過激派の指導者。「憲法よりパンを」
父は歩兵中尉のち領主役人。西南フランスのシャラントに生まれる。神学校に学び、物理・哲学の教師となる。のち助任司祭として各地の僧院を転々とし主任司祭となる。1790年にはコナック地方で農民の反領主闘争に関係し、責任を問われて解任。その後、パリに来てからはコルドリエ・クラブに入り、マラーに接近して、過激派の指導者となる。
パリのグラヴィリエ地区などで活躍し、1792年8月10日の革命の一員ともなる。しかし、国民公会の議員には選ばれなかった。
彼は革命派僧侶として、ルイ16世を断頭台に案内した。王は彼に遺言状を託そうとしたが、彼は
「私の仕事は、君を断頭台へ連れて行くことだけなのだ」
と言い、遺言状を受け取ることを拒絶した。当時の新聞によると、その口調は「主権者たる人民の役人」と言うよりは、「死刑執行人の助手」にふさわしかったと言う。
激しい性格の彼は、人民のパンを守るため、あらゆる独裁と反革命に対決し、「小さなマラー」と異名を取る。「憲法よりパンを」をスローガンに、買占め商人の処刑、最高価格の実施、物資徴発を要求して、ロべスピエールと対立した。
1793年8月に逮捕され、革命裁判所の有罪判決が告げられた。1794年2月10日、獄中で自殺した。
ルイ13世 1601-1643 (在位1610-1643) (1)ヴェルサイユ宮殿の基礎を築いた王。
父王アンリ4世の詩によって9才で即位したが、幼少のため母マリー・ド・メディシスが摂政となる。
1615年スペイン王女アンヌ・ドートリッシュと結婚。2年後母の手から政権を取ろうとしてリュイーヌ公と諮り宮中クーデターを起こし、母を宮廷から追放した。
以後、才能ある忠臣リシュリューと協力して絶対王政の路線を引いていった。
1607年、まだ即位する前のルイ13世は6歳の時、狩猟のため初めてヴェルサイユに赴き、自然が豊富で獲物がたくさんいるこの地がとても気に入り、以後、頻繁に訪れるようになった。
そして、1623年、ヴェルサイユに狩猟小屋を建てた。これがヴェルサイユ宮殿の始まりである。
1630年、今まで狩猟目的に過ぎなかったヴェルサイユで初めて国王の権威に基づく政治上の重要な決定が行われ、政治の舞台も徐々にヴェルサイユに移っていった。
そして、1632年、この地の所有者ド・ゴンディから土地と「荒れ果てた古い館」を6万リーヴルで買い取り、ますます本格的にヴェルサイユを築いていった。
ルイ13世の子。フランス絶対王政の最盛期を築いた。
父13世の跡を継ぎ五歳で即位。治世の初期は母アンヌ・ド・ドートリッシュが摂政となり、宰相マザランが政権を握った。
1751年のマザランの死後、親政を始め、重要な役職を大貴族の手からブルジョワに移した。フランスの産業化を進め、海軍を増強し、新税を課して国王の収入を著しく増加させた。この国力で数々の戦争に勝利を収めた。
ルイ14世は勤勉な君主であると同時に賢明な学芸保護者でもあった。その治世はフランス文学史上最も輝かしい時代であり、彼の建築したヴェルサイユ宮殿は近代ヨーロッパで最も見事な芸術品である。
彼は大王とも呼ばれ、その時代は「ルイ14世の世紀」と呼ばれた。しかし、彼の傲慢さ、外交政策の手荒さ、新教徒に対する不寛容などは非難の的となっている。
ルイ15世 (最愛王) 1710-1774 (在位1715-1774) (1)「太陽王」ルイ14世のひ孫。ルイ16世の祖父。
五歳で即位し、1723年までオルレアン公フィリップ二世が摂政となった。この間に財政恐慌を引き起こす。その後、1726年までブルボン公、1743年まで宰相フリルが実権を握る。
子供の頃からフランス一の美男子と言われたが、政治には不向きな性格で、治世中、ポーランド継承戦争、オーストリア継承戦争などに干渉。ロレーヌ地方を得たが、七年戦争でイギリスに敗れ、インド、カナダの植民地を失った。
1743年、フリルの死後親政になったが、実際には外相ショワズール、大法官モープー、エギヨン公、アヴェ・テレーなどが実権を握っていた。治世は長いが、無気力で国王の器とは言えない人物。
王妃はポーランド王女マリア・レグンスカ(1703-1768)であったが、政治に干与したポンパドゥール夫人、孫のルイ16世の妻であるマリー・アントワネットと一時権勢を争ったデュ・バリー夫人などの数多くの寵姫、愛人を作った。
百科全書派の活躍した啓蒙主義時代にあたり、ルイ15世様式の美術も栄えたが、国家財政は困難になり、王権は弱まった。