十六夜会(続)
奇特というのか気配りの良さというのか、パソコンを持っていないために、あるいはパソコンは持っていてもインターネットに興味がないために、HP上にあるこの作品の内容を見られない友人にも知らしめよう、と前篇(正篇)をプリントして同期生全員に、連絡網を駆使して回覧してくれた友が現れた(S大兄である)のであるが、その前篇はもうご覧になったいただいたであろうか。もし、まだ見ていないとおっしゃる方は、ぜひそちらの方を先に読んでいただきたい。この続篇には、前篇の修正とか追加とかが書かれているからである。
そもそも忘れる前に書いておかねば、というふとした思い付きで、それも入学から丁度50年目にあたる21世紀の初めに間に合わせようと、中学時代のことを思い出すまま、一気呵成に書き上げてみたものが、前篇の内容であり、もう書き加えることはないだろう、と高を括っていたのであるが、やはり記憶の奥底に埋もれていたためにまだ書けていないことが(もちろん大したものはない)徐々にではあるが、表面に出てきたのでまた書き加えた次第である。だが、今回は前篇のように一気呵成というわけにはいかなかった。何しろ記憶は断片なので、それらを「箱根の寄木細工」か「ジグソーパズル」のように、繋いでみたり解いてみたり、悪戦苦闘であった。それも順不同に書くので、まとまりのないことは従前の通り。また、続篇は正篇よりも出来が良くないと決まっているので、その点もあらかじめご了承いただきたい。
英語のY先生(追補)
学芸大学の附属ということで、毎年の何ヵ月かを教生の先生(大学生)が、実習という名目で教科を受け持たれることがあった。その中の一人の女性を見て、あの子チャーミングだな、と言われたことがある。可愛いとかでなくチャーミングと言われたのが、いかにも英語の先生らしいと感じたものだ。近頃、うっかりそんなことを言うと「セクハラ」などと言って責められることもあるとか。そう考えると、当時はそんなギスギスしたことのない「おおらかな時代」でもあったのだ。それから、前に書いた「カッ×イが今日も行く行くSバー」の続きは「18フィート6インチ(数字が違うかな)」で、その内容は、先生の行動と背の高さを冷やかしながら、実は保健体育の「ラグビーのクロス・バーの高さを覚える公式(!?)」になっているという、悪童たちの機知と勉強熱心さが生んだ狂歌めいた(字足らずではあるが)作品であったのだ。この作者は誰だろう。敬意を表したい。
英語のついでにコンサイス英和辞典
中学に入って買った最初の辞書がこれだった。健在とはほど遠いが、部屋に残っているコンサイス英和辞典(定価380円)には "June 13 1951" とあるから、恐らくそれが購入日だと思う。ということは、4月・5月は辞書無しで授業に出ていたのだろうか。もっとも Lesson 1 は "This is a pen. Is this a pen ? Yes, it is." という、まず一生使うことのないような文章だったから、辞書は必要無かったのかもしれない。後になって、「研究社」だったかの英和辞書を先生が勧めていたように思うが、私は購入しなかった。因みに、そのコンサイスで当時はまだ一般には無かったはずの "television" を引いてみると、「テレヴィジョン(原文はひら仮名、"う"に濁点を打つと、どうしてもカタカナになってしまうのだ)、電視、電映(電送によって遠距離物體の映像を活動寫眞のやうに再生する装置[原文のまま])」とある。実体を良くは知らない人が、全く知らない人に説明することの難しさのようなものを感じる。また、今なら子供でも知っている "internet" という単語は当然のことながら出ていない。
音楽(追補)
思い出すのも嫌、という人もいるようだが、もう一度登場してもらう。授業の中に音楽鑑賞というのがあった。クラシック音楽を聞かせて、その印象を書けというものだった。私はどんな曲にどんな印象を書いていたかは完全に忘れている――蛇足だが、私は間違ってレコード鑑賞の同好会みたいなものに入って、ある時、モーツアルトの「k525 アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」を解説したことがある。まったく身の程をわきまえない仕業であった。そのせいか、その同好会みたいなものの活動はその時限りで終わったように思う――。また、作曲もさせられた覚えもある。ある生徒は、著名な曲の前後を逆にして(つまり、音符を後ろから並べて)提出したというが、その評価はどうだったのだろう。私は、曲の一箇所に「シャープ記号#」を付けて知ったかぶりをしたりした。今の若い連中の多くが、ギターなどを弾きこなし、自分で作詞作曲をしたりしているのを見ると、ちょっと羨ましく思ってしまうこともある(皆さんの家庭ではどうなのだろう)。音楽の教科書の最後に、練習用なのか、ピアノの鍵盤が印刷されていたのを思い出した。つまり、個人の家には、特別な場合を除いてピアノなどなかった時代であったのだ。
数学のK先生
ニックネームは今更書くこともないくらい有名。そう「マ×○ス」。指名しておいて「分かったか」「分かりました」「何が分かった」という会話で、生徒を悩ませるのが趣味だったように思う(違うかもしれないが、何故か私はそう思い込んでいる)。とにかく、習った数学の内容で今も使っているのは「三角形の2辺の和は他の1辺よりも長い」くらいのもの。ジグザグの道を歩いたりするのに無意識に使っている。第一、中学ではどの辺りまで習ったのかが思い出せないのでどうにもならない。「三角函数」は習ったろうか。「微・積分」はまだ習ってなかったように思うのだがどうだろう。
校歌と講堂
両方とも、母校には存在しなかった。入学式や卒業式は学芸大学の講堂(小学校の向かいの門を入った正面にあった、京都府庁本館のような建物の2階)を借りて実施したように思う。そんな時も「校歌」はないし、「君が代」を歌った記憶もない。メリハリをつけるのには、一体どんな歌を歌ったのだろう。卒業式では、定番の「仰げば尊し」は歌っただろうか。これも大いなる疑問である。多分「蛍の光」は歌ったと思うのだが・・・。(思うの連続で申し訳無いが本当に思い出せないのだ)。今思い出したが、校歌・講堂以外にも無いものがあった。それは体育館。雨の時など、どんな風に体育をしたのだろうか。やっぱりサッカーをしていただろうか。何となく「保健体育」の時間に化けたような気もするが、間違いかもしれない。諸兄姉の記憶を呼び起こしてはもらえないだろうか。
PTAの会長さんか、または校医さん
当時のPTAの会長さん(あるいは校医さんだったかもしれない)は、同期のS姉の父上だったと思う(また思う、だ。恥ずかしい)。まだ珍しかった自家用車で時折学校に来られていたのを記憶している。その車のことを、私を含む悪童は愛情と羨望を込めて「と×きち自動車」と呼んでいた。幼い頃病弱だった私個人の主治医でもあった先生は、自医院でも往診でも煙草を手放されなかったので、指先がニコチンで黄色くなっていた。もちろん患者の前でも平気で吸っておられた。そして私に「煙草呑みになっても構わないじゃないか」と広言されていた。現在まで、私が喫煙を止めないでいるのは先生のせい、とは言わないが、少しは影響があるのかもしれない。
智恵子抄(追補)
一生懸命に(まるで立派な一人前の大人に対するように――大学の専門科目のように――)教えていただいた「智恵子抄」だが、私の記憶には「智恵子は×リリ(カリリだったかキリリだったか)と檸檬を噛んだ」、「東京には空がないと言う 本当の空が見たいと言う」そして「安達太良山」という断片しか残っていない。情けないことだが仕方がない。あの詩集を選ばれた理由も分からないが、その内容をこれだけ見事に忘れてしまうとは・・・。50年という年月を改めて痛感してしまう。あの赤い表紙も買ったはずだがもう家にはない。
古文
これについては、完全に忘れていると思っていたが、ほんのちょっぴりではあるが、覚えていることがあった。「ぞ、なむ、や、か、こそ」。これは確か係り結び。「な、な〜そ、ばや、なむ、がな、かな・・・」。これは禁止だったような気がする。「だに、すら、さえ、し、のみ、ばかり・・・」。これは何だったろう。強めだったかな。そんなうろ覚えの中に「ごとし」というのがあった。記憶を探ると「比況(こんな字だったかな)」という言葉に辿り付いた。これを使って「あいつは卑怯だ」というのを「あいつはゴトシだ」と使ったりしていたのを覚えている。単なるごろ合せなのだが、始めて覚えた言葉を使ってみたくて仕様がない、そんな幼さの残る生徒だったのだろう。
メタセコイヤ
何故この木のことを書いてないんだ、と不審に思われる方もあったかもしれない。でも、これはあくまで卒業時の記念樹であって、在学中に見聞きしたものではないので、どうにも思い出しようがないのだ。アメリカのヨセミテ国立公園だったかに、このメタセコイヤの巨木をくりぬいた道路を車が走っている場所があって、その写真を見たことがあるような気がするのだが。これは小学校時代、西宮球場で行なわれた「アメリカ博」で、まがい物(はりぼて)のそれをくぐった思い出と混乱しているのかもしれない。とにかく、大木になるらしいのだ。50年程度では、まだ幼木かあるいは育ち盛りなのではなかろうか。植えた場所もはっきり覚えていないし、現在何処にあるのかも私には全く分からない。なお、この木を紹介・斡旋(!?)してくださったのは、同期のY姉の父上だったと記憶している。
級友たちのこと(女性篇)
男性にかんしては、独自のページに、それも一人一人の印象を書いた。それを読まれた方の中には、次回は女性篇が同じような形式で書かれる、と思われた方もおられるかとは思う。だが、私にはそれを書く勇気がない。いや、勇気がないというよりも、それだけの情報がないという方が正しいかもしれない。何しろクラスが違うと、話す機会は激減するわけで(これは男性について書いた時も感じたことである)、それを印象と言って書くのはあまりにも無責任だと思うのである。という訳で、女性については、全体像として書くことにした。期待されていた向きには申し訳ないのだが、私もまだ「十六夜会」には出席したいのである。妙なところで恨みをかって、出席お断りなどと言われては困るのだ。
・・・という前提で・・・
全体的に頭が良い女性が多いのは、学校の特殊性もあるのだろう。だから、書くのは止めておく。
達筆が多い。これは頷く人が多いと思う。当時、書道の授業があったのは確か(国敗れて山河在り、城春にして草木深し を読まされた記憶がある)だが、私は一向に上手にならなかった。考えてみれば、ペン習字ではないのだから当然か。それはともかく、そういう達筆の女性は、よほど家庭で文字を書くことを大切にされて育ったのだろうと思う。今のように、パソコンやワープロの、極めて機械的な活字ばかりに取り巻かれている者にとって、時折受け取る達筆の書状は、思わず眺めてしまうし、残しておきたいとさえ思うこともある。もっとも困ることもある。その返事を書くときである。電話で済まそうかと考えてしまう。そういう意味では達筆は罪作りであるともいえる。私が筆不精であるのは、やはり悪筆であることが大きい。そう思うにつけ達筆の人が羨ましい。
それから、好みの問題もあるだろうが、綺麗あるいは可愛い女性も多い(ような気がする)。戦後10年も経っていなくて、世間にはまだ良い化粧品などもなく(もちろん中学生だから化粧する年代ではなかったのだとも言えるが)、着ているものも、今と違って洒落た既製品などもなく、手作りやお下がりも多かっただろうし、寒い日など、ほっぺたを赤くしていたはずなのに、綺麗にあるいは可愛く見えたのだから、これは本物であろう。もっとも男ばかりの兄弟の中で育った私の女性を見る審美眼が大したことないのかもしれないが・・・。そんな女性たちがその後どう変わったか。それについては、私はある年に久しぶりで出席した十六夜会で、当時流行っていたどこかのコマーシャルをもらってこう挨拶したのを覚えている。「綺麗な人はより綺麗に、そうでない人はそれなりに・・・」そこまで言った時、K兄から声あり「そんなこと言うたら、しばかれるゾ・・・」。そう、やはり女性は怖いのだ。
母校その後
京都教育大学附属桃山中学校と改称された母校は、その後、元の大学跡地(小学校の向かい)に移転した。なお、私たちが学んだあの校舎は、今は「京都市立呉竹養護学校」となっている。近くへ行ったことはないが、恐らく雰囲気も変わってしまっているだろうと思う。機会があれば、あの辺りの写真でも撮って、このHPででも紹介したいものである。
また、止せば良いのに続篇と称してくどくどと書いてしまった。読まれた方は、誰方でも似たような記憶や思い出はお持ちであるはず。ただ、それを恥を忍んで表面に出すか、あるいは心の中に仕舞っておくかの差だけだと思う。幸い、私には道具としてのパソコンがあり、場としてのHPがあっただけなのだ。なお、これで私の「中学校時代のファイルの中味」は出し尽したつもりである。「そうやった、そうやった」という個所はあっただろうか。「こんなこともあったよ」とか「私の記憶と違う」という個所があれば、ぜひご連絡いただきたい。人間の記憶なんてあいまいなものなのだから、ぜひ修正させてほしい。それらの反応や意見で、新しいページが作れるのならばそれに勝る幸せはない。