「理科系の作文技術」/木下是雄/1981年、中公新書
事実と意見を分ける、事実の裏打ちのない意見の記述は避ける、1つ1つの文は、読者がそこまでに読んだことだけによって理解できるように書く、自分のした仕事と他人の仕事の引用とがはっきり区別できるように書く…。これらの指摘は、出版から20年絶った今でも、情報過多時代の要請は更に強まっており、重要性を増すばかりといえる。
本書は、市民が記者として活躍する上で文章力向上に寄与する重要な文献となり得る。日経以外の新聞には投書欄が一応あるが、これは意見が中心で、ニュースとは見なされていないから、扱いも全部同じで小さい。そこには、「一般読者はニュースを書けるはずがない」「ニュースは職業記者が書くべきもの」との大前提がある。これを一歩進めたのが、「週刊金曜日」の「金曜アンテナ」であるが、これも事実と意見が分けられておらず、扱いにも差がないため、コンセプトがよく分からないものになっていて惜しい。
本多勝一が「事実とは何か」で述べたことは、ここでも強調されている。「『夜桜は格別に美しい』と言いたい場合にも同様で、『あでやか』『はんなり』『夢みるよう』などと主観的・一般的な修飾語をならべるよりも、眼前の夜桜のすがたを客観的・具体的にえがきだし、それだけで打ち切るほうがいいことが多い」。本多は更に、事実は選択された時点でバイアスがかかっているため、客観的事実などは存在せず、選択された事実自体が意見の意味あいを持つ、としており、このあたりの議論は非常に興味深い。
日本の記者や編集者は、こういった基本文献を全く学ばずにいきなりOJTだから、新聞記事タイプの書き方ばかりが身につき、体系的な文章に関する知識が身に付かない。非効率である。少なくとも、下記文献は文章力を底上げする上で必読書だと思う。
「知のソフトウェア」
「私の体験的ノンフィクション術」
「事実とは何か」
「超文章法」
「超整理法」
「理科系の作文技術」
これだけだと、MECE、ピラミッド構成法といった体系的(もれもダブりもない)で説得力のある問題解決型の思考法・構成法が残念ながらいずれも抜けてしまっているので、さらに
「考える技術・書く技術−問題解決力を伸ばすピラミッド原則」
さらに「問題解決プロフェッショナル『思考と技術』」
をお薦めする。ただし、必要以上に難しく書いてある。バーバラミント氏には上記6書を読むことをお薦めする。一般的に、経営コンサルタントは文章表現力に欠け、新聞記者は概念的思考/体系的思考/問題解決力に欠け、学者は全てにおいて欠けている。どれも説得力をもった表現をする上では重要なことである。(2002年11月)
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1940年、潰滅の危機に瀕した英国の宰相の座についたウィンストン・チャーチルは、政府各部局の長に次のようなメモを送った。
われわれの職務を遂行するには大量の書類を読まねばならぬ。その書類のほとんどすべてが長すぎる。時間が無駄だし、要点をみつけるのに手間がかかる。同僚諸兄とその部下の方々に、報告書をもっと短くするようにご配慮願いたい。1)報告書は、要点をそれぞれ短い、歯切れのいいパラグラフにまとめて書け。2)複雑な要因の分析にもとづく報告や、統計にもとづく報告では、要因の分析や統計は付録とせよ。3)正式の報告書でなく見出しだけを並べたメモを用意し、必要に応じて口頭でおぎなったほうがいい場合が多い。4)次のような言い方はやめよう:「次の諸点を心に留めておくことも重要である」「…を実行する可能性も考慮すべきである」この種のもってまわった言い回しは埋草にすぎない。省くか、一語で言い切れ。思い切って、短い、パッと意味の通じる言い方を使え。くだけすぎた言い方でもかまわない。
書くことに慣れていない人は、誰が読むのかを考えずに書き始めるきらいがある。…読者が誰であり、その読者はどれだけの予備知識をもっているか、またその文書に何を期待し、要求するだろうかを、十分に考慮しなければならない。
(→日経はこのケースの典型だ。毎日、新聞を30分くらい真剣に読んでいる人か、その分野の専門家でもない限り、とてもついていけない。そもそも記事がどの程度読まれているかの調査さえしないのだから、どうにもならない)
主題をはっきり決めたら、次に、自分は何を目標としてその文書を書くのか、そこで何を主張しようとするのかを熟考して、それを1つの文にまとめて書いてみることを勧める。そういう文を目標規定文ということにしよう。…目標規定文を修正しないわけにはいかなくなるーー場合もある。書くことは考えること、考えを明確にすることなので、書き進むうちに、最初に空で考えたときの論理のアラが見えてくるのである。こういう意味では、最初に書く目標規定文は、書き改める可能性のあるもの、筋の通った文章を書くための一応の目標ーーと考えておくべきだろう。
読者がその論文を読むべきか否かを敏速に判断する便を考えて、結論あるいはまとめの内容が<著者抄録>として論文の冒頭、表題や著者名などのすぐ次に印刷されることになってきたのである。…表題は、的確に内容を示す具体的なものでなければならない。次に読者は、目次でみつけだした論文の著者抄録を読み、それによって本文を読むべきか否かを判断するだろう。…著者がこの2つのなかにエッセンスをつめこもうと努力するのは当然である。…重点先行主義の見本は新聞の事件報道記事だ。(→MyNewsJapanでも「起承転結」は禁止しよう)
新聞記事ではたいてい、リードのあとに、事件のまわりをくりかえしてグルグルまわりながら、いろいろの角度から眺めるという流儀の記述がつづく。原則として重要なことほど早く出てくるから、読者は、どこで止めてもそれなりにあまり偏らない情報を得ることができるわけである。
1つは、「なくてもすむことばは1つ残らず削れ」という、情報過多時代の要請だ。もう1つは、「あることが重要かどうかは読者が判断すべきもので、理科系の仕事の文書には<重要な><興味ある>…という類の形容詞を混入させるべきでない」とする客観主義である。結果として、原著論文では、<結び>または<まとめ>という節は、よほど長い論文は別として、姿を消してしまい、<論議>で終わるのがふつうのかたちになった。
パラグラフには、そこで何について何を言おうとするのかを一口に、概論的に述べた文がふくまれるのが通例である。これをトピック・センテンスという。…パラグラフに含まれるその他の文は、aトピック・センテンスで要約して述べたことを具体的に、くわしく説明するもの(これを展開部の文という)か、あるいはbそのパラグラフと他のパラグラフとのつながりを示すもの でなければならない。つまり、トピックセンテンスと関係のない文や、トピック・センテンスに述べたことに反する内容をもった文を同じパラグラフに書き込んではいけないのである。この意味で、トピックセンテンスはパラグラフを支配し、他の文はトピックセンテンスを支援しなければならない。
…「表の同じ段階のところには同じ格の項目を並べよ」としたのは、どの段階に並んだ項目をトピックとしてパラグラフを立てるべきかを考える便宜のためである。(→格=レベル)
パラグラフが変われば、読者はトピックが変わることを期待する。新しいパラグラフでは話題はどちらに向かうのか?そのパラグラフは文章ぜんたいのなかでどういう役割を負うのか?それを明示するのは執筆者のつとめである。
日本語では、いくつかのことを書き並べるとき、その内容や相互の連関がパラグラフ全体を読んだあとではじめてわかる…ような書き方をすることが許されているらしい。英語ではこれは許されない。1つ1つの文は、読者がそこまでに読んだことだけによって理解できるように書かなければならないのである。…欧米の読者は、日本人の書いた英文をしばしば「墨絵のよう」だと評する。自分で想像力をはたらかせて空間を埋めながら読まなければならないからである。慣れていれば格別の困難はないとしても、英語国民はそういう読み方には不慣れだから、墨絵的英文に接すると当惑してしまう。
論文は読者に向けて書くべきもので、著者の思いをみたすために書くものではない。序論は、読者を最短経路で本論にみちびき入れるようにスーッと書かなければならないのである。…著者が迷い歩いた跡などは露いささかも表に出すべきでない。
日本人は、はっきりしすぎた言い方、断定的な言い方を避けようとする傾向が非常に強い。たぶん、「ほかにも可能性があることを無視して自分の意見を読者におしつけるのは図々しい」という遠慮深い考え方のためだろう。ところがこれは、欧米の読者の大部分にとっては、思いもつかぬ考え方なのである。この日本式のゆかしさを解するには、自分たちのふだんの考え方をスッパリ切り替えてかかるほかないが、それは、たいていの欧米の読者にはできない相談だ。著者が、自説のほかにもいくつかの考えがありうることをたん借して、ぼかしたかたちで自分の見解を述べたとすると、それを読んだ欧米の読者は、著者の考えは不明確で支離滅裂だと思うだけだろう。…日本人が使いたがる「デアロウ」「トイッテヨイノデハナイカトオモワレル」「トミテモヨイ」等々の句を英語に翻訳することはまず見込みがない。
(→ひとつの基準として、その日本語は英訳できるか?があるといえる)
日本文学研究者ドナルド・キーン(米国コロンビア大学教授)が次のように言っている。「鮮明でない言葉はフランス語ではない」という言葉があるが、日本語の場合、「はっきりした表現は日本語ではない」といえるのではないか。
手許の雑誌「応用物理」をパラパラとめくってみたところでは、この種のぼかし表現のなかで最も頻繁に出てくるのは、トオモワレル、トカンガエラレルの2つである。
この章で説こうとしているのは、文章を書く際に1)事実と意見をきちんと書きわける2)仕事の文書では、事実の裏打ちのない意見の記述は避ける という2つの心得だが、その前提となるのは事実と意見とを峻別する鋭い感覚である。
<意見>は幅の広い概念で、その中には次のようなものが含まれている。…推論…判断…意見…確信…仮説…理論
事実の記述は真か偽かのどちらかだ。つまり、数学のことばを借りれば、事実の記述は二価である。これに反して、意見の記述に対する評価は原則として多価で、複数の評価が並立する。
事実の記述だけを取り出して考えれば、必要な注意は次の3つに尽きる。aその事実に関してその文書のなかで書く必要があるのは何々かを十分に吟味せよ bそれを、ぼかした表現に逃げずに、できるだけ明確にかけ c事実を記述する文はできるだけ名詞と動詞で書き、主観に依存する修飾語を混入させるな
文中に「便利な」とか「すぐれた」とかいう修飾語がはいれば意見が混入することになる。これは事実の記述の客観性をスポイルする。
意見の記述では、a意見の内容の核となることばが主観に依存する修飾語である場合には、基本形の頭(私は)と足(と考える、その他)を省くことが許される。bそうでない場合には頭と足を省いてはいけない のが原則である。
次の心得があれば用が足りる a事実を書いているのか、意見を書いているのかをいつも意識して、両者を明らかに区別して書く。書いたあとで、逆にとられる心配はないかと入念に読み返す。 b事実の記述には意見を混入させないようにする。
事実の記述は、一般的でなく特定的であるほど、また漠然とした記述でなくはっきりしているほど、抽象的でなく具体的であるほど、情報としての価値が高い。また読者に訴える力が強い。…「夜桜は格別に美しい」と言いたい場合にも同様で、「あでやか」「はんなり」「夢みるよう」などと主観的・一般的な修飾語をならべるよりも、眼前の夜桜のすがたを客観的・具体的にえがきだし、それだけで打ち切るほうがいいことが多いのである。(→本多と同じことをいっている)
…<字面の白さ>というのはそういう意味だ。
かたい漢語やむずかしい漢字は必要最小限しか使わないようにしてほしい。…○○的ということばはできるだけ使わないようにしたいものである。
能動態で書くと、読みやすくなるばかりでなく、文が短くなる場合が多い。
漢字の使い方について私が気をつけていることの1つは<漢字だけで書くことば>をベタに2つ続けるのは避ける ことだ。
原稿をいちど他人に読んでもらって、まちがっているところ、判らないところ、判りにくいところ、そのほか改良を要するところを指摘してもらうことを勧める。傍目八目ということばがあるが、実際、自分では当然と思って書いたことがひとりよがりであることを思い知らされたり、思いもよらぬ受け取り方をされてギョッとしたり、必ず得るところがある。…読んでもらう人がみつからないときには、原稿をしばらく(できるだけ長い期間)寝かせておいてから読み直すといい。忘却が目を新鮮にし。アラがよく見えるようにしてくれる。
「投稿の手引き」(→この記者版をつくろう)
原著論文は、新しい(オリジナルな…)研究…を記述するものでなければならない。しかも、読者が追試を試みようとするとき、また著者の論理を追跡しようとするときに必要な情報を、洩れなく書き込んだものでなければならない。(→記事でもこれが望ましい)
飛躍のない記述をすること。読者は、論文の主題ならびにそれに関連するいろいろな研究を、著者のように知り抜いているわけではない。著者が「これは書くまでもあるまい」と思って論理の鎖の環を1つ省略すると、読者はついていけないことが多い
事実と意見をはっきり区別して書くこと。特に事実の記述のなかに意見を混入させるな。これに似た心得として、論文の中では、自分のした仕事と他人の仕事の引用とがはっきり区別できるように書くことが特に重要である。(→記事でもそう!)
まぎれのない文を書くこと。理解できるように書くだけでなく、誤解できないように書く心がけが大切だ。
<論議>という節を設けないこともあるが、その場合にもこの要素を落としてはいけない。<主張する>立場にある自分から離れて、第三者として自分の主張を見直すことが大切なのだ。
法律的または道義的に機密とされていることを書いてはいけない。(→記事の場合はどうするか?)
書いた原稿をそのまま読み上げて聴衆をうなずかせるには、シナリオライターの才能と俳優の訓練がいるのである。
最初に「こういう目的でこんな研究をして、こういう結果を得ましたから、これを報告します」ということを、一分内外で話す。…冒頭にこれだけの情報を提供してくれない人の話は、無視したほうがいいことが多い。
「あの人の話は歯切れがいい」といわれる人の講演は、次の3つの条件を満たしているようだ。
a事実あるいは論理をきちっと積み上げてあって、話の筋が明瞭である b無用のぼかしことばがない c発音が明瞭