志し半ばで暗殺された「人民の友」
サルディア人の語学教師の父と、スイス人の母との中流市民の家に6人兄弟に長男として生まれる。脆弱で勉強好きな少年で、幼い頃から学問を志す決心をしていた。
1759年、母の死後、見聞を広げるためフランス、イギリス、アイルランド、オランダに赴き、さまざまな知的関心を持ちつづけながら最終的には医者になる決心をした。正式な医者ではなかったもののイギリスで開業し、時流に乗った成功を納めた。
1789年の革命勃発と共に、新聞『人民の友』を発行し、民衆の立場からブルジョワ勢力などを攻撃し、その過激な批判のため、1790年1月には逮捕を逃れてイギリスへ亡命した。4月にパリに戻ってから『人民の友』を再発行。さらに殺気立ってくる主張の為に、文字通り地下にもぐる生活を強いられた。
共和主義のコルドルエ・クラブに加わり、1792年8月10日の王宮襲撃事件や、同年の反革命派に対する九月虐殺事件に関係があったと見られている。
1792年9月、パリ選出の国民公会議員に選出され、山岳派の指導者の一人となる。
国王処刑に賛成、またジロンド派との権力争いや1793年6月、ジロンド派を倒す上に活躍した。さらに山岳派独裁を推進したが、持病のひどい皮膚病に苦しみ、療養を一日中入浴していなければならず、晩年はほとんど政治活動ができる状態ではなかった。
そんな折、自宅で入浴中、ジロンド派の影響を受けた女性、シャルロット・コルデーに刺殺された。以後、革命の殉教者として民衆の崇拝の対象となった。画家でもあり同志でもあるダビッドによって描かれた『マラーの死』はあまりにも有名。
暗殺された時、彼が持っていた財産はアッシニア紙幣1枚だけだった。
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マリア・テレジア 1717.5.17.-1780.11.29 (1)オーストリアの女帝。マリー・アントワネットの母。ハプスブルク家でも1−2を争う賢帝。
神聖ローマ皇帝カール六世の長女として生まれ、父の死後、ドイツとオーストリアの女帝となる。1740年から王位をめぐって戦争(オーストリア継承戦争)が起こったが、力強く戦い、自己の相続財産を守り、夫のフランツを神聖ローマ帝国の皇帝の位につかせた。
夫の死後(1765年)は、長男のヨーゼフ二世と共同統治した。
夫との間に16人の子供をもうけ、その中には後継者ヨーゼフ二世、レオポルト二世、ナポリ王妃マリー・カロリーヌなどがいるが、最後まで最愛の娘マリー・アントワネットの行く末を心配して死んだ。
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マリー・アントワネット 1755-1793 (1)革命に巻き込まれた悲劇の王妃
1755年11月2日、神聖ローマ帝国の皇帝フランシスU世とマリア・テレジアの末娘としてウィーンに生また。ウィーンでは両親に愛され、自由気ままにくらしたが、1770年、ハプスブルク家とブルボン家の同盟政策のため、14歳で、16歳のフランス皇太子(後のルイ16世)と結婚。4年後、ルイ15世の逝去に伴い、18歳と20歳の若い皇太子夫妻は王位につくことになった。
皇太子妃時代から贅沢な生活に明け暮れていた。堅苦しい宮廷マナーにうんざりしていたアントワネットはルイ16世におねだりし、「プチ・トレアノン」という瀟洒な宮殿をもらい、そこで偽物の牧歌生活を送ったり、お気に入りの廷臣のみを招いて好き勝手なことをしていた。その浪費をなんとかしようと財務長官が王妃の費用を削減しようとすると、すぐ長官を罷免するなど、政治にまで余計な口を出すようになった。
その後、贅沢な暮らしを続けたため、「赤字夫人」と呼ばれ国民から恨まれた。 そして、運命の1789年、愛する王太子の死と「フランス革命」の勃発という二つの不幸が訪れた。
その年の10月に居城をヴェルサイユからパリに移され (ヴェルサイユ行進)、テュイルリー宮殿ではミラボーと連絡をとり、愛人フェルセンを頼りにした。
91年6月、フェルセンに導かれ、家族と共に祖国オーストリアに逃亡しようとするが、途中あと50キロと言うところで逮捕される (ヴァレンヌ逃亡)。
92年8月、王権を停止されてから、居住地をタンプル塔に移されるが、そこでの短い期間は国王家族にとっては幸せな日々だったと言われている。平民の家族のように狭いながらも、一緒に寝食を共にしたり、子供と一緒に水入らずで遊んだりするのは初めてだったからだ。
だが、そんな束の間の幸福も長くは続かず、1793年1月21日、ルイ16世が処刑され、アントワネットは「カペー未亡人」と呼ばれるようになる。
その後、息子から隔離され、王女とルイ16世の妹エリザベート内親王と三人で暮らすようになる。そして、1793年10月、「国庫を浪費した」件と「外国に軍事秘密を漏らした」件に加え、「息子と不適切な関係を結んだ」といういわれのない件で逮捕される。全てにおいてアントワネットは誇り高く自己弁明し、裁判所は確たる証拠を得られなかったが、しょせんこれは、最初から有罪が決まっている裁判だった。
10月13日、処刑。ルイ16世のときは幌付きの馬車で処刑場まで連れて行かれたが、アントワネットにはそれも許されず、平民と同じ荷車で連れて行かれた。そのときの様子をダビッドがデッサンで残している。背筋をピンと正している姿には王妃としての威厳がある。
刑場で処刑人の足を踏んでしまったアントワネットは、「ごめんあそばせ。わざとやったのではありませんの」と優雅に言ったという。
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マルーエ(ジャン・ビクトール・マルーエ、男爵) 1740-1814 (1)王党派の立法議会議員
元サン・ドマングの地方長官で、三部会では第三身分唯一の高級官僚。ミラボーの友人で穏健派。ヴェルサイユ行進の後、議員を辞職し地方に逃れ、8月10日後、亡命したが、ナポレオンのもとで帰国。男爵、海軍軍政にあたる。
ヴェルサイユ宮殿を造った宮廷建築家の一人
マンサール |
もともとの姓はアルドゥアンだが、1668由緒アル建築家として母方の姓マンサールを名乗った。
パリの生まれ。1674年よりルイ14世の宮廷建築家となり、ヴェルサイユ宮殿の改造と増築をした。
1688年まで長大な翼屋を南北に延長させるなど、大宮殿の形式を整え、またアカデミー総裁の画家ル・ブランと協力して絢爛豪華な「鏡の間」を設計した。
長さ73mに及ぶ「鏡の間」の両端には「戦争の間」と「平和の間」が配置された。
さらに1687年に大トリアノンを建てた。
壮麗な建築はルイ14世の要求を十分に満たし、宮廷建築家として歴史に名を留めることになる。
ヴェルサイユ宮殿以外には、パリのアンバリッド教会、パンドーム広場計画、弟子のコットと共同で建てたヴェルサイユ宮殿の礼拝堂などがある。
ミラボー |
貴族の出身だったが、シエイエスと同じように第三身分から議員に選ばれた。王党派。
父は貴族で重農主義の経済学者。17歳で騎兵隊中尉となるが、浪費と放蕩で問題を起こし、父親によって各地の監獄に監禁される。モニエ侯爵夫人と駆け落ちしスイス、オランダへ逃亡するなど放蕩無頼の青春時代を送ったが、一方では啓蒙思想の影響を受けた。
1789年の三部会召集で第三身分代表として議員に選出され、国王の国民議会解散命令に対し、「われわれは銃剣の力によるのでなければ、この場を離れない」と持ち前の大音声で言い、居並ぶ議員に勇気を与えたことは有名。(その辺の事情はこちら)
それ以後、清濁併せ持つ政治的手腕と雄弁を発揮し、国民議会の成立に活躍し、ラファイエット、バルナーヴ、ラメット兄弟らとともに立憲王政を目指した。
雄弁家の上、割れるような声の持ち主ですぐに議会内でも最重要人物になり、「ちっちゃなお母さん」とか「革命の獅子」とかの愛称で呼ばれた。ただし、「暴風雨的性格」とも言われるように、奔放で一貫した主義主張がなく、自分自身の利益のためなら何でもやった。
1790年5月以降、国王擁護の工作のため王家と通じ、マリー・アントワネットの寵を欲しがったが、王妃からは利用するだけ利用され、容貌が醜いこともあり、とことん嫌われていた。
1791年1月、国民議会議長。自由主義貴族や地主、ブルジョワの立場を代表する立憲王政派で、急進勢力を抑えて、疑惑を持たれながらも王権を維持することに努めた。
1971年の春、浪費と過労のためタイミングよく病死してしまったので、生前は名声を失わずにすみ、革命の偉人を埋葬するパンテオンの第一号となった。しかし、死後、王室との癒着が発覚し、その遺体はパンテオンから引きずり出された。
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