ここの背景画像は「miho's lovely material」からお借りしました。

ヴァレンヌの逃亡の小部屋

時間は語る <2>

6月21日 日中

6月21日。もしこの先の不幸がなければ、この日は国王一家にとって、一番楽しくてスリリングな時間だったに違いありません。

パリから42キロ行ったモーという町で一行は朝食を取りました。献立は牛肉の蒸し煮、グリーンピースとにんじんのゼリー寄せです。

多くの人に見張られ緊張を強いられていたテュイルリー宮殿を離れ、呑気になった国王は特別に用意した地図に自分たちがどこを通っているのかきちんと記入しました。途中、国王は馬車から降りて歩き始めました。子供たちも少し歩きました。初夏の一日の戸外はずいぶん、気持ちのいいものだったでしょう。

途中、車輪を柱にぶつけたりして二度、馬が転倒し、馬車を立てなおすのにそれぞれ30分かかりました。それ以外にも馬具が壊れたりして、1時間以上の時間を費やしました。

シャロンに着いたのは午後4時です。この小さな町の人々は、パリからの旅人の姿を見るのが好きで、この豪華な馬車に群がりました。駅長国王に気付いたようですが、忠誠心から何も言いませんでした。

馬車がシャロンを出ました。30分もすると、国王シャロンを通ったという噂がぱっと広がりました。

シャロンから12キロ先では、途中まで護衛するはずのショワズール公の軍隊と午後2時半に待ち合わせていましたが、もともと出発が遅れ、のろのろと行ったものですから間に合うはずもありません。

午後5時ショワズール公は計画が失敗したのだと考え、待ち合わせの場所を離れ、リュクサンブールに向かいました。

ショワズールの撤退と入れ違いに一行が現れました。ショワズールはいません。国王目の前が真っ暗になりました。しかたなく、この先にあるサント・ムヌーという小さな町に辿り着きました。

ドゥルーエ
アッシニアの国王の肖像
その頃には、フランス中に国王逃亡のニュースが走り、本人の乗った馬車よりも速く、サント・ムヌーに届いてました。そこの駅長の息子ドゥルーエは、馬車の隅に乗っている太った従者が、アッシニア紙幣に印刷されている国王の肖像画と同じものであることを確信しました。ヴァレンヌに一行は運命の場所、ヴァレンヌに向かいます。そして、一行を立ち止まらせるようと、ドゥルーエも早馬でヴァレンヌに向かいました。(右の絵をクリックするとアッシニア紙幣の全体を見ることができます。)


6月21日 ヴァレンヌ

ヴァレンヌでは18歳のローラン大尉が待っていました。しかし、約束の時間を大幅に回っても一行は現れず、部下達はいらいらだしたので、仕方なく部下達にどこかで眠ることを許可しました。

午後10時半、集合命令を出しましたが、居酒屋に行ったり、眠りに行った部下達をもう一度集めることは不可能でした。

午後11時半、疲れきった国王達がヴァレンヌに着きました。一行は馬車の中で眠っていました。ふいに馬車が止まり一行が目を覚ますと闇の中で男が叫びました。

「止まれ。お前(御者)の乗せているのは国王だ」

ソース
一行は呆然としました。既にドゥルーエは着いていて、市長が不在のため、地元の検察官ソース(おいしそうな名前)が馬車に停止を命じたのです。彼は通行証を調べました。ソースはこのような重大な事柄の責任を取るのを躊躇していましたが、傍らのドゥルーエがこれは間違いなく国王一行なのだから通行させてはいけない、と強く主張しました。

ローラン大尉はこの騒ぎにすっかり動転しその場から逃げてしまいました。残された兵士は眠ったり酔っ払ったりしていて何の役にも立ちません。

町中が目を覚ましました。ソースは一行を自宅に連れていき、二階の寝室を使わせました。疲れきった子供たちは眠ってしまいました。


パリで

6月21日、午前7時、従僕が国王の寝室に入り、ベッドに誰もいないのを発見しました。王妃の部屋も子供たちの部屋も同じです。この噂はたちまち広がり、8時にはバリに警鐘が鳴りました。

シャルル・ド・ラメット「24時間後にフランスは燃え上がり、敵軍が攻め込んでくるかもしれない」と叫びました。

国王は絶対逃亡しない、と言い張っていたラファイエットは共犯にされるのを恐れ、国王は誘拐されたのだと言い出しました。バルナーヴラメットらの立憲派は、ラファイエットの説に飛びつき、王の無罪を主張しました。

ジャコバン・クラブではダントンロベスピエールがラファイエットの責任を追及しました。

民衆の半分は、以前から噂されていた国王の逃亡にさほど驚きはしませんでしたが、その一方で、国王がいなくなったら太陽が昇らなくなるだろう、と不安に怯える民衆もいました。また、ある者は国王の裏切りに自制心を失い、「国王」の名を付けた商店や旅館の看板を取り壊したりしました。

とりあえず、国民議会は国王一行にパリへ帰るようにとする議決書を持たせて、まだ国王の居場所がわからなかったので、フランス各地に使者を派遣しました。ちなみに、当時の国民議会の議長はボーアルネ子爵です。彼はナポレオンの妻となるジョゼフィーヌの夫でした。


6月22日 ヴァレンヌ

国王一家の長い夜が明けました。村中の人々がソースの家の回りに集まってきました。午前6時半、幸い国王の足跡をたずねあてた二人の使者が、「パリに帰還するように」との国民議会からの要求書を持ってヴァレンヌに到着しました。

ロメーフ
二人のうち、一人はラファイエットの副官であるロメーフでした。彼はテュイルリーにいるときから国王一家とは言葉を交わすこともあり、マリー・アントワネットは彼に好感を持っていました。彼はできれば、国王一家を逃げさせたい、という密かな願いがあり、足跡を捕らえてからできるだけゆっくりヴァレンヌに行こうとしたのですが、同行のバイヨンは、革命に非常に熱心でとにかく一行に追いつこうと必死でした。

ロメーフは国民議会からの要求書を、震えながら王妃に渡しました。

王妃も驚きました。

「なんですって。あなただとは思いませんでした」

国王は要求書を読みました。そこには「王の権利は国民議会によって停止されられた」ということが書かれておりました。王妃は無礼極まりない、と怒りましたが、国王王妃

「フランスにはもはや王はいない」と寂しく言いました。

彼は近くにいるに違いないブイエ将軍を待とうと、出来る限りの時間稼ぎをしましたが、将軍は現れず、一行は六千人の武装市民と国民衛兵に囲まれてヴァレンヌを出発しました。

しかし、20分と立たない内に、ヴァレンヌブイエ将軍の騎兵中隊が現れました。もう30分長く国王が留まっていれば、歴史は違う方向に向かっていたのかもしれません。

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