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2004 D 88 Min. 劇映画
出演者
Lavinia Wilson
(Maria - 図書館に勤める女性)
Victoria Mayer
(Sarah - マリアの親友)
Maximilian Brückner
(Jan - 獣医の卵)
Richy Müller
(Wolfgang - マリアの愛人)
Tobias van Dieken
(Nico - ヤンの友達)
Holger Kunkel (Rasmus)
Daniel Drewes
(タクシーの運転手)
見た時期:2005年7月
Allein は英語の Alone と同じ言葉で、《1人きり》という意味です。主人公の心理状態を一言でまとめるとこうなります。《依存症の女性》というタイトルにしてもいいかも知れません。
前日ドイツの力作を見てしまったので、次に来る作品はどうしても不利。前日のハンディーを抜きにしても小粒という印象はぬぐえません。現代の女性の1つのタイプを描いた作品で、心理学関係の人が見たら、一種のパターンを映像にしただけと言われそうです。役に立たないわけではありません。もし誰かがこういうタイプの人間だったり、身近にそういう人を知っていたら、参考になるかも知れません。問題は自分、あるいは身近な知人がそういう人だった場合、この映画を見てその人を助ける事ができるかという点。《ああ、そういう人がいるんだ》という事を納得する事と、その人を実際に助ける事には大きな開きがあります。
主人公マリアは若くそれなりに魅力のある女性。西ドイツの中程度の大きさの都市で図書館に勤めています。本業は学生の様子。援助交際のプロなどではなく、化粧も薄く、生活も地味な普通の女の子ですが、夜な夜なディスコで男を漁り、ベッドに連れ込むという生活をしています。加えて週に1度か2度会う中年男ヴォルフガンクもいて、セックスでは自堕落な生活をしています。しかしそれがどうだと言うのか、ドイツでは個人の生活は個人の物と割り切っていますから、他に影響が無い限り他人が口を出す問題ではありません。しかし彼女は目の下に隈を作って翌日仕事に遅れて来たりするので、全く誰にも迷惑をかけていないというわけでもありません。主任からは時々文句が出ます。まだ若いせいか、その辺は甘えで誤魔化せているようです。
男を誘っておきながら、寝てしまうと急に冷たい態度になり、乱暴に追い出してしまうというのが彼女のいつもの習慣。寝る以外に用は無いとばかりに洋服を押しつけて部屋からたたき出してしまいます。多少なりとも彼女と楽しい時を過ごそうと思っていた若者は目を白黒。彼女は厳しい言葉を吐いてドアをバタン。
ところがその後が行けません。彼女は泣き出すのです。(順序が逆でも成立する人間関係はいくらでもありますので)せっかくセックスで上手く行ったのだから、ついでにデートぐらいする仲になってもいいだろうと思いたくなりますが、彼女は言葉できつく拒否。その実、本心はもっと付き合いたい様子。
ある日食堂で友達のサラと食事をしていると、図書館にいた若者ヤンから声をかけられます。男はいくらでも手に入ると思っているマリアは相手にしません。ところが暫くしてヤンと図書館でまたはちあわせ。電話番号をくれたりと、純情で熱心に働きかけて来ます。ヴォルフガンクとの仲にも秋風が吹き始めていたところで、マリアはヤンと付き合ってみようかという気になります。初めて彼が彼女の部屋に来たところで、マリアは早速セックスを始めようと突進。ところが彼女と普通に付き合おうと思っていたヤンには、まだセックスは早過ぎ、遠慮。マリアは嫌われたかとショックを受けます。ヤンが帰った後、彼女はウォッカなど強いアルコールを持ち出し、意識が無くなるまでラッパ飲み。やれやれ、彼女は極端に走るのだ、と観客は納得。セックスとアルコール依存の徴候を示しています。
青年は標準的な考え方をするというか純情で、マリアのことも尊重しているので出会い頭に服を脱がせて突進、寝てしまったらそれでおしまいというつもりはありませんでした。30年、40年前ですと男女が逆さまですが、現代ではマリアのような女性もおり、ヤンのような男性もいるのです。この日帰ってしまった代わりにデートに誘ったりしてくれ、極端なマリアには徐々にヤンのデートの仕方が分かり始めます。こういうのもいいか、ちょっとやってみようという気になり、ヴォルフガンクとは手を切る気になります。
ヴォルフガンクというのは日本で言う援助交際とは違いますが、マリアと定期的に寝ていて、頼まれればプレゼントもするような男です。彼女の性格はよく分かっていて、他の男と途中で寝ていてもあまり頓着しません。帰れと追い出されると、その場ではあまり大騒ぎせず帰ります。しかし彼女にしっかりつけ込んでいる面もあり、どうやったら彼女をまた自分の元に連れ戻せるかは心得ている様子。しかし無理強いはしません。彼女に惚れ込んでいるとか、彼女を尊重しているそぶりも全然ありませんが。
ヤンとちゃんと付き合い始めそれなりに幸福感も味わうマリアですが、ヤンに仕事があったり、研修でオランダへ旅立ったりするとマリアの生活はガラガラと崩れます。ヤンは獣医の卵。仕事で朝早く動物園に行くことになると、マリアも早朝動物園に顔を出します。1週間ほどオランダへ行くことに決まった後は大変なことになります。困った時はヤンに連絡できますし、サラがいつでもいてくれるのですが、マリアは誰にも自分の問題を打ち明けません。サラとは付き合いが長いので、彼女はマリアの抱えている問題を知っていて、精神分析医の所へ行こうと何度も助言してくれます。自分もついて行ってあげるとまで言ってくれます。ところがマリアは本当に助けになりそうな事に限って断わってしまいます。
リスト・カットのような事もやり、強いアルコールを大量に口にし、仕事はいい加減になり、ある日首になってしまいます。サラが仕事をしている真っ最中に電話をして、「自分は全てをめちゃめちゃにした」と泣きながら言いますが、実際に何をしたのかは言いません。サラに心配をかけるような発言は多いのですが、自分の問題を説明して解決に近づこうという姿勢は全然出て来ません。ヤンがいない今回はさらにエスカレートして、事故まで起こしてしまいます。
オランダから戻って来ているヤンに「付き合いは止めよう」と提案。言われたヤンには何の事かさっぱり分かりません。尋常でないマリアの様子に心配ばかりが増えます。この映画が試みているのはマリアのような性格の人が送っている生活の裏表と、ヤンやサラのような人物にそれがどういう風に映るかの対比。ですから全く意味の無い、役に立たない映画ではありません。こういう人たちはこういう風に苦しんでいるんだ、表に見えている面と見えていない面があるのだという事は分かり易く説明しています。また、監督は一見間違った事ばかりを続けているマリアに対して批判の目も同情の目も向けていません。
冷たく突き放すことはせず、映画の終わりはヤンとの関係にまだ多少希望が持てるようになっています。ただ、今回ヤンがマリアを理解して付き合いが続いたとしても、マリアの方にこういう生活を終わらせる意思が無ければ、何度か同じ事を繰り返した挙句、ヤンは疲れ切って去って行くでしょう。マリアの方にヤンとの付き合いを続けたいという気持ちが起これば、サラかヤンが精神分析医の所へ一緒に出向き、マリアの治療に協力するなり、治療に行くマリアを好意的に見るなりして、長期的に関係を救うことができるでしょう。監督はそこまでは突っ込んでいません。続編でも作って、治療中のマリアの困難でも描写すれば、2本の映画を合わせて、治療の手引きになるかも知れません。しかしこれは医療関係の映画ではなく、あくまでも人間関係を描いたドラマ。その視点で見ると、監督はこの映画で何をしたかったんだろうという疑問が残ったまま終わります。ややこれに似た性格の女性を映画いた Die Unberührbare では主人公の女性が死を選んでいます。
意外だったのは主人公を演じたラヴィニア・ウィルソンのインタビューでの「自分はとても幸せな家庭で育った」という発言。そうだとすると演技力のある女優さんです。何しろ上映中「地をそのままに演じているんだろう」という印象しか浮かばなかったのです。今にも折れそうな弱い性格で、毎日の生活が綱渡りみたいな危なさをよく出しています。体型も細めで目鼻立ちもきつくなく、意思の強さとか幸せにあふれてとかいう印象は浮かびません。これまで名前を聞いたことのない人でした。中学ぐらいからもっぱらテレビに出ている人です。芸暦は10年以上。
好青年ヤンを演じているのは Männer wie wir で主人公を演じたマキシミリアン・ブリュックナー。前作に比べやや大人っぽくなっています。彼の役は Männer wie wir の方が愉快でした。今世紀に入ってからテレビに少し出演した他、この2作の間にもう1本ドイツでは有名になった劇映画に出演しています。最近ユルゲン・フォーゲルやダニエル・ブリュールのような力強い新人が出ていませんが、この2人は今後どういう風になるでしょう。
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