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      無題

                      夏目漱石

元是太平子,
寧居忘亂離。
忽然兵燹起,
一死始醫飢。


               
           
******

無題
                       
   
元と是れ  太平の子,
寧居  亂離を 忘る。
忽然として  兵燹
(へいせん) 起り,
一死  始めて 飢ゑを 醫
(いや)す。

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◎ 私感註釈

※夏目漱石:明治期の文学者。慶応三年(1867年)〜大正五年(1916年)名は金之助。漱石は号になる。東京の人。
※無題:題を附けない。題が無い。詩詞で「無題」とする場合は、題をはっきり明示することが憚られる恋愛感情などの場合が多いが、漱石の場合はその作品の多くが「無題」となっており、それとは異なる。「無題」作品を見比べると、その表現内容もしっかりとした題が必要なものではなく、「仰々しく題を附けるまでもない」といった、意志表明になるのだろう。この作品はこの作品の原詩は、岩波書店の『漱石詩注』より採った。
※元是太平子:もともと平和な時代を生きてきて。 ・元是:もと。もとの。もともと。白居易の『九江春望』「此地何妨便終老,譬如
元是九江人。」 ・太平子:平和な時代を過ごしてきた者。この作品ができた時の二年前、日本はドイツに対して宣戦を布告して、第一次世界大戦に参戦していた。国史年表によると:陸海軍山東半島上陸、ドイツ領南洋群島占領、ドイツ租借地・青島(チンタオ)攻略、日本赤十字社のイギリスへ救護班派遣、海軍校航空隊創設…。漱石の歿後、引き続き、日本の駆逐艦の地中海派遣、軍事救護法制定、二十五師団・八八艦隊創設案、シベリア出兵、尼港(ニコライエフスク)事件と、この時代は多事であった。 ・太平:世の中が穏やかに治まっていること。平和。泰平。 ・子:男。人。ここでは作者自身のことになろう。
※寧居忘亂離:安寧な日々で、戦乱というものを忘れていた。 ・寧居:安心している。気楽にしている。 ・寧:〔ねい;nig2○〕多音字。ねんごろである。なお、〔ねい;nig4●〕は、なんぞ、いづくんぞ。反語。 ・忘:わすれる。 ・亂離:世が乱れて人々が離散する。
※忽然兵燹起:不意に戦争が起こったが。 ・忽然:不意に。たちまち。 ・兵燹:〔へいせん;bing1xian3〕戦争のために起こる火事。兵火。 ・燹:〔せん;xian3●〕野火。山火事。 ・起:おこる。
※一死始醫飢:死ぬことによって、やっと飢えをいやすことができた。 ・一死:ひとたび死ぬ。死ぬ。 ・始:はじめて。やっと。詩の構成から見れば「一死」の主部は「元是太平子」の「子」になろう。 ・醫飢:あまり見かけない語だが、吉川幸次郎先生は「平静な状態にいるものが、却って意識の下で、不平静なものへあこがれる飢え、それを今や始めて満足した。死によって。」とする。 ・醫:いやす。動詞。 ・飢:飢え。



◎ 構成について

韻式は「AA」。韻脚は「離飢」で、平水韻上平四支。「子」「起」は、勿論韻脚ではないが、詞韻で見れば、声調は異なるものの同一韻部になる。元曲の押韻のようになっている。次の平仄は、この作品のもの。

○●●○●,
○○●●○。(韻)
●○○●●,
●●●○○。(韻)
平成16.5.8
      5.9完



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