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paddler7j掲示板(pad吉掲示板)




◆ 英殿へ、沖縄の比嘉照夫農学博士からの返信。 投稿者:伊藤鉄郎  引用する 
令和6年10月24日 伊藤鉄郎様
平素は格別のご高配を賜り、厚く御礼申し上げます。
さて、今般は、貴殿著書 We are the brother countries Japan and Nepal をご恵贈頂きまして、誠にありがとうございます。また、ネパールで長年にわたりEM普及活動にご協力賜り、感謝申し上げます。
頂いた書籍は、EM研究機構の海外EM事業担当者へ共有し、ネパールでのEMの普及活動に活用するよう手配しました。
今後ともEMの普及活動にご協力下さいますようお願いします。先ずは略儀ながら、書中をもちまして御礼申し上げます。
地球環境共生ネットワーク
理事長 比嘉照夫 (秘書室 下地貴司)

2024/11/03(Sun) 08:31:51 [ No.10163 ]

◆ 恵子さんへ 投稿者:伊藤鉄郎  引用する 
いつもいつもお世話になっております。申し訳ありません。送料にもお金がかかつたことでしよう。ご恩に報いなければと思います。それと暮れになつたら蜜の入った美味しいりんごをお送り致します。それまでお待ちを。

2024/11/01(Fri) 20:37:19 [ No.10162 ]

◆ 予想通り自公過半数割れ、ざまあ見ろ。 投稿者:伊藤鉄郎  引用する 
今日は午後、峰村先生の往診日。帯状疱疹の名残りか坐骨神経痛か知らんが左側の腰が朝起る時もの凄く痛い。毎朝死ぬほど痛い。こんな思いをするくらいなら早く死にたいと思うけど神様中々死なせてくれない。さあお昼だ。今日はおうどんだ。昨日はつみれ汁だった。人間は誰でも老いれば病を得て死んで行くのが定め。こやつは今しばらく活かして置こうと思うているんかや。それだけの価値があるならうれしいな。

2024/10/28(Mon) 12:31:33 [ No.10161 ]

◆ ご依頼の件  投稿者:keiko  引用する 
本日(10/28)ヤマト便にて再送致しました。
私の聞き間違いで失礼しました。
今後はこの掲示板でご連絡いただければ幸いです。

2024/10/27(Sun) 19:05:33 [ No.10160 ]

◆ 楽しかったネパールでの EM農業普及活動 投稿者:伊藤鉄郎  引用する 
EMとは沖縄の比嘉照夫農学博士が開発した薬品(Efective Microorganizmの略語)で農薬と違い飲んでも無害どころか健康増進に役立つというわけで小生は毎日少量飲んでいるのでここ30年風邪も引かない。農薬飲んだら死んでしまいますよ。ご覧のように私はピンピンしていますと言うて飲んで見せたら、皆さん僕にも飲ませろ私にも飲ませてと引きも切らない。皆さん写真を見てのとうり、代わる代わるラッパ飲みです。まあ貴君の単細胞形思考には弱ったものです。

2024/10/25(Fri) 13:27:05 [ No.10159 ]

◆ わが「We are the brother countries Japan and Nepal」 投稿者:伊藤鉄郎  引用する 
貴君の言われるように校正をしなかったのはわての最大の手落ちであった。然しこの書に乗せてある写真は全て小生が撮ったものである。これこそは嘘偽りのない真実である。これらの貴重な写真に対して長野県教科書供給所は優良図書としたのであろうとわては信じて止まない。一例が長野日大高校の校内に貼られた掲示物である。東大をはじめ多くの名門大学への進学率の高さ。とりわけ医学部の合格率の高さが目に着く。長野日大高校は今年夏の県大会で優勝して騒がれたが、他の県立高校と同様に野球では生徒を取らないのだ。やりたい生徒たちがやっていてあれだけの成績を上げたのだから大したものだ。そんな学校はほかにあるまい。全国大会で一回選で負けても恥ずかしい事ではない。1点とっただけでも褒めてやりたい。選手たちよ、胸をはれ!!
わが教え子の三井田君の長男琢磨君の渡米しての心臓移植手術をした時の募金活動した時もそうだった。長野市と松本市でも募金活動をしたなあ。吹奏楽部の生徒たちも本当に良く頑張ってくれた。松本ではホテルモルシヤンの社長(長野日大卒の斉藤君)も力になってくれた。そして目標額の6000万円が集まってしまった。琢磨君は無事に高校を卒業して、今元気で働いているとのこと。わが教え子の三井田君、あの時の君の決意が幸せを生んだのだ。

2024/10/25(Fri) 07:46:40 [ No.10158 ]

◆ 返信 投稿者:suguru  引用する 
パド吉殿

こういう案件は一つ返事で引き受けられるものではないし、第一、今の自分には時間がない。57歳といえば、まだ本職の分野で忙しいわけだから。そのうえ、やたらと日常の夾雑物も多く、人がPCやスマホの奴隷と化した昨今、譜面を読むのに大事な俺の乱視もとみに病んでいる。

時間がないといえば、2027年のベートーヴェン没後200年に全ピアノソナタを弾く企画があって、そういう準備は何にもまして周到に行われないといけない。永遠に壮健に恵まれてピアノが弾けるなんて保証はどこにもないのだから。

決してできないと言ってるわけじゃない。もし俺が70を過ぎて正常に生きていたら、その時はいろいろ音楽以外のこともできるかと思うので、どうかそれまで待ってほしい。
バッハやシューベルトのような稀代の大作曲でも、生前出版が叶わなかった作品が死後何十年もしてようやく日の目を見るなんてことはざらだから。文豪でも同様。価値のあるものなら、遅すぎるなんてことはない。ほんとうに「真価」があれば。

なんでもそうだと思うけど、物を印刷するって、それこそ準備周到にすべき。
例の英語の本だけど、あの文章って一目瞭然、校正ゼロだから。考えれば考えるほどに、もったいない。ふんだんに使われている写真もいいし、本文の趣旨はよく伝わる。それだけに、あれだけ大小さまざまなミスが頻発していることは遺憾。

俺も英語のほかに、スイスに四つある公用語のうちドイツ語とフランス語くらいは書けるけど、もしどこかに発表される文章であれば、必ずその言葉を母国語とする誰か (もちろん文才のある数人に限る) にチェックをいれてもらう。自分でよほど自信があっても、そんなのはひとり合点であって、細かい間違いや、ネイティブの人にとっては不自然な言い回しとか、文法上のあやまり、知識面の誤謬は多々あるもので、そこはね、やっぱり大切にすべき。そもそも、自分でチェックするなんて、そんなの校正のうちに入らないから。

俺の友人に岩波書店から本を出してる人とか、イギリスの中世文学の権威、ロシア人小説家から翻訳家まで、文筆で生きてる方々が結構いて、まあそれでいろいろ話を聞く機会がある。
プロが本を書く場合、編集者という存在が大きい。ただ自分が書いて、それがそのまま出版されるということはない。それはどんなに偉い小説家が書いても同じ。その本がどんな仕上がりになるかは、編集者の腕にかかっている。要は、書き手の独りよがりな文章や内容にならないようにということ。さらに、厳密な校閲の重要性がある。ぱらぱらっとめくって、プリントミスも含め一つでも間違いが目についたら、もうそれで本の価値が半減以下になるという「覚悟」で、本は作られるらしい。
たしかに、楽譜だってそうでしょう。どんな立派な老舗の出版社が出してる楽譜でも、ごくまれにミスプリントはある。だけど、多発はしていない。そんなね、間違い探しが売りの楽譜なんて誰も求めたくない。文字として刻まれる言葉が言霊であるように、作曲家が書き残した音符にも魂が宿る。

当然、自費出版に編集者も校閲もないのは分かります。それにしたって、少なくとも数回の校正が行われないと残念な結果になる。

はっきり言えることは、たとえそれが母国語の作業であっても、ましてや何かを原稿にするとかは俺の分野じゃない。専業のほかに手薄く何でもやるという生き方は肌にあわない。そもそも鍵盤ハーモニカを辞めたのもそういうことだから。日曜大工みたいに適当に何でもやれるなんて、そんな妄想は打ち砕かれた。年を取るって、自分のやれる一つのことをフォーカスしていくことに他ならない。俺はつくづくそう思います。

上にもふれたように、もし充分な時間さえあれば、それなりのことができる可能性はあるかもしれない。だけど、今はより大切な、今しかできないことがあるから、今回の件は丁重に辞退するしかないのです。

長々とあしからず。どうかこの偽りなき真意を汲んでください。


2024/10/16(Wed) 18:53:06 [ No.10156 ]
◇ Re: 返信 投稿者:伊藤鉄郎  引用する 
変なことをお願いして申し訳なかった。貴君の言われることよく分かりました。この件は別にして来年春帰国するのを心待ちにしています。自分の事は自分でやる!!今やにして覚悟ができました。これだけの資料を載せてくれた貴君に感謝です。

2024/10/17(Thu) 19:30:05 [ No.10157 ]

◆ すぐる殿 投稿者:伊藤鉄郎  引用する 
「我がネパール交友録」を一冊の本にしたいのだけど原稿を送って貰えれば有り難いです。須坂新聞の制作部で本の出版を募集しているのです。原稿に掛かった費用は来年貴殿が帰国した時お支払いします。これがわての人生最後の作品にしたいと思います。本のサイズはB6(128mmx182mm)です。

2024/10/16(Wed) 03:25:57 [ No.10155 ]

◆ あだかずさまand英どの 投稿者:伊藤鉄郎  引用する 
色々ご配慮ありがとうございます。
英殿、出来ればドイツ語に訳して貰いたいのですが。それからマーゴシヤにポーランド語に訳して頂きたいのですが。各国の
人々がどのような受け取り方をするか知りたいのです。英国の友人がおりましたらその方の意見も。来年春帰国するのを心待ちにしています。
小松原さん早速に送ってくださりありがとうございました。

2024/10/14(Mon) 19:28:42 [ No.10154 ]

◆ お知らせ 投稿者:suguru  引用する 
パド吉さんには、すでに詳細は伝えたとおりです。

hhttps://paddler7.weebly.com

- BIO 略歴
- THE GIFT OF MUSIC 音楽の贈り物
- THE UNKNOWN LANDS 旅の記
- NEPALESE HINDU CULTURE ネパールのヒンドゥー文化
- FORUM 掲示板
- BLOG


現在、6つの項目があります。ホームページを開いたら、クリックしてみてください。

なお、ブログには、"We are the brother countries.." の全訳文(by Padkitchi)を投稿してあります。時間の許す限り、大雑把な校正・校閲の真似事はしました。

掲示板は、ページを開いてから、そこにある「リンク」をクリックするとすぐ飛びます。
この掲示板には、投稿の修正機能がありませんが、パスワードを入れておけば、投稿の「削除」は簡単にできます。
hhttps://paddler7.weebly.com/forum-255223103426495.html

こちらが「掲示板」への直接のアドレスです。
hhttps://paddler7.1my.jp

掲示板の下にある "Back to Paddler7’s Homepage" というボタンを押すと、ホームページの表紙に戻ります。

---


あだかずさまへ

先日は、このホームページと掲示板の今後の維持、管理等に関するお気づきを、心からありがとうございます。

今回、私が作ったものはごく簡易な「ホームページもどき」ですけど、幸い、あだかずさまには、FC2のホームページを(現状のままであれば)継続していただけるとのことですので、お言葉に甘えて、おいおい可能な範囲で、内容のいくつかを新しいホームページへ移行することになると思います。

またメール書きます。


2024/10/12(Sat) 17:52:31 [ No.10151 ]
◇ Re: お知らせ 投稿者:あだかず  引用する 
ちらっと、一部、拝見させて頂きました。スマートに仕立ててありますね。これからゆっくりと拝見させて頂きます。

尚、私がホームページを作り始めたのは25年ほど前で、パソコン用のものです。今となっては多くの方が閲覧するスマホでは見難くなってます。それで、何とかスマホでも見れるように文字を大きく見せる工夫をしました。

今はお使いのような、パソコンでもスマホでもどちらでも見易いツールが用意されていますね。いいですね!

2024/10/12(Sat) 19:55:10 [ No.10152 ]
◇ Re: お知らせ 投稿者:suguru  引用する 
まさしく、便利な時代になりました。さまざまなツールで簡単にwebサイトを作ることが可能になりましたから。

あだかずさんがホームページを作成されたころは、知識と技(わざ)がないと、何も始まらなかったわけですから、ほんと尊敬いたします。

私は不精者ですし、今回ちょうどいいアプリがありましたから、最初からスマホひとつで作業しました。ですから「ホームページもどき」なんですが、まあ何もないよりはいい、といったところですね(笑)

2024/10/12(Sat) 23:14:39 [ No.10153 ]

◆ り著者の経歴 投稿者:伊藤鉄郎  引用する 
1958年明治学院大学英文科卒業、日体大附属荏原高校に就職。
1960年4月 日本大学ジユン付属長野日大高校に就職。
1994年4月 同校定年退職し新たに長野県立長野南高校勤務。
1996年4月 長野県立須坂東高校勤務。
1997年4月 ネパールへRAFTINGTTOUR
2000年4月 28回ピースボート南半球への旅、エジプトで帰国。 2002年4月 40回ピースボート南半球への旅、3ケ月。
2010年4月 EM農業普及の為ネパールへ。
2014年4月 ネパールに会社設立。



2015年4月〜2018年、ネパールへ行っている。
2019年5月 階段から落ち脛骨損傷し、それ以来ネパールへは行ってない。

2024/10/09(Wed) 13:57:15 [ No.10149 ]

◆ 14.田部井淳子と野口健 投稿者:伊藤鉄郎  引用する 
ここに皆様に是非お知らせしたい二人の人物がおります。彼らは二人とも登山家です。田部井淳子と言えば皆様どなたも彼女をご存知でしょう。彼女は初めてエベレストのてっぺんに立った女性です。1975年の5月16日でした。今日までに世界中から40人以上の女性がエベレストの頂上に登っています。関心のある方は是非彼女が著した「エベレストの女性たち」をお読み下さい。私はこの本を2016年、タメルの古本屋で求めました。(ネパールの外国人観光客が集まる通り)
もう一人は野口健です。エベレストを含めて世界七カ国の最高峰を制覇した若者として知られています。 しかし彼はエベレストの清掃員として有名になりました。彼は世界中から来た登山家たちの空になった酸素ボンベや必要なくなったテント、その他のゴミを捨てて帰ったゴミをヘリコプターでベースキャンプに運びました。6000mを超える場所での作業は実にきつかった。世界の登山家の中には彼のしている事を好ましく思わない人もいた。酸素ボンベに記された名前が世界に知られてしまうからです。
三年間のその事実が世界に知れ渡つた。
野口はその著書「落ちこぼれてエベレスト」に書いています。
ゴミと格闘している間に地理的に分かれているが二つのパーティーがあった。一つは全てのゴミを持ち帰るパーティーである。もう一つは置いて来たゴミを取りに戻って来るパーティーである。それは日本、韓国、中国である。

101p.
彼はヨーロッパから来た登山家が彼に言った言葉を決して忘れない。「君たちはヒマラヤを決して富士山のようにしてはいけない」毎年3万人以上の人が富士山に登っている。そして山頂にゴミを捨てて帰っている。三年後日本に帰った野口は富士山クリーンキヤンペーンチームを立ち上げた。それは今日まで続いている。今年(2018年)は11月23日に行われます。

もう一つの彼の活動は残されたシエルパの家族を助ける活動である。エベレストを含めてヒマラヤの高山はどうしてもシエルパの助けがなければ登ることはできない。シエルパは自分らの家族を養うためには嫌でも登らなければならない。そして多くの登山家とシエルパは命を落して行った。


102p.
橋本龍太郎氏(総理大臣)は日本山岳会の会員でもあり、日本山岳ガイド協会の会長を長きに渡って務めた。
1973年、第二次RCCのエベレスト南壁(現.南西壁)の遠征隊の総大長を務めた。この他にも、海外遠征隊の総大長になったりあるいは総指揮を担当した。登山家の野口健とも親しい。2000年にエベレストの清掃登山を行っていた野口健は12年前に同じく登山を果たした橋本総大長のJPNテレビ登山隊(日中ネパール合同隊)が置いていった酸素ボンベを発見し帰国後橋本の議員会館を訪れて酸素ボンベを届けた。当初橋本龍太郎は野口を失礼な人間だと感じたが、これがきっかけで二人は親しくなり野口は橋本を父親のように慕っていたという。2006年正月に野口は橋本から「自分はもう登山は無理だから、これを持って行け」と橋本愛用のピッケルを渡されたという。山をこよなく愛したことから、青山墓地にある一家の墓地とは別にエベレストを望むネパールのタンポチェ村に慰霊碑がある。野口はヒマラヤ登山の度に訪れている。慰霊碑は2007に完成し、同年3月30日に、日本からの関係者も出席して式典が営まれた。

2024/10/09(Wed) 01:03:09 [ No.10148 ]

◆ 日本とネパールはブラザーカントリーである 投稿者:伊藤鉄郎  引用する 
6.グルミの村のヒンヅウ寺院にベルをプレゼント
2008年9月7日、息子のラムとNewRoadの金物店へ行き大きなベルを買い求めた。4年前ラムの父の生地、Butwalから遠く離れた村へ行つた。彼らの村の近くに新しく建てられた寺院があった。そこで私たちはその寺院を訪れた。その時、寺の門にベルがないのに気が付いた。そこで私は近い将来ベルをプレゼントすることを約束した。私はこの約束を思いだしNewRoadの金物店へベルを求めに行つた。そしてそのベルを五日後khaireniへ運びRamの父にお見せした。このベルの重さは11.57kgそして音色はとても美しく響いた。


写真は仕事を求めてインドへ行つたRamの父です。そこで父は大いに金を稼ぎ、その地にヒンドゥー寺院を建てた。それは村人たち達によって大切に守られていた。


7、2016年10月5〜15日インドへの旅
第一日
ラムの車に7人乗るのは無理だった。そこで私はハイエースバスで行くと言った。孫のビザールのスクーターの後ろに乗つてバス乗り場まで送ってくれと頼んだ。南部行のバスが何台も並んでいた。ビザールが私に代わつてカイレニ行のキツプを買い私をカイレニ行のバスまで連れていつてくれた。発車するまで窓の外に立ち「それでは気を付けてと」いつた。



八時間後に私はカイレニへ着いた。がラムの車はまだついていなかつた。私が夕食を終えた時、彼は私のパさソコンを車から出しButwalへ行った。彼は今夜はマヤの父の実家に泊まるとのこと。


第二日
私がカイレニに八時間後、朝6時に着いた時まだラムの車はついていなかつた。大勢の子供たちが学習しをしていた。彼らはマヘンドラ先生の生徒達であつた。今日からテストが始まるというので勉強に来ていたのです。先生が現れないので彼らはおしやべりしていた。私は彼らを叱つた。「おしやべりせんで黙って学習せい」
彼らの中で一人だけ黙々と学習している子がいた。先生が来ると立つて質問した。私はこの子はきつと大人物になるに違いないと思つた。

2時間後、彼らは朝飯を食べに家に帰っていつた。彼らの学校はマヘンドラ先生の家からとても近いのである。私も行つてみたけど。



58p.
ラムがマヤの家の家来から電話してきた。3時に迎えに来ると。私はラムの父の家の前の大きなスーパーマーケットへクマールさんに会いに行つた。次に、私は小公園に行つた。この公園はMayadeviを記念して建てられたものである。彼女は仏陀の母親である。カイレニの隣り村に彼女が葬られている小さな寺である。そこも私は祈るため訪ずれたことがある。

60p.
3時半、大きなワゴン車が到着した。ラムの兄のラザンが言つた。私を含め四人だと。次に私たちはBUTWALへ行つた。マヤの父の家で六人乗つた。計16名。インドの入口の町SNORIで私だけビザ申請に行き、その間にラムとラザンは別のワゴン車を探しに行った。インドとネパールは姉妹国なのでヴイザもパスポートも不要なのです。私だけヴイザを取りに事務所へ行つた。

その間にラムとラザンは別なワゴン車を探しに行つた。鉄道駅のSNORIへ行くための。そこからGorakpur行きの列車に乗るのである。ネパールから来たワゴン車は新たなキヤクを見つけるとButwalへ帰って行った。Gorakpur駅で我々はワゴン車を降り24時まで待つた。我々は寝台車で35時間の旅がスタートした。冷房が効きすぎて寒くて眠れなかったので何度も暑いデツキへ行つてタバコを吸った。


62p.
第三日目 (ホテル滞在1日目)
空はよく晴れていた。朝が来たのだ。私ははつきりと景色を見ることができた。山がない! 至る所森と田園ばかりだ。我々の列車が三時間走つている間山並みしか見えなかった。それは小さな丘のように見えた。物売りが来て叫んだ。「箱弁当、チア、飲料水! 午後三時に我々の列車は着いた。我々は茹だる日差しの下降りたつた。ラムとラザンが15kmはなれたBokajanのホテルまで行くワゴン車を探しに行つた。我々はホテルに着くと直ちにシヤワーを浴びた。ダイニングルームで遅いランチをとつているとラムが言つた。「僕が勉強した小学校があるぞ!」この偶然に皆驚いた。


64.p
4日目(ホテル滞在二日目)
私達は翌日遅い朝飯をとつた後、皆で学校を見に行つた。子供たちは彼らの父が学んだ古い教室にとりわけ関心があるようだつた。「あの部屋で勉強したの?」朽ち果てた校しやをじつと見ている時のラムの目は遠い昔を思い出してるようだった。



65p.
5日目(ホテル滞在三日目)
私達は二台の車に分乗した。今回の旅の目的は23年前ラムの父が建てたヒンヅウ寺院を訪れ祈りを捧げることであつた。父は自分の寺を見たかつたのだ。
私たちは寺に着いた。寺は大丈夫だつた。村人たちが毎朝清掃して礼拝しているのです。

長男は昔からの家と田畑を受け継ぐのが定めだつた。そして他の兄弟は仕事を求めて働きに出るのが定め。彼らの父はインドへ働きに行き、金を沢山稼ぎ、その地に寺を建てた。ラムの父は次々と古い友人を訪れ昔の話をして懐かしんだ。彼はどこでも歓迎された。三人の息子たち、 Rajan, Ram, Kunalたちは昔の友人たちに抱擁されしやべりにしやべつた。(p.66〜69)



私はホテルでは彼らの父と同じ部屋だった。私は自分のベツトから彼を見た。父は13年前に亡くなつた妻を思い出し心の中で泣いていたに違いない。そしてお前の息子たちと孫達を見てくれ。皆立派になつたぞ。


69p.
6日目(ホテル滞在4日目)
_昨夜は夏祭りの前夜だった。街は深夜まで賑わっていた。私は日記を書くため街に出てノートとボールペンを買つた。
今日はFreedayである。Ramの家族とKunal、父はは昔の友人たちの家に行つた。サスケは部屋でゲームをし,私は日記をつけた。


70p.
7日目(ホテル滞在5日目)
我々は7時半にホテルを出た。そして彼らの父が23年前に建てた寺を見に行つた。寺の隣には彼らの母がやつていた小さな茶店があつた。我々は昼までそこの村を歩いた。夜までは時間がたつぷりあつたので私は新田次郎の「富士山頂に立つ」を読んだ。ジヤスト6時、村人たちが集まり寺の中でダンスが始まった。それは11時まで続いた。私はとても疲れた。我々はホテルに帰り24時に寝た。



71p.
8日目(ホテル滞在6日目) 我々全員16名は彼らの父の友人の家に招かれた。



9日目(寝台列車7日目)
14時に我々はナガレン駅を行つた。16時に列車到着。それから35時間の旅が始まった。私だけが他の車輌だつた。冷房が効きすぎてデツキに行つては煙草をすって本を読んだ。子どもらが心配そうに会いに来てくれた。朝が来てまた夜が来た。真夜中にGorakpur駅に到着した。待合室を借りきつて朝まで寝た。

9日と10日
我々はSNORI駅までバスで行き私だけがimigrationで入国手続きをして後で合流した。我々は無事に家に着いた。

[THE END]




8.Budhaの生誕地訪問
我々は2017年の10月17日、ルンビニのBudhaの生誕地を訪れた。

9.両国民は互いに学ばなければならない事がある。
日本人は彼らの美しい習慣を学ばねばならない。彼らの両親、兄、姉の誕生日には跪いてその足にキツスするのです。彼らは何歳であろうと親の前では酒もタバコもしません。日本にはそのように美しい習慣がありません。子どもらは親と一諸に酒を飲み、時には酔っ払って互いに取り組み合いなんていうことも。
いつぽう、ネパール人は日本人の良い習慣を学ばねばならない。ネパールの人たちは何でも川に捨てる習慣がある。だからカトマンズの川はとても汚い。夏になると悪臭が川から立ち昇る。カトマンズでは魚は生きいけない。カトマンズから離れた川は綺麗で澄んでいるので魚は生きていけます。昨年の春ヌアコットを訪れた時、私は泳ぎました。我々日本人は決して川に物を捨てない。それともう一つ良い習慣は玄関で履物を揃えることである。子供たちにスリッパや靴、サンダルを揃える事を教えるのは親の義務である。ところがネパールではそのような習慣がないのか
脱ぎ捨てている。それをきちんと揃えるのは私の仕事だった。


10、懸命に学習する学校はこのような学校である。
長野日大高校は日本全国の公立大学に入るベスト高校として知られています。そして長野県で最も清潔な学校として知られています。訪れる人たちは、この学校は病院のようだと云います。床は輝いている!次のピクチャーをご覧ください。生徒たちは使った雑巾を洗い干します。ネパールの私立学校では掃除婦がいて学生は掃除しないのです。ネパールは選民意識に毒された国と言っては言い過ぎでしようか。壱万札の顔でもあった福沢諭吉は言うてます。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を作らず」と。新一万円札が渋沢栄一になって寂しい気がしないでもない。それはそれでよいのでしようが。福沢諭吉は下っぱの武士の子だったので友達に馬鹿にされた。それで自分は武士としてよりも学問で身を立てようと考え懸命に学問に励んだ。それは慶応年間であった。それが今日の慶応大学である。



80p.
11ー1、ネパール人のすばらしい助け合い。
泥にはまつたアンベランスを大勢で路上に引き上げていた。
11ー2、悲しいレスキュー作戦
ミルク運搬車が大型ダンプとぶつかり運搬車の若者は死んでいた。2台のトラックが死んだ若者の死体を引き出そうとして試みたがダメだつた。間もなく大型シヤベルカーが到着し運転席を持ち上げ死んだ若者を引き出した。その時まで多くの若者たちが彼を引き出そうとしたが虚しかつた。引き出したしゅんかん見ていた全員がバンザーイ、バンザーイと叫んだ。全ての場面を目撃していた私は思いがけず涙がこぼれた。
[The End]




12.khaireni町での第1回EMスクール(2018.4.3)
この国の政府は遂にEMの素晴らしさを認めた。地方自治体に許可を与えた。そこでカイレニ町の事務所は我々の会しやからEM活生液の瓶を100本購入してくれた。そして100人の与えることにした。彼らは学校を開いてEMとは何かそしてその使い方を無料で教えて欲しいと言うて来た。初め我々は100人入る学校を探した。我々はDevdaha大学の大きな講義室のを借りることに決めた。当日我々は9時に講義室に行きじゆんびした。11時に多くの農夫が集まり始めた。12時きつかり宣誓の火がともされた。市役所の主だった人達が次々と祝事を述べた。わがカンパニーのDeepok Gimireが講演した。彼はスライド機を用いて丁寧にはつきりと説明した。多くの農夫たちが彼の説明を聞いた。次は私の番です。私はem活生液を飲んでもしこれが農薬ならどうなりますか。皆さんは全員天国です。でもこれはemです。だから私は死にません。私は皆様にお勧めしませんが私は毎朝ワンカップ飲んでいます。今私は81サイですがとても元気です。決して風邪を引きません。私にとってこれは一番安い健康の薬です。皆さんは牛や水牛をかつておられるでしょう。もし彼らに餌を与える時EM活性液を500倍に薄めたえきをあたえれば。私はスピーチが終わるや否や多くの受講者が次々に欲しいと言うた。4時にem活生液の瓶を受けとつた。proofs of attendanceは満足しているようだった。我々は受講者たちが三々五々帰って行くのを見送りほっとした。

13. Nuacotでの第二回EM講座(2018.5e.11)
大変多くの農夫の方々がEMとその使い方について学びたいと言うてきた。そこで我々はその村の事務所を訪問し議長に計画を伝え村の小学校へ行き100人の農夫の方々が入れる場所を貸して欲しいと伝えた。翌日学校のホールへ行き言うにその日は多くの場所で結婚式があるとのこと。しかしホールはそれほど広くなかったので50人でちようどよかった。14時に講演が始まった。講演者のDeepok Gimireはスライドを使いながらEM説明会をるりについて話した。彼の講義は大変良かった。私の番が来た。私は農夫たちの前に立ちEM活生液を飲んで見せた。そして彼らに言った。これは私にとって薬です。多くの農夫たちが次々と飲んだ。もう一つの村では200人以上りの農夫がEMについての説明会を開いて欲しいと言うてきた。次回講習会は今月の末に開かれるでしょう。その時は私は日本にいるでしょう。我が家EMOA社のメンバーたちが言うた。なれの不在中は僕らがやるから。三番目の講習会はカイレニの隣リ町スノールで九月に開かれるであろう。その時は講習会に参加出来るであろう。
[THE END]

2024/09/30(Mon) 11:51:36 [ No.10147 ]

◆ 5.もし何かをしたいと思つたらそれをなすことができる。 投稿者:伊藤鉄郎  引用する 
1.頼る思い
彼は語つた。もしそれが僕の運命だとしても諦めることはできない。私は訊いた。6000万円もだして。アメリカへだつて?彼は私の冷淡な心を感じて私に言うた。心配かけてすみません。立ち上がった。私は彼の肩を叩き「力になるよ」彼は思わず涙をこぼした。
2.街頭募金
多くの老人や中年の人たちは無関心だつた。余所行きの顔をした男やアイシヤドウした女も同じだつた。子育てを終えた女性が立ち止まりそして戻って来て募金した。手の悪い男がやつてきて足の悪い学生の持つ箱に募金した。イヤリングを付け髪を茶色に染めたカツプルがやつて来て恥ずかしそうに募金した。「それはなんだ。移植だと?」老人は言うた。僕は心臓が弱いんだ。そして彼は財布を開いた。ヨツパライがやつて来て皺くちやの千円札を募金して叫んだ。「機密費をもらえ!」財布を開いた女学生募金して言うた「明日も立つわ」母親の多くが時間を見つけ毎日募金活動に参加した。私は国中の見知らぬ人々の暖かい励ましの言葉とご寄付を知つた。
3.不安と喜び
僕は金を借りて赤ん坊をアメリカへ連れていくぞ。僕は待てない。彼のコンデシヨンは日一日と悪くなっている。すごい!父親は鉄の意思を持つている。我々はもつと真剣にならなければならない。名古屋市在住のカヌー仲間の一人から彼らの出発をテレビで見たと知らせてきた。
インフオメーシヨンが届いた。オパレーシヨン成功! 私達の子どもはドーナから命を与えられた。2週間後に父親はアメリカから帰国した。彼の顔は義務を果たした父親の顔だつた。
4.彼は語る。
ドウナーの心臓が空輸される時時計を見ながら心臓のパイフプを切除する手ジユツが始まつた。もしヘリコプターがクラツシユしたら。綱渡りに似ていた。サージカル的には一秒を争うユニークな世界である。今シンプリーに言えることは彼の命は心臓が到着するまで持つか保しようできないと医師団に言われた。しかしそこは長野県立こども病院である。彼らは二人の医師と看護婦一人を派遣した。飛行機内の一隅が治療室になった。他の病院なら出来ない。僕らの赤ちやんは四月九日にドウナーの心臓を貰った。この日を僕らの赤ちやんのバースデイと決めた。
5.もし何かしようと思えばそれをなすことができる。6000万円目標額に近い。友人の一人が語つた。この国もまんざら捨てたもんじやない。上の文章はたくまくんを救うために街頭募金活動のチーフとして立ち上がった伊藤鉄郎の手記であります。

2024/09/29(Sun) 22:42:22 [ No.10146 ]

◆ 2015年4月25日に起きたM7.8の大地震 投稿者:伊藤鉄郎  引用する 
11時58分、建物が大きく左右に揺れ始めほぼ1分近く続いた。家の中にいた人々はパニックになり外に飛び出した。ちようどその時私は家の中で本を読んでいた。家の中にいたのは私。日本はしばしば地震に襲われるから私はそれほど驚かない。私は電力不足でパソコンが使えない。私は被害がどれだけあつたか見ようと外に出た。何と悲惨な!市の北部がひどかった。至る所で壊れた建物を見た。後に、新聞によればこの地震で約8千人の人々が死んだとのこと。そこで私は一度日本に戻り長野日大高校で教えた生徒たちの家を奉加帳を持つて五月八日から六月下旬まで回った。29〜41ページ"のピクチャー参照。

2024/09/29(Sun) 19:10:36 [ No.10144 ]

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