フーキエ・タンヴィル |
悪名高き革命裁判所の検事。
裕福な農家の息子でカミーユ・デムーランの親戚。検事の前歴が買われて、1793年、「共和制への反対派」の全てを裁くと言う大きな権限が与えられた「革命裁判所」が設置されると、検事の職に就いた。就任後しばらくは、あまり断頭台に送らなかったが、その後は絶大な権限と雄弁によって、呵責の無い弾圧の執行者となった。
シャルロット・コルデー、マリー・アントワネット、ロラン夫人、ブリッソーらのジロンド派議員、ダントン等の死刑を判事として決定した。あまりにも加速度のついた処刑を、自ら「スレート瓦のように首が落ちている」と言った。
ロベスピエールに忠実であったが、テルミドール反動の際は、陪審員達をかりあつめてロベスピエールの有罪を宣告していた(もし、ロベスピエールが勝っていれば、その敵を有罪にしたであろうと言われている)。
しかし、その直後、革命裁判所は一新され、役人や判事は罷免された。自分の無実を信じていたフーキエ・タンヴィルは裁判の際、「単に命令に忠実な役人として行動したに過ぎない」と言ったが認められず、翌年5月、処刑された。
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フーシェ(ジョゼフ・フーシェ) 1759.5.31.-1820日和見主義の政治屋。のち、警察大臣として活躍。
ジョゼフ・フーシェ |
父は船員。ナントの港町の近くで生まれ、地元のオラトリオ会の教師で僧職につきながら教師として数学を教えた。
革命とともに僧職を捨て、ナントで自由主義者のクラブを組織し、裕福な商人の娘と結婚した。その後、国民公会議員となり、初めはジロンド派に属し、国王処刑に賛成票を入れる。
その後、山岳派となる。地方派遣議員として、リヨンやナントの各都市で反革命人物を次々と虐殺し、恐怖政治を行使し、「リヨンの霰弾乱殺者」と異名を取る。
非キリスト教化を推進し、ロベスピエールと対立。また、今まで行ってきた残虐な行為をロベスピエールに追及されるのを恐れ、タリアンらとともにテルミドールの反動では一役買った。
総裁政府時代、フリュクチドール十八日のクーデターでバラスを助け、それにより警察長官に任命される。さらに、ナポレオンによるブリュメール三十日のクーデターでも、巧みにナポレオンに付き、その地位を維持。
1804年には帝政への貢献により、元老院議員になり、オトラント公の爵位も授けられた。1804年、ナポレオンのスペイン遠征中にタレーランと組み、ナポレオンに代わる者の擁立を図ったが失敗。その時は処分を免れたものの、1810年イギリスとの秘密交渉が発覚し、追放される。
1815年の百日天下の際は、他に適任者がいないことから警察長官として復帰。しかしながら、時勢がどうなってもいいように、自由主義者と協力しながら王党派を保護。タレーランやメッテルニヒらとも連絡を取り合った。
ワーテルローから敗走してきたナポレオンを裏切り、引き続き警察長官に任命されることを条件にルイ18世を復位されるが、1816年、「国王殺し」として政界から追放。
以後、プラハ、リンツなどで亡命生活を送り、トリエステで病死した。彼は生涯を通じ、権謀術策に優れ、それぞれの体制で暗躍した。
フェルセン伯爵 (ハンス・アクセル・フォン・フェルセン)マリー・アントワネットに終生変わらぬ愛を誓っスウェーデン貴族。
1755年、マリー・アントワネットと同じ年にスウェーデン王室顧問官の息子として生まれる。背が高く端正な顔立ちの彼は、15歳になると当時のインテリ層の常として、3年間ヨーロッパに遊学し、造兵学、医学、音楽、哲学、剣術など18世紀の青年貴族が必要としたことを全て身に付けた。
フェルセン伯爵 |
1773年12月、18歳の彼はパリの社交界にデビューし、たちまちパリの上流階級の女性に歓迎された。翌1774年1月、仮面舞踏会で運命の女性、フランス王太子妃マリー・アントワネットに会う。以後、二人のプラトニックな関係は続くが、4ヶ月後、ルイ15世が崩御すると、王妃となったマリー・アントワネットに悪い噂が立つのを恐れ、スウェーデンに戻る。
1778年、再びパリに戻り、マリー・アントワネットに再会するが、2年後の1780年、フランスの派遣軍団の副官としてアメリカ独立戦争に参加。1783年、再びパリに。その後すぐ、スウェーデン国王と諸国を回るが、1785年以降、パリに定住した。
数ある結婚話(ネッケルの娘など)を断り、頑なに結婚を避け、マリー・アントワネットのみに愛を注ぐ。王妃の不幸が増せば増すほど、王妃の力になり、唯一の友として献身的な努力をした。
1791年のヴァレンヌ逃亡の時も、東奔西走し、各地の王党派と連絡を取り合い綿密に計画を立て、国王一家逃亡のために超人的な活動をした。しかし、6月20日、この逃亡劇は失敗に終わる。
その後、国王一家が幽閉されると、その命を救うためにあらゆる手を尽くしたが、全て徒労だった。
愛する女性が処刑されると、フェルセンは愛想のない暗い人間になり、特にマリー・アントワネットを「殺した」民衆を憎悪した。それでも、外交使節として活躍し、スウェーデン国王からの信任は厚く、どんどん出世していき、国王顧問から元帥にまで昇格した。
1806年、スウェーデン王太子が急死すると、王位を狙ったフェルセンが毒殺したのだと言うあらぬ噂が広まった。マリー・アントワネットも中傷の犠牲となったが、彼もまたこの中傷の犠牲となり、「運命の日」6月20日、ストックホルムで暴徒に襲われ、惨殺された。
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ブオナロッティ-1837 (H11.4.21.UP)バブーフの同志。バブーフの思想を後世に伝える。
フランスに帰化したイタリア人(一説には、ミケランジェロの子孫らしい。)でロベスピエールの弟子。バブーフと共に「パンテオン・クラブ」のリーダーとして活躍し、「バブーフの陰謀」にも加わった。陰謀発覚後、バブーフと一緒に裁判にかけられたが、あくまで共謀を否認し、流罪を申し渡された。
その後、スイス、イタリア、ベルギーなどを転々としてバブーフの思想を各地に伝えた。その宣伝活動によって、この事件は共和主義者の英雄的な伝説となり、レーニンらによって、秘密組織による少数物の権力獲得、蜂起戦術の実行、革命的独裁の樹立、反乱のテクニック、陰謀の内部組織などが余すところなく研究されることになった。
1830年の革命後、フランスに戻り、1837年、パリに没した。
ブリエンヌ (エティエンヌ・シャルル・ド・ロメニ・ド・ブリエンヌ)1727-1794旧体制最後の宰相
パリ生まれ。1763年、ツールーズの大司教となり、ラングドックの三部会議員としても活躍した。
1787年、名士会のメンバーとしてカロンヌと対立した。カロンヌ失脚後、マリー・アントワネットがルイ16世に強くせがみ、敵手カロンヌの後継者として財務総監となり借款政策を取った。名士会を解散し、高等法院を抑えて司法改革を行ったが、貴族の抵抗にあい、何も解決できなかった。
1788年7月、彼は三部会召集の約束をした。ありとあらゆる策を使い果たし、国庫には何もなくなったのち、ネッケルに席を譲った。(歴史的背景を見る→)
翌年、サンスの大司教、枢機卿となったが、1794年、革命中に逮捕され、自殺を遂げる。
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ブリッソー(ジャック・ピエール・ブリッソー)1754-1793ジロンド派の指導者の一人。
パリ近郊のシャルトルの飲食店に生まれ、啓蒙思想(特にルソー)に心酔した。文筆家として活動し、イギリスやアメリカに渡った。
1784年、奴隷制を反対する過激な文章のためバスティーユに投獄されたが、のちにオルレアン公に雇われ、革命直前に「フランス愛国者」紙を発行。
立法議会に入り、外交委員会を開戦に踏み切らせた。国民公会ではジロンド派の指導者の一人となったが、衝動的で時として無責任、また、先見の明がないことはジロンド派と本人にとって致命的なことだった。
1793年逮捕状が出され逃走。その後、捕まり処刑された。
ジロンド派の一員。弁護士。バリ市長にもなる。
下級貴族出身。弁護士である父の跡を継ぎ、シャルトルの第三身分代表として三部会に入る。立憲議会では、ビュゾー、ロベスピエールらと共に少数派の左派に加わり、「黒人友の会」の一員にもなり、妥協的なミラボーの政策に反対した。
1791年6月の国王逃亡の際は、議会代表としてバルナーブと出迎えに赴いた。その後、ジャコバン・クラブの議長となり、ロベスピエールを凌ぐ人気を得た。パリ市長となり、王室側の攻勢に対してパリの民衆の行動を支持した。
1792年、8月10日の革命で国民公会に入るが、革命推進を貫徹できずに、国王裁判では執行猶予付きの処刑に賛成した。
1793年4月以降、ジロンド派の一員となり、ロベスピエールと決定的に対立。国民公会はぺティヨンを王政支持者として告発し、逮捕令を出した。パリを脱出、ブルターニュを経てジロンド県へ逃れた。逃亡中、連邦主義を唱えて反乱を企てたが、最後にはビュゾーと共に森の中で自殺した。
ベルナドット (ジャン-バプティスト・ジュール・ベルナドット、カルル14世) 1763-1844 (H11.10.18.UP)現スウェーデン王家の創始者。ナポレオンの初恋の女性を妻にする。
代訴人の息子として生まれる。その風貌は「髪は漆黒で、羊のような巻き毛。わし鼻、野生の猫のように狙う目、疑い深そうな眉毛(どんな眉毛?)、物欲しげな心、178センチの長身」で、腕には「王侯くたばれ」という刺青を彫っていたと言う。
ナポレオンの長兄の妹でもあり、初恋の女性でもあるデジレ・クラリを妻に娶った縁で、ナポレオンに目をかけられながらも、ナポレオンに心酔することはなかった。ブリュメールのクーデターの際、ナポレオンの誘いにも乗らず、成功後も祝いの挨拶にも出向かなかった。
フランス革命後のヨーロッパ動乱期には軍人として活躍し、ナポレオンに一応協力したが、1806年のイエナ・アウエルシュタットの戦い辺りから、ナポレオンに背くようになる。、軍法会議の危機にまでさらされたが、妻デジレの必死のとりなしで事なきを得た。
1810年、軍事・行政での手腕を見込まれ、思いもかけずスウェーデンの王位継承者の申し出を受けた(詳しくはこちら)。 ナポレオン皇帝受諾の元、王位を継ぐことになる。
しかしながら、ナポレオンへの恩義を忘れ、フランス軍に関する秘密情報を漏らしたり、公然と反フランス連合軍に参加した。1814年にナポレオンが没落すると、ロシアのアレクサンドル帝をバックに、フランス王位を狙ったが、タレーランらから猛烈に反対され、その夢は潰えた。
1818年、正式にカルル14世として王位に就く。その善政で退廃した国家は救われ、産業は進展し財政も立ち直り、福祉国家の礎を築いた。
ナポレオンが作った数々の王室の中で、ベルナドットの系統だけが今日まで絶えず、ノーベル賞の授与という名誉ある伝統で国際的な尊敬を受けている。
それにしても「王侯くたばれ」の刺青はどうなったのであろうか。
ボワシー・ダングラ 1756-1794 (H11.2.12.UP)テルミドール派で巧妙に行きぬいた政治家。
アルデシュ県出身。新教徒の医者の家に生まれ、パリに出て弁護士となり、王弟プロヴァンス伯の顧問になった。
1789年、第三身分として三部会に選ばれ、立憲議会では立憲多数派に属し、目立った活躍はしなかった。 1792年以降の国民公会でも、多数派に属し慎重に行動した。王の処刑には反対したが、恐怖政治下でも慎重に行動し、ロベスピエールににらまれずにすんだ。
テルミドールの反動後、国民公会議長となり、プレリアールのパリ民衆蜂起の際、その鎮圧に活躍した。 共和国三年の憲法の作成者の一人で、総裁政府期、五百人会議員だったが王党派に加担し一時追放された。2年後、ブリュメールのクーデター勃発後、ナポレオンに従い、護民府議員、元老院議員になり、帝国の伯爵に任命された。王制復古期のルイ18世(プロヴァンス伯)のもとでは貴族に列せられるなど、最高の政治的地位を保った。