音楽のページ

ヒューストン、ウォーウィック家の悲劇

生き残れなかった少女 訃報

関係者

Cissy Houston
(ゴスペル、ソウル、ディスコ・シンガー - ウィットニーの母親)

Whitney Houston
(ソウル、ポップス・シンガー - シシーの娘)

Dionne Warwick
(ソウル・シンガーと言われているポップス・シンガー - シシーの姪、ウィットニーの従姉。)

Dee Dee Warwick
(ソウル・シンガー - ディオンヌの妹、60年代に活躍)

Hal David
(作詞家、バカラックとの作品で有名)

Burt Bacharach
(マレーネ・ディートリッヒの専属アレンジャー、後にハル・デヴィッドと組んで多数のヒット曲を出した作曲家)

Bobby Brown
(R&B 歌手 - ウィットニーの前亭)

ウィットニーが死んだ時期:2012年2月

ウィットニー・ヒューストンが亡くなりました。大成功にも関わらずドラッグに向かうスターは後を絶ちませんが、最初から全ての面で恵まれた環境にいたウィットニーがなぜという気持ちは残ります。

享年48歳とされていますが、私にはどうしてもあの童顔が目に焼きつき、まだ20歳の前半というようなイメージから抜けることができません。バービー・ドールのようなかわいい顔、数々の困難に出会ったのに時々子供のような笑顔を見せる彼女が好きでした。歌の方は私の望むようなジャンルに行かず、ポップス性の強い曲ばかりを歌っていました。しかし従姉のディオンヌ・ウォーウィックとそっくりの超タフな美声。私はこの2人にギンギラギンのソウルを歌ってもらいたかったですが、プロデューサーや周囲の人はああいうポップス系やバラードがいいと思ったのでしょう。残念です。

★ すばらしい声

声の質、強さから言うと私はマーサ・リーヴスとウィットニー・ヒューストンをソウル界では引き分けの1位と考えています。ただマーサ・リーヴスが本当の意味でソウル界に軸足を置いていたのに対し、ウィットニーはソウルには片足だけ時たま置いて、本当はポップスにいたように感じます。教会に行けばゴスペルも歌ったでしょうし、ライブの舞台ではソウル、ファンク、そしてややソウルに近そうなディスコの曲も歌ったようですが、世界的なヒット曲はソウル系から離れ、ポップスに近かったです。レコード業界としてはお金になるジャンルを選ぶわけで、その点は外国の曲も歌えた美空ひばりが歌謡曲、演歌歌手とされていたのと同じでしょう。

ポップス、ソウル、ファンク、ディスコなどのジャンルの中で声の質を競うとなると従姉のディオンヌ・ウォーウィックも加わり3人で上位3位までを分けて、その中でヒューストンかリーヴスが1位という風に感じます。この3人は無理な発声をせず、喉を痛めずに力強いロングトーンが出せ、声を聞いただけで「あの人だ」と識別できる個性を持っています。ウォーウィックとヒューストンは時として区別がつきにくく、やはり血縁だと思います。

ディオンヌ・ウォーウィックもソウル歌手とされているのですが、大ヒットしていた頃から「どこがソウルなんだ」と私は訝っていました。彼女も妹と一緒に教会などでゴスペルを歌うことがあったようですが、なぜかそういう曲はレコードになっておらず、ヒット曲は私に言わせればポップスとしか思えないような曲ばかりでした。バカラック/デヴィッドと組んでいた時代がこんなだったので、私は興味を失い、その後の曲はラジオから偶然聞こえて来る時しか聞きませんでした。

ウォーウィックは渇きと潤いが一緒になったような声で、一時期は「音楽界の黒真珠」と呼ばれていました。あのようなユニークな声だったので、もっとバカラック/デヴィッドが彼女にに合うような曲を作ればよかったのにと思います。彼女のためにたくさん曲を書いた2人ですが、へんてこりんな作曲の実験をやった反面彼女の声は十分生かし切れていないように思います。そういう点ではアレサ・フランクリンやグラディス・ナイト、マーサ・リーヴスの方が数は少なくても本人の声に合った曲を得たように思います。

★ もしかしたら・・・

私はもしかしたら東京で当時子供だったウィットニーを目にしているかも知れません。ディオンヌ・ウォーウィックが連れていた子供がもし彼女自身の子供でないとすれば、あれがウィットニーだった可能性があります。ヒューストン家はシシーに大勢の兄弟姉妹がいるので、別な人の子供だったのかも知れませんが、ウォーウィックが連れていた幼児は血縁だろうと思います。アフリカ系で白人の血も引くような容姿、髪の毛は薄茶色のカーリー・ヘアーでした(ところで、なぜちょっとでもアフリカ系の血が混ざっているとアフリカ系に分類され、アフリカ系の人にちょっとでも白人の血が混ざっている場合は白人に計算されないのでしょう。黒人側は白人の血の混ざった人も黒人に数えているので、この調子で行くと将来アメリカは黒人系の人の数がぐっと増えそうです。ブラジルではムラトと呼ばれるアフリカ系の人でないと、男性は女性のためにセレナードを書いて求愛してくれないのだそうです・・・と白人のブラジル人がぼやいていました)。

話を戻して、何でそんな事になったのかと言うと、私は来日したディオンヌ・ウォーウィックと公演の直後に二言三言言葉を交わす機会があったからです。後でインターネットで調べると彼女の来日は1972年となっており、私が行った会場でコンサートを開いているので、ウォーウィックに出くわしたのが1972年というのはほぼ間違いないようです。私は図々しくも「あなたの子供か」と聞き、彼女は「親戚の子供だ」と答えたように記憶しています。


《家族のご紹介》

★ シシー・ヒューストン (1933年 - 現役・・・とは言ってもかなりの年なので仕事をしているかは不明)

インターネットなどの情報ですが、ヒューストン家とウォーウィック家は血縁で(それは昔から知っていた)、シシー・ヒューストンは8人兄弟姉妹の末っ子(知らなかった!)。ヒューストンはオランダ、アメリカ・インディアン系。1930年代後半から年上の姉妹と一緒に教会で歌い始めています。姉のリーが生んだ子供がウォーウィック姉妹に当たります。

ヒューストン家8人兄弟姉妹のうち4人が職業として歌い始めます。ヒューストンの結婚前の本名はドリンカードと言い、後にドリンカード姉妹としてコーラス・グループを組み、シシーも加わります。シシーがシシー・ドリンカードと名乗らず、ヒューストンと言うのは、ヒューストン氏と結婚したため。

ウィットニーが生まれた頃、私も名前を聞いたことのあるスウィート・インスピレーションズというグループを組みます。メンバーにディオンヌの妹ディー・ディー・ウォーウィックが入っています。このグループは自分たちのヒットはあまり無いのですが、超有名なソウル・スター、ポップス・スター、ロック・スターのバック・コーラスをやっています。競争の激しいアメリカでは、有名人のバックとして声がかかるだけで歌手としては相当な地位を得たことになります。時にはディオンヌ・ウォーウィックのバックを務めたりしながら、ソロ活動も始めたシシーは冷静な判断力の持ち主。二束の草鞋作戦が成功し、現在まで《全く忘れられた存在》にならずに来ています。

★ ディオンヌ・ウォーウィック (1940年 - 現役)

ヒューストン/ウォーウィック家の中では1番の稼ぎ頭。ヒット曲も1番多いです。

上に挙げたシシーの姉リーが子供を生み、それがウォーウィック姉妹。なのでウォーウィック姉妹とウィットニーは従姉妹。年が離れているのでディオンヌが叔母だと間違われることがあるそうです。

ディオンヌはレコード会社関係の仕事をしている父親を持ち、子供の頃から音楽に親しんでいました。妹のディー・ディーも歌手になっています。弟がいましたが、ディオンヌがグラミー賞などを貰い好調の時事故死。両家の悲劇の始まりです。

ディオンヌの周辺は最初から音楽関係者が多く、ヒューストン家のシシーの兄弟姉妹と共にグループを組んでいました。ディオンヌがいずれプロにせよアマチュアにせよ音楽をやり始めるのは最初から決まっていた運命と言えます。同じ事は妹のディー・ディーにも当てはまります。

多くのソウル歌手がそうであるように両家も元々はゴスペルを教会で歌い始め、その後商業ベースに乗って行き、ソウル系の歌手になって行きます。ウォーウィック家でもディー・ディーはどちらかと言えばソウル系のフレーバーを残しています。そんな中ディオンヌには他の親戚と違う運が舞い込み(迷い込み?)、ポップス歌手となって行きます(後述)。

50年代後半高校を卒業し、大学には奨学金で行けるようになります。入ったのはきちんとした音楽学校。ディオンヌは有名になってからの言動でも分かるようにかなりきっちりした性格のようで、この大学からは後に音楽で博士号も取得しています。

高校卒業の頃ディー・ディーなど4人でグループを作りアポロ劇場のアマチュア・コンテストに出てみたら賞を取ってしまったという話もあります。初期のキャリアを見るとヒューストン(ドリンカード)家とウォーウィック家が一緒に行動していることが多いです。

ディオンヌが世界的に有名になる過程は有名な話です。当時グループ活動、バック・コーラス、スタジオ録音の歌手などをしていたディオンヌは正式にレコーディングが決まっているスターの曲をデモ版で(代わりに)歌う仕事もしていました。そういう曲を作曲していたのがバート・バカラック、作詞をしていたのがハル・デヴィッド。2人はなぜかソウルのソングライターとされています(後述)。

大学も無事卒業し、これからは歌一筋という時とバカラックからのレコーディングの話のタイミングが合い、ディオンヌは1963年にソロ・デビュー。その後出す曲、出す曲、ヒットチャートの上位に。1位にならないのに数多くの曲を人に覚えてもらえた運のいい人です。

現在も色々な場所にゲストとして登場したり、インタビューを受けたりと、現役。

★ ディー・ディー・ウォーウィック (1945年 - 2008年 長年薬物中毒などによる健康障害を抱えていた)

ディオンヌの5歳年下の妹。60年代ソウル界で活躍、60年代最後から70年代始めにはグラミー賞の候補にもなっています。歌い方はディオンヌと違い正統派のソウル。姉より美人ですが、声には姉のような個性がありません。ウィットニーやディオンヌより狭い声域の曲を歌っています。ソウルの泥臭さは持っています。

ディー・ディーはソロ歌手としてデビューしており、いくつかヒットさせています。ただ、作詞・作曲家の専属歌手となった姉と同じ幸運は無く、他の歌手のカバー版を歌ったりしています。姉をしのぐ、あるいは姉に迫る成功は収めていません。元々は姉と行動を共にしていましたが、姉のソロとしての大成功で妹は姉の陰に入ってしまいます。姉という存在が無ければある程度成功した歌手と言えますが、姉のあまりに大きな成功が彼女にとっては負担になった様子。姉妹で両方歌が上手いのに片方だけが有名という例がいくつかありますが、ディオンヌとディー・ディーでは歌唱力、声質共にディオンヌに軍配を上げざるを得ません。

レコーディング活動は80年代の中頃で止め、2006年姉のバック・コーラスを務めるまでほとんど音楽活動はしていません。あるいはソウルの州ジョージアに住んでいたので、ライブなどはやっていたのかも知れませんが、情報は見つかりませんでした。2006年から暫く姉のプロジェクトにバック・コーラスで参加し、ツアーにも付き合っていましたが、2008年に他界しています。彼女は麻薬関係の薬品の中毒症状に悩まされており、健康が蝕まれていたようです。

ディー・ディーの薬物中毒の話はずいぶん前から聞いていたので、こういう死に方に驚きませんが、ディオンヌの仕事を手伝い始めたということは回復に向かっていたのかと思ったりもしました。反面、ディオンヌが自分のお金を使って妹の薬物を調達せざるを得ない状況にいたという話を聞いたこともあり、複雑な家族の関係を想像させます。せめてもの慰めはディー・ディーの死にあたって家族が近くにいたという点でしょう。

ディオンヌの方はかなり意思の強い人物のように見え、大きなスキャンダルも無く、恐らくは難しい関係だったろうと思われるバカラックとの間も《友情》のパーフォーマンスで丸く収めています。しかし結局弟も妹も亡くして今は一人っ子。

★ ウィットニー・ヒューストン (1963年 - 2012年 結婚後アルコールと薬物中毒とリハビリを繰り返していた)

ウィットニーが生まれた頃にはヒューストン家もウォーウィック家も音楽界に地位を築いていたか、築き始めており、ウィットニーは最初から恵まれた環境にいたと言えます。シシーの3番目の子供として生まれ、一家では母親が仕事で家を離れ、父親が子供の世話をしていたそうです。両親はその後離婚し、子供はシシーの元で育ちます。歌の先生はシシー。周囲にプロ歌手がぞろぞろおり、経済的に困ることも無く、芸能関係の仕事がいくつか回って来た後、若くしてソロ・デビュー。彼女も無名時代教会系のゴスペルを歌っていましたが、20代前半ですでに世界的ヒットを複数飛ばし、29歳で映画デビュー。いきなり主演で、その上主題歌が世界的なヒット。

実はこれはドリー・パートンがジョリーンというアルバムで歌った自作曲のカバー。ボディーガードでウィットニーが自身のようなヒット歌手レイチェルを演じ、彼女が舞台で歌うシーンに使われています。私は数少ないウィットニーの映画のうち2本を見ており、ボディーガードがその1本目だったのですが、ストーリーを見ていて、何となくどこかの歌手のエピソードを混ぜているのかなと思ったことがあります。レイチェルが大ヒット歌手で大きな賞にノミネートされるぐらいなのに対し、同じく歌の上手い姉は妹の付き人というシナリオです。

★ ウィットニーもディオンヌもソウル歌手ではない

ボディーガードは映画も曲も大ヒットし、ウィットニーは30歳になるかならないかでこれまで以上の規模の世界的スターになります。レコードのソロ・デビューも映画デビューもきっちり計画されたプロジェクトだったらしく、ヒットしないはずはない構造だったようです。成功のレールに乗せられたのがウィットニー。最近は巧妙なプロジェクトが増え、歌が上手くなくてもコンピューターを使って上手くごまかせるそうですが、ウィットニーの頃の歌手はとりあえず人を感心させる程度の才能が無くては、レールに乗せて貰っても長続きはしなかったでしょう。その点ウィットニーにはレールに乗せられた生活に耐えられるだけの声と歌唱力はあったようです。

同じ事は作詞・作曲家に拾われて劇的なデビューをしたはずの従姉ディオンヌ・ウォーウィックにも言えます。物凄い才能を持った歌手がゴマンといるアメリカの芸能界ではディオンヌも一生デモ版の歌手で終わったかも知れません。そこへ作曲家と作詞家が加わり、次々にヒットを飛ばして行きます。当時彼女を追っていた私はレコードを何枚か買いましたが、あのアメリカでなぜこの曲がトップ・ヒットになったのだろうと訝りました。歌は上手、曲はそつなく作曲されているけれど、ザ・テンプテーションズやスモーキー・ロビンソンに感じるようなわくわくした楽しさに欠けるのです。

2人は時々ソウル歌手とされることがありましたが、私は当初から間違ったカテゴリーに分類されたと思っていました。ソウルも十分に歌える力強い美声の持ち主ですが、実際に歌った曲はポップス系。ロング・トーンが行けるのでバラードにも向いており、時々はそういう曲も歌っていますが、どう見てもソウルとは言えません。ところがバカラック/デヴィッドまでまとめてソウルの辞書に載っていたりします。

白人がソウル曲を書いては行けないとは言いません。実際ファンクブラザーズにもブルース・ブラザーズにも白人の歌手やミュージッシャンが加わっており、ブルー・アイド・ソウルというジャンルまで生まれています。しかしその大前提になるのは曲そのものがソウルや R&B であること。そういう目で見ると、バカラック/デヴィッド/ウォーウィック・トリオの作ったレコードはソウルの道からかなり外れています。

そういう点でウィットニー・ヒューストンもソウル畑の収穫とは言えません。彼女もウォーウィックもなぜかバカラックとややこしい関係にあったようで、ウォーウィックが長い間バカラックに対して冷静な視線を送っていたのが印象的でした。恩人と教え子風のイメージが作られていながら、どこかでウォーウィックの方が精神的には上に立っているように感じることもありました。

★ 番外 バカラックという人 (1928年 - 現役)

バート・バカラックに対しておやっと思ったのはずいぶん前のことです。嫌いではなかったのですが、持てはやされているほどの実力者かという疑念と、「この人のキャリア、どこでソウルに結びつくの?」という問が生まれていました。そして後になってから考えてみると2人の才能と個性のある声の持ち主が命を落としています。カレン・カーペンターとウィットニー・ヒューストン。2人の死が直接バカラックと関わっているというのではなく、バカラックを通り過ぎた偉大な才能、偉大な声が若くして死を迎えたという意味です。

☆ マレーネ・ディートリッヒ (1901年 - 1992年 1958年よりバカラックに仕事を依頼)

バカラックという名前はドイツのライン地方の小さな町バハラッハと全く同じ綴りです。先祖をたどるとドイツ系。なのでドイツの地名が姓になっているのは不思議ではないのかも知れません。彼が有名人になるにあたってはドイツの大女優マレーネ・ディートリッヒの力抜きには考えられません。

ディートリッヒはヒットラー時代の有名な女優で、ヒットラーは彼女を厚遇してプロパガンダに使おうとした形跡があります。ディートリッヒはそれを嫌い、アメリカ側につき、アメリカ軍と協力して米兵の慰問に出たりしていました。そのためドイツではディートリッヒ通りと彼女の名前にちなんで通りに名前をつけようとした時反対運動が起きたり、久しぶりに帰国したら轟々たる非難が起こるなど、本人の死後も現在に至るまで複雑な様相を呈しています。彼女は自分の意思で反ヒットラーと決め、生涯その考えを通していました。その他にも彼女には自分を律する力があったと思われるエピソードがいくつかあります。

終戦後彼女はアメリカに残り、ハリウッドで映画やテレビに出演。そろそろ潮時だと感じると一切の芸能活動から身を引き、晩年はパリで過ごし、亡くなりました。アメリカでの芸能活動の1つがステージ。シャンソン風の歌をバカラックのピアノをバックに歌っていました。ごく一部ビデオを見たことがありますが、まだ若いバカラックがピアノを弾いていたり、オーケストラを指揮しています。

ディートリッヒはあの時代の人としては非常にファッション・センスが良く、自分を最大限良く見せる術を心得ていました。もうかなりな年で非常に厚化粧。そしてマリリン・モンローを十分意識した衣装、ヘアー・スタイルで成功しています。(あるいは逆でモンローが彼女を真似たのか?)

ディートリッヒは私見では愛国者で、ドイツがファシズムに向かうなら自分はファシズム・ドイツに対しては刃向かうと決めたのではないかと思われます。自分の思うドイツとヒットラー・ドイツは違うと考えたのでしょう。ドイツに住む人の視点になると、彼女はドイツ人なのに反ドイツ運動をやったということで不満が残るのでしょう。こういう人たちの中にもファシズムは嫌だという人はいたでしょうが、ディートリッヒには国内に残ってプロテストをやってもらいたかったのかも知れません。私は外国人なのでドイツ人とは意見が違うかも知れません。当時の危険度は私には計ることができませんし、ヒットラーが彼女にしきりに秋波を送っていたという話は何度か聞いたことがあったので、彼女としてはドイツにいれば宣伝に使われてしまうか断わることで命に関わると考えたのかも知れません。その辺は文献でも漁れば何かしら出て来ると思いますが、今日までには間に合いませんでした。欧州を逃れてハリウッドに逃げて来たユダヤ系のドイツ人に住居を提供し、映画界で裏方の仕事を紹介していたという話は伝わっています。

そういう彼女がアメリカで戦後ステージを続け、彼女の曲の編曲やピアノ伴奏をしていたのが若き日のバカラックです。2人が恋人だったという噂もありますが、そのあたりはゴシップ雀が書きたいように書いているので眉につばをつけて見ています。2人は喧嘩をしたわけではないのですが、ディートリッヒが徐々に芸能活動を減らしており、バカラックはディオンヌ・ウォーウィックを得てヒット・メーカーとして飛ぶ鳥を落とす勢いになって行きます。

その後ディートリッヒの話はほとんど出なくなり、バカラックと言えばウォーウィックという風に切り替わって行きます。ドイツ人のシャンソン系の歌い方をする女優から、無名のアフリカ系アメリカ人で力強い声の持ち主に乗り換えたバカラックですが、どこに共通点があるのかと言うと、恐らくは意思の強い女性だったと言う点と、自分の分野ではかなりの才能を持った女性だったと言う点でしょう。

☆ バカラックの音楽の方向

クイーンのフレディー・マーキュリーにも言えることですが、時々クラシック畑の人がポップスやロックの世界にクラシックにどっぷり浸かったまま出て来ることがあります。バカラックもその1人で、作風はクラシックのしがらみにがんじがらめになっています。例えば B.B. キングの対極にいます。バカラックはインテリで音楽環境もいい家に生まれたようで、若い頃から、恐らくは子供の頃からピアノを始め楽器を習ったようです。母親が歌手になりたい人だったためでしょう。

音楽で打って出ようと決心したのは大分後のことで、本人は最初プロのスポーツ選手になりたかったようです。もっともこの話は眉唾です。彼は体格に恵まれておらず、本気度が分かりません。先日まだそれほどの年ではないのに他界したザ・モンキーズのデイヴィー・ジョーンズは子供の時の夢を後年実現して、きちんと試験を受けた競馬のジョッキーになり、1度優勝しています。この方面ですと、体の小ささが必須で、強みとなりますが、アメリカですと野球やフットボールが人気で、体の大きさが強み。ジョーンズは非常に小柄で、彼が若い頃プロのジョッキーを目指したと言う話はマジ。何十年もかけて夢が実現しています。プロ・スポーツに対してバカラックにジョーンズほどの情熱があったのかは報道やインターネットを見る限りは不明。

バカラックは故郷のミズーリーからニューヨークに移り、音楽との接点が増えます。当時は有名なジャズ・メンが活躍していた時期で、バカラックはジャズ・ミュージッシャンから、そして同時にクラシックからも影響を受けます。クラシックからの影響は他のヒット・メイカーより強く、私は五線紙の檻に入った人だと見ています。カリフォルニアの音楽学校できっちり勉強をし、知識はしっかりしています。なので映画音楽やイージー・リスニングには向いていると思いますが、ソウルの世界では私は違和感を抱いてしまいます。

似たようにポップスの世界で作曲家として大活躍したクラシック系の人にニール・セダカがいます。彼はポップスという彼に向いた世界にとどまり、その中で遺憾無く才能を発揮しました。彼の曲風を見ているとクラシックの色が濃いです。しかし彼はクラシックのバックグラウンドが上手く役立つ世界にいたので、私は違和感を抱きませんでした。五線紙の檻が邪魔にならない世界です。 彼の恋人だったキャロル・キングは五線紙の外にいたようで、88鍵を自分流に自由に使いこなしていました。

話をバカラックに戻して、50年代後半からディートリッヒの仕事を請け負い、彼女の応援で芸能界に足がかりを作ることに成功します。その頃表舞台ではディートリッヒの曲の編曲をやっていましたが、ハル・デヴィッドと知り合い、後に10年以上2人は曲を一緒に作ります。私はソウルの分野での2人の活躍はほとんど評価していませんが、ソングライターとしての能力は評価しています。

★ ハル・デヴィッド (1921年 - )

やる事が派手なバカラックに対し、非常に地味で、曲の演奏中舞台に上がることの無いデヴィッドですが、彼の能力はメロディーに合わせる言葉の選び方です。先にバカラックが曲を作るのか、先にデヴィッドがテキストを書くのは知りませんが、デヴィッドの選ぶ語のイントネーションがバカラックの書く音の上下と合っているので、歌手が流れるように歌えます。そして人にすぐ覚えてもらえます。

ちょうどいい時期に出会った2人。最初は他の人とも組んでいましたが、やがてバカラックとの活動が増えます。そこに加わったのが音楽教育をきちんと受けていたディオンヌ・ウォーウィック。彼女は本来の歌手のためのデモ・テープを作成するのが仕事でしたが、有名な歌手より彼女の方が歌の解釈力が強く、結局2人はウォーウィックを使って曲を売り出してみました。それが成功。ウォーウィックのソロ歌手としてのデビューにつながります。

多くの仕事は3人で行いましたが、時たまバカラックは映画や舞台の音楽を引き受け、その時デヴィッドも付き合っています。有名な作品は何かいいことないか子猫チャン007 カジノ・ロワイヤルクレイグ版ではなく、コメディーの方)、明日に向かって撃てなど。

デヴィッドに関してはスキャンダルはおろか、バカラックとどういう手順で仕事をしているのか、普段何をしているのか、今も現役なのかもほとんど分かりません。唯一バカラックの口から出たトラブルの話は、バカラックがバカラック/デヴィッド/ウォーウィック・ブームが下火になってから2人に対して訴訟を起こしたりして3人の間に亀裂が入ったという話。

★ バカラックとウォーウィックの仲

ディオンヌ・ウォーウィックと一緒にステージに出ることも多かったバカラックですが、当時の様子を見ていて私はいつも不思議に思っていました。ウォーウィックは野生的とも言えるような様相で力強く歌うのですが、ファッション感覚はどちらかと言えば欧州風で、当時のソウル歌手とかなり違っていました。その傾向は時を経るにつれどんどん強くなって行きます。そして2人一緒にステージでちょっとした会話を交わしている時、なぜかバカラックが親しそうなふりをし、ウォーウィックはそれを上手に拒否はしないものの逸らしているシーンが多かったです。ウォーウィックにはどこかしらクールなシニカルさが漂いました。世間的には大作曲家バカラックに見出されたデモ・テープの無名歌手という立場であり、彼女はバカラックにいくら感謝しても仕切れない立場でした。私がソウルとは思えない曲を歌うウォーウィックをその後何年も注目していたのは、「この2人どうなっているんだろう」という気持ちがあったからです。恩人と言われているのに巧みに距離を保っている様子が不思議でした。

もう1つバカラックについては不思議な印象があります。元々音楽学校にも行き、ディートリッヒの音楽監督も務めていた人なのですが、歌は超下手、指揮はへんてこりん、そしてピアノを弾く様子がもっとへんてこりんだったのです。まあ、あれほど歌の上手いウォーウィックの前ではいくら自分が作曲したとは言えどんなにがんばっても対抗できないでしょう。すばらしい曲を書くのに自分は歌が超下手というのはバカラック1人ではありません。ジム・ウェッブという強い味方がいます。(尤も、彼のピアノの弾き方はまともです。歌はグレン・キャンベルに任せておいた方がいいですが、近年はそれでもかなり力をつけています。ちなみに私はウェッブのファンです)歌唱力でウォーウィックに匹敵するのは従妹のウィットニーぐらい。同じ血を引いているためか部分的には双子と思えるぐらい声も歌い方も似ています。そうなるとバカラックとしては趣味人のふりをして「ちょっと歌ってみせる」というポーズを取るのが1番ぼろが出ない方法でしょう。自分の本職はピアノの方だと言いたかったのかも知れません。

しかしその彼のピアノの弾き方がとてもおかしかったのです。クラシックのピアニストがとても大袈裟に体を動かすことはあります。しかしそれでも体のどの部分を使って鍵盤に力を振り下ろしているかはざっと分かります。バカラックはそこがとても独創的というか、本当に今弾いているんだろうかと思ったことが何度かあります。特に変なのはペダルの使い方。足元を見ていて「ほんまかいな」と思ったことも何度かあります。その点ジム・ウェッブの方が本当らしく見えます。

しかしまあ、彼の本職中の本職は作曲。ソウル年鑑にも名前が載っているのでさぞやソウルっぽい曲を連発したのだろうと思いきや、唖然。私は70年代バカラックとウォーウィックのアルバムを網羅していた時期があるのですが、バカラックからはむしろクラシック音楽系の作りが見え、ウォーウィックからはバラード系の曲やポップス系の曲が聞こえて来ました。かなりポップスに近いスモーキー・ロビンソン系でもなく、ザ・テンプテーションズ系でもなく、ソウル・ファンク・オーケストラを率いるバリー・ホワイト系でもなく、マービン・ゲイの爪の垢は 1mg も煎じて飲んだ形跡もありませんでした。白人だからと思い、ライチャス・ブラザーズなどと比べてみても似ていない。わが国の誇るズー・ニー・ヴーやザ・キング・トーンズの方がソウルと呼ばれるのにふさわしいです。

バカラックが作った曲は覚えやすいメロディーのものもあり、イージー・リスニングとしては佳作、名曲もあります。映画音楽も上手に作っており、賞を取るに相応しい曲もあります。なので私は反バカラックではありません。ウォーウィックも類稀な声量、声域の持ち主で、適した曲を貰うと他の人が真似のできないような重量級のパーフォーマンスを見せます。彼女の声は妹に比べても《これはディオンヌだ》とすぐ分かるような特徴があります。これは歌手として首位を行くにはぴったり。ただ私はどうしてもこの2人をソウル畑には入れたくないのです。

★ もっと番外 ボビー・ブラウン (1969年 - 現役 ウィットニーの人生に麻薬を持ち込んだと言われている)

話がウォーウィック、バカラックに傾いてしまったので、ここでまたヒューストンに重心を戻しますが、彼女は巷ではボビー・ブラウンのために道を誤ったとされています。

私はブラウンは名前しか知らなかったのですが、ウィットニーの死後ビデオを見ると、セクシー路線の歌手で、ステージでは少し前の MC ハマーと似た動きをします。踊りは結構行けます。ただ歌は発声が悪く、あまり上手ではありません。バック・コーラスを上手に混ぜてボロが出ないような曲を歌っており、スターとしてはカリスマ性があります。ウィットニーはそういう所に惹かれたのかも知れません。ウィットニーは調子のいい頃はスマートで洗練されたファッション、ステージの動きもエレガントで、上品なイメージ。野生的なブラウンに惹かれたとしても不思議はありません。また、ブラウンはマイケル・ジャクソン系のステップも上手にこなせ、踊り手としては優秀です。

歌がべらぼうに上手いウィットニーと結婚した、踊りがべらぼうに上手いブラウンはウィットニーが歌うナンバーで踊りを披露します。客観的に見ると2人がそれぞれ得意とする物を披露したことになりますが、ウィットニーの歌に合わせて踊るブラウンは(見事なステップを披露しているにも関わらず)妻に踊らされているピエロのようにも見え、本人がどこまで喜んだのかは分かりにくいです。

ブラウンはヒット歌手として世間では有名でしたが、ちょっとでも歌を商売にしたことのある人なら、自分の歌に比べ、ウィットニーは到底追いつけないぐらい才能に恵まれ、その才能を正しく生かしているのが分かるでしょう。お金ではなく、才能の格差婚になっています。ブラウンは R&B 歌手ということになっているのですが、ウィットニーはソウルでも R&B でもファンクでも歌えてしまいます。それこそカンツォーネもオペラのアリアも歌えてしまうのではないかと思います。ピークを過ぎようとしているブラウンがいくつでもプロジェクトが組め、何度でもピークを作れるウィットニーと一緒にいれば自分との差が見えてしまいます。

ブラウンに薬やお酒に誘われたウィットニーはカソリック風に自分はこの人と結婚したのだから一生付き合うと確信していたそうで、 「夫もすなる麻薬といふものを、私もしてみむとてするなり・・・」という方向に進んでしまったそうです。いずれにしろ結婚後ブラウン自身にいくつもトラブルが付きまとい、やがてウィットニーも巻き込まれるようになって行きます。あまりにも家族やスタッフに守られ、大切に育てられた彼女は、ブラウンの持ち込む世界が最初珍しかったのかも知れません。いずれにしろブラウンが彼女を下に引っ張って行くようになります。芸能界では時として別々の会社やエージェントに属する大スターが結婚してしまうと商売上ややこしいので、早く別かれさせてしまえと周囲が動くことがあり、大スターが両方共大スターのまま長い間家庭を築く例は非常に稀です。映画界では同じ人と改めて結婚する場合もあるようですが、音楽界は映画スターよりずっと大きなお金が動くので、復活戦の例はほとんど聞いたことがありません。

ビジネスの話とは別に、ヒューストン家としては娘が麻薬に蝕まれるとなると、健康上の理由で娘の心配を始めます。現代社会の一般と違い、ヒューストン家は家族が彼女の目を開かせようと努力します。1番有名なのは母親のシシーが警察を連れて彼女の家に乗り込み、ウィットニーと子供を連れ出そうとしたエピソード。マインド・コントロールをしたわけではないですが、ウィットニーはどこかしらブラウンに魅せられてしまっていて、周囲は彼女が現実を見るようにと説得。何度説得したのかは知りませんが、最後にウィットニーも離婚を決心。その後は順調かと思ったら、そうでもなかったようです。

リハビリを終え、最近は医者に処方された薬だけを使っていたらしく、死亡しているのが発見された時、ホテルには違法な物は無かったそうです。ただ、食い合わせと同様、お酒と薬の組み合わせは処方箋が出ていてもご法度、最悪。

不思議と符合するのが、マイケル・ジャクソン。ジャクソンは久しぶりのコンサートを目前に医者が適さない薬を与え、死亡。ウィットニーはボイス・トレーニングを重ねており調子が上がって来たので、プロデューサーとコンサートの可能性について話し合っていました。その矢先の死です。

私は調子の悪い時のウィットニーのビデオをチラッと見たことがありますが、声が荒れていて、入場料金を返してもらいたいようなパーフォーマンスでした。お酒で声をつぶしたのでしょうか。そこからトレーニングで回復したのなら期待してしまいますが、コンサートは実現しませんでした。

★ ブラック・スワンではない

かなり小さい頃から芸能界に入っていたウィットニーですが、歌っている様子を見ていると嫌々という雰囲気は漂いません。自分の娘を舞台に呼び2人で踊っている様子を見ても楽しそう。シシーがウィットニーに音楽をやらせたとしても、ウィットニーはしぶしぶやったのでは無いでしょう。ウィットニーは一人っ子ではなく、他の兄弟は芸能界では名前を聞きません。嫌なら断われたのではないかと想像しています。何人かの子供のうち1人ぐらいは芸能界に入ったかもしれませんが、派手に舞台に立つのが嫌なら、裏方の仕事もありますし、全く違う職業に就くために学校に行く費用ぐらいは親から捻出してもらえたでしょう。ブラック・スワンの主人公のようにバレー以外の道は見せてもらえない環境ではなかったものと思われます。ただ、スマッシュ・ヒットが出てしまってからのコース変更は難しかったでしょう。親に行く道を決められてしまい、たまたま非凡な才能があり、コース変更が難しくて苦しんだ例はジャクソン・ファイブの少年とビーチボーイズの青年。ウィットニーは麻薬が人生に登場しなかったら適度に女優をやり、時たま歌を歌いながら中年になったのではと思ったりします。シシーがメインの歌手とバック・コーラスの二束の草鞋を履いていたことを見るに、1度大スターになっても脇役も厭わない程度の融通は利いたものと思います。ディオンヌがソロのヒットが引き潮状態になってから、他の有名歌手と一回切りのデュエットをしながら生き残ったのと似ています。

まだ検査の結果が発表になっていないので、正式な死因は分かっていませんが、薬とお酒の組み合わせで心臓が止まり、風呂で溺れたのではないという話が飛び交っています。再起のチャンスを目前に世を去ったのは残念です。同僚たちが言っていたように、怒涛の人生からリタイアしてゆっくり眠ってもらいたいです。ただ、リタイアは死ではなく、普通の引退であってほしかったです。

後記:

ウィットニー・ヒューストンの死因が発表になりました。噂されていた原因を全部ミックスしたような話に落ち着きそうです。コカイン、心臓疾患、溺死、さらにマリワナ、抗不安薬も検査で出てきたとか。恐らくはストレスにこれ全部が合わさって命が持たなかったのでしょう。あのまま結婚していれば麻薬関係の量が増えていたでしょうから離婚は正解だったのではと思いますが、まだ離婚のあとに空いた穴を十分埋め合わせる何かが見つかっていなかったのではと勝手な事を考えているところです。カムバックの話が進んでおり、ボイス・トレーニングをしていたそうですが、彼女が幸せになる道が芸能界だったのかは不明。ゆっくり欧州かどこかで子供と一緒に静養させて、その先に何が見えるかを本人に探させれば良かったのかとも思います。

アメリカは州によって法律が違うので彼女の場合もどこに居住していたか、どこにいたかなどで違うでしょうが、欧州ではコカインのようなとんでもない物を持っていても、それで商売をしていなければ(所謂個人使用)つかまらなかったりすることがあります。大麻に至っては規則が緩いので呆気に取られます。特にコカインは体を蝕む麻薬ではなく、精神的に作用するだけだという話が広がっているため、インテリ層まで手を出しています。コカインが彼女が死んだ土地で合法か違法かはともかく、彼女の生活には悪影響。身近に自分の子供もいたのですからダブルで悪影響です。

芸能人には変な宗教にのめりこむ人もおり、アルコール、麻薬も含め足がしっかり地に着いていない人が多いという印象をぬぐえません。ヒューストンの場合家族や親戚が近くにいてサポートもしていたようなのに、こういう最後。残念です。

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