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◆ 14.田部井淳子と野口健 投稿者:伊藤鉄郎  引用する 
ここに皆様に是非お知らせしたい二人の人物がおります。彼らは二人とも登山家です。田部井淳子と言えば皆様どなたも彼女をご存知でしょう。彼女は初めてエベレストのてっぺんに立った女性です。1975年の5月16日でした。今日までに世界中から40人以上の女性がエベレストの頂上に登っています。関心のある方は是非彼女が著した「エベレストの女性たち」をお読み下さい。私はこの本を2016年、タメルの古本屋で求めました。(ネパールの外国人観光客が集まる通り)
もう一人は野口健です。エベレストを含めて世界七カ国の最高峰を制覇した若者として知られています。 しかし彼はエベレストの清掃員として有名になりました。彼は世界中から来た登山家たちの空になった酸素ボンベや必要なくなったテント、その他のゴミを捨てて帰ったゴミをヘリコプターでベースキャンプに運びました。6000mを超える場所での作業は実にきつかった。世界の登山家の中には彼のしている事を好ましく思わない人もいた。酸素ボンベに記された名前が世界に知られてしまうからです。
三年間のその事実が世界に知れ渡つた。
野口はその著書「落ちこぼれてエベレスト」に書いています。
ゴミと格闘している間に地理的に分かれているが二つのパーティーがあった。一つは全てのゴミを持ち帰るパーティーである。もう一つは置いて来たゴミを取りに戻って来るパーティーである。それは日本、韓国、中国である。

101p.
彼はヨーロッパから来た登山家が彼に言った言葉を決して忘れない。「君たちはヒマラヤを決して富士山のようにしてはいけない」毎年3万人以上の人が富士山に登っている。そして山頂にゴミを捨てて帰っている。三年後日本に帰った野口は富士山クリーンキヤンペーンチームを立ち上げた。それは今日まで続いている。今年(2018年)は11月23日に行われます。

もう一つの彼の活動は残されたシエルパの家族を助ける活動である。エベレストを含めてヒマラヤの高山はどうしてもシエルパの助けがなければ登ることはできない。シエルパは自分らの家族を養うためには嫌でも登らなければならない。そして多くの登山家とシエルパは命を落して行った。


102p.
橋本龍太郎氏(総理大臣)は日本山岳会の会員でもあり、日本山岳ガイド協会の会長を長きに渡って務めた。
1973年、第二次RCCのエベレスト南壁(現.南西壁)の遠征隊の総大長を務めた。この他にも、海外遠征隊の総大長になったりあるいは総指揮を担当した。登山家の野口健とも親しい。2000年にエベレストの清掃登山を行っていた野口健は12年前に同じく登山を果たした橋本総大長のJPNテレビ登山隊(日中ネパール合同隊)が置いていった酸素ボンベを発見し帰国後橋本の議員会館を訪れて酸素ボンベを届けた。当初橋本龍太郎は野口を失礼な人間だと感じたが、これがきっかけで二人は親しくなり野口は橋本を父親のように慕っていたという。2006年正月に野口は橋本から「自分はもう登山は無理だから、これを持って行け」と橋本愛用のピッケルを渡されたという。山をこよなく愛したことから、青山墓地にある一家の墓地とは別にエベレストを望むネパールのタンポチェ村に慰霊碑がある。野口はヒマラヤ登山の度に訪れている。慰霊碑は2007に完成し、同年3月30日に、日本からの関係者も出席して式典が営まれた。

2024/10/09(Wed) 01:03:09 [ No.10148 ]

◆ 日本とネパールはブラザーカントリーである 投稿者:伊藤鉄郎  引用する 
6.グルミの村のヒンヅウ寺院にベルをプレゼント
2008年9月7日、息子のラムとNewRoadの金物店へ行き大きなベルを買い求めた。4年前ラムの父の生地、Butwalから遠く離れた村へ行つた。彼らの村の近くに新しく建てられた寺院があった。そこで私たちはその寺院を訪れた。その時、寺の門にベルがないのに気が付いた。そこで私は近い将来ベルをプレゼントすることを約束した。私はこの約束を思いだしNewRoadの金物店へベルを求めに行つた。そしてそのベルを五日後khaireniへ運びRamの父にお見せした。このベルの重さは11.57kgそして音色はとても美しく響いた。


写真は仕事を求めてインドへ行つたRamの父です。そこで父は大いに金を稼ぎ、その地にヒンドゥー寺院を建てた。それは村人たち達によって大切に守られていた。


7、2016年10月5〜15日インドへの旅
第一日
ラムの車に7人乗るのは無理だった。そこで私はハイエースバスで行くと言った。孫のビザールのスクーターの後ろに乗つてバス乗り場まで送ってくれと頼んだ。南部行のバスが何台も並んでいた。ビザールが私に代わつてカイレニ行のキツプを買い私をカイレニ行のバスまで連れていつてくれた。発車するまで窓の外に立ち「それでは気を付けてと」いつた。



八時間後に私はカイレニへ着いた。がラムの車はまだついていなかつた。私が夕食を終えた時、彼は私のパさソコンを車から出しButwalへ行った。彼は今夜はマヤの父の実家に泊まるとのこと。


第二日
私がカイレニに八時間後、朝6時に着いた時まだラムの車はついていなかつた。大勢の子供たちが学習しをしていた。彼らはマヘンドラ先生の生徒達であつた。今日からテストが始まるというので勉強に来ていたのです。先生が現れないので彼らはおしやべりしていた。私は彼らを叱つた。「おしやべりせんで黙って学習せい」
彼らの中で一人だけ黙々と学習している子がいた。先生が来ると立つて質問した。私はこの子はきつと大人物になるに違いないと思つた。

2時間後、彼らは朝飯を食べに家に帰っていつた。彼らの学校はマヘンドラ先生の家からとても近いのである。私も行つてみたけど。



58p.
ラムがマヤの家の家来から電話してきた。3時に迎えに来ると。私はラムの父の家の前の大きなスーパーマーケットへクマールさんに会いに行つた。次に、私は小公園に行つた。この公園はMayadeviを記念して建てられたものである。彼女は仏陀の母親である。カイレニの隣り村に彼女が葬られている小さな寺である。そこも私は祈るため訪ずれたことがある。

60p.
3時半、大きなワゴン車が到着した。ラムの兄のラザンが言つた。私を含め四人だと。次に私たちはBUTWALへ行つた。マヤの父の家で六人乗つた。計16名。インドの入口の町SNORIで私だけビザ申請に行き、その間にラムとラザンは別のワゴン車を探しに行った。インドとネパールは姉妹国なのでヴイザもパスポートも不要なのです。私だけヴイザを取りに事務所へ行つた。

その間にラムとラザンは別なワゴン車を探しに行つた。鉄道駅のSNORIへ行くための。そこからGorakpur行きの列車に乗るのである。ネパールから来たワゴン車は新たなキヤクを見つけるとButwalへ帰って行った。Gorakpur駅で我々はワゴン車を降り24時まで待つた。我々は寝台車で35時間の旅がスタートした。冷房が効きすぎて寒くて眠れなかったので何度も暑いデツキへ行つてタバコを吸った。


62p.
第三日目 (ホテル滞在1日目)
空はよく晴れていた。朝が来たのだ。私ははつきりと景色を見ることができた。山がない! 至る所森と田園ばかりだ。我々の列車が三時間走つている間山並みしか見えなかった。それは小さな丘のように見えた。物売りが来て叫んだ。「箱弁当、チア、飲料水! 午後三時に我々の列車は着いた。我々は茹だる日差しの下降りたつた。ラムとラザンが15kmはなれたBokajanのホテルまで行くワゴン車を探しに行つた。我々はホテルに着くと直ちにシヤワーを浴びた。ダイニングルームで遅いランチをとつているとラムが言つた。「僕が勉強した小学校があるぞ!」この偶然に皆驚いた。


64.p
4日目(ホテル滞在二日目)
私達は翌日遅い朝飯をとつた後、皆で学校を見に行つた。子供たちは彼らの父が学んだ古い教室にとりわけ関心があるようだつた。「あの部屋で勉強したの?」朽ち果てた校しやをじつと見ている時のラムの目は遠い昔を思い出してるようだった。



65p.
5日目(ホテル滞在三日目)
私達は二台の車に分乗した。今回の旅の目的は23年前ラムの父が建てたヒンヅウ寺院を訪れ祈りを捧げることであつた。父は自分の寺を見たかつたのだ。
私たちは寺に着いた。寺は大丈夫だつた。村人たちが毎朝清掃して礼拝しているのです。

長男は昔からの家と田畑を受け継ぐのが定めだつた。そして他の兄弟は仕事を求めて働きに出るのが定め。彼らの父はインドへ働きに行き、金を沢山稼ぎ、その地に寺を建てた。ラムの父は次々と古い友人を訪れ昔の話をして懐かしんだ。彼はどこでも歓迎された。三人の息子たち、 Rajan, Ram, Kunalたちは昔の友人たちに抱擁されしやべりにしやべつた。(p.66〜69)



私はホテルでは彼らの父と同じ部屋だった。私は自分のベツトから彼を見た。父は13年前に亡くなつた妻を思い出し心の中で泣いていたに違いない。そしてお前の息子たちと孫達を見てくれ。皆立派になつたぞ。


69p.
6日目(ホテル滞在4日目)
_昨夜は夏祭りの前夜だった。街は深夜まで賑わっていた。私は日記を書くため街に出てノートとボールペンを買つた。
今日はFreedayである。Ramの家族とKunal、父はは昔の友人たちの家に行つた。サスケは部屋でゲームをし,私は日記をつけた。


70p.
7日目(ホテル滞在5日目)
我々は7時半にホテルを出た。そして彼らの父が23年前に建てた寺を見に行つた。寺の隣には彼らの母がやつていた小さな茶店があつた。我々は昼までそこの村を歩いた。夜までは時間がたつぷりあつたので私は新田次郎の「富士山頂に立つ」を読んだ。ジヤスト6時、村人たちが集まり寺の中でダンスが始まった。それは11時まで続いた。私はとても疲れた。我々はホテルに帰り24時に寝た。



71p.
8日目(ホテル滞在6日目) 我々全員16名は彼らの父の友人の家に招かれた。



9日目(寝台列車7日目)
14時に我々はナガレン駅を行つた。16時に列車到着。それから35時間の旅が始まった。私だけが他の車輌だつた。冷房が効きすぎてデツキに行つては煙草をすって本を読んだ。子どもらが心配そうに会いに来てくれた。朝が来てまた夜が来た。真夜中にGorakpur駅に到着した。待合室を借りきつて朝まで寝た。

9日と10日
我々はSNORI駅までバスで行き私だけがimigrationで入国手続きをして後で合流した。我々は無事に家に着いた。

[THE END]




8.Budhaの生誕地訪問
我々は2017年の10月17日、ルンビニのBudhaの生誕地を訪れた。

9.両国民は互いに学ばなければならない事がある。
日本人は彼らの美しい習慣を学ばねばならない。彼らの両親、兄、姉の誕生日には跪いてその足にキツスするのです。彼らは何歳であろうと親の前では酒もタバコもしません。日本にはそのように美しい習慣がありません。子どもらは親と一諸に酒を飲み、時には酔っ払って互いに取り組み合いなんていうことも。
いつぽう、ネパール人は日本人の良い習慣を学ばねばならない。ネパールの人たちは何でも川に捨てる習慣がある。だからカトマンズの川はとても汚い。夏になると悪臭が川から立ち昇る。カトマンズでは魚は生きいけない。カトマンズから離れた川は綺麗で澄んでいるので魚は生きていけます。昨年の春ヌアコットを訪れた時、私は泳ぎました。我々日本人は決して川に物を捨てない。それともう一つ良い習慣は玄関で履物を揃えることである。子供たちにスリッパや靴、サンダルを揃える事を教えるのは親の義務である。ところがネパールではそのような習慣がないのか
脱ぎ捨てている。それをきちんと揃えるのは私の仕事だった。


10、懸命に学習する学校はこのような学校である。
長野日大高校は日本全国の公立大学に入るベスト高校として知られています。そして長野県で最も清潔な学校として知られています。訪れる人たちは、この学校は病院のようだと云います。床は輝いている!次のピクチャーをご覧ください。生徒たちは使った雑巾を洗い干します。ネパールの私立学校では掃除婦がいて学生は掃除しないのです。ネパールは選民意識に毒された国と言っては言い過ぎでしようか。壱万札の顔でもあった福沢諭吉は言うてます。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を作らず」と。新一万円札が渋沢栄一になって寂しい気がしないでもない。それはそれでよいのでしようが。福沢諭吉は下っぱの武士の子だったので友達に馬鹿にされた。それで自分は武士としてよりも学問で身を立てようと考え懸命に学問に励んだ。それは慶応年間であった。それが今日の慶応大学である。



80p.
11ー1、ネパール人のすばらしい助け合い。
泥にはまつたアンベランスを大勢で路上に引き上げていた。
11ー2、悲しいレスキュー作戦
ミルク運搬車が大型ダンプとぶつかり運搬車の若者は死んでいた。2台のトラックが死んだ若者の死体を引き出そうとして試みたがダメだつた。間もなく大型シヤベルカーが到着し運転席を持ち上げ死んだ若者を引き出した。その時まで多くの若者たちが彼を引き出そうとしたが虚しかつた。引き出したしゅんかん見ていた全員がバンザーイ、バンザーイと叫んだ。全ての場面を目撃していた私は思いがけず涙がこぼれた。
[The End]




12.khaireni町での第1回EMスクール(2018.4.3)
この国の政府は遂にEMの素晴らしさを認めた。地方自治体に許可を与えた。そこでカイレニ町の事務所は我々の会しやからEM活生液の瓶を100本購入してくれた。そして100人の与えることにした。彼らは学校を開いてEMとは何かそしてその使い方を無料で教えて欲しいと言うて来た。初め我々は100人入る学校を探した。我々はDevdaha大学の大きな講義室のを借りることに決めた。当日我々は9時に講義室に行きじゆんびした。11時に多くの農夫が集まり始めた。12時きつかり宣誓の火がともされた。市役所の主だった人達が次々と祝事を述べた。わがカンパニーのDeepok Gimireが講演した。彼はスライド機を用いて丁寧にはつきりと説明した。多くの農夫たちが彼の説明を聞いた。次は私の番です。私はem活生液を飲んでもしこれが農薬ならどうなりますか。皆さんは全員天国です。でもこれはemです。だから私は死にません。私は皆様にお勧めしませんが私は毎朝ワンカップ飲んでいます。今私は81サイですがとても元気です。決して風邪を引きません。私にとってこれは一番安い健康の薬です。皆さんは牛や水牛をかつておられるでしょう。もし彼らに餌を与える時EM活性液を500倍に薄めたえきをあたえれば。私はスピーチが終わるや否や多くの受講者が次々に欲しいと言うた。4時にem活生液の瓶を受けとつた。proofs of attendanceは満足しているようだった。我々は受講者たちが三々五々帰って行くのを見送りほっとした。

13. Nuacotでの第二回EM講座(2018.5e.11)
大変多くの農夫の方々がEMとその使い方について学びたいと言うてきた。そこで我々はその村の事務所を訪問し議長に計画を伝え村の小学校へ行き100人の農夫の方々が入れる場所を貸して欲しいと伝えた。翌日学校のホールへ行き言うにその日は多くの場所で結婚式があるとのこと。しかしホールはそれほど広くなかったので50人でちようどよかった。14時に講演が始まった。講演者のDeepok Gimireはスライドを使いながらEM説明会をるりについて話した。彼の講義は大変良かった。私の番が来た。私は農夫たちの前に立ちEM活生液を飲んで見せた。そして彼らに言った。これは私にとって薬です。多くの農夫たちが次々と飲んだ。もう一つの村では200人以上りの農夫がEMについての説明会を開いて欲しいと言うてきた。次回講習会は今月の末に開かれるでしょう。その時は私は日本にいるでしょう。我が家EMOA社のメンバーたちが言うた。なれの不在中は僕らがやるから。三番目の講習会はカイレニの隣リ町スノールで九月に開かれるであろう。その時は講習会に参加出来るであろう。
[THE END]

2024/09/30(Mon) 11:51:36 [ No.10147 ]

◆ 5.もし何かをしたいと思つたらそれをなすことができる。 投稿者:伊藤鉄郎  引用する 
1.頼る思い
彼は語つた。もしそれが僕の運命だとしても諦めることはできない。私は訊いた。6000万円もだして。アメリカへだつて?彼は私の冷淡な心を感じて私に言うた。心配かけてすみません。立ち上がった。私は彼の肩を叩き「力になるよ」彼は思わず涙をこぼした。
2.街頭募金
多くの老人や中年の人たちは無関心だつた。余所行きの顔をした男やアイシヤドウした女も同じだつた。子育てを終えた女性が立ち止まりそして戻って来て募金した。手の悪い男がやつてきて足の悪い学生の持つ箱に募金した。イヤリングを付け髪を茶色に染めたカツプルがやつて来て恥ずかしそうに募金した。「それはなんだ。移植だと?」老人は言うた。僕は心臓が弱いんだ。そして彼は財布を開いた。ヨツパライがやつて来て皺くちやの千円札を募金して叫んだ。「機密費をもらえ!」財布を開いた女学生募金して言うた「明日も立つわ」母親の多くが時間を見つけ毎日募金活動に参加した。私は国中の見知らぬ人々の暖かい励ましの言葉とご寄付を知つた。
3.不安と喜び
僕は金を借りて赤ん坊をアメリカへ連れていくぞ。僕は待てない。彼のコンデシヨンは日一日と悪くなっている。すごい!父親は鉄の意思を持つている。我々はもつと真剣にならなければならない。名古屋市在住のカヌー仲間の一人から彼らの出発をテレビで見たと知らせてきた。
インフオメーシヨンが届いた。オパレーシヨン成功! 私達の子どもはドーナから命を与えられた。2週間後に父親はアメリカから帰国した。彼の顔は義務を果たした父親の顔だつた。
4.彼は語る。
ドウナーの心臓が空輸される時時計を見ながら心臓のパイフプを切除する手ジユツが始まつた。もしヘリコプターがクラツシユしたら。綱渡りに似ていた。サージカル的には一秒を争うユニークな世界である。今シンプリーに言えることは彼の命は心臓が到着するまで持つか保しようできないと医師団に言われた。しかしそこは長野県立こども病院である。彼らは二人の医師と看護婦一人を派遣した。飛行機内の一隅が治療室になった。他の病院なら出来ない。僕らの赤ちやんは四月九日にドウナーの心臓を貰った。この日を僕らの赤ちやんのバースデイと決めた。
5.もし何かしようと思えばそれをなすことができる。6000万円目標額に近い。友人の一人が語つた。この国もまんざら捨てたもんじやない。上の文章はたくまくんを救うために街頭募金活動のチーフとして立ち上がった伊藤鉄郎の手記であります。

2024/09/29(Sun) 22:42:22 [ No.10146 ]

◆ 2015年4月25日に起きたM7.8の大地震 投稿者:伊藤鉄郎  引用する 
11時58分、建物が大きく左右に揺れ始めほぼ1分近く続いた。家の中にいた人々はパニックになり外に飛び出した。ちようどその時私は家の中で本を読んでいた。家の中にいたのは私。日本はしばしば地震に襲われるから私はそれほど驚かない。私は電力不足でパソコンが使えない。私は被害がどれだけあつたか見ようと外に出た。何と悲惨な!市の北部がひどかった。至る所で壊れた建物を見た。後に、新聞によればこの地震で約8千人の人々が死んだとのこと。そこで私は一度日本に戻り長野日大高校で教えた生徒たちの家を奉加帳を持つて五月八日から六月下旬まで回った。29〜41ページ"のピクチャー参照。

2024/09/29(Sun) 19:10:36 [ No.10144 ]

◆ We are brother countries Japan and Nepal(3) 投稿者:伊藤鉄郎  引用する 
Dr.sunil Adhikary教授のご挨拶
この機会に、日本のODAと無償で多くの援助をして下さつた日本の国民の皆様を、私達ネパール国民は決して忘れません。心の底から御礼申し上げます。
さて幾つかの例を上げましよう。カトマンズ渓の三大古代都市の一つpatanについてお話したい。パタンは芸術的遺産としてもつとも良く知られている都です。それは多分世界最古の仏教都市の一つでありましよう。日本のODAがいまだにこの世界遺産の補修に取り組んでおります。このフオトは4年前の大地震前のものです。私はここを大地震の後訪れた時は目の前のタワーが倒れていました。
B.P.KoiraraHighwayはカトマンズ渓谷と東テライ地方をリンクしていまyす。1996年にHighwayの建設が始まり資材、人力、予算などの問題に遭遇して2015年7月3日ついに完成した。スタート時から完成時までのトータルコストはNPL.21.5billion(26億円)にたつした。4区間の全長は158kmである。建設が終わった後日本政府がネパール政府に手渡した。次のkathmandu1からBhaktapurへの国道(2014年)は日本の高速道路と似ている。違う点といえば景色だけである。ページ18〜19。
SindhuliRoad
Nepal政府は日本政府の財政援助と20年の様々な困難を乗り越えて完成させた。4区間の全距離は158kmである。スタート時から完成までのトータルコストはNepal21.5bilion(21億円)であつた。21ページ〜26ページのpictureをご下さい。pictureをご覧下さい。次にカトマンズのバスターミナル。この国の全ての地方へのバスがこのターミナルを発着しています。26〜27ぺージ参照。

2024/09/29(Sun) 13:50:14 [ No.10143 ]

◆ We are brother countries Japan and Nepal(2) 投稿者:伊藤鉄郎  引用する 
2.The History of Tribhuwan University
これはネパール国の悲劇であった。そこが日本と違うところである。ここにある二人の写真があります。日本人ならこの二人を知らほない人はいません。この二人を愛し尊敬しない日本人はいません。この写真は津波で両親を失った小女を励ましている天皇皇后両陛下の写真です。この日、陛下の到着を待つ全員の人たちは正座して待つていた。しかるに一人の若者はあぐらをかいていた。テレビでこの場面を見た人々はこの若者を非難した。陛下が訪問を終えて席を立った時、その若者は手をくんでナマステのゼスチャーをした。ネパールには正座するという習関がないのです。どうかこの若者を大目に見て貰いたい。
さて、ネパール王国からネパールリパブリックになったのはわずかジユウ数年前である。皮肉と言えば皮肉である。国王がそのことについて不安になったのは。次のフオトは創立当時の建物である。今は荒れ果てた建物になっている。木が生い茂り根がそれらを切り裂いている。
最初に1967年、創立当時は各部門が日本の信州大学のように多くの場所に分かれていた。
Tribhuvan大学のTri-chandra collegeの歴史についてお話しましよう。当大学の教授スニル・アディカリさんが語つたところによるとTribhuwanは国王の名前である。この大学への入学が許されていたのはこの大学が1918年に設立された当時は国国王の子供たちとその親族だけであつた。これは国民は無学の方が国を治め安いと考えたからであつた。彼は国の発展も国民の安寧も考えなかった。国王は王位を奪われ宮殿から追い出された場所は(今は博物館になつている)政治改革が後に成し遂げられ、ネパール王国からネパール共和国になって国民の妹弟が人学出来るようになつたのはつい数年前のことです。次の写真は100年前に建てられた建物です。今は使われていません。今や荒れ果てた家になつています。木が生い茂り根がはびこつています。
さてこの本には書いてありませんが、Tribhuvan大学学長のSnil adhikary氏についてお話しましょう。彼は日本に学士留学し名古屋大学の大学院でMeteorologyの博士号を得た人物です。私は長良川へカヌーに行つた帰りによく彼のアパートに泊めて貰いました。そのころのことが懐かしく思い出されます。さて12ページの写真の説明をします。当時はセメントがなかったので、彼らは小麦粉とネンドを混ぜて使いました。天井はこのようになつています。
100年前は時計がなかつたので彼らは日時計を使いました。
また、湿気を防ぐためコンクリートの床の下には粘土のパイプが設置されていました。
この時計台は90年前の大地震で倒れたのを再建したものです。3年前の大地震(1815年4月25)の際には1インチも動かなかつた。それを塗装し直したのです。(15ページをご覧ください)

2024/09/27(Fri) 11:04:04 [ No.10142 ]

◆ We are brother countries Japan and Nepal(1) 投稿者:伊藤鉄郎  引用する 
英語の読めない人々の為に和訳しました。日本は義務教育で中学までは全国民が英語を学んだ筈でこの程度の本ぐらいは読めて当たり前なんですが、それが読めない。何とも不思議なことです。同じ英文のこの本をネパールの小学生に読んで貰ったらスイスイのスイ読んでしまいました。貧しいネパールでは年間一万人からの若者が英語圏の国々へ出稼ぎに行つております。これは国の方針で稼いだ金を国へ送りそれで土地を購入し家を建てよ、そうすれば建築関係の多くの人たちも家具屋も潤う。英語教育は幼稚園から始めているからでしょう。それはさて置いて、日本が国としてどれくらいネパールの為に尽くしてきたか、この本をお読みになれば分かります。ネパール国民は心から感謝しております。ですから英語圏でないのに大勢日本にやつて来て働いています。働き手の減少している日本にとつて有り難いことです。2ページ日本の国花は春の桜と秋の菊とのこと。
では、はじめに私がこの本の名前を付けた理由を説明しましよう。それは多分有史以前だと思いますが桜の樹はヒマラヤ山脈の南斜面、ネパール側でした。北斜面はチベット。桜の花びらたちは南斜面から中国、朝鮮半島を経て日本にやつて来てそれが全国に広まつた。今や桜は最も日本人に愛される花になっています。同じ南斜面に咲いている明るい赤いラリーグラスはネパールの国花。日本語で言うとラリーグラス。
それはさて置いて、世界の最高峰エベレストをはじめヒマラヤ山脈にアタツクする登山家にとってシエルパの手を借りることなしに登ることはできない。如何に経験を積んだ登山家であろうと。それはさて置いて、シエルパの天候の急変に対する判断ほど確かなことはない。だが多くの登山家はそれを信じない。 気シヨウ台の判断に委ねる。そして彼らの多くがシエルパを道づれにして、雪崩に飲まれたりまた大きなホールに落ちて死んで行く。シエルパ達は実際そんな冒険をしたくない。しかし彼らが働かなければ家族を養っていけないのだ。彼らの顔立ちは日本人にとてもよく似ている。一度私も彼らに間違えられたことがあつた。
ネパールの人たちはどの国の人々より深く日本人を愛し尊敬している。私は深い尊敬と感しやの気持ちでこの本を彼らにブレゼントしました。そしてもう一つ私がここに書かねばならないことがあります。2011年3月11日の東日本大地震の時ネパール政府と同国民の多大なる援助でした。改めて御礼申し上げます。ダンニヤバート(thank you)
ところで日本の一万円札がネパールのコウゾの木から出来ている事をご存知ですか。そのようなことがネパールの新聞に書いてありました。ネパールのコウゾの木は世界で最も強いのです。今回の新円札でもネパールから輸入したコウゾの木材が使われています。
それはさて置いて、ネパールの人々が日本人を愛し尊敬している点では他のどの国にも負けません。それは日本の国がネパールの為にどれだけ尽くしてきたかということと大いに関係があります。私たち日本国民が忘れてはならない事がありま。それを書かねばならない。それは2011年3月11日東日本大震災の時ネパールの国と国民の多大なる支援改めて御礼申し上げます。

2024/09/22(Sun) 09:28:04 [ No.10141 ]

◆ 昨日庭木の剪定作業に4人来宅 投稿者:伊藤鉄郎  引用する 
今まで来た中では一番良かった。見違えるほど良くなつた。外から見ても中から見ても我が家の庭ほど良い庭はないと自負している。そして値段も安かったので来年も頼もうと思う。

大相撲千秋楽を待たずに大の里がモンゴルの豊昇龍を破り二度目の優勝。大関昇進を確実にした。来場所は今場所休んでいた照ノ富士を倒して横綱になつてほしい。横綱を目指して頑張ってきた大関貴景勝今日引退届けを提出した。首の怪我によるとのこと、残念なことです。

2024/09/21(Sat) 18:39:02 [ No.10140 ]

◆ to MR.Sugurru ITO 投稿者:伊藤鉄郎  引用する 
ユミのスイス大使館での演奏会の模様載せて下さりありがとう。来年も是非来日して演奏をしてくれますようお願いね。
さて今日デイサービスセンターヘ行つたら。こんな本があり、おもろいので借りてきました。萩坂昇氏の「四季の昔話」という本です。その中にこんな話がのつていた。第15話今のように良い病院も良い薬 もない昔は、今ならチユウシヤをちくつと一つやれば治る病気でも命を取られて沢山の子どもやおとながあの世に旅立つて行つた。「はしかは命定め、ホウソウはきりよう定め」と言われたようにホウソウは無事になおつても一生の容貌を決定する恐ろしい伝染病であつた。その頃の治療法と言えば、神様や仏様に祈祷するか、せいぜい漢方医の薬を飲むぐらいに過ぎなかった。
俳人小林一茶も文政二年(1819年)に二歳の女の子をホウソウで亡くしている。一茶はこの女の子を特に可愛がりその年の元旦には、「はえ笑え二つになるぞ今日からは」「めでたさも中くらいなりおらが春」と書いているが6月21日、なくすと「つゆの世はつゆの世ながらさりながら」の句を書いて子どもを偲んでいる。

2024/09/10(Tue) 20:09:02 [ No.10137 ]

◆ コロンビア 投稿者:suguru  引用する 
ユミは今、南米のコロンビアで共演者3名と演奏旅行中。下は昨日のコンサート前の写真。
今晩は北西部の都市メデジンで、来週火曜日が首都ポゴタにあるコロンビアで最も重要な芸術文化施設、マヨール劇場で、翌水曜日はアンデス山脈の麓の古都パストの劇場で公演が続きます。

ちなみに、コロンビアの公用語はスペイン語。


2024/09/07(Sat) 20:40:00 [ No.10136 ]

◆ Concert for Swiss Ambassador to Japan, Andreas Baum 投稿者:suguru  引用する 
"Concert and farewell party for Swiss Ambassador to Japan, Andreas Baum, on August 13, 2024"
(在日スイス大使館のFacebookへの投稿から)

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8月13日、各国の大使や企業の代表者、日本政府関係者を含む約100名のご出席のもと、アンドレアス・バオム大使の駐日スイス大使としての4年間の任期を祝う送別会が開催されました。スイス、日本、ポーランドの血を引く才能あふれるアーティスト、YUMI ITO氏によるジャズ、アートポップ、ネオクラシカルが融合したユニークな音色が、会場を鮮やかに彩りました。


On August 13, around 100 esteemed guests, including Ambassadors, CEOs and members of the Japanese government, gathered for a memorable farewell party for Ambassador Andreas Baum, marking the conclusion of his four-year tenure as the Ambassador of Switzerland to Japan. The evening began on a high note with a captivating performance by the talented Swiss-Japanese-Polish artist Yumi Ito, whose unique blend of jazz, art-pop, and neo-classical music set the perfect tone for the night.

Photos Copyright : Ayako Suzuki


2024/08/30(Fri) 16:02:33 [ No.10133 ]
◇ Re: Concert for Swiss Ambassador to Japan, Andreas Baum 投稿者:suguru  引用する 
在日スイス大使館のFacebookへの投稿から

2024/08/30(Fri) 16:13:01 [ No.10134 ]
◇ Re: Concert for Swiss Ambassador to Japan, Andreas Baum 投稿者:suguru  引用する 
在日スイス大使館のFacebookへの投稿から

2024/08/30(Fri) 17:02:05 [ No.10135 ]

◆ 無題 投稿者:  引用する 
ユミのSNS (インスタグラム) への投稿:

I miss my grandparents.
I feel so sad since I left Japan.
Feels like a break up, being so far away from my grandparents..
Found this collage my dad made, haha..
and I'm amazed by how much I look like my Japanese grandma.
Here's an old photo of her.
I feel like I look more like her than like my dad.

Stay healthy!!! See you very sooooon !!
I'll do my best to travel to Nagano asap to visit my grandparents.
I cried so much on the way back home on the airplane.
Living so far away from your family is just heartbreaking.

-

[日本語訳]
祖父母に会いたい。
日本を離れてからとてもせつない。
祖父母から遠く離れていると、散り散りになったような気分になります。
父が作った写真のコラージュを見つけました。笑..
そして自分が日本のおばあちゃんにとても似ていることに驚きます。
これは(左)おばあちゃんの昔の写真。
私は父よりもずっと彼女に似ている気がする。

健康でいてね!!! すぐまた会いましょうね!!
祖父母に会いにできるだけ早く長野に行けるように頑張らねば。
帰りの飛行機の中で泣きました。
家族とこんな遠く離れて暮らすのは、ほんと辛いこと。


2024/08/28(Wed) 05:52:02 [ No.10132 ]

◆ ユミ無事帰還 投稿者:suguru  引用する 
おはようございます。
おかげさまで、18時半(日本時間の夜中1時半)にユミは無事スイスへ帰って来ました。

また電話します。
とりあえずお知らせまで!

2024/08/25(Sun) 07:45:31 [ No.10131 ]

◆ 京都在住のシンガーソングライターの素敵な評論 投稿者:  引用する 
hhttps://note.com/futarinote/n/n19ae76dc397b?sub_rt=share_pb

こちらは、京都在住のユミの友人でシンガーソングライターの堀 桂(ほり かつら)さんが8月5日の大阪でのライブを聴いたあとに書いてくれた文章。
いろいろと現代ジャズやヴォーカルの専門的見地から、わかりやすく書いておられる。

タイトルもいい。
『伊藤悠美という、今月スイスから来日ツアー中の壮大且つ謙虚なアーティストを知っているか!!』

2024/08/23(Fri) 20:22:44 [ No.10130 ]

◆ ユミのインタビュー(2021) ~ 日本語と英語 投稿者:  引用する 
hhttps://portraits.jp/3wishes/2105.html

さっきユミがお友だちから携帯電話を借りておばあちゃんとジャデックと話したようだけど、その方は東京在住の三浦信(まこと)さんといって、ジャズ関連の批評家、文筆家として活躍されている方で、このインタビューは2021年に収録されたもの。インタビュアーは三浦さんです。

2024/08/23(Fri) 20:00:45 [ No.10129 ]

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