十六夜会(追加)
― 級友たちのヒント・アドバイスに基づく ―
正篇と続篇で、私の記憶は全て搾り出したつもりである。それなのに、まだ書くことがあるのか、と言われそうであるが、この追加ページは、読まれた方からの嬉しくそして有難い手紙あるいは電話などに基づいて、それに私が肉付けをしたものなのである。だから、私の記憶の部分はごく僅かしかない。殆どは、私以外の同期生の記憶であることをお断りしておく。その貴重なヒント(アドバイス)をくれた諸兄姉の名前は、特別の場合を除いて、守秘義務のためにいちいち書かないが、このHPを充実させてくれたことに対して、紙面からではあるが、厚くお礼を申し上げる。
シャーウッドの森
別にロビン・フッドの話をするわけではない。この呼び名を懐かしいと思われる方が同期生の中には多いらしい。特に女性の中に・・・。当然のことながら、私は使ったことがない。一体それが何処のことか分からないって? 母校近辺で「森」といえば、そう、桓武天皇陵に続く松並木(これは正篇で触れている)から治部池に通じる辺りの森を、かなりの数のロマン溢れる生徒は「シャーウッドの森」と呼んでいたのだそうだ。あの森をそう呼んでいた背景には何があったのだろう。さしずめ誰かが悪代官に、また誰かがリトル・ジョンとかになぞらえられていたのだろうか。そして、問題は誰が正義の味方ロビン・フッドであったのかということになるが、それについては、ヒントをくれた人も明かしてはいないので、今もって不明のまま。また、マクベスに出てくる森でなくて何故シャーウッドの森なのかも当然分からない。ただ響きの問題なのかも知れない。それともロマンの世界に魔女の住む森では、という拒否反応があったのかもしれない。何か結論めいたものを書きたかったのだが、与えられた「あの辺りをシャーウッドの森と呼んでいた」というヒントからは、この程度のものにしか仕上がらなかった。各自がそれぞれ「自分がロビン・フッドである」と思うのが一番平和なのだろう。
白壁
「シラカベ」と読んではいけない。これはあくまで「ハクヘキ」。卒業文集のタイトルである。だが、私が覚えているのはこのタイトルだけなのだ。どんな珍文を書いたか、あるいは書いていないのか、全く記憶にない。もちろん手元には存在しない。文才のある諸兄姉は、きっと今見ても納得できるような文を提出したのだろうが、私には、残念ながら、文才の持ち合わせがないので、たとえ書いたとしても、ロクでもないことしか書いていないだろうということは想像できる。だから、あまり見たいとも思わない。よく、タイムカプセルといって、何年後かに見ようなどという企画をする向きもあるが、私など、考えるだけで恥ずかしくて参加する気も起こらない。嬉々として参加する人の気がしれない、と言っては叱られるかな。この項については、自分の書いたものの内容に自信のある誰方かの更なる応援をお願いしたい。
宿題「イロハカルタを作れ」
S先生の国語の授業の中で、生徒一人一人に仮名一文字を割り当てて、カルタ様のものを書いてくるように、という宿題があった。ここに発表するのは、その答案の内の三点である。どれが誰の作品であるかは、例によって明かさないのは無論である。「そういえば、私はこんなのを書いた」という記憶のある方は、ぜひご提供いただきたい。
ロ 廊下に立たされベソをかく
ハ 走る時に足駄はだめ
オ 大きなことは小さなことから始まる
世界に向けて発信しているはずのHPに載せるのにふさわしいか、あるいは中学生の作品として、どれが傑作で、どれが駄作かなどという評価はさておき、足駄などという言葉に時代を感じてしまうし、漫才師出身の議員の口癖である「小さなことから〜」というのは、この「オ」の作品のパクリではなかろうか、と思ってしまう。因みに、この「オ」は、級友の挙手によって第1位になったとか。確かに「ロ」や「ハ」も中学生らしくて、それなりに傑作だとは思うが、それらの作品と比べて、「オ」の出来はどうだろう。かなりの開きを感じるのは、私だけであろうか。
余計なことだが、私たちの子供の頃、正月に友達が集まると、「イロハカルタ」ではなく「百人一首」をしたのを覚えている。「ムスメフサホセ」が一枚札であることも知っていた。今の子供は、多分知らないだろうなぁ。というよりも、正月に友達が集まるということが無いようだし、また沢山の子供が集まれる部屋も無いか。考えてみると可哀想な気もする。
三四郎
下の表に掲載したのはある人から提供してもらったN先生自筆の「論文・三四郎」への評価である。これについて、私が書くことは何もない。何しろ評価は"A"なのだ。先生のちょっとカン高い声は覚えているつもりだが、文字となるとこれは貴重品である。くどいようだが、これが誰方のものであるかは、私は明かすつもりはないし、また聞かれても決して答えることはない。そういう約束でこれをHPに出しているのだから・・・。ただ、先生の筆跡を懐かしく見てもらいたいのである。かなり縮小してあるので、読みにくいと思うが、紙面の大きさという制限があるので、ご了承願いたい。現物をごらんになりたければ、私宛に連絡をもらえれば、コピーをお見せできる。それにしても、これを50年近くも保存されていたことには驚かされた。貴重な資料をありがとう、とこの場をお借りしてお礼申し上げる。ついでに書いておくが・・・美禰子は「みねこ」なのか、それとも「みやこ」なのか、少し前に論争されていたが、結局どちらに落ち着いたのだろう。ご存知の方はぜひ連絡をいただきたい。
先生の自筆評価(実物はA4サイズ) | その内容(原文のまま) |
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とても鋭い文学研究が出来た 感性を知的に操作していった ところ その調和点に文を 構造していったところ 創作を よむ様な水々しさがある。 心にくい把握の仕方であって 私などがこの文をよむとちょっ とにくらしくなってくる。誰の支 配も受けないでこういう世界へ 入ったのであれば将来み込み がある。 作家か文芸批評家にでもなる といい。 中川 |
訂正
「級友たちのこと」のページで、T兄の憧れを「ジーナ・ロロブリジータ」と書いたが、これに対して、本人が疑義ありと言ってきたので、ここに彼の文章を披露しておく。いささか長文だが、本人の意思を尊重してのことなのでお許しあれ。
小生には幼少期より青年期にかけ「巨○願望」が存したことを否定するものではないが、中学時代にロロブリジータはちと時代が合わない。彼女の映画が日本で見られるようになったのは50年代末期であって、われわれの高校時代であったような気がする。中学時代までに登場していた「肉体派女優」(「グラマー女優」という言葉は1960年代にできたもの)は「苦い米」のシルバーナ・マンガーノと「ボルジア家の毒薬」のマルチーヌ・キャロル位だったと思う。因みにマリリン・モンローの「ナイアガラ」による日本デビューが確か1954年。序に、(どなたにも興味はなかろうと思うが)わが女優遍歴?をこの際披露すれば、中学時代はデビー・レイノルズ(ご存知かな?)高校時代から大学2年ごろまでは、フランソワーズ・アルヌール、ジャンヌ・モロー、ミレーヌ・ドモンジョでありました。―(中略)―最近のお気に入りは「マイ・フェア・レディ」のオードリー・ヘップバーン!小生も還暦を過ぎて随分枯れて?来た。 |
当時の有名女優を総なめにしたような感じもする。それにしても彼の女優に関する記憶力は素晴らしい。HPに1ページ差し上げるから書いてみないかと言いたいくらいである。
治部池その後
最初に書いた正篇(いわゆる「前篇」)の中で、「埋めたてられたといううわさが・・・」と紹介したが、これはやはり単なるうわさであったようだ。K兄からもらった連絡によると、「治部池は今もあの場所に以前のままあります。もっとも柵がしてあり水辺には近寄れません。誰かがブラックバスか何かを放流したらしく、朝早く釣りをしている人を目にしたことがあります」とのことだった。自分の目で確認もしないで書くのはやはりいけないな、と思った次第である。また、治部池については、こんな記憶をもっている友がいてくれた。あの澱んだ水面を見ては、「サッフォーでも飛び込みそうな〜」(これも三四郎に出てくる台詞――私達はどうしてもこの物語から離れられないのだ)と良く言っていた、という記憶である。それを教えてくれたのはN兄。そう聞けば頷く人も多いのではないだろうか。私もその一人だった。飛び込むといえば、日光華厳の滝に飛び込んだ一高生、藤村操の巌頭の台詞はどんなだったかな。「曰く不可解」は覚えているのだが…。
若干の疑問
「ある先生は、長男・長女・次男・次女などと教室の列を分けた」・「ある先生は、生まれ月の同じ者同志で食事をさせた」・「ある英語の先生は、一月から十二月までを列の前から暗誦させた」・「教室の黒板は湾曲していた」・「校庭の南側の坂道で鶏が車に追いかけられていた」・「休み時間に男女が混じって『Sケン』をした」・「校庭の南側に鉄棒があった」・「海軍精神注入棒の話」等々、色々な意見というか、記憶を語ってくれた人がいるのだが、私は残念ながら、それらについて文にするほどの持ち合わせがない。それぞれについて、これが正解ということをご存知ないだろうか。
記憶には殆ど無かったことを、適当に字句を付け加えてそれなりの形にしてしまう。これを才能と呼ぶのは、かなり危険なことであろう。このページの内容は、ほぼそういう危険なもので占められている。字数はそれなりに多いが内容がない、というのが私の文章の特長ともいえる。そんなつもりでヒントを出したわけではない、と言われそうだが、もし提供者の真意が届いていないとすれば、それは全て私の責任である。