ここの背景画像、gifアニメは「QUEEN」さんからお借りしました。
ポンパドゥール公爵夫人と言うのはデュ・バリー夫人が寵姫になる前のルイ15世の寵姫であり、フランス革命を扱っているこのHPにはあまり関係はありませんが、なかなかの人物ですので、少し紹介いたしましょう。
ポンパドゥール夫人 |
ルイ15世 |
頭のいい彼女は、いわゆるハーレムのようなものを作ったのです。ヴェルサイユの一角にある小さな館を「鹿の苑」と名付け、ここにルイ15世好みの女性を集めました。確かな数字かどうかはわかりませんが、ここで国王のお相手をした女性の数は200〜300人、生まれた子供は(もちろん非認知)は60人以上だと言うことです。
このように女性の数が異常に多いのは、国王の意向というよりも、ポンパドゥール公爵夫人の考えでした。つまり、あまり同じ女性に何度も相手をさせると、まかりまちがえば愛情が沸いてきますから、それを防ぐために、多くの場合1回でご用済みにするのです。そして、これらの女性は相当な額の持参金を持たせ、誰かと結婚させます。運悪く子供が出来てしまった女性は秘密の家に連れて行かれ、そこで出産させ、娘には地方の誰かと結婚するための資金として十万リーヴルを、子供には一万二千リーブルの年金を渡しました。まさに女性の使い捨て。
これら一切の後始末をポンパドゥール公爵夫人は事務的に行い、その甲斐あって、彼女の存命中は多情のルイ15世も他に寵姫を作ることはしませんでした。デュ・バリー夫人がルイ15世に会うのは、ポンパドゥール公爵夫人が42歳で亡くなった(1764年)4年後のことです。 (関連記事→「あ・ら・かると/女性/寵姫と愛人」)
事の真偽はどうあれ、マリー・アントワネットはもっぱら、貞淑な妻とは認知されていなかったようです。しかし、その母親のマリア・テレジアは貞女の鏡であり、神が認めた関係以外は嫌悪しておりました。これは政治には全く関わりを持つことのなかった夫フランツ一世が浮気ばかりしていたため、その反動であると言われています。
女帝は沢山の密偵を使って宮廷の貴族たちの行動を全て把握し、軽率な行動を許しませんでした。
「女性は誘惑に弱いものですが、身分ある女性なら一人の夫に貞節を誓い、私的な生活に最大限の注意を払い、節度ある行動を取るべきです。それができないのならウィーン宮廷から退去を命ぜられる覚悟をしなければなりません」
このように、宮廷人に厳しかっただけでなく、マリア・テレジアは「純潔規定」なるものを作り、「風紀委員会」を設けて民間の不適切な関係までも徹底的に取り締まりました。
男性が売春婦と一緒にいるところを捕らえられると、既婚者は姦通罪で逮捕され、独身者はその場で結婚させられました。独身の女性が妊娠すると、風俗紊乱罪に処されました。
このような規定があったのだから、当時のウィーンはさぞかし道徳的な雰囲気だと思いたくもなりますが、事実はその逆で、売春は地下にもぐり、中絶や子殺しが急増したそうです。また梅毒患者も増え、病院はいつも患者さんで一杯だったそうです。