秦代 |
秦代は日本へ徐福の蓬莱への入仙。『史記』。 |
漢代 |
漢代では、「樂浪海中有倭人,分爲百余國,以歳時來獻見云。」(『漢書・地理志』の最後の方)というように歴史の表面に活動が現れた。蛇足になるが、『魏書』の方が史書としての成立が早いので、『漢書』の方が資料的に後になる。
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後漢 |
邪馬台国は後漢の時に記録されて「倭在韓東南大海中,依山島為居,凡百余國。自武帝滅朝鮮,使驛通於漢者三十許國,國皆稱王,世世傳統。其大倭王居邪馬臺國。樂浪郡徼,去其國萬二千里,去其西北界拘邪韓國七千餘里。其地大較在會稽東冶之東,」と位置が述べられ、その後、客観的で学問的な記述で温良な風俗としてとらえての紹介となっている。次に、「建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年,倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見。」と、その政治的な動きを記している。やがて女王国の記述となり、「倭國桓、靈間,倭國大亂,更相攻伐,歴年無主。有一女子各曰卑彌呼,年長不嫁,事鬼神道,能以妖惑衆,於是共立爲王。侍婢千人,少有見者,唯有男子一人給飮食,傳辭語。居處宮室、樓觀城柵,皆持兵守衛。法俗嚴峻。」と『後漢書・東夷傳』に伝えられている。これは、『魏書』とほぼ同様である。 |
南朝 |
『晉書』『宋書』などに、倭の五王の事績が載せられている。 |
隋 |
遣隋使。煬帝が気分を害したとされる、聖徳太子が関わった国書「日出處天子致書日沒處天子無恙。」の故事も残る。 |
唐 |
遣唐使や日本からの留学僧が渡った。阿倍仲麻呂は、とりわけ、詩歌で有名となっている。『哭晁卿衡』(日本晁卿辭帝都)李白 や『送祕書晁監還日本國』(積水不可極)王維である。王維は「海東國,日本爲大」と讃えてくれている。もっとも、「爲大」とは、「『海東國』は数々あれども、その中で日本が最もりっぱなものである」の意で、ここの「大」とは周りの諸国との比較であって、中国は含まれない。同時期に入れ替わるかのように、揚州大明寺の高僧・鑑真が日本は佛法有縁の國として、懇請に応じて戒律を伝えに来朝している。平安初期、嵯峨天皇の御代、日本の漢文学は一つのピークを迎え、“不減大唐高處”と謂われた。この頃までが、日本からの出超とも謂える状況が続き、日本の中国渡来文化の大部分はこの時代にやってきたともいえる盛況だった。やがて、日本の国風文化の進展とともに、遣唐使が廃止される。
時代はやや遡るが、白村江では、日本軍と唐軍が戦ったことも接触の一つとして残る。 |
宋 |
日宋貿易では、日本からの物が渡る。日本刀については、『日本刀歌(昆夷道遠不復通)」と、歐陽脩に詠われている。 |
元 |
『元史・本紀・世祖三』に、元から日本への「皇帝奉書日本國王:朕惟自古小國之君,境土相接,尚務講信修睦,況我祖宗受天明命,奄有區夏,遐方異域畏威懷德者,不可悉數。……以至用兵,夫孰所好,王其圖之。」と、日本の朝野を沸騰させた有名な国書がある。元寇。文永の役、弘安の役。南宋軍十万、来寇す。南宋の滅亡に伴って、無学祖元、明極楚俊などの禅僧の来朝がある。 |
明 |
日明貿易、勘合貿易で有名。足利義満(“日本王・源道義”)の朝貢(?)貿易。倭寇、沿岸を脅かす。豊臣秀吉の朝鮮征伐の折り、日本軍と明軍が戦ったことも一つの接触。
明末清初には黄檗山の隠元隆琦の来朝があり、その系統は、江戸時代の当代風の中国文化の窓口となった。 |
清 |
黄遵憲、秋瑾、(秋瑾については一項を設けているのでそちら『秋瑾詩詞』を参照)章炳麟、康有為、梁啓超、呉玉章、徐錫麟、鄒容、孫文、魯迅など、ある者は満州民族王朝に対する不満、ある者は日本の明治維新に因る欧化(近代化)の成功、またある者は、変法や革命の失敗に伴う清王朝からの避難、また、日清戦争の敗戦による衝撃:欧化した日本の勝利と自国の旧体制の疲弊に対する改良、それ等が入り混じって東渡して、日本の新思潮に触れるための来朝者が増加した。青年の日本への留学熱は大いに上がり、多い時は八〇〇〇人に上ったといわれる。ここでは、唐・宋期とは異なった雰囲気の作品が生まれた。秋瑾、呉玉章、康有為、梁啓超など、立ち場や思想によって表現内容が異なるが、この時代の詩詞は南宋の豪放詞に似た感じの物が多い。滅び行く我が民族、救わなければならない我が国家という憂国慨世のものである。ただ、ある意味から言えば悲惨な作品といえるものでもあり、現在余り紹介されていないような気がする。ここでの日本熱は、近代化への熱い希求であり、日本を通じての近代西洋文明の吸収という要素が濃い。日本が清朝打倒を標榜する革命家の巣窟となったのは、そのような事情による。
例外的なのが、黄遵憲である。彼は外交官として、明治維新後の新進日本に駐在し、当時の日本の諸多改革を目の当たりし、日本の近代化や資本主義の発展を具に体験した。そこから生まれた日本の朝野の人士との交流を通じての豊かな日本についての知識、幅広く、歴史から風俗に亘り、大量の資料に基づき、研究を深めた。同時に日本に対して、中国の古代文化の紹介にも努めた。黄遵憲は、近代中国の日中文化交流の巨人である。1885年光緒十一年の八月、彼が日本滞在期の資料に基づいた『日本國志』は、圧巻である。本サイトでは、二百首にも上る『日本雜事詩』を順次紹介していきたいと思う。文人学者の伝統的な秀作である。
文学者でも蒋智由、文廷式、鄭孝胥と、また、日本に関心を寄せた人物では『人間詞話』の王國維がある。 |
中華民国 |
同上、日本留学が多く、黄興など政変・革命の失敗による亡命もある。その反面、大陸での戦禍に起因する反日、抗日、やがて侮日といった詩歌が現れ出す。ただ、本サイトの閲覧者は日本人がほとんどと判断し、本サイトをご覧下さって気分を害されることは避けたく思い、ここには極力載せない配慮をしている。存亡之秋・戦乱の時代である。政治と避けがたく連動して、日本側に大陸や中国を詠う詩歌が増えた。
中華人民共和国建国より起算して10年ほど前までを、特に名付けて「抗日戦争時期」という。『白毛女』や、『紅灯記』に描かれている世界がそれである。 |
中華人民共和国 |
文革以前は、戦後日本社会の左傾土壌に根ざした古典的な日中友好運動に基づく、政治運動としての友好的な動きがある。その中で、老舎が日本の進歩的(?)人士と交わって穏やかな詩を遺しているのが好印象を与える。
文革期は、毛沢東思想が全ての尺度となり、その枠内で、或いは埒外でこっそりと作られた。 古い文物は排斥されたことは有名。毛沢東は嘗て『論反對日本帝國主義的策略』を述べたが、時代の流れの変化に合わせ「日本民族是偉大的民族,他決不會讓…。」とも言っている。文革は、革命やその影響下の文化の輸出でもあった。プロレタリア国際主義が標榜され、“狭隘愛國主義”は批判された。
文革終焉後二十年、中国は世界の東方に屹立していると、多くの出版物で言い出した。経済的には“改革開放”が言われたが、政治的には“愛国教育運動”が実施がされ、愛国運動が盛んになり、伝統と国粋に回帰していった。日本に紹介された象徴的な書物では、『中國可以説“不”』などがある。“尊厳來自於實力”、“關心經濟,…”、“富(國)強(兵)”と、中国が新たな躍進を始め、愛国主義に収斂し始めた時期であり、対日観は、正直のところ、厳しいものが多い。 経済上の往来は盛んになったが、人民共和国建国以降進められてきた政治優先、社会主義的な「人民」「友好」を標榜した交流はなくなったように見える。蛇足になるが、この前('04年正月)、古新聞('78年度の『人民日報』)を整理していると、“中日友好”の言葉が目に入った。長い間使われてきたが…、と思うと感慨深かった。
1998年(平成十年)頃以降、遺憾ながら反日気運とそれに対する反撥は、顕在化してきているのが肌で感じられるようになった……。祖国日本を愛し、隣国中国が好きな者にとって、心痛むことである。
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