ここの背景画像は「miho's lovely material」からお借りしました。

ヴァレンヌの逃亡の小部屋

時間は語る <1>

原 因
  1. 1791年4月18日、敬虔な国王がサン・クルーの離宮に趣いて、復活祭に列席しようとした時、パリ市民に阻止されましたが、その時の屈辱は国王にとって耐えがたく、本格的な逃亡を決意する直接の原因となりました。
  2. ミラボー亡き後(1791年4月)、王室と民衆との間のパイプがなくなり、王室を守る人がいなくなってしまいました(もっとも最後まで王妃はミラボーを嫌ってましたが…)。
  3. 積極的に援助してくれない外国の力を求めるため、自らが出向かなければなりませんでした。
計 画

準備は、王妃の愛人フェルセンがあちこち駆けずり回って行いました。外国の諸侯、ローレーヌやナンシーで反乱兵士を鎮圧した実績があり王妃に信頼されていたブイエ将軍マリー・アントワネットをフランス王太子妃にするために功績のあったショワズール公フェルゼンの女友達(…)、などの協力を得て、綿密に大胆に計画しました。その計画とはこうです。

国王一家をシャロン→シュール→マルヌ→サント・ムヌール→アルゴンヌを経て、メッツにいるブイエ将軍に許に送り、そこでオランダ、ベルギーにいるオーストリア軍と合流する、というものです。メッツまでの道のりには、ブイエ将軍に軍資金を送る、という口実で各所に連絡所が作られました。国王の馬車はその連絡所をつたって行けば、安全にメッツに到着するはずでした。


準 備

  1. 馬車…フェルセンはこの逃亡に、軽くて足の速い馬車を使い、疑惑をそらすために国王と王妃は別々に行動することを勧めましたが、王妃は、家族全員が乗れる広くて豪奢な(そして遅い)ベルリン馬車に乗ることを主張しました。結局、フェルゼンは不安を覚えながらも、意志を曲げない王妃の言うがままにベルリン馬車を用意しました。

    ただでさえ、派手な馬車は重いのに、銀食器、衣装箪笥、食料品、咽喉がすぐ乾く国王のために酒蔵一つ分のワインが積めこまれました。

  2. 変装…国王一家は変装して旅に出ることにしました。
    国王 :丸い帽子をかぶり、かつらを付け、地味なコートを着た従僕デュラン。
    王妃 :地味な黒いコートを着た、子供たちの家庭教師ロシュ夫人。
    エリザベート王妹 :帽子をかぶって子供たちの養育係。
    王太子:アグラエと言う名の女の子。
    王女 :そのまんま。
    トゥルゼル夫人 :コルフ男爵夫人。
    フェルセン :御者。
  3. その他…フェルセンはとにかく超人的に働きました。マリー・アントワネットの書く手紙を全て暗号に組み直して発送し、イギリス人の友人夫妻(妻の方はフェルセンの愛人)に頼んで逃亡に関する資金を捻出してもらい、ベルリン馬車、偽の旅券の手配、その他全ての連絡をほとんど一人でやり遂げました。マリー・アントワネットは恋人の献身的な働きを喜んだでしょうが、ルイ16世は、ちょっぴり面白くなかったに違いありません。


逃亡まで

1.ラファイエットの失敗… ラファイエット 国王一家の逃亡の噂は以前から立っており、テュイルリー宮殿護衛の責任者であるラファイエットは、各方面から警戒するように、と注意されていました。彼は国王に会いに行き、「逃亡するつもりなのか」と聞きました。国王は人がよさそうにそんなつもりはない、と返事をし、彼はその言葉を丸ごと信じました。

2.バイイの騎士道精神… バイイ"王妃が逃亡の支度をしているのを目撃した侍女がバイイに、そのことを密告しました。しかし、バイイはこのことを公にせず、王妃にこのような密告があったということを告げました。

3.一日の遅れ…フェルセンは6月19日を決行の日とするべく努力していましたが、密告した侍女が非番になる6月20日まで延期さぜるを得ませんでした。


6月20日(本当は6月21日) 深夜

6月20日 深夜12時30分頃、王子王女トゥルゼル夫人エリザベートがまずテュイルリー宮殿から脱出しました。そして、12時の鐘が鳴る頃、国王が到着し、それから間もなくして王妃が到着しました。国王は王妃の無事な姿を見て、「会えてよかった」と安堵しました。

まず、国王一家は4頭立ての辻馬車に乗りました。そして、パリ市門サン・マルタンでベルリン馬車に乗り換えることになっていました。御者はフェルセンです。ところが、パリの街をよく知らないのか、それとも御者という役柄に不慣れなためか、遠回りをしてしまい、ここで2時間もの貴重な時間を使ってしまいました。

パリの東にあるボンディの森で8頭の新しい馬が一行を待っていました。フェルセンはここで別れなければなりません。彼も王妃もここでの別れを望まなかったのですが、国王がこれ以上フェルセンが近くに仕えるのを拒否したのです。逆らうことはできません。

フェルセンはブリュッセルで再び国王一家に会うことを約束しました。誰もこれが永遠の別れになるとは思いませんでした。マリー・アントワネットの姿を最後に見たこの6月20日がフェルセンの運命の日となりました。彼は19年後の6月20日、スウェーデンの民衆によって無残に殺されたのです。

フェルセンはもう一度国王一家の馬車のそばに、自分の馬を引き寄せ、何事かを囁くと、最後に大きな声で「さようなら、コルフ夫人!」と言いました。

国王一家の馬車は破滅への道を進んでいきます。

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