十 六 夜 会
思えば今年は中学入学からちょうど50年目にあたる。それを機会に思い出をひもといてみようと思う。というと格好が良いのだが、本当は忘れない内に書きとめておこう、ということである。しかも、あくまでも私の記憶だけを頼りに書くのだから、間違いもあるだろうし、それ以上に、全然興味の湧かないことも書いてある(むしろ、その方が多い)とは思う。その点は事前にお断りしておく。もし、誤りに気付かれた時は、ぜひご連絡いただきたい。より事実に近づけたいので・・・。
これを読んでいる人にはいまさら言うまでもないことだが、十六夜会というのは、今から50年前の昭和26年(1951年)4月に入学し、同29年(1954年)3月に、京都学芸大学附属桃山中学校(旧・京都師範学校女子部附属〜、現・京都教育大学附属桃山中学校)を卒業した同期会の名称である。卒業した当時の人数が、2クラス合わせて100名足らずということもあって、たしか全員の多数決で選んだのがこの名称だったのだ。若い頃は、この名称が何となく「照れくさい」という思いもあったのだが、50年近く経ってみると、「いい名前」にしておいて良かった、という思いが強い。もっとも「照れくささ」が全く無くなったわけではないが・・・。
では、在学当時の学校の立地と内容を思い出せるままに書いてみよう。
まずは、京阪電鉄と奈良電気鉄道(通称・奈良電)の合流点である「丹波橋」駅を下車する(徒歩通学なら無論その必要はない)。改札口をでると左手に「理髪店」、正面には「本屋」があった。その先(北の方)には、どなたかの別荘とおぼしき洋館建ての家があった。こんもりとした森(!?)に包まれていたように記憶する。
ここで説明をしておかなくてはならないのは、京阪と奈良電とが、何故、共通の駅を使っていたか、ということ。当時は、京阪と奈良電が相互乗り入れをしていたのである。つまり「宇治〜京都駅往復」、あるいは「新田辺〜三条往復」の電車が走っていたのだ。今のように、乗り入れもなくなり、駅自体も別の場所になるのは、後年、奈良電が近鉄の傘下に入ってからのことなのである。
言わずもがなの説明が長くなったが、その駅を後にして、踏切を渡って東に向かう。右側にあったのが薬局。その向かい側つまり左側には「M・文具店」があり、そのならびに「K・スポーツ用品店」があった。その先には跨線橋があり、それを渡る。橋の下は、当時は線路も無く、ただの切通しだった。橋の先は、右側に小学校、左側に大学のグラウンド・学生寮が続いていた。小学校の東隣りには大きな家があったが、何という苗字だったかは思い出せない。その先は、今は国道24号になっている「大和街道」となる。もちろん、今のようには信号もなかったし、道幅も今の半分くらいだったように思う。そこを越えてまだ直進する。ここからは住宅街となる。同期のU君の自宅前を通過して、国鉄奈良線を横切ると、もう母校は目の前である。
学校の名前は長くて大層なものだが、出来たばかりの実際の母校は、校舎が二棟と、サッカーのゴールがあるだけでただ広いだけの(石ころだらけの)運動場があるだけ。東側の法面には、植えたばかりの桜の若木があった。反対側(西側)は盛り土が雨の度に流れて、ちょっとした「グランド・キャニオン」状態になっていた。そんな何も無いに等しい母校で、私たちは中学生活を送っていたのである。
確かに、新しい校舎ではあった。だが、当時のPTAの方々の寄付などで、恐らく突貫工事で作られたであろう校舎は、窓枠などの木材がまだ完全に乾燥していないまま使われたのか、反ってしまって窓の開閉が困難になったり、廊下に塗られた油で、上履きの底のゴムがすぐに膨らんでしまったりしたのを思い出す。教室の電灯のスイッチなども、いわゆる粗悪品だったのか、すぐに壊れたりした。その壊れたスイッチの導電テストをするのに、体育系の国語のT先生(誰だかお分かりになるかな)は、おっかなびっくりで、金属製のコンパスを消しゴムで挟んでしようとしているのを見た生徒Sが、「そんなに大層にしなくても・・・」とコンパスを直接持ってテストしたこともあった。電気は最短コースを流れる、というのは常識のはずだが・・・。そんな不完全な施設でも、私たちは嬉々として走り回っていた。今だったら、欠陥だとか、手抜きだとかで、大問題になっていたかもしれないが、当時は、教室があって、運動場があればそれで満足していたのだから、幼かったのか。それとも、時代がそんなアバウトなものを容認していたのか。たとえ靴下に穴があいていようが、ずぼんにツギが当たっていようが平気だった。終戦から6年、物はまだ満足にないが、精神的には極めて充実していた時代だったといえよう。先生の体罰も無かったし・・・その代わりに「運動場一周」なんていう罰を命じる英語のM先生もいたが・・・、もちろん、いじめも無かったように思う。少なくとも、私はいじめの加害者にも被害者になったこともない。学校へ行くのが楽しみで、たとえ成績が芳しくなくても、勇んで登校したものだ。
学校の周りを見てみよう。
学校の真向かいには「天理教の教会」があり、時折、祈りの声(音)が聞こえていた。が、校舎の特殊な窓の位置の関係で、廊下からその様子を直接見ることは出来なかった。南には府立桃山高校、北に見えるのは市立桃山中学校、西は伏見区から西山連山・愛宕山までが一望できた。校舎の前を、さらに東へ行くと,松並木があった。その先にあるのは、「桓武天皇陵」。そこを通りすぎて、道なりに南へ行くと「治部池」。さらに南へ行くと、確か「明治天皇陵」に行き当たったと記憶しているのだが、違うかもしれない。とにかく、前述の松並木辺りから東は国有地だったのだ。この辺り一帯は、また私たちの放課後の遊び場でもあった。ヨソ様の柿を取って叱られたり、蜂に追いかけられたり、ウルシにかぶれて顔の腫れ上がった友もいた。そんな風に国有地で遊ばない(!?)時は、日の沈むまでサッカーに興じていたように思う。今、桃山城になっているのは、治部池から南の辺りになるのだろうか。その治部池が埋めたてられた、といううわさを聞いたような気もするが確かめてはいない。そういう場所だけに、学校周辺の地名にも奥床しいのが多かった。長岡越中、井伊掃部、筒井伊賀、松平筑前、松平武蔵、羽柴長吉、福島太夫、水野左近、毛利長門、板倉周防、本多上野、さらに永井久太郎というのもあった。地方の慌て者が、郵便の宛名に「伏見区桃山町 永井久太郎様方」と書いたという話を聞いたが無理もない。
ここで少し科目ごとの思い出を書こう。
まず体育。体育といえば石ころ拾いと、もう一つはT先生に教わったサッカーだった。現在、Jリーグなどのテレビを観ていても、ルールなどが分かっていて、若い連中とそれなりの話が出来るのは、この頃刷り込まれた知識のせいである。もっとも、当時は、フォワードは「俊敏で足の速い者」5人でWの頂点のような形の陣形をとり、その後ろにハーフ・バックとして「こまめに動けて、ポジショニングの上手な者」が3人、さらにフルバックは、どちらかと言えば「キック力のある重量級」が2人、そしてゴール・キーパーという布陣と習ったから、今の布陣とは大分違うのは止むを得ない。当然のことだが、バックのオーバーラップなどという作戦は全く無かった。とにかく、ゴールだけは立っていたので、必要なのはボールだけだから出来たのだろう。女性達も他に出来る運動が見当たらないせいか、やはり、サッカーをやっていたように思う。雨の日はコンクリートの渡り廊下で、板切れを蹴りあっていた。
次は国語。これもユニークだった。高村光太郎の「智恵子抄」の赤い表紙の本を買わせて、その詩集でかなりの日数を費やしたかと思うと、夏目漱石の「三四郎」でまた数ヵ月。感想文を提出せよ、とかの宿題では、書店の子供である生徒Eは、家にあった漱石や「三四郎」関係の書物などを駆使して、N先生をして「大学生にも書けない立派なレポートである」と言わしめたとか。ただし、これは本人が言っていることであって、今となっては調べようがない。私は、「かかりしほどに法皇は〜」の平家物語や、方丈記、また松尾芭蕉の「奥の細道」も習ったような気がするのだが、あるいは高校でだったかもしれない。あまりにも「智恵子抄」と「三四郎」の印象が強すぎて、他に習ったであろう内容が思い出せないのである。アンコンシャス・ヒポクリット、ストレイ・シープ、ヘリオトロープなど、今でも覚えているこれらの言葉は「三四郎」に出てくるものだし、また国語の先生にもあるまじき次の言葉を述べられたのもN先生だった。その言葉とは「詩とは、人間性の根源に発するノスタルジィの創造の因子が詩である」というもの。どこがおかしいか分かるかな???。前にも書いた体育会系のT先生については、習った内容は何も記憶になくて、ただ、生徒Nを呼ぶとき「Nイカダ(正しくはシゲルなのだが、その字がクサかんむりに伐なので、筏と見誤られたらしい)」と呼んでいたことと、指が汚れないように、白墨に金属のカバーを付けておられたことは覚えている。
次は英語。担当は二人だった。一人は背がひょろっと高いY先生、もう一人はその「ザン×」という愛称通りのM先生。Y先生は黒板に書く文字のユニークさで印象深い。特に"of"の直立した字体には、英語に接し始めた頃の私などは憧れて?よく真似をしたものだ。また、京阪伏見桃山駅近くのSバーがご贔屓だったようで、悪童連中は「カッ×イ(Y先生の名前なり)が今日も行く行くSバー〜」と冷やかしていた。一方のM先生の口癖は"read and translate"で、授業中は日本語禁止などと決めて、それを守れなかった者が「運動場一周」をさせられていたのは前にも書いた。で、一周してきて教室に戻った途端「ああ、しんど」と言って、また走らされた気の毒な者もいた。たしか、それは生徒Oだった。このM先生は、黒板の白墨を置くための出っ張りに腰を下ろすので、ズボンの後ろをいつも真っ白にしていた。最初に触れた英語の先生がこのお二人だったことが、以後の小生の英語理解力や会話力に与えた影響は少なくないように思う。
次にユニークだったのは音楽。O先生には・・・特に男性は・・・「バイエル」で泣かされ、「コールユーブンゲン」でまた泣かされたものである。そんな私が大学ではグリークラブに入って男声合唱に目覚め、そのいきおいで、今も男声四重唱を(それも編曲まで)やっているのだから、世の中はわからないものである。家に今も残っている「バイエル」のNo.18に赤丸がついているので、そこまではどうにか進んだらしい。そんな実力の私が、後年、コードだけを頼りに、京都会館でピアノ伴奏したことを知られたら、O先生はどう思われることだろう。一方のコールユーブンゲンが役に立ったのは、グリーに入ったばかりの夏の合宿。個人指導と称して先輩が歌えと命じたのが、「ド・ミ・ソ・ファミファソラシド〜」で始まる四度音程の中のNo.17―c(原書No.26)だったのだ。これを難なくクリアーしたので、先輩には「こいつはデキル」という印象を与えたらしく、「コールユーブンゲンを後ろからやってみようか」などとシボラレたのも事実ではあるが、以後、常に陽の当たるポジションを確保したのである。
あとは理科・数学・社会等々があったのは当然なのだが、それぞれの細かい授業内容は思い出せない。理科で思い出すのは「蛙の解剖」のみ。当時は、私の家の近くにも田んぼがあって、そこで実験材料となる「蛙」を何匹も捕まえて学校に持参したことは覚えている。今の学校では、こんな授業は出来ないだろうな、と思う。数学では、"x"や"y"などが出てきて便利なものだ、と興味をもったのを覚えている。特に「π(ご存知のパイ)」は、小数点以下30桁を覚えたことがある。今も覚えているか確認してみよう。"3.141592653589793238462643383279"。出来た。でも、これを使う機会は現在まで一度もない。無駄に脳を使ったものだ。社会は、授業内容よりも、卒業する時の「謝恩会?」で、H先生がはなむけに吟じてくださった漢詩が記憶に残っている。「〜なからん、なからん、故人なからん。西のかた陽関を出ずれば故人なからん」。この中に出てくる「故人」が日本では亡くなった人のことなのに、中国では友人のことと知ったのはこの時であった。また、後年、漢文や漢詩に興味をもつようになったのは、この時の影響が大きいように思う。あの頃の暗記力が、今でも続いていれば・・・と思うのは筆者だけではないはずだ。
先生ではないが,一人忘れられない人物がいた。用務員(当時は親しみを込めて小使いさんと呼んでいた)の○亭○一郎という老人(だと思っていた)。小学校の用務員だった彼は、私たちが中学に入るのと同時に、中学の用務員となったようだ。怖い人だった。彼に叱られなかった生徒は少ないと思う。彼の名前のイニシャルが、日本人には珍しい"R・R"だったので、当時奈良にあった進駐軍(駐留軍)の施設をもじって、用務員室のことを「RRセンター」と名付けたのは私である。
それ以外の記憶を少し
いつからともなく、また何処の店かという記憶もないが、先にも書いた渡り廊下の一角に、昼時分になると「パン屋」が店を出していたのを覚えておられるかな。その店の店員が「某石鹸会社」のトレードマークのような顎をしていたので、口さがない連中は、「花○石鹸」と呼んでいた。売店というのは、その出店ただ一つだけだった。
今の子供が「持ってはいけない」と言われるナイフを持つのは当然だった。電動の鉛筆けずりはまだ存在しなかったし、鉛筆の芯を、刺すと痛いくらいに尖らせるためにナイフは必需品だったのだ。私の筆箱には、「肥後の守」と「切り出しナイフ」がいつも入っていた。また鉛筆も、出来るだけ短くなるまで使うのが私の流儀だった。そのための補助軸(というのかな)もごく一般的に売られていた。ボールペンもまだ日本にはなかったように思う。中学生の証しである三種の神器は詰襟の学生服と万年筆と腕時計(それに革靴を加えて四種としていた者もいた)。もちろん、それらを持たない仲間もいたが、誰もそれを言うことはなかった。当り前だが、持つ者も持たざる者も、皆、平等だったのだ。髪型にしても、坊ちゃん刈りもいたし、丸坊主もいた。私は後者だった。髪を伸ばすのは、大学生になってからのことになる。無論、髪の毛を染めている者はいなかった、というより、染めることを知ってる者がいなかった、という方が正しいのかも知れない。そういう風潮がなかったのだ。
学校生活とは関係ないことだが、先ほど書いた国鉄奈良線で、当時活躍していた蒸気機関車は「C58」と呼ばれるものが多かった。お召し列車というのも時折見ることが出来た。明治天皇陵が桃山にあった関係で、天皇(もちろん昭和天皇)が参拝される際には、この線を使われていたのだ。たしかに国鉄桃山駅には、そのための特別なプラットフォームがあった。私は、その特別仕立ての列車の通過を、学校から、なんと見下ろしていたのだ。もっとも、私が興味を覚えたのは、そのお召し列車そのものよりも、その約15分前に、露払いとして何も曳かない蒸気機関車が走ることだった。この線路に釘を置いて、列車に轢かせて平らになったのをナイフに加工したこともあったのも覚えている。
修学旅行は、二年生の初夏に出かけたと記憶する。宿泊は、熱海・東京・日光・帰りの車中の都合4泊。バスに長時間乗るという経験の少ない仲間の中には、熱海から東京へ向かう途中で酔う者も多かった。箱根あたりでは、バスガイドが何度も「晴れていれば富士山が〜」と言っていたのを思い出す。その道中は曇りだったのか、それとも雨だったのか。とにかく富士山は、その道中、一度もその姿を見せなかった。それにしてもどんなコースをとったのだろう。記念写真には「鎌倉の大仏」の前で写したものも残っている。東京は記憶なし。日光は泊る筈の宿が連絡の不手際だったのか泊れなくて、急遽別の宿を探したのだった。今思うと、修学旅行でそんなことが起こるなんて全く信じられない。でも、それを理由に学校へ詰め寄った父兄がいた、という話も聞かないし、何事もなかったのだろう。もっとも、そんな出来事を、大事件だと家に報告することもなかったのだ。帰りの夜行列車の中で、引率の先生や疲れていた多くの仲間が寝静まった頃、眠れなかった生徒Eと生徒Sは、走っている車両のデッキの外側を渡れるかどうか、という実験を飽きるまで繰り返していた。当時の客車は、今の列車のように扉が閉まってしまうことがなかったので、そんな冒険も出来たのである。もし、その時、手すりを掴み損ねていたら・・・それこそ大事件だったろう。
映画の団体鑑賞というのもあった。観た映画の中で記憶に残っているのは「黒水仙」と「遊星からの〜」くらいか。前者ではデボラ・カーという女優の綺麗さに興奮したような気がする。どんな筋だったかは、全く覚えていない。私はそれ以前から、女優ではイングリッド・バーグマンが好きだった。まだ小学校の時代に、父親に連れていってもらった映画「セント・メリーの鐘」、「サラトガ本線」で彼女に憧れたのが最初である。アメリカの尼僧には綺麗な人が多い、と思ったこともあった。女優だから当然のことなのだが・・・。それにしても、団体鑑賞する基準はなんだったのだろう。先生の誰かのリクエストだったのだろうか。「黒水仙」と「遊星からの〜」では、あまりにも違いすぎるように思うのだが・・・。
卒業前に、職業適性検査というものがあった。私は「どんな職業に就いても上手くいく」と言われて、特長のない人間だ、と決め付けられたような気がしたのを覚えている。だが、確かに種々の仕事をしたが、何となく「そつなく」出来たことを思うと、この時の検査結果はまんざらデタラメではなかったのだな、とも思ったものだ。その他にも、クレペリンとか、色々なテストがあった。
三年生になると「北○路書房」だったかの高校入試模擬試験を受けた。受験した学校でトップの成績だった、と担任の先生がにこにこ顔で報告されていた、が生徒側にはあまり興奮は無かったように思う。高校は合格して当然のものだったのだ。それよりも、廊下でする相撲の方が面白かった。当時最強と言われるほどデカかった生徒Tに外掛けで勝ったことは、今も私の誇りである。もっとも勝ったのはその一度だけだったが・・・。
だらだらと書いてきた。また新たに思い出せたら書き足すことにしよう。もう一度書くが、私の記憶違いや新事実の発見などがあればご連絡いただきたい。