ここの背景画像は「miho's lovely material」からお借りしました。
マリア・レクゼンスカ |
ルイ15世は息子の王太子を政治に近づようとはせず、その代わりに寵姫ポンパドゥール夫人とショワズールに政治を任せ、親オーストリア政策を取っていました。当然の事ながら、王太子は母マリア・レクゼンスカに付き、反オーストリアの立場を取っていました。
このような事情があったため、ルイ・オーギュストの結婚話が出たときに、ショワズールはオーストリア大公女マリー・アントワネットを推し、王太子側はザクセンの王女を押したわけです。
外見的に言うと、プルゴーニュ公(Duc de Bourgogne)、プロヴァンス伯とアルトワ伯の三人は、父から錐のように研ぎ澄まされた目をもらいましたが、ベリー公(ルイ16世)だけは、母と同じはれぼったい瞼、太い眉をもらいました。母譲りのものと言えば、色白、水色の目もそうです。父から譲られたものは、肥満体質でした。
美男で有名な祖父ルイ15世の美貌は、残念なことに末弟のアルトワ伯だけしか受け継ぎませんでした。
四人の兄弟の性格もいろいろで、ブルゴーニュ公は横柄、ベリー公は鈍感、プロヴァンス伯は利発、アルトワ伯は元気の良さが特徴的でした。
ブルゴーニュ公は、活発で魅力的で王としての資質や気品を生まれながらに持っており、誰が見てもフランス国王になるのにふさわしい少年でした。当然、両親のお気に入りでしたから、大事にされ、ちやほやされて育てられました。
メルキュール紙は1755年に「4歳のブルゴーニュ公は武器がとても好きである」と述べ、1758年には「幼い割にはしっかりしている」と言う記事を載せました。お世辞が入っているにしても、王太子夫妻の長男は、将来が楽しみな少年だったのでしょう。
兄が弟をいじめるのは珍しくもありませんが、彼は少しベリー公を少しいじめたようです。特にトランプでは、のんびりしている弟はよくカモにされました。元々トランプが好きでなかったベリー公は余計憤慨したようで、以後もトランプはどうしても好きになれなかったようです。
ベリー公が16歳の時、懺悔聴聞僧は、社交のひとつとしてトランプをするように勧めましたが、極たまにホイストをする以外は決してトランプをしなかったそうです。子供の頃からトランプ遊びが好きだった妻のマリー・アントワネットとは大きく違います。
当時のフランスでは、王家の子供達は滅多に両親に会えませんでした。たまに会うとしても公式行事の時に会うくらいで、家族として接することはほとんどなかったのです。
子供達は女性の家庭教師マルサン伯爵夫人に養育されました。伯爵夫人は将来のフランス国王になるはずのブルゴーニュ公や、愛想のいいプロヴァンス伯を特別にかわいがりましたが、ベリー公にはほとんど愛情を注がなかったようです。
1760年9月8日、6歳になったばかりのとき、気難しいヴォギュヨン公爵がベリー公の家庭教師兼遊び友達になり、学習指導をしました。兄ブルゴーニュ公の健康が悪化したので、ベリー公の正規の教育は一年早く開始することになりました。
7ヵ月の間、ベリー公は大好きな兄の看病をしましたが、兄は結核のため、1761年の復活祭の朝、夭折しました。
あらゆる面で「生まれながらの王」であったブルゴーニュ公の死は父王太子に大きな打撃を与えました。王太子は父ルイ15世があまりにも杜撰な政治をしていることを知っており、おそらく自分の治世期間だけではフランスを回復できないと思っていましたから、ブルゴーニュ公にフランスの未来を託していたのです。
ブルゴーニュ公をかわいがっていた王太子夫妻やルイ15世の愛情は、なぜかベリー公のところに回って来ず、弟のプロヴァンス伯とアルトワ伯にいきました。人間の感情の不思議な面を見る気がしますが、未来の国王だと言うのに、両親の愛情を受けられなかったベリー公は、ますます内向的に孤独になっていきました。
王太子にさえ、国務から遠ざけたルイ15世です。ベリー公はもちろん、政治とは関係のないところにいました。
しかし、王太子は子供達の教育をより密接に監督し、来るべき将来に備えました。自らも毎週水曜日にと土曜日に子供達に試験を行って、学習の進み具合を監視したのです。
H13.6.11.UP
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