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エミリー・ローズ /
The Exorcism of Emily Rose /
Der Exorzismus von Emily Rose

Scott Derrickson

2005 USA 119 Min. 劇映画

出演者

Jennifer Carpenter
(Emily Rose - 女子学生)

Andrew Wheeler
(Nathaniel Rose - エミリーの父親)

Marilyn Norry
(Maria Rose - エミリーの母親)

Iris Graham
(エミリーの妹)

Katie Keating
(エミリーの妹)

Taylor Hill
(エミリーの妹)

Joshua Close
(Jason - エミリーのボーイフレンド)

Tom Wilkinson
(Moore - カソリックの神父)

Duncan Fraser
(Cartwright - 悪魔払いに同席した医師)

Mary Beth Hurt
(Brewster - 判事)

Laura Linney
(Erin Bruner - 弁護士)

Colm Feore
(Karl Gunderson - エリンの弁護士事務所の上司)

JR Bourne
(Ray - エリンの助手)

Campbell Scott
(Ethan Thomas - 検事)

Kenneth Welsh
(Mueller - 医師)

Henry Czerny
(Briggs - 医師)

Shohreh Aghdashloo
(Adani - 人類学者)

見た時期:2005年11月

結末から始まる作品なので、人が死んだという結末はばれていますが、裁判の結果はばらしません。

「こんなに科学技術が発達した現代に何やってんだ」という批判は当然起こるだろうと思いますが、実話です。そういう批判は何も私が特に言わなくてもお分かりだろうと思うので、省略。

実際の事件が起きたのはカソリック教徒が多い南ドイツ、映画化に当たって舞台はアメリカに移してあります。

以前だったら「アメリカにやらせておけばいい」と思ったかも知れませんが、最近のドイツ映画には出来の良い作品も出始めているので、ドイツ自身が映画化しても良かったかと思いました。そうすると景色や建物がより現実に近く、その上美しく撮れたかも知れません。ドイツの俳優には演技をやり過ぎる人もいるので、どういうキャスティングがいいのかは私にもはっきり言えません。ドイツの俳優にもハリウッドと同じで、何でも演じられるのに特定の役に押し込められる人もおり、誰に本当はどういう演技ができるのか私は全てを把握しているわけではないのです。法律関係者のキャスティングに関してはアメリカの決定も悪くありませんでした。撮影はドイツにして、英米の俳優が演じるというのもおもしろかったかも知れません。

エクソシストと聞くとやはりリンダ・ブレア主演、本家本元の作品を思い浮かべてしまいます。オカルト映画として良くできた作品でした。エミリー・ローズのテーマは同じなのですが、ああいう作品を期待して見に行くと失望します。いくらか怪奇っぽいシーンもありますが、本題は法廷劇。リニー演じる弁護士がいかにしてウィルキンソン演じる牧師を弁護するかという部分に焦点が当ててあります。よく考えるとこの作品の本質はライフ・オブ・デビッド・ゲイルと似ていなこともありません。そこにローラ・リニーが出ていたのは偶然でしょうか。しかし凄い演技もできるリニーはちょっと手を抜いているというか、あまり本気には見えません。困り切っている男を演じるのが上手いウィルキンソンはいつもの通りの演技で悪くありませんが、カソリックよりプロテスタントの神父という雰囲気があったのが不思議です。

リニーはちょっと前明かに教会を批判している作品に出ていましたが、今回は批判はマイルド。脚本は困り切っている家族を助けようと尽力する神父に対しては矛先を向けていませんし、その裏にある教会という組織の持つ古い体質に対する批判はほとんど突っ込んでいません。長い歴史のある組織、団体を映画1本で変えることは無理ですし、カソリックの教会には内部から変えていこうという動きもあり、悪魔払いに関してもいずれは順番が回って来るのかも知れません。控え目に出されている批判精神は、医学で事件を処理しようとする検事の意見が頻繁に却下されてしまったり、弁護側の申し出がわりと簡単に許可されてしまったりする点に現われています。私はバイエルンという土地に住んだことがないので、法律関係者がどのぐらい教会に協力的で、悪く言えば偏った決定を出すのかは知りません。大学教授などがカソリックだという例はいくつも知っていますが、おもしろいことに教会を良く知っているからこそ言える皮肉やユーモアを交えた批判の言葉を聞いたことがあります。頭ごなしに糾弾するのではなく、こういう形でやるのかと感心したことがあります。

物語の背景になっている実話の方はこういう具合です。

1976年アンネリーゼ・ミヒェルという女学生が南ドイツ、バイエルン州の一部のフランケン地方で悪魔にとりつかれて23歳で死亡。16歳の頃から発作に悩まされ、神経科の検査、治療を受けていました。神経の一部に問題があり、精神障害を起こしており、宗教に厳しかった父親に対して凶暴性を見せることがあったと言われています。地方全体が宗教的。彼女の家庭も例外ではなく、アンネリーゼは家族や周囲の人にも勧められ医学より宗教の方に信頼感を持っていたようです。

発作が起きると彼女は人が変わったようになり、声は変わり、人が食べないような物を口にし、家の中を徘徊。カソリックの象徴にあたる品を見ると激しく反応。たまりかねた両親は教会に助けを求めます。司教(かなり高い地位)の同意の元に9ヶ月に渡って悪魔払いが行われました。最後には彼女の体重は31キロ。死の直前まで行われていた悪魔払いでは6種類の悪霊がとりついていたことが《確認》されています。悪魔払いの時彼女は外国語をしゃべり、うら若い女性が知る由も無いような膨大な知識を披露したとのこと。直接の死因は餓死。悪魔払いを任された神父たちは彼女を救うことができず、彼女は1976年7月1日死亡。両親は敬虔なカソリックですが、南ドイツは一般的にカソリックの人が多い地域です。

彼女の死後検察側は2年近い間調査を行い、過失致死で立件。死後2年経って墓を掘り起こして検死まで行いました。

1978年2月25日、アンネリーゼの棺が開かれます。関係者、ジャーナリスト、野次馬などが大勢集まってくる中、検死が行われましたが、市長と検死官は両親、悪魔払いを行った牧師などに、死体を見ない方がいいと言い、検死会場への入場を妨げたそうです。そのためあれこれ説が飛び出します。

医学的な問題であるとする検察側と、とりつかれた(悪魔の問題)とする弁護側の対立は検死でも解決することができませんでした。

映画はかなり事実に忠実に描いていて、何かを歪曲したという印象は無く、また両親を悪者にする描き方もしていません。神父に関しても本人の苦悩が盛り込まれており、誰かに無理やり責任を押し付けて糾弾する姿勢は取っていません。押さえのきいた作品で、好感が持てますが、弱腰だという批判が出る可能性はあります。検察側の無力感をもう少し強調しても良かったかという気はします。

筋運びを見る時それぞれの立場を理解せざるを得ません。

娘に死なれた家族にとっては、16歳から23歳までの7年間娘と共に苦しんだわけで、誰が悪いとは言えません。この地方で人が信心深いのは普通のことで、この両親が特別狂信的だったとは言えません。自由な精神を持った若い女性が数多くの宗教的な拘束を煩わしいと思ったのかも知れません。もしかしたら理解のある学校の先生や精神分析医がいれば解決できる問題だったのかも知れません。両親にしてみればたいていの人が受け入れている生活をしていたので、たくさんいる子供の1人が発病しても医学的な知識は無いし、どうしていいか分からない、たまりかねて神父に相談するというのは常識的な行動と言えるでしょう。

悪魔払いを始める前に家族は娘を医者に見せています。医者は癲癇と神経的な問題、それに加え精神的な問題があり、全部が重なったのだと考えていました。それで落ち着かせるための薬を処方していました。薬を止めるように言ったのは映画の描写では教会関係者らしく、外から見ると両者がエミリーを取り合ったように見えます。精神的な問題にすぐ錠剤を与えてしまう傾向はアメリカでも問題になることがありますし、ドイツでは徐々にこれまでの薬品を見直し、自然な方法も取り入れようという動きが出ています。欧州風の漢方薬品(薬草などを使う)はよく教会関係の農場で生産されます。そういう意味で錠剤漬けにしてしまうことにためらいを感じる気持ちも分かるのです。

検事は難しい戦いを強いられます。宗教色の強い地方で教会を敵に回して戦うのは大変。検事自身が発言の間に時々「自分も信仰を持った人間だ」と言って陪審にアピールしています。普通は家族を神父に殺されたという図式になるのですが、家族は神父に悪意を持っておらず、神父を告訴していません。となると検事だけが国民の代表として刑事事件で被告を訴えるという形を取らざるを得なくなります。自然死で無いため刑法が適用され、検察側には告訴する義務が生じます。味方のいない苦しい戦いは弁護士でなく検事の方に回って来ています。

弁護側も簡単には行きません。神父は値の張る弁護士でなく、国選弁護人でいいと言っていたのですが、背後の教会が穏便に片付けようとして、やり手の弁護士事務所に依頼します。少なくともドイツのカソリック教会はお金持ちですから費用の心配は要りません。事務所では所長がエリンに担当させます。エリンはやり手で、これまで上司だったカールの共同経営者になるべく頑張っていました。この裁判に勝てばカールと肩を並べて看板が出せるようになるというので、事件を引き受けます。

ところが彼女の作戦に神父は乗って来ません。教会の希望もあり、検察側と取引して裁判に持ち込まず穏便に済まそうとという作戦はボツ。示談のような形で納め、神父は証言台に立つ必要もなく、裁判が終わったらよそに赴任して、皆がこの事件を忘れるというコースが考えられたのですが。

その上神父には守秘義務があり、自分を弁護するエリンに言わないこともあります。実は重要な証人と証拠があるのに「黙っていてくれと頼まれたから言わなかった」とのたまい、「私を何だと思ってるの、あんたを助けるために働いているのよ」とエリンをかんかんに怒らせてしまいます。

神父は自分が刑務所送りになることにはほとんど頓着していません。教会にいるのも刑務所にいるのも同じだといわんばかりの無関心さ。逆にこだわっているのは公判中に証言させろという点。エリンは神父に証言させるために自分の首を賭ける羽目になってしまいます。

三つ巴のタッグマッチですが、無関係者の私にはさらに疑問が沸いてしまうのです。エミリーがカソリックでなかったら事件はどういう動きになっただろうという点です。癲癇で医者にかかるとそれなりの治療を受けられ、本人も周囲も病気の知識が得られます。発作の場合医師の忠告に従って行動すればそれなりに普通の生活が送れます。神経の病気は視覚、聴覚、味覚などにトラブルを起こしますが、それでも自分の病気や障害に関する知識があると普段の生活はかなりリラックスしたものになります。精神的な問題も分析やカウンセリングを受けたりすると何がどうなっているのかが分かり、中には考え方の切り換えで良くなるものあります。3つが同時にやって来ると確かに負担は大きいですが、何がどうなっているのか分かっていると対策も具体的に分かり、絶望ということはないでしょう。

また、家族全員が大都会に住んでいたらどうなったでしょう。やはり事情は異なったのではないかと思うのです。大都会ですと町に大病院があってすぐ精密検査ができたかも知れません。教会の意見も含め複数の考え方を耳にしたかも知れません。例えば日本や韓国の巫女が時々陥るヒステリーに似た状態とエミリーの反応は一部似ていないこともないのですが、このように複数の可能性が視野に入り、悪魔だけが唯一の可能性ではないということになるかも知れません。エミリーはラテン語他の難しい言語で習っていないはずの難しい内容を語ったそうですが、巫女にも常人には分からないはずの発言があると聞いています。

弁護側が取ったのは《複数作戦》。「これだ」と1つに絞らず、「これかも知れない、あれかも知れない」といくつもの可能性を示し陪審をぐらつかせます。1つに絞れないと有罪判決は出しにくくなります。争点にしたのは「神父がはっきり何か過失を犯してその結果エミリーが死んだと言い切れるのか」という点。因果関係が明確でないと有罪に持ち込み難くなります。

最終判決は・・・(ばらさない)で、・・・(ばらさない)のおまけがついています。控訴は無し。というわけでエミリー・ローズは興味本位の怪奇映画ではありません。

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