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イン・アメリカ 三つの小さな願いごと /
In America

Jim Sheridan

2002 UK/Irland 103 Min. 劇映画

出演者

Samantha Morton
(Sarah - 母親、元教師)

Paddy Considine
(Johnny - 父親、俳優志望)

Sarah Bolger
(Christy - 10才ぐらいの娘)

Emma Bolger
(Ariel - 6才ぐらいの妹)

Djimon Hounsou
(Mateo - 下の住人)

Adrian Martinez
(店の主人)

Randall Carlton
(国境の係員)

Neal Jones
(国境の係員)

見た時期:2003年9月

ストーリーの説明あり

映画好きもここまで来ると、見て損をしたとか、見ない方が良かったなどという作品がガクっと減ります。普段あまり映画館に行かない人が大枚はたいて見た時には「ここまで時間と金を使ったのにこれは何じゃ!!」となり、腹が立つこともあるでしょう。あまりお金をたくさん使わず見る機会に 恵まれ、テレビは全然見ないとなると、映画館に行くこと自体が楽しみになり、感謝、喜びこそすれ、損をしたなどという気持ちはほとんど起こって来ません。

そういう中で珍しく最低線すれすれの作品を見ました。イン・アメリカ 三つの小さな願いごとといい、ある家族の物語です。時代をずらし、親戚関係をずらすと骨子になるところは実話。監督の人生の一部を物語ったものだそうです。最後に「今は亡きフランク・シェリダンへ」と、監督と同じ苗字の人物に捧げられています。

会場に来ていた監督本人が言ったので事実でしょうが、これは監督の弟のことで、監督が17才の時10才だった弟のフランクが亡くなったのだそうです。映画の中ではアイルランド人夫婦に元は3人子供がいて、フランクが2才の時階段から転落、その後脳腫瘍が直接の原因で亡くなったということになっています。こういう事が起きると「誰のせいか」と考えてしまう人がいるようです。

日本人の場合、そういう考え方をする人もいるかも知れませんが、運命と受け入れる人も少なくありません。悲しみが減るわけではありませんが、自分1人だけが子を失う苦しみに苛まれているのではないと考えるのは、多少慰めになるかも知れません。この辺宗教が違うからなのか、自然災害の多い国に生まれ育った人とは哲学が違うのか、よく分かりません。とにかくこの夫婦は顔に出さずとも内心こだわっていたようです。

多神教ですと様々なキャラクター、運命の神がおり、中の誰かに自分の運命を当てはめて納得するという方法があります。一神教ですと、不条理な運命を抱えた人は神を非難するわけにも行かず、不満が自分の中に溜まってしまうのかも知れません。自然災害の多い日本のような国が一神教に馴染まないのは自然なことなのかも知れません。

さて、子供の死は「人間は年を取って、順番に死ぬのがいい」と考える日本人にとっては、自分の子でもよその子でも大きな悲しみです。しかし日常のこだわり方は西洋人の方が激しいようで、イン・ザ・ベッドルームでも息子を失った夫婦があわや離婚というところまで行き、結局法を破るという解決法を取ってしまいました。このあたりの原則的な考え方の違いがこの映画が好きになれなかった理由の1つかも知れません。

ここからはもっぱらイン・アメリカ 三つの小さな願いごとの筋をご紹介。

冒頭カナダとアメリカの国境検問所が出ます。幼い娘2人を連れたアイルランド人夫婦が休暇旅行でアメリカに入国します。不法移民を嫌がるアメリカですが、アイルランド人はいわゆる白人。それでも検問の係官は不審そうな目を向け、あれこれ罠とも取れる質問をします。夫婦はドキッとしている様子。子供がまずい事を言い出しそうで、観客もドッキリ。この辺はベルリンの壁があった頃の検問を思い出させ、私もドッキリ。この作品を見た映画館は東にあり、東の観客が多かったのですが、この人たちの中に1989年より前、用があって西に出た人などがいれば、もっとドッキリ。国境検問というのは当時の EEC の中ではあって無いがごとく、楽なものでしたが、東と西の間を行き来する場合は、冗談抜きでスリルのある瞬間でした。恐さの原因は勝手の分からない所だから、何を違法とされるか分からないということだったのだと思います。

さて、この一家は本当に休暇で来たのかと思いきや、実は検問係官のかんぐり通り違法に入国しニューヨークに居付いてしまいます。父親の職業は俳優。母親は教師。子供たちはまだ10才にも満たないおチビさん。そしてフランキーという名前の弟がちょっと前に死んだということが観客にも分かります。

父親は俳優として成功を目指してニューヨークへ来たのでしょうが、どことなくフランキーの死を乗り越えるために心機一転という感じがしないでもありません。人間が年の順に死なない時は洋の東西に関係なく苦しみも大きいです。そういう意味では赤ん坊を亡くした人は大変。無関係者なら、まだ若いのだから次の子供を作って気持ちを晴らしたらいいと単純に思いますが、そうは問屋が下ろさないという話はよく聞きます。不思議なことに逆に子供5人とか、7人とかいう家庭ではたまに不幸があっても、バイタリティーに富んでいて前向きな人が多いようです。私の親の世代までは4人か5人ぐらい生まれ、1人ぐらいは早産か、早死にというケースが多く、七五三まで元気に育ってくれればという願いから子供のためのお祭りまでできています。当時はそれが自然でした。現代は医学が進み、生まれたからには子供は育つべきだという考えが支配的で、自然の流れに任せるという考えをする人は欧米ではまずいないようです。

さて、心機一転一家は事情を知らない日本人が見たら怖気づいてしまうようなアパートを借ります。所持金はゼロに近い。無鉄砲な両親と、ここでまず腹が立つのです。アパートの荒れ具合に腹を立てているのではありません。私が借りたアパートも似たり寄ったりでした。欧米では自分で好きなように変えて良いので、リフォームの楽しみもあります。ヘルス・キッチンなので近所が物凄い場所ということもありますが(ドラッグもタバコもやらない子供をこんな所に置いていいのかということで腹を立てる人もいるかも知れません)、そこの住民になってしまえば近所の人が襲ってくるなどということはまずありません。私も大使館が引越しを薦めるような地域に住むことが多いのですが、結局町を知っているとあまり変な事は起きません。うちの近所でも撃ち合いや暴力沙汰がたまにありますが、直接の関係者以外はあまり捲き込まれないようです。

子供は楽天的で言いたい放題。親は時々子供に振り回されることもあります。そういう実際に起きる事とは別に、演出に腹を立てました。子供をだしにして、大人がドキッとする事を言わせてみたりするのですが、それが意図的過ぎて、鼻について来ます。俳優のせいではありません。脚本にそういう風に書いてあるので、俳優はそれに従って演技しているだけ。それほど有名な人は出ていませんが、俳優は有能で、自然な演技です。母親をやっているのはギター弾きの恋マイノリティ・リポートで主演のサマンサ・モートン。非常に個性のある笑顔の女性です。父親役のパディー・コンシダインは現実を直視しない男の役で、リアルに演じています。3人目は同じアパートに住んでいるマテオ。アミスタッドで顔を覚えた方もいらっしゃるでしょう。ジモン・ハンソーという西アフリカ人です。コンシダインはこの後準主演、助演でのびて行きます。

子供の目を通しての話ということで、大人の汚い話はかなり割愛してあり、きれいな所だけを強調してあります。夫婦にはフランキーの死が呪いのように覆い被さり、父親は現実を直視せず、母親は4人目の子供を妊娠した時、フランキーが再来するように思い込みます。出産直後のノイローゼの一種かも知れませんが、表に出さないけれど妻も吹っ切れていなかったという風に私は受け取りました。死んだ人間について頭の中でどう整理するかを見ていると、日本人の方がずっと正しいやり方を身につけているように思えます。日本人は人がいつか死ぬということを物心ついた時から理解しているように思えます。その理由は大人が気楽に自分はこういう風に死にたいとか、葬式の話をしたり、あの人は天寿をまっとうして良かったなどという話を頻繁に聞かされているからでしょう。ドイツに住みながら欧米の話を聞いていると、人は死を不自然に心のどこかに閉じ込めて、鍵をかけてしまうか、必要以上に恐れを抱くように見えます。人生は流れだ、生まれたらからには次は死。その間をどういう風に過ごすかが大切だと考えている日本人はあまり死をヒステリックに恐れず、受け入れているように思います。40ぐらいになると「自分の顔に責任を持て」などという CM が折り良く出て来たり、厄年などと言って、健康に対する注意を促されたりと、節目節目に死に向かう準備を促されます。誰もそれを悪く取りません。子供が先に死んでしまったりすると親は特別悲しみますが、死を恐れてのことではなく、「もっと人生を経験させてあげたかった、それができずにかわいそうだ、 残念だ」という感覚ではないかと思います。それで90才、100才の人が亡くなると、お通夜では涙より、「ここまで来られて良かった」という静かな喜びが見られるのでしょう。自分が日本人だからひいきして思うのかも知れませんが、私には日本式の考え方の方が自然で合理的に見えます。

さて、この家族には監督の意思で、次から次へと大波のように問題が襲って来ます。元々お金がないのに遊園地へ行って変な賭けを始め、危うく全財産を失ってしまうところ。子供をカソリックの学校に入れるにはお金が要る。ハロウィンの日、学校では他の子は買った衣裳を着けているのに、この家族は自分で作った衣裳を着て恥ずかしい思いをする(ここでまた腹が立ちますが、これは監督のせいではありません。ハロウィンや学芸会などで買った服を着るのは、本当はもってのほかだと思います。みんなで衣裳まで作って自分たちでやってこそ教育効果があるのだと思います)。エアコンを買って取りつけようとしたらコンセントが合わなかった、等々、挙げていると切りがありません。完全な自伝ではありませんが、似たような事を経験した部分もあると言っていました。

愚行の頂点は親がしっかりしていないので、10才になったばかりの女の子が大人の心配を背負ってしまうところ。子供たちは友達と会えないことを悲しみます。幸いヘルス・キッチンでも知り合いができますが、大人ばかり。子供にこういう思いをさせてまで大人が身勝手に生きているという面がはっきり出ます。監督はかなり高齢ですが、この人がまだ小さかった頃の話を小さい子供の目から見て描いたということなのでしょう。ところがそこへ観客をドキッとさせる姑息なトリックがいくつも出て来て、そこは年を取った監督の視点で挿入しています。大人の目と子供の目を混ぜてしまったところがイン・アメリカ 三つの小さな願いごとの弱点に思えます。

それ以外はあまり意味のない作品。似たような私小説的な作品としてはバスキアがありますが、あちらの方がおもしろいエピソードが盛り込んであり、私的な視点でありながら、一般に訴えかけるものがありました。

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