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カンニバーレ その後(2)

事件発生:2001年3月
逮捕:2002年12月
裁判開始:2003年12月
前の判決:2004年1月
上告審開始:2005年1月
2度目の判決:2006年5月

ハンニバル・レクター博士と違い、実話。《気色悪い》ページです。趣味でないとおっしゃる方は飛ばして下さい。目次へ。映画のリストへ。

2002年に捕まり2003年から裁判になったカンニバーレ氏ですが、2回戦は負けたようです。捕まった時からなぜか人を食ったような顔をしていた M 氏、今度の報道写真では苦虫を噛み潰したような顔に写っています。

本当に人を食ったのですから仕方ないのでしょうが、1回戦の時は一種スター的な余裕があり、マスコミなどは彼のペースで報道したようなきらいがありました。故殺罪で実刑8年半。検察側は終身刑、弁護側は5年が妥当と主張していました。どの時点から刑期を計算し始めるのか正確なところは分かりませんが、単純計算で行くと2006年 − 2002年 = 4年。とするとあと4年ちょっとで晴れて自由の身です。

2回戦はフランクフルトの地裁で、事前の報道は事件発生当時より穏やかです。今度は検察側のペースで進んだような雰囲気。結果は終身刑。無期懲役という言い方をしていないので、本当の終身刑かも知れません。検察側は終身刑、弁護側は8年半は長過ぎるという理由でやり直しになりました。3回戦は全国規模の裁判になるでしょう。

ドイツは死刑を廃止した国なので、今回は最高刑を言い渡された形になります。割り切れないのは、彼が一種のシンボル扱いになっていること。精神状態の鑑定も良く分からない言い方で、「精神を病んでいる」という点は公に認められ、それでいて「法廷に耐え得る精神状態」とも認められ、そのため病人扱いはされていません。この分野に全くの素人の私には玉虫色というか、灰色というか、霧の中の判断、よく分からない話です。捕まった時には「法廷に耐え得る精神状態」だった人が拘留中に精神異常を来たし「法廷に耐え得る精神状態」から逸脱した場合ですら、私にはどういう扱いをしたらいいのか分からなくなってしまうので、「病んだ人が法廷に耐え得る」というのも良く分からないのです。「再犯の恐れ」は私も新聞の記事を読んだ範囲では「ありそうだ」と思うので、場所が刑務所になるか病院になるかの違いはあっても当局が何かしら手を打つ必要を感じるのは納得が行きます。

再犯の恐れ

・・・は確かにあります。本人曰く「B 氏は年齢を5歳偽っていた。(捕まっていなければ)自分はもっと若い男を探して再び試みただろう」とのこと。捕まってしまった M 氏が世間をおちょくるために挑発的な発言をしている可能性も否定できないので、どこまで本気か分かりませんが、この裁判の難しいところはそういう M 氏の振舞い。死刑は無いと踏んで(実際無いのですが)周囲を振り回せるだけ振り回してやろうとしているのか、捕まった事がきっかけで一種の解放感を味わい正直に証言しているのかがさっぱり見えて来ない人なのです。

私は M 氏を応援するつもりも懲らしめてやるつもりもなく、距離を置いたスタンスなのですが、これまでに例の無い事件であり、これを機に何かしらの立法が行われるという点に注目しています。判例も次に事件が起きた時に参考にされるという意味で一種立法と似た機能がある点は諸外国と共通しています。ドイツは人を食べたという話はゼロではないのですが、そのために立法するほど事件は多くありません。しかしインターネットに数百人もそういう事をやりたがる人が現われてしまうと、立法化が必要と当局が考えるのも自然な成り行きかと思われます。

人を食ったような話と思ったのは、M 氏がかなり先を読みながら行動しているからです。自分に大きな災いが及ばぬよう、希望して被害者になった B 氏の最後の様子をビデオに残しており、いわゆる殺人(Mord)とならないよう配慮しています。「B 氏が希望して・・・」というところがはっきり分かるようになっています。それで「最高行っても○○年だ」と踏んでいたのでしょう。捕まって暫くは余裕綽々で、留置場生活にもカリカリしていません。

8年半は短か過ぎるという連邦通常裁判所(個々の裁判のレフェリーのような役目を担う裁判所)の判断で差し戻しになり、2回戦となったわけですが、今度は終身刑となると、3回戦で妥協という筋が見えて来ます。終身刑になるのは通常加害者の方は相手に害を加える意図を持っており、被害者の方は死のうという希望を持っていない場合で、被害の規模も死亡や重傷、それも特に残酷な犯行だったか、被害者の数が多いようなケースです。EU の国際裁判では国を代表するような地位にいて大量虐殺の責任を問われる人を終身刑にするかが検討されます。

裁判所は・・・

M 氏は「殺す意図は無かったが、食べる意図はあった」とのたまいます。そんな事が可能なのか・・・と私は訝ります。

連邦通常裁判所は「食べる行為で興奮する」という弁護側の主張を退け、「性的な満足を得るための殺人」という名目を認めています。で上告は認められました。この点は弁護側、検察側で大きく意見が食い違い、裁判所でのビデオ上映でも被告の顔を見てその表情をどう判断するかというきわめて危ない事をやっています。

「人の肉を食べる事は法律で禁止されていない」と解釈をする被告人ですが、同じく起訴されている「死者の永眠を妨げる(死体損壊のような意味ではないかと思います)」という項目についても弁護側はそれには当たらないと主張しています。

法律に素人の私には、相手を殺さないと実行できない全ての行為が(計画)殺人になると思えるのですが・・・。

ところがここで弁護側と検察側は大きく対立します。弁護側は故殺(激情に駆られたりして起こる殺人で、計画性は無い)、検察側は計画的な殺人(Mord)と主張。M 氏が主張している「肉体的に健康な被害者本人に依頼されて殺す」というカテゴリーが無く、法律家は現在の法律だけで何かしらの結論を出さなければなりません。最近は末期の重病人のための自殺幇助もテーマに挙がるので、ドイツにも嘱託殺人、自殺関与罪などが何らかの形で設けられているのだと思いますが、M 氏の裁判ではこの法律は引き合いに出されていません。

マスコミの記事だけを見ての感想ですが、個人的にはこの被告を好きになれません。しかしこの事件の場合、加害者が精神を病んでいた点が公式に認められている事と(気の毒なことにうちの近くの大学病院の先生も1人鑑定に駆り出されたようです)、被害者自身が死を希望していた点が考慮されないというのは素人には矛盾して見えます。被害者が自分の立場を冷静に判断できないほど偏った精神状態にあったとの見解もあります。そして弁護側は「被害者に依頼されての殺人」というあまり聞いた事の無い罪状での判決を要求しています。

一見似ている重病人のための嘱託殺人と同じ方向には進んでおらず、行為は似ていても動機が違うという点は区別しているようです。検察側はもしかしたら「どんなに頼まれても人を殺めては行けない」という方向に持って行きたいのかも知れません。そうなると重病人のケースと摩擦が起きてしまいますが、原則としてキリスト教の社会では神以外が人の生死を決めては行けない規則になっていますので、苦しんでいる人をやむなく殺すという事も本来は規則違反になります。

裁判所はあまり聞いたことのない「非常に邪悪な殺人」という理由を挙げて弁護側の要求を蹴っています。日本と違って情状酌量とか反省とかを大きく前に出さない国ですが、この裁判では「身勝手だ、反省していない」などとやや日本的な見解を示しています。裁判は主観が入っては行けないというのは原則論。現場では用語が無機的に聞こえるだけで、かなり生々しい作業になるようです。

色々な面で前代未聞の裁判になり、当局の戸惑いが見えます。ここで極端な結論に走ると、後に災いを残すので、よく考えてから結論を出してもらいとは思いますが、どうやら1回戦が弁護側ペースの軽い罪、2回戦が検察側ペースの重い罪、3回戦がその間を取って、一般が納得する刑という風に考えているのかとも思えます。

ハンニバル・レクター博士ではありませんが、どこかしら病んでいるようであり、非常に頭が良く、実行力もある人間が被告人、滅多に起こらない事件なのでそのための法律が整備されていない、被害者の被害が大きい、などと難しい状況に挑戦を受けた一般人は考え込んでしまいます。

余談ですが、ハリウッドでも活躍するドイツ人俳優を主演にしたこの事件の映画が M 氏の告訴で上映中止になっています。本人はドキュメンタリー映画やメモワールの計画を持っており、メディアの注目は今後も浴び続けるでしょう。未決で拘留が始まってからもう映画を1本撮れてしまうぐらいの時間が経っています。

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