいいけど、周りのおやじたちがかっこいいんだ!」と言う。いつかはみないとと思ってた。
もっとハチャメチャやってしまうのかと思ってましたが、見かけのわりには、「制約がある中で頑張る」という地味な感じも受けました。ディカプリオの二役の演技はわかりやすくて、それはそれで良かった。おじさんたち4人は、まあまあかっこよかったです。
9(金)
社食で「Aランチ、ご飯少なめでお願いしまーす」と言ったら、おばちゃんは「この間、WOWOWでゴダールの『映画史』をやっていたのよ」と切り出した。「ああ、やってましたねー。どうでした?」。なんでこんな会話をしたかは昨年の話からのつながり。ジャン・リュック・ゴダール『映画史』(仏・1989)の感想。(00/11/6)
(00/11/7)
(00/11/14)
(00/11/9)
『≒森山大道』@シアターイメージフォーラムに行く前に友達とカフェでご飯を食べた。彼女はココナツミルクフォー、私は鯖のコチュジャン煮とごはん。もうすっかり「食べる」体制です。鯖は骨までやわらかくなっているし、鯖ってこんなにおいしかったのか! と感動した。もっと魚を食べよう。
お腹も満たされたし、さて、シアターイメージフォーラムへと地図を頼りに歩いていると全然わからない。住所が合わない。見つからない。着かない。結局、上映時間を過ぎてしまい、見つからないままあきらめました。
仕方ないので、やけ酒です。別のカフェに行ってお酒を一杯ずつ。
全然話は飛びます。いい子ぶらないで言いたいことはハッキリ言ったほうがいいのだ。やわらかい表現というのは諸刃の剣になりえます。
8(木)
昨日買ったのは、福音館書店 母の友編集部編『ぼくらのなまえはぐりとぐら』福音館書店,2001です。
実を言うと、『ぐりとぐら』のシリーズは名前は聞いたことがあるのですが、生まれてこのかた読んだことがありません。小さい頃、絵本はいとこのおさがりを貰ったのがせいぜいで、私のために買ってもらった記憶がないです。いとこからのおさがりの中には、『ぐりとぐら』はなかったのでした。
昨日、本を手に入れた帰りに外でお茶を飲みながら「『ぐりとぐら』の世界をのぞいてみれば。」のところを眺めていたら、顔がにやけて困りました。「住人たち」やファッションの説明がイラスト込み載っているところです。それから、「大きな卵を見つけてそれで大きなカステラを焼いてみんなで食べた」というエピソードを知りました。
Nさんに話をしてみると、子供に読んで聞かせてたなあ、と言いながら、「ぐり ぐら ぐり ぐら」って言うんだよ。知らないよ! くそう!
小さい頃『ぐりとぐら』を体験できた子たちはいいなあ。書いてて矛盾してますが、「小さい頃読みました」とか「とてもいいですよ」なんて聞きたくないくらいうらやましい。悲しくなる。ほんと。
アルフレッド・ヒッチコック『バルカン超特急』(米・1938)。
やっぱり、水野晴郎『シベリア超特急』(日・1996)(感想)の元ネタ満載でした。最初の頃は話の先が全然読めなくて、サスペンスは盛り上がる一方。いやがおうでもぐいぐい引き込まれた。その後、大筋でどうなるかは読めても細かいところが読めない。結局ずっとハラハラさせられどおしだった。協力してくれるのかと思えば肩透かし、とか、もう安全かと思いきやその後が結構長い、とか。
こたつを出しました。
7(水)
カトリーヌ・アルレー『理想的な容疑者』荒川浩充訳,創元推理文庫,1981(Catherine
Ayley,"L'AMOUR A LA CATRE",1979)を読み終わる。
思い出すときに、誰かと誰かが会話をしてる場面しか浮かんでこない。それにしても同じ喧嘩するんでも日本ではキルケゴールの引用は出てこないだろうし、事情聴取(?)で「生と死の不条理」って言葉もつかいそうにない。そんなふうに人生を語る会話(?)で成り立ってる物語で見かけより重い。だから、これを日本の2時間ドラマに持ってくるとすごーく嘘っぽくなってしまうだろう。
アルレーの本を店頭であまり見かけなくなったということは、売れてないってことですね。心理的かけひきで進む物語と後味悪い結末って魅力ないかなあ。
ジョン・カサヴェテス『グロリア』(米・1980)。
感動で胸が苦しいので一気に書きます。感動という言葉の軽さが悔しい。アルレー書いている場合じゃないです。
グロリアの登場シーン、あのシワでもうノックアウトされた。フィルを一度突き放したあと、彼を守るためにした行為の直後の表情が痛々しい。フィルの話す言葉はこまっしゃくれてなくて良いし、二人が一緒に歩くときにグロリアは危険なとき以外は手なんかつながない。
それにつけてもラストシーン。(ネタバレ→)「フィルの位置からは彼女の声だけ聞こえてて、姿がまだ見えない。みている私も同じ立場で、フィルの姿を追った結果、やっとグロリアに到達する。あのスローモーション。そしてかつらを取ってゆく行為がなくちゃ完成しない二人の抱擁。」
とにかく胸が苦しくてこれ以上なにも入りそうにないのでもう寝ます。基本的な映画をみていないので、まだまだ楽しみは埋もれていそうです。幸せです。
本を1冊買ったけどあしたあした。
6(火)
冬の花火、学祭の可能性なんて考えてなかった。ありえる。
足が冷えて冷えて冷えてどうしようもなくて、ひざ掛けを巻きつけて過ごしている。養命酒のCMが耳に入り、「仕方ない、買って飲むか」と思うも、普通のお酒じゃだめなんだろうか。薬用がミソか。
5(月)
本降りだ。
ジャン・ルノワール『ゲームの規則』(仏・1939)@下高井戸シネマへ。
ブルジョワ世界の恋愛喜悲劇。登場人物たちの気持ちの矢印の方向がいり乱れてもう大変。ブルジョワ世界だなあ〜というふうにも一瞬思うんだけど、いやまてよ、なんかこの感じ、理解できなくないぞ。広い屋敷の中という設定がすごくいかされている。部屋から部屋へ、扉を開けたり閉めたりしながら繰り返される追いかけっこが、めまぐるしくもとても楽しい。「ゲームの規則」という題名がぴったりだなあと思いつつ、どうしてそう思うのか説明できません。規則がないゲームはゲームではない。彼らのしていることはゲームではないけれど、非常にゲームらしく見えるもの。
そうだ、今こそカトリーヌ・アルレー! という気分が盛り上がり、2冊買う。まず、『理想的な容疑者』荒川浩充訳,創元推理文庫,1981を読み始めるも、最初のほうって男女二人の痴話喧嘩えんえん続いてて、電車で読むとちょっと恥ずかしいです。
4(日)
阪本順治『王手』(日・1991)。大阪が舞台のドタバタ将棋話。赤井英和、加藤雅也、仁藤優子に広田玲央名、この微妙なキャストがぴったりはまってる。大阪以外では絶対作れない、こういう出来になれない、とひしひし実感したこのノリ。大阪には新世界っていう地名があるのかー。知らなかった。
麺版の「恐るべきさぬきうどん」が売ってたので買った。こんなのもあるみたい。
ドーンドーンと音がするので窓の外を見てみると本当に花火。南の方向にきれいに見えている。夏に見た花火大会のよりも華やか。あの方向に何があるのだろう、どこからの花火なんだろう、と地図を持ち出して南へたどってみるけれど、どこなのかわからなかった。冬の花火かー。
エリオット・リード(エリック・アンブラー)『恐怖へのはしけ』加島祥造訳,ハヤカワポケットミステリ,1959(Eliot Reed,"TENDER TO MOONLIGHT",1951)を読み終わる。普通に面白く読み進めていたら、だんだんつまらなくなってきた。説明っぽい物語。
私信>金曜夜はラムレーズン入りミルクレープでした。夜中の1時に。遅く帰った時コンビニ寄るのが好きなんです。
suchiさんの11/4付日記から飛んだとたん、ブハッと吹いてげらげら笑ってしまいました。「伊能忠敬ホームページ」 先日、予告編で小野田嘉幹『伊能忠敬 子午線の夢』 (11/17より公開)みたばかりで、おお伊能忠敬かあと思って飛んだら!!! 面白い! 勘弁して! ちなみに映画では加藤剛が伊能忠敬でいい感じでした。歩測だしちょっとみてみたい気もする。
3(土)
アルノー・デプレシャン『エスター・カーン
めざめの時』(英=仏・2000)@シャンテ・シネ
内面は熱くて見かけはクール、表情も感情もない、かたくなな女の子をサマー・フェニックス(リバー・フェニックスの妹)が好演。殻を破ることができない女の子が女優になるまでのこの物語と、サマー・フェニックスが女優になっていく姿がだぶる。サマー・フェニックスを撮っていたらこの物語になった、という感じだった。
「恋をしなさい」とアドバイスを受けて実際恋をした彼女。しかし、「恋をしなさい」とは、「恋をして、それを失いなさい」、そこまでを含むことなのかもしれない。
感情を持たない彼女にとって、感情を持つ状態とは混乱状態と同意、望むものではなかったようだ。けれど、それは生の実感でもあったはずだし、これで感情というものを体験したことにもなる。一度でも感情を持ったならば、今後は感情のある/なしの間を行ったり来たりできるのではないか。そういう意味では彼女の中に変化はあった、だからこそ“女優が誕生した”。
2(金)
ロベール・ブレッソン『抵抗 死刑囚の手記より』(仏・1956)@下高井戸シネマ。
ジョン・スタージェス『大脱走』(米・1963)(感想)をあまり楽しめなかった気持ちを思い出してしまった。ジャック・ベッケル『穴』(仏・1960)やこの『抵抗』のほうが断然印象深い。
静かで張り詰めた緊張感が必要なのだと思う。モーツァルトの音楽を使ってはいるものの全編を通じてではなく、その場で聞こえるであろう音しか聞こえないことが緊張感を生み出している。淡々とした目で描かれているのも良いと思った。
1(木)
行定勲『GO』(日本・2001)をみに池袋シネマサンシャイン。
話を聞いた側の桜井(柴咲コウ)の気持ちにもドラマはあったろうな…と想像す。
だって半年後……。
桜井(柴咲コウ)は、精神的にかなり父親の影響を受けていると思った。小さい頃からの精神的植付けって、きっと簡単にはひっくり返せないんだろう。それが当たり前という環境で育ったのならば。自分の価値観の変換を求められたはず。
対して、杉原(窪塚洋介)自身には自分の国籍に関しての揺れはないと思えたのだけど、桜井(柴咲コウ)の登場で初めて「離れていかれたらどうしよう」の不安を感じたわけで。
けれど、杉原は彼女とうまくいきさえすればそれでいいと思ってる。彼女と僕の世界が成り立てば。そういうさらっとした感じがとっても良かった。
恋愛においての障害はもう存在しないものと勝手に思ってたところにくらったビンタ、ではあった。「在日問題」を軽やかに描くのに恋愛は良きパートナーのようにも思えたし、「在日問題」を抜いたらこの恋愛に障害はなさそう。「在日問題」と「恋愛話」がきれいに組んだからこそ、物語が成立したと思えた。
でも、どこかが微妙に物足りない。軽やかさは素晴らしい反面、軽やかすぎることからくる物足りなさなんだろうか。本編よりも予告編のほうに疾走感を感じた。
気弱な警官役がはまっていた萩原聖人との場面は良かった。
31(水)
丸の内シャンゼリゼへ、久石譲『カルテット』(日本・2001)をみに行った。
袴田吉彦の魅力全開! といったところでした。物語は平凡で予想通りに進み、それが「予想通りの面白さ」にでもなればいいのですが、残念ながらありきたりな感じを受けただけにとどまりました。要素を散りばめつつも原因と結果が繋がらないので散らばったまま。心情の道筋がたどれません。
夜中1時すぎにシュークリーム。
30(火)
大阪のスクエアという劇団の『俺の優しさ』という公演を東京芸術劇場へみに行った。広告代理店での残業の長い夜。あまりベタベタなギャグという感じではなく、結構スマートな面白さ。大阪で受けたところと東京で受けたところは違うんだろうか、違うんだろうな、どこが違ったのかな、と気になりながらみてた。
29(月)
習い事の先生宅で卵をもらった。初産の卵なのだそうです。
28(日)
鈴木清順の『清順レア&コア・コレクション』@テアトル新宿ていうオールナイトの映画をみてさっき帰ってきた。コンビニ寄った帰り、ラジオ体操を始めようとしているおじいさんがいて、ラジオから「新しい朝が来た
希望の朝だ」の歌が流れてた。まだ覚えてるな、と確認した。
頭はハッキリしてるけど身体が眠いと言ってる。とりあえず寝る。
..
オールナイトの内容。
1.トークショー(鈴木晄:『殺しの烙印』『ピストルオペラ』編集&川勝正幸:エディター)
・『殺しの烙印』'67年公開版幻のシーン
・『殺しの烙印』清順監督インタビュー上映
2.『殺しの烙印』(1967)
3.『帆綱は唄う 海の純情』(1956)
4.『大江戸捜査網 花吹雪 炎に舞う一番纏』(1981)
5.『東京流れ者』(1966)
『殺しの烙印』(1967)。
ご飯の炊ける匂いが大好きな殺し屋No.3の宍戸錠が仕事の失敗により一転命を狙われる側に。No.1の殺し屋との関係が不可思議でコメディ入ってる。理解できる範囲と、はみだしちゃってる面白さが同居していて、映像も含めておしゃれでスマートで大胆。かっこよくてしびれた場面がどさどさある。真理アンヌの謎めいた美しさにも圧倒された。やりたいことをやったなあ、というのは感じた。エロ的に過激だとは思わなかったけれど、30年前だと思うとやはり大胆だったのかもしれない。それにしても、1967年公開時の黒マスクのかけかた自体のほうが“過激”。画面の半分くらい見えなくなってたりするのだ。
『帆綱は唄う 海の純情』(1956)。
海の男・春日八郎は、タイプの違う3人の女性からモテモテ。でも本人は真面目な硬派で、3人以外の船長の娘を好きなのでした。ドタバタとちょっぴりの人情のコメディ。ベタなギャグに会場ちょっと沸く。春日八郎を主役にしていて、ことあるごとに彼は(彼だけ)歌うのです。「歌謡映画」というジャンルらしい?
春日八郎は当時人気だったんだろうなというのがわかる映画でした。
『大江戸捜査網 花吹雪 炎に舞う一直線』(1981)。
題名だけ聞いたことがあるような気がする『大江戸捜査網』。テレビ東京で放映していたらしいです。妙に絢爛な場面があったりして、「らしい」のかも。かたせ梨乃@ホットパンツ姿(?)が出ていた!
『東京流れ者』(1966)。
これまたどうやら「歌謡映画」。渡哲也と松原智恵子が歌います。足を洗ったはずの渡哲也だが義理としがらみでまっとうな生活をすることができない。色彩がものすごく凝っていて『2001年宇宙の旅』の部屋を思い出したんだけど、『2001年〜』は1968年なんですよね。バーや部屋の色づかいや道具に現実感がなくて、でも「歌謡映画」や「任侠映画」なのだと思うとすごく面白い。それから、真っ黒な衣装の悪者たちが真っ黒な部屋にいるのかと思ったら、真っ白い服の渡哲也が扉を開けた途端、その部屋は真っ白い部屋だったのだとわかるのだ。すごい。映画の中で渡哲也が「東京流れ者」の歌を何度も歌うので、覚えてしまったよ(カラオケで歌えるくらい……)。
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黒澤明『用心棒』(1961)。
途中、ボロボロになる三十郎がいい。時代物にピストルが出てくると反則だ! と激しく動揺します。反則ではないですが、なんかこう無敵なものに思えてしまって。