バックナンバー8・高僧部


1、直弟子編

舎利弗と目連

前回、皆様のご意見を伺ったところ、圧倒的に「高僧伝」が多数を占めました。というか、「高僧伝」のみ、でしたね。ですので、「高僧の部」へと突入いたします。まず第一回は、お釈迦様の直弟子からスタートいたします。
お釈迦様の直弟子が高僧?、と思われるかもしれません。高僧伝・・・といえば、日本の各宗派の宗祖や有名なお坊さんの話を期待されていたと思います。
しかし、それは少々あとにまわしまして、高僧伝を書くならインドの高僧から始めたいと思いました。というのは、特になのですが、お釈迦様の直弟子って、あまり目立たない存在だからです。仏像としては、大変珍しいですし、仏像や菩薩像、明王像、天部などに押されて、忘れ去られた存在になってしまっているからです。お釈迦様の直弟子だって高僧なんですよ。忘れてしまうのは、残念なことですからね。
ということで、高僧部は、お釈迦様の代表的な直弟子、お釈迦様の十大弟子からスタートいたします。合掌。

@舎利弗(しゃりほつ)
「智慧第一」と称されました。お釈迦様の弟子・・・十大弟子・・・の中でも代表的な弟子の一人です。
正式な名前をシャーリープトラ(サンスクリット、パーリ語ではサーリープッタ)といいます。(仏教では、名前などの表記には二通りあります。古代インドの正式な原語であるサンスクリット語表記と庶民的原語のパーリ語表記です)。
名前の意味は「シャーリーという女性の息子」という意味です。古代インドでは、「○○の息子、娘」という言葉がそのまま名前になることがあります。シャーリープトラはその典型的なパターンですね。
お経には、そのまま音写されて「舎利弗」とか「プトラ」だけ訳されて「舎利子」と表記されます。般若心経にも「舎利子」と書かれてますよね。

舎利弗は、お釈迦様の弟子の中でも、最も智慧があった弟子でした。ですので、智慧第一と称されたのです。彼は、もともと頭がよく、お釈迦様の弟子になる以前は、当時有名であったサンジャヤという思想家の弟子でした。弟子というより、すでにサンジャヤを超えていたと言われ、サンジャヤに代わって教えを説いていたそうです。
しかし、彼はサンジャヤの教え・・・懐疑思想・・・に疑問を持っていました。
(懐疑思想とは、この世の現象をすべて疑え、というものです。自分は人間なのか疑え、ある出来事が本当にあったのか疑え、存在を疑え、何もかも一切疑え、というものです。ですから、舎利弗は、サンジャヤの教え自体を疑っていたのです。かしこい!)。
そんなある日、舎利弗は立派な立ち振る舞いで托鉢をしているアッサジに出会います。アッサジとは、お釈迦様の初めての弟子であった五人の中の一人です。舎利弗はアッサジに声をかけました。
「あなたの立ち振る舞いは立派です。姿も輝いて見える。あなたはどなたの弟子なのですか?。それともあなたが師なのでしょうか?。」
「私は、ブッダ世尊である釈迦族出身の聖者の弟子です。」
「ブッダですって?。いったい、その方はどんな教えを説くのですか?。」
「世尊は、この世のすべての存在や現象には原因がある。その原因を説き明かします。一切は、原因と結果から成り立っているのです。その根本原因まで説き明かすのです。」
というようなやり取りがあったのです(いずれお釈迦様物語で詳しく説きます)。この言葉を聞いただけで、舎利弗は、少し悟ってしまったんです。で、アッサジについていき、お釈迦様の弟子になります。
舎利弗は、そのときお釈迦様に初めてあったのですが、いきなりお釈迦様は自分の隣に座るように命じます。そして、
「この者は、いずれ私の代わりに教えを説いてくれるであろう。」
と宣言するのです。お釈迦様は、舎利弗の頭のよさを見抜いていたのですね。で、その後、舎利弗は、友達の目連と共に(目連もサンジャヤの弟子だった)、さらには、サンジャヤの250人の弟子たちをも引き連れて、お釈迦様の弟子になります。サンジャヤは、ショックで血を吐いて失神してしまったそうです(急性胃潰瘍の疑いが・・・)。
こうして、お釈迦様の弟子となった舎利弗ですが、お釈迦様の予言どおり、よくお釈迦様の代理で教えを説きました。彼は、頭脳明晰で理論的で、言葉も正しく、態度も高慢でなく、いつも落ち着いていて、まったく非の打ち所がない弟子でした。(できすぎ・・・という感もないわけではないですが・・・)。

舎利弗は、次に紹介する目連とともに、お釈迦様の教団を支えました。智慧の舎利弗、神通力の目連、この二人がいるからお釈迦様の教団は人気がある、と言われたくらいです。
しかし、舎利弗は、お釈迦様より早くに涅槃に入っています(つまり、亡くなっています)。お釈迦様に別れを告げると、ふるさとに帰り、お釈迦様の教団に逆らっていた母親に教えを説き、母親を導いたあとで病気で亡くなっています。
あとで話しますが、舎利弗の友人であった目連もほぼ同じころ涅槃に入っています。お釈迦様の教団は、ほぼ同じ時期に大きな弟子を失ったのです。お釈迦様もこの二大弟子を失ったショックは大きかったようで、その後よく塞ぎ込んだように瞑想に入ることが多くなった・・・・とも言われています。
初期仏教教団にとって、舎利弗は大きな存在だったのです。合掌。


             
@舎利弗              A目連

十大弟子の図像や尊像は少ないです。禅宗の大きなお寺には、あるようです。
A目連
「神通第一」と称されました。舎利弗と並んで、二代弟子として多くの弟子たちから崇められました。
正式名前を「マウドガルヤーヤナ」(サンスクリット、パーリ語ではモッガラーナ)といいます。「目健連(もっけんれん)」と音写されます(モッガラーナの音写)。これが省略されて「目連」となったのです。

さて、目連も舎利弗と一緒にサンジャヤの弟子でした。目連と舎利弗は、幼馴染みで、二人とも幼いころから頭がよく、舎利弗は頭脳派、目連は行動派だったようです。で、二人でサンジャヤの弟子になったのですが、二人ともサンジャヤの教えには満足していませんでした。そこで、二人で他の師を探そうと相談していたのです。行動派の目連は、そういうことならと、サンジャヤのところへは行かなくなり、あちこち師を求めてウロウロしていたのです。
そんな時、舎利弗がいい師が見つかった・・・と目連を誘ったのです。それがお釈迦様でした。
お釈迦様に会い、教えを少し聞いただけで目連はすぐに少し悟りました。そして、その後、一週間ほどで悟りを得、神通力を極めたのです。その神通力においては、お釈迦様の弟子の中では、一番でした。なので、神通第一と称されたのです。

目連は、その神通力を使って、多くの人々を救ったようです。お釈迦様は、基本的に神通力を使うことを禁止していました。そうした超能力的な力に頼らずに、頭で考え智慧をめぐらせ、言葉によって導くことのほうが大切だからです。しかし、目連が神通力を使うことは、あまりと咎めなかったようです。むしろ、目連が神通力を使うことは黙認していたようです。それは、智慧に裏付けされた神通力だったからでしょう。
また、目連はお釈迦様の指示により、戒律を守っていないのに守っている振りをしているものや、ウソやごまかしをしている弟子を神通力で指摘したりする役もしていました。また、あるときは遊び惚けている帝釈天を諌めに神通力によって天界へ上がり、帝釈天を懲らしめたこともあります。帝釈天を懲らしめるほどの神通力は、お釈迦様以外では目連だけが持つものでした。

そんな目連でしたが、その死(涅槃)は、悲惨なものでした(目連本人は悲惨とは思っていませんでしたが)。
お釈迦様の教団は、当時大変人気がありました。人々からも大きな信頼を得ていましたし、弟子の多数ありました。そうなると、いつの時代にも妬みを持つものが登場するんですね。妬みを持つものは、考えました。なんでお釈迦様の教団は人気があるのか・・・・。
「そうだ、お釈迦様の弟子に目連というヤツがいるだろ。」
「あぁ、国王にもその神通力が認められている、あの目連だろ。」
「お釈迦様の教団が、人気があるのは、あの目連がいるからじゃないのか。」
「おう、そうだな。あの神通力を見せられちゃあ、みんな寄ってくるよな。それが弟子だっていうんだから、お釈迦様はもっとすごいだろうって。」
「ところがだ、お釈迦様は神通力をあまりやらないって話しだ。ということは・・・。」
「ひょっとして、お釈迦様の神通力は目連に敵わない・・・。」
「そう、ということは・・・・。」
「目連がいなくなりゃあ、教団は潰れる。」
「そう潰れる・・・。ふっふっふっふ・・・。」
と話がまとまってしまうんです。こうして、仏教教団に妬みを持つ連中は、目連の命を狙います。目連は、このことを神通力で知ります。初めは、その神通力で難を逃れていました。しかし、さらに神通力で「なぜ自分が狙われるのか、その根本原因は何か」を探ってみると、それは前世の因縁だと言うことがわかったのです。
遠い前世において、目連はそのときの両親を殺そうとした(諸説あり)のです。その報いで、目連は500回殺されなければならないという罰を受けることになったのです。お釈迦様の元で出家した目連が、妬みを持つ連中に襲われるのが、ちょうど報いの500回目だったのです。目連は、
「私の神通力を持ってすれば、このまま逃げおおせることもできるが、あと一回の因縁を残してしまう。それよりも、この最後の悪因を受けておいて、二度と生まれ変わらぬ世界へ行ったほうがいいであろう。私は悟りを得ている。心静かに最後の因縁を受け入れいれようではないか。」
そう決心し、妬みを抱く連中の暴力を受けます。
「願わくば、このものたちに暴力の報いが来ませんように・・・。」
と祈りながら。暴力を受けた目連は、なんとか一命を取り留めます。しかし、重傷であることにはかわりなく、それは虫の息と言う状態でした。そこで、お釈迦様の元に最後の神通力で戻り、お釈迦様に別れを告げてから、静かに涅槃に入りました。舎利弗が涅槃にはいって、ほんのしばらくあとのことだったようです。

神通第一の目連でしたが、舎利弗の智慧には敵わなかったようです。舎利弗の智慧と目連の神通力くらべのエピソードがいくつか残っているようですが、それはまたの機会にお話しましょう。いずれも、智慧の舎利弗が勝っていますが・・・・。合掌。


大迦葉と阿那律

B大迦葉(だいかしょう)
読み方が難しいかたです。苗字を「カッサパ」といいいました。迦葉(かしょう)は、それを音写したものです。それに「大」がついているのは、同じ「カッサパ」という名前の弟子がいたからです。そのカッサパという弟子は、お釈迦様の早くからの弟子でしたが、あとから入ってきたこのカッサパの方が優秀だったんです。で、以前からいたカッサパよりすぐれているので、マハーカッサパと呼ばれるようになったのです。マハーは「大」という意味ですから、経典では「大迦葉(だいかしょう)」と書かれるようになったのです。

大迦葉は、そもそも裕福なバラモンの子として生まれました。その家は、マガダ国の首都ラージャグリハより少々離れた村にありましたが、その裕福さはマガダ国の王様に匹敵するのではないか、というくらいでした。大金持ちですね。その一人息子として生まれたのです。幼名を「ピッパリ」といいます。
幼いころから優秀で、聡明で、学問好きなピッパリは、成長するにつれ世間の欲望や快楽が嫌になっており、出家をして修行をすることを夢見ていました。(お釈迦様の弟子には、このようなパターンの方が多くいます。お金持ち過ぎるのも考え物ですね)。しかし、一人息子ですから、跡を継がねばなりません。両親は、息子に早く結婚をさせて、家督を譲りたい、と願っていました。ですので、ピッパリは苦悩の日々を過ごしていたのです。
そこでピッパリは、絶対現れないであろうという条件をつけて、そういう条件を満たす娘なら嫁にもらう、と宣言しました。両親は、条件にあった娘さんを必死に探しますが、なかなか見つかりません。そういう条件を出しているのですから、当然ですね。しかし、世の中は広いもので、両親の知り合いが、条件にあった娘を見つけてしまうのです。その娘は、カッサパ家と同じくらい裕福なバラモンの娘でした。困ったピッパリは、両親よりも先にその娘と会います。
娘に会ってみると、その娘も世間の欲や快楽が耐え切れなくて、出家して修行したいと望んでいることがわかりました(変わり者の娘だったんですね)。で、二人で話し合って、結婚をしても決してお互いに触れ合いことなく、男女の仲にならず、ピッパリの両親が亡くなったら、出家をしようということに決めたのです。
そして、それはその通りになったのです。二人は、同じ部屋で起居しても決して触れ合うことなく、清浄な暮らしをし、両親が亡くなったら、別々に家を出たのです。いい師に出会ったら連絡しようと約束をして・・・。

ピッパリが、お釈迦様に出会ったのは、お釈迦様がラージャグリハの滞在していたときのことです。お釈迦様は、最初の五人の弟子とヤシャら50人の弟子、カッサパ三兄弟の弟子たちを連れ、ラージャグリハの外れの神の祠付近で、修行をしていたのです。ピッパリがたまたまそこを通りかかり、お釈迦様の姿を一目見て、
「この方だ!」
と思い、お釈迦様のもとで出家したのです。その後、1週間ほどで悟りを得ました。そのころより、マハーカッサパと呼ばれるようになりました。尼僧教団ができてからは、妻も呼びよせ、尼僧として修行させました。そして、「頭陀(ずだ)第一」とも称されるようになったのです。
「頭陀」とは、「頭陀袋(ずだぶくろ)」の「頭陀」と同じです。サンスクリット語の「ドゥータ」を音写したもので、元の意味は「煩悩の垢を払い落とし、欲を慎み、衣食住において貪らないで、質素な生活をこころがけ修行をすること」です。つまり、マハーカッサパは、質素な仏教教団の生活において、さらに質素に生活をしていたのです。それは、寝所は雨がしのげればいい、着るものはお古の糞掃衣(ふんぞうえ)があればいい、食事は貧しい家庭の貧しい食べ物を托鉢したものでいい、という生活でした。衣や食事の接待など、決して受けることはなったのです。

マハーカッサパは、シャーリープトラやモッガラーナ亡き後、仏教教団のリーダー的存在になりました。そして、お釈迦様が涅槃に入られた後、教団の中心的存在として、弟子たちをまとめ、お釈迦様の教えが間違って伝わらないように弟子たちを集め、教えの確認作業をしました。これを結集といいます。
今日、我々が、お釈迦様の教えをお経として読めるのは、マハーカッサパにより、結集の伝統が出来上がったからなのです。
ちなみに、マハーカッサパは、120歳まで生きたそうです。合掌。


             

 B大迦葉              C阿那律
C阿那律
阿那律は、サンスクリット語のアニルッダを音写したものです。出身は釈迦族で、お釈迦様のいとこに当たります。ですから、身分で言えば王族になります。
アニルッダの家庭は、王族の中でも大変裕福でした。その次男として生まれたのですが、彼が生まれてからというもの、アニルッダの家は益々裕福になっていったので、彼は幼少のころから「福徳の子」と称されていたそうです。そういう家庭で育ったアニルッダは、お米がどうやってできるかすら知らない(お米は、ご飯になって金の器から出てくるのだ、と信じていたそうです)ようなお子様だったのです。そんな贅沢が身に染み付いたお子様が、出家した理由は大変単純なものでした。

ある日のこと、お釈迦様が釈迦族の国カピラバストゥの近くの国のある村に滞在していたときのことです。そのとき、大勢の釈迦族の若者がお釈迦様の教えを聞き、出家しました。その話を聞いたアニルッダの兄は、
「我が家からも出家者を出さないと恥ずかしい。俺かお前のどちらかが出家しよう」
とアニルッダに持ちかけました。アニルッダは
「私は、華奢なので修行に耐えられそうにない。だから、兄さんが出家してください」
と兄に言いました。すると兄は、
「家に残ることになれば、畑を耕したり、種を撒いたり、刈入れをしたり、家畜の世話をしたり、生活費のことを考えたり、様々な仕事をやらねばならないが、それでもいいかい?」
とアニルッダに問いかけました。アニルッダは、家の仕事がそんなにたくさんあるなんて知りません。なので、
「兄さん、私にそんな仕事はできません。何をどうやっていいかもわかりませんし、そんな体力もありません。だから、私が出家します」
と答えたのです。こうしてアニルッダは出家することとなったのです。ところが、母親がこれに反対しました。母親は、アニルッダの親友で釈迦族の属国の王バッティアが出家するなら出家してもいいという条件を出します。アニルッダは、兄と出家する約束をしたので、バッティア王を説き伏せ、一緒に出家したのです。
つまり、アニルッダの出家には、他の弟子のような確たる信念が全くなかったのです。

そんなアニルッダですから、気が緩むこともありました。あるとき、お釈迦様が教えを説いているとき、居眠りをしてしまいました。お釈迦様は法話のあと、アニルッダの気の緩みを注意します。このことでアニルッダは、お釈迦様の前では決して眠らない、という誓いを立てます。これは一種の苦行でした。苦行を否定していたお釈迦様は、再三眠るようにアニルッダに注意するのですが、
「今は眠るときではないので・・・」
と睡眠を拒否します。そして、ついには失明してしまうのです。
しかし、それがきっかけで、アニルッダは悟りを得ました。また、天眼という神通力がついたのです。天眼とは、居ながらにして世界中を見渡すことができ、さらには、前世から来世まで見通すことができるという神通力でした。アニルッダの天眼は、他の弟子の誰よりもすぐれていたので「天眼第一」と称されるようになったのです。その天眼は、いついかなるときでもお釈迦様を見つめていた眼でもあったのです。
たとえば、お釈迦様が天界に法を説かれに行った時でも、その姿をアニルッダはしっかりと見ていました。お釈迦様が遠くに旅に出られても、アニルッダは、遠方にいるお釈迦様を見ていました。お釈迦様がどこにいても、アニルッダの眼には、その姿が映っていたのです。

贅沢で苦労知らずで、体力などなく、労働という言葉からは遠くにいたアニルッダ。出家の動機も確たるものでなく、ただ兄との約束を果たすため、家の労働をしたくないから、というだけの理由でお釈迦様の弟子になったアニルッダ。
それでも、怠ることなく、お釈迦様や他の弟子たちの導きより、悟りを得ることできたのです。このアニルッダの悟りは、どんなものでも怠らずに努力すれば悟りを得ることができる、ということを私たちに教えてくれているようですね。

アニルッダとお釈迦様の素敵なエピソードがあります。それは、幸福を追い求めるものの姿を表したお話です。そのお話は、「とびらの言葉、バックナンバー1の第2回」に載っておりますので、ぜひ読んでみてください。合掌。



富樓那と須菩提

D富樓那(ふるな)
この方も読み方が難しい弟子です。やはり、音写だからです。本名を「プルーナマイトラーヤニープトラ(サンスクリット名)」といいます。略して「プルーナ」と呼ばれており、お経が漢訳されたときに「富樓那」の文字があてられました。十大弟子の一人で、「説法第一」と称されています。説法第一と言われるくらいですから、教えを説くのが大変うまかったのです。

フルナは、お釈迦様の故郷であるカピラバストゥに近い小さな村ドーナバストゥのバラモンの子として生まれました。幼少より頭がよく、すぐれたバラモンに成長しました。そのフルナがなぜお釈迦様の弟子になったのか。それには三つの説があります。
一つには、この世に仏陀が出現したという噂を聞いてすぐにお釈迦様の元に走った・・・という説。
二つ目は、ある女性をめぐり嫉妬心を起こし、トラブルになった結果、虚しさを感じ出家した・・・・という説。
三つ目は、バラモンの学問をし尽くしたフルナは、お釈迦様に議論を挑み、あえなく負けてしまったがために出家した・・・・という説。
説法第一と言われたフルナですから、三つ目の説が一番もっともらしいとは思います。どれが本当かは、わからないですけどね。

さて、もともと大変弁の立つフルナですから、頭の回転も速かったので、出家して程なく悟りを得ました。大変真面目で熱心な弟子だったようです。そして、お釈迦様が説かれる難しい教えも、様々なたとえ話でわかりやすく説明をし、皆に説きまわりました。その教えの説き方は、智慧第一のシャーリープトラですら感心したといわれています。また、フルナの周りには、説法上手な仲間がたくさんいたようです。たえず、お釈迦様の教えを様々なたとえ話によってわかりやすく説くことを話し合っていたのでしょう。
難しいことを難しく説くことは誰にでもできます。また、教えられたことをそのまま伝えることもできます。フルナは、そうではなく、難しいことや教えられたことを自分の言葉に直し、わかりやすく説いて廻ったのです。

このようなフルナは、大変真面目で、教えを説くことが大好きだったのでしょう。あるとき、お釈迦様に
「お釈迦様の元を出て、他国へ布教に出かけたい」
と申し出ます。お釈迦様は
「どこへ行くのか」
と尋ねます。フルナは
「西方の国に行って、教えを広めたいと思います。」
と答えました。西方の国へは、まだ誰も布教に行ってなかったのです、なぜなら、西方の国々は、他の教えを寄せ付けず、気性が激しく野蛮で乱暴な人々だと恐れられていたのです。なので、お釈迦様はフルナに尋ねます。
「彼の国者は粗暴と聞く。もし、その国の人々が、お前をののしったり、辱めたりしたらどうするのだ?。」
と。フルナは、即座に答えます。
「そのような目にあっても、私はこの国人々は善い人だと思うでしょう。なぜなら、私のことを殴ったりはしないからです。」
「では、その国の人々が、人々が、お前を殴ったりしたらどうする?。」
「そのような目にあっても、私はこの国人々は善い人だと思うでしょう。なぜなら、私を棒で打ち据えないからです。」
「では、棒で打ち据えたら?。」
「それでも善い人だと思うでしょう。ムチで打たれたわけではないですから。」
「では、ムチで打たれたら?。」
「それでも善い人でしょう。刀で傷つけられてはいないのですから。」
「では、刀で切られたりしたら?。」
「命を奪われてはいないのですから、やはり善い人々です。」
「では、命を奪ったら?。」
「この世には、自ら刃物で持って自分の命を絶つものもおります。もし、彼の国者が私の命を奪ったら、そのときは、私は幸せ者だ、自ら命を絶つ手間を省いてくれた、願わなくても私の命を奪ってくれた、ありがたいことだ、と思うでしょう。」
この答えを聞いて、お釈迦様はフルナの決心の深さを知り、また、フルナの言葉のうまさを知り、西方の国へ旅たつことを許したのです。
まあ、「あ〜言えば、こ〜言う」だね、と言われればそうかもしれませんが、何事にも負けず言葉で持って人々の気持ちを引きつけることができる弁舌のうまさをフルナは持っていたのですね。
その証拠に、フルナのおかげで、西方の国々にも仏教は伝わり、広く信仰されるようになりました。排除されることもなく、命を奪われることもなく・・・ね。合掌。


              

D富樓那              E須菩提
E須菩提(しゅぼだい)
須菩提も音写です。元の名を「スブーティー」といいます。これはわかりやすいですよね。音写ですので、字の意味はありません。ですので、須菩提の「菩提」は、「覚り」を表す言葉の菩提とは違います。「ブーティー」の部分を菩提の漢字にあてただけです。
スブーティーは、祇園精舎を寄進したコーサラ国の大金持ち、スダッタ長者の甥っ子でした。祇園精舎ができあがったその記念式典の際に、スブーティーも参加していたのです。そこで、お釈迦様の教えを聞き、自ら進んで出家を願い出ました。熱心な修行結果、悟りを得るのです。

スブーティーは、「解空第一」と称されています。つまり、空を覚ることでは、誰よりもすぐれていたのです。空を誰よりも覚っていたので、大変温厚な人柄だったようです。「一切は空」ということを理解していれば、怒ることも悲しむことも、執着することも、言い争うことも、何もないですからね。なので、決して人と争わない弟子第一とも言われておりましたし(無諍第一・・・むじょうだいいち)、また誰よりも厚く信頼されていた弟子第一とも言われていました。
空を最も理解していたスブーティーなので、争い事にも参加しませんでしたし他の弟子を熱心に指導するということは少なかったようですので、経典中にエピソードが多くありません。一人、飄々としていたのでしょう。その少ないエピソードの中から、お話をいたします。

スブーティーがマガダ国で国王に教えを説いたとき、国王のビンビサーラは、彼に滞在用の小屋を造る約束をします。で、早速工事に取り掛かったのですが、何の間違いか、屋根だけが造られませんでした。スブーティーは、何の文句も言わず、また智慧や神通力を使ってビンビサーラに屋根がないことを知らせることもしませんでした。スブーティーにとっては、屋根があろうがなかろうが、どうでもいいことなんですね。そんなものは、空であるから、です。
しかし、困ったのは人々でした。なぜなら、スブーティーの滞在する小屋に屋根がないから雨の神が「雨を降らすことができない」といって、雨を降らせなかったのです。もちろん、スブーティーはそんなことは露知らず、です。雨が降ろうが振らなかろうが、お構いなしですからね。でも、人々にしてみたら、作物ができないので困ります。そこで、人々は、国王にスブーティーの小屋の屋根を作るように訴えるのです。こうして、ようやくスブーティーの小屋は完成し、雨が降るようになったのです。国王は、
「なぜ屋根がないと訴えてくださらなかったのですか?。」
とスブーティーに尋ねました。スブーティーは、
「一切は空です。屋根があろうとなかろうと、私にはどちらでもい構わないのです。神は、私に気を利かせ雨を降らなくしてしまいましたが、雨が降って私が不自由しようとも、私自身も空なのですから、構わないのです。なので、何も言わなかったのですよ。」
と答えたそうです。徹底的に空だったのです。

もう一つエピソードを。
あるとき、お釈迦様が生みの母親マーヤー夫人のために天界に法を説きに行きました。それは、三ヶ月ほどに渡ったそうです。弟子のみんなが帰りを待ちわび、お釈迦様が戻られるとき、我先にと迎えしました。しかしスブーティーは動きませんでした。なぜなら・・・。
「お釈迦様も、今は肉体を持っておられる。ということは、お釈迦様もこの大地や水や火や風などの自然要素と同じものであろう。さらには、空なる存在であるはずだ。であるなら、肉体を見てもそれはお釈迦様自身ではないのだ。肉体は単なる仮の姿。本体は、真理そのものにあろう。ならば、お釈迦様の教えに従い、お釈迦様の肉体を追い求めることは愚かなことであろう。どこにいても、お釈迦様はいらっしゃるのだ。真理がある限り。」
と考えたのです。で、お釈迦様を出迎えることをしませんでした。
地上に降り立ったお釈迦様を真っ先に出迎えたのは、蓮華色比丘尼(れんげしきびくに)でした。彼女の心の中には、
(お釈迦様を一番に出迎えた、やったー、私は偉い!)
という思いがありました。その心を見抜いたお釈迦様は、彼女にこういいいます。
「蓮華色比丘尼よ、最も早く私を出迎えたのはお前ではない。スブーティーだよ。」
と。そして、私の肉体を追い求めてはならない、一切は空なのだ、と説くのです。尤も、スブーティー自身は、そんなことは知りません。そんなところで、自分が話題になっていること自体知らないし、関心はないのです。
なぜなら、一切は空である、と覚っているからです。

我関せず。行く雲の如く、流れる水の如く生きたようです。合掌。


羅喉羅と阿難

F羅喉羅(らごら)
「喉」の字は、一般的には「目」偏に「候」です。PCに文字がないので、「喉」の字をあてました。とはいえ、もともとの漢字も当て字ですので、文字自体には意味はないのですけどね。このお弟子さんの名前も、やはり、音写なのです。本名を「ラーフラ」といいます。十大弟子の一人で、「密行第一」と称されています。密行とは、目だ立たず、陰徳を積み、よく戒律を守ることをいいます。ラーフラは、いつも謙虚で人前に出ることなく、誰よりも戒律を熟知し、それを守ることに長けていました。

お釈迦様の伝記を読まれたことがある方ならば、ラーフラといえば、お釈迦様の子供・・・実子・・・であることをご存知でしょう。ラーフラは、お釈迦様が王子の時代、妃のヤショーダラーとの間にできた、たった一人の子供なのです。ですが、その名前の意味は、いい意味ではなく、「障害」という意味があります。つまり、お釈迦様の唯一の子供は、「障害」という名を持っていたのです。生まれながらにして「障害」と呼ばれた子供は、さぞ辛い思いをしたことでしょう。お釈迦様も罪なことを・・・・と思われる方もありましょうが、これには理由があります。
お釈迦様が出家するため、夜遅くに城を抜け出ようとしたとき、妃のヤショーダラーが子供ができたことを告げます。そのときお釈迦様は、子供を残して出家することに苦しみを感じてしまいました。やはり、お釈迦様も人間です。肉親の情愛は断ちがたい、と思われたのでしょう。なので、ヤショーダラーに妊娠を告げられたとき、「(出家の)妨げ・・・ラーフラ・・・ができてしまった」、と叫んでしまいました。お釈迦様としてみれば、「(出家の)妨げができた」といったのに、ヤショーダラーは勘違いしてしまい、子供の名前として「ラーフラ」という言葉を受け留めてしまったのです(が、ヤショーダラーの性格からすると、わざと間違えたとしか思えません。お釈迦様への嫌味、あてつけで我が子にラーフラ(妨げ)と名づけたのでしょう)。詳しくは、「お釈迦様物語バックナンバー5」を読んでみてください。

このように、生まれながらにして不幸な名を持ってしまったラーフラですが、お釈迦様の弟子として出家をしたのは、お釈迦様が故郷のカピラバストゥを布教のために訪れたときです。ラーフラが6歳のときでした。
故郷のカピラバストゥに戻ったお釈迦様の前に子供を連れたヤショーダラーが現れ、ラーフラに向かって言いました。
「ラーフラや、あそこに多くの出家者たちに囲まれ、輝いて見える方がいるでしょ。あの方が、あなたのお父さんよ。さぁ、あの方の元へ行ってこう言いなさい。『お父様、私はお父様の子供で王子のラーフラです。即位の儀式が済めば国王となります。どうかお父様の財産をすべて私に譲ってください』とね。わかったかい、ラーフラ。わかったなら、さぁ、お行き。」
母であるヤショーダラーにそう言われ、ラフーラはお釈迦様の元へと駆け寄ります。そして、ヤショーダラーに言われたとおり、「財産を譲ってほしい」と頼みました。お釈迦様は、
「よろしい、いいでしょう。私の財産をすべてお前に与えよう。だが、私の財産は覚りに至る教えのみである。」
というと、サーリープトラを呼び寄せ、
「これは、私の子供だ。サーリープトラ、あなたに預けるから、出家させ指導してやってくれ。」
と告げ、そのままラーフラを連れて行ってしまったのです。それを見たヤショーダラーは、怒りに頭が裂けんばかりであったそうです。

こうして出家したラーフラですが、本人は決してお釈迦様の子供であることを鼻にかけたり、自慢することはありませんでした。むしろ、父であるお釈迦様に迷惑がかからぬよう、いつも控えめにし、戒律を守ることに専念していました。
ラーフラは、6歳で出家したため、見習い僧の期間が長くありました。成人していない出家者は見習い僧でしかいられないのです。そのため、悟りも青年になってからのことでした。
ある日、お釈迦様はラーフラを呼び寄せ、向かい合って問答を始めました。お釈迦様が質問をし、ラーフラがそれに答えるというものです。そうしているうちに、ラーフラは
「わかった!」
のです。そう、悟りを得たのですね。このことは、弟子の間にも伝わり、他の弟子が羨ましがったりしましたが、お釈迦様は、希望があれば誰にでも平等に問答したので、ラーフラが非難されるようなことはありませんでした。また、ラーフラ自身も、あくまでも控えめで、目立たず、静かにいつもと変わりなく修行を進めていましたので、誰も揶揄するものはいませんでした。このことも、密行第一と呼ばれる理由でもありましょう。

生まれながらにして、不幸な名前を持ち、さらにはお釈迦様という偉大な人物の実子であるという重さを抱えたラーフラの心境はいかばかりだったでしょうか?。周りの目や、期待感、妬みなども多々あったことでしょう。そんな中で修行していたラーフラの心の苦しみは、大変大きなものだったことでしょう。
そのためか、ラーフラは、お釈迦様やサーリープトラよりも早くにこの世を去ったそうです。合掌。


             

F羅喉羅            G阿難
G阿難(あなん)
「阿難陀(あなんだ)」とも記されます。本名を「アーナンダ」といいます。阿難は、これを音写し、略した名前です。お経には、最も多く登場する弟子です。それは、アーナンダがお釈迦様の従者をしていたため、数多くの教えを聞いているからです。そのため、「多聞第一」と称されています。今日、我々がお経を唱えることができる、お釈迦様の教えを知ることができるのも、アーナンダのおかげなのです。彼は、お釈迦様のそばにず〜っといて、あらゆる教えを聞いていました。そして、そのすべてを覚えていたのです。驚くべき記憶力です。お釈迦様が涅槃に入られたあと、その教えを確認しあうため、弟子たちが集まりました。これを第一回結集といいますが、このときに、
「私はこのように聞きました。あるとき、世尊が・・・にいらしたとき・・・・」
といって、こんな教えを聞いた、あんな教えを聞いた、と話をしたのがアーナンダです。これが、後々お経に書かれるようになったので、
「我、是の如く聞けり・・・如是我聞(にょぜがもん)・・・」
でお経が始まっているのです。すべてのお経は、アーナンダの記憶によるもの、と思っていいくらいなのですよ。

そのアーナンダが出家をしたのは、アニルッダが出家したときです。このときには、アニルッダ、アーナンダのほかに、ダイバダッタ(後に仏教教団の反逆者となる)も出家をしています。ダイバダッタは、アーナンダの兄とも弟も言われていますが、お釈迦様に年齢が近かったところからすると、ダイバダッタが兄で、アーナンダが弟だったという説のほうが有力でしょう。それはともかく、アーナンダもダイバダッタも、お釈迦様のいとこにあたります。
お釈迦様は、普段のアーナンダを見て、彼の気の優しい、面倒見のよいところ、それが得てして禍のもととなることもある、ということをよく知っていたのでしょう。また、記憶力が抜群によいことも知っていました。なので、従者を必要としたとき、すぐに彼に声を掛けています。こうして、アーナンダは、いつもお釈迦様のそばに仕えるようになったのです。

アーナンダは、本当に気の優しい、頼まれたら絶対に嫌とはいえない、そんな性格をしていました。やさしいというよりは、気が弱い、といったほうがいいかもしれません。しかし、情熱も持っており、思い込んだらとにかくやり抜くという面も併せ持っていました。ですので、アーナンダにはそんなエピソードがたくさんあります。
たとえば、ある日のこと、アーナンダが托鉢をしていると、子供が二人泣いていたので、どうしたのか尋ねました。他の修行者は、声を掛けなかったのですが、アーナンダは放っておけなかったのです。話を聞くと、両親が亡くなってしまい、いくところがないという。で、アーナンダは仕方がなく、二人の子供を精舎に連れてきてしまいます。
そのころ、仏教教団では、子供の出家は親の許可がなければ認めない、という方針を採ってました。でないと、子供が親の知らないうちに勝手に出家してしまい、親が怒鳴り込む・・・という問題に発展してしまうからです。ところが、この二人の少年は、親がいません。さてどうしたものか・・・・。長老たちは、子供を置いてもやることがないし、修行にならないからどこかの大きな商家で働かせるのがいい、という意見でした。しかし、アーナンダは、お釈迦様に二人の出家を願い出たのです。商家で働かせても、いじめられるばかりでいいことがない、ここなら平和に安楽に過ごせるし、やがては修行ができるようになる。食事は、自分が托鉢したものを分け与えるから、どうか出家を許可して欲しい・・・と。その熱意にお釈迦様は、二人の少年の出家を認めるようになったのです。その後、親がない場合は、本人の希望があれば子供であっても出家を認めてよい、という戒律ができました。

また、尼僧が生まれたのもアーナンダのおかげです。当時、出家者は男性のみに限られていました。お釈迦様は、女性の出家を認めなかったのです。それには理由があります。
一つは、修行者は野山や公園、河原などを修行場所として寝起きしていたので、女性には危険だからです。野獣や男性に襲われることもあるでしょうから。
一つは、男性修行者の修行の妨げになるからです。女性がいれば、そこに恋愛感情が生まれないとは言えません。あるいは、欲望が抑えきれない修行者も出てしまうかもしれません。そういう危険があるなら、初めから女性を修行者の中に入れないほうがいいのです。
一つは、女性の肉体的な面です。つまり生理です。このときの精神状態や肉体的なことが、男性修行者の中で無難に処理できるかどうか疑わしい、ということです。
一つには、お釈迦様の教えが女性に理解できるかどうか、不安があったからです。女性は、心理的に感情に走りやすいことが多いので、お釈迦様の覚りの内容が理解できないのではないか、という不安があったのです。
他にも多々あるのですが、アーナンダはこれらの理由を承知の上、女性の出家を認めて欲しいと願い出ます。それは、お釈迦様の元へ出家を願い出てきた釈迦族王族の女性たちの姿を見てしまったからです。彼女たちは、歩いて旅などしたことがないにもかかわらず、遠方を歩いてやってきました。その姿は、ボロ雑巾のようだったそうです。そうまでして出家を願い出る彼女たちの心は清らかであろう、とアーナンダは感動してしまったのです。そして、彼女たちの願いをお釈迦様に届ける役を買って出ます。彼女たちからも、頼まれてもいましたし。
お釈迦様は当然、女性の出家に反対をしました。しかし、アーナンダは粘り強く、お釈迦様に頼み込みます。
「女性では悟りは得られないのですか?。」
「そんなことはない。女性であっても悟ることはできよう。」
「ならば、出家を認めてください。」
「しかし、それを認めれば、男性出家者の戒律が複雑になる。諸問題が生まれることもあろう。」
「それは私が何とかいたします。私はまだ悟りを得ていません。ひょっとしたら、私よりも悟りに近い方が女性の中にいるかもしれません。折角、そのような素質を持っているのに、出家できないことで悟りを得られないならば、それは不幸ではないのでしょうか?。」
「確かにそうだ。悟りを得るだけの器があるのに、その機会がなければそれは不幸であろう。わかった、女性の出家を認めよう。ただし、条件がある・・・。」
といって、お釈迦様に女性の出家を認めさせたのです。(条件については、またの機会に別のページで書きます。)
アーナンダの優しさと情熱が、お釈迦様をも折れさせたのです。

このようなアーナンダですが、お釈迦様がこの世にいらっしゃるうちは、ついに悟りを得ることはできませんでした。それは、お釈迦様のそばにいて、様々な教えを聞きすぎたことによると思われます。お釈迦様は、相手によって話す内容が変わります。働き者には休めといいますし、怠け者には休むなといいます。邪淫はダメだと説き、遊女には大いに働けともいいます。その区別が明確に理解できないと、教えの内容が矛盾だらけになってしまいます。アーナンダは、記憶力はよかったのですが、その区別・・・相手によって話す内容が異なる・・・の点が理解できなかったのでしょう。なので、お釈迦様が涅槃に入られたあと、一週間ほどかかって悟りを得ました。
また、大変長寿であり、一説には120歳まで生き、多くの教えを説き、多くの弟子を育てた、とも言われております。親しみのある、優しいアーナンダは、お釈迦様が涅槃に入られた後も、誰にでも優しく接したのでしょう。厳しさが足りない、という批判もあったと思われるでしょうが、それがアーナンダだったのです。優しさに徹底した方だったのです。
合掌。



迦旃延と優婆離

H迦旃延(かせんねん)
この名前も音写です。サンスクリット語での発音は「カッチャーナ」といいます。この名は、苗字で彼の名前は、「ナーラカ」といいました。出身は、西インドのアバンティ国の首都か、あるいは村のバラモン一族の次男だったようです。
彼は、お釈迦様の弟子になったあと、お釈迦様の教えをわかりやすく、しかも広く説いたので、「広説第一」と称されました。

ナーラカは、子供のころから天才的頭脳の持ち主で、一度読んだ本や一度聞いた話は、すぐに覚えられたそうです。しかし、その頭のよさが災いとなるのです。彼の兄が、ナーラカの頭のよさを妬んで、
「このままだと、ナーラカにバラモンの司祭の座を奪われてしまう。ヤツを殺すしかない・・・。」
と思いつめ、ナーラカの命を狙うようになるのです。それに気付いた父親は、ナーラカを当時最も有名であった聖者アシタ仙人の元へ弟子入りさせます(アシタ仙人→お釈迦様物語・バックナンバー1バックナンバー5に登場)。
アシタ仙人の元で、ナーラカは修行を積み、神通力を身につけるほどにまでなっていました。そして、アシタ仙人が亡くなる日に仏陀を探し、真理を学ぶようにと命じられます。しかし、ナーラカは、これ以上の教えを求める気もなければ、誰かの弟子になるつもりもありませんでした。自惚れの気持ちが強かったのです。そこで、マガダ国へ出て、仙人として多くの弟子を取るようになったのです。そんなある日・・・。

ナーラカは、竜王が仏陀を捜し求めているという話を耳にします。仏陀である証は、アーラバカという城の壁に書かれた詩の意味を説き明かしたもの、だと聞きます。ナーラカは、自分がその詩の意味を説き明かし、弟子を増やそうと考え、その城の詩を見ましたがさっぱり意味がわかりませんでした。
「いかん、このままだと、私の評判が下がってしまう。そうだ、今バラナシで、仏陀だと評判になっている若い出家者に意味を聞いてやろう。もしわかれば自分の手柄にすればよいし、わからなければ偽者の仏陀だといってやればいい。どうせわからないだろうけどな。」
と考え、仏陀だと評判になっていたお釈迦様にその詩の意味を尋ねにいくのです。目的は、お釈迦様の評判を落とし込むためでした。ところが、ナーラカの意に反し、お釈迦様はすらすらと意味を説き明かしてしまいました。ナーラカは驚き、すぐに竜王の元へ行き、詩の意味を教えます。竜王は喜び、ナーラカに
「あなたは、私が待ち望んでいた仏陀だ。弟子にして欲しい。」
と懇願されますが、正直に
「私は仏陀ではない。これを説き明かした方は、今バラナシにいる方で、お釈迦様なんです。」
と竜王に教え、竜王とともにバラナシに向かい、お釈迦様の弟子になったのです。
これが、カッチャーナの出家です。

カッチャーナは、頭がよかったため、少々鼻にかけるところがあったのですが、このお城の詩の意味を解けなかったことから、自惚れの気持ちはきれいになくなりました。ですので、出家後、ほどなく彼は悟りを得ています。

カッチャーナは、真理をよく噛み砕いて教えることが得意でした。ですので、彼が説き伏せたものの中には、妃を失った悲しみに国政を忘れて引き篭もってしまった王や、邪教を信じていた狂暴な王、偏屈なバラモンなどもいました。また、晩年には、偏狭の地・・・その地は、黒く汚れた土壌の国で、獣の皮を敷物に使うという、やや野蛮な地であった・・・へ住み着き、広く教えを伝えたそうです。合掌。

             
  H迦旃延            I優婆離 
I優婆離(うぱーり)
ウパーリの名前も音写ですが、サンスクリット語でも「ウパーリ」です。きれいに音写された数少ない例ですね。ウパーリは、お釈迦様の弟子の中で、「持律第一」と称され、よく戒律に精通し、また自分自身も堅く戒律を守っていました。

ウパーリは、当時のインドの習慣であったカースト制度の中では最も身分の低いスードラ階級(奴隷階級)の出身で、彼の仕事は、理髪師でした。当時のインドでは、他人の頭を触る仕事は、身分の低いものが行うとされていたのです。
お釈迦様が故郷のカピラバストゥを訪れたときのことです。釈迦族の6人の若者が出家をすることになりました。それらの若者は、みな身分の高いもので王族関係に当たる家柄のものでした。彼らは、ウパーリに剃髪を命じました。そのときウパーリは
「あの、私も出家したいのですが、私のような身分の低いものが出家を許されるでしょうか。」
と、その若者たちに尋ねました。若者たちは、鼻で笑って済ませてしまいました。しかし、お釈迦様は、ウパーリの純粋な心を知って、若者の一人にこういわせました。
「出家したいのなら、直接お釈迦様の元へ行ったら・・・。」
そういわれたウパーリは、若者たちと一緒にお釈迦様の元へと行きました。お釈迦様は、
「あなたたちの出家を許そう。まずは、ウパーリ、あなたから出家しなさい。」
といって、ウパーリを他の6人の若者よりも先に出家させたのです。
お釈迦様の教団では、出家した順が大きく意味を持ちます。早く出家したものが先輩として敬われるのです。席順も出家した順に並びます。それは、悟りを得ているいない、年齢の上下、出家前の身分の上下に関らず、後に出家したものは先に出家したものを礼拝しなければいけない、という教団内で決められた秩序だったのです。
ウパーリが、王族の6人の若者よりも先に出家したために、王族の若者は奴隷階級であったウパーリをいつも礼拝しなければいけなくなったのです。これは、お釈迦様が、傲慢で種族の誇りばかり鼻にかけている釈迦族の、おごり高ぶる心を捨てさせるために行ったことでした。
こうして、ウパーリは身分から解放され、お釈迦様の弟子となったのです。そして、地道な努力をして、やがて悟りを得ました。その後も、特に戒律に関しての解釈が得意でした。

教団内では、しばしば揉め事が起こりました。言い争いや、ちょっとしたトラブルなどがあったのです。そうしたとき、どちらがどのように悪いのかを判断するのに、戒律に照らし合わせて協議しました。そうしたとき、ウパーリは真っ先に呼ばれたのです。彼が、すべての戒律を覚えていたことと、その解釈の仕方が正当であったからです。
特に有名なウパーリ裁きは、ある尼僧に関してのことです。その女性は、ある長者の家に嫁いでいたのですが、もともと出家したいという願いを持っていました。そして、やがて主人を説得して出家したのです。ところが、その尼僧は妊娠していたのです。尼僧教団の戒律では、妊娠している女性は出家は許されません。出家を許した長老はダイバダッタでした(彼は、悟りを得てはいなかったのですが、そのころは真面目に修行し、若い修行者をよく指導していたため、一応長老の立場にあったのです)。普通は、女性が出家したいと願い出たときは、長老は神通力によって妊娠の有無を見抜くのですが、ダイバダッタはそれを怠ったのです。ダイバダッタは、困ってしまい、その尼僧を追放しようとしました。これには、他の尼僧たちが反発しました。もとは、ダイバダッタの不手際だからです。しかし、ダイバダッタは、尼僧たちを無視してしまいました。怒った尼僧は、お釈迦様に訴え出ました。お釈迦様は、ウパーリにこの問題に決着をつけるよう、命じました。
ウパーリは、問題の尼僧とダイバダッタを呼び、他の尼僧や多くの弟子たちの前で、裁定をしました。
「この尼僧の妊娠は出家前です。しかも、彼女は、自分が妊娠していることを知りませんでした。したがって、尼僧の規律を犯してはいません。一方、ダイバダッタ長老は、神通力を持って出家を申し出ている女性の妊娠の有無を確認することを怠りました。これには、罪があります。」
この裁定にお釈迦様も満足し、妊娠している尼僧に庵を設け、他の尼僧たちで面倒を見ることを命じました。ダイバダッタからは、尼僧の出家を認める仕事を取り上げました(このことも、ダイバダッタがお釈迦様を恨む理由の一つとなったようです)。
やがて、その尼僧は男の子を産み、その子は、ある王家へと引き取られ、やがて出家し、お釈迦様の弟子となったそうです。

ウパーリは、こうした揉め事を戒律に乗っ取って裁定を下すという役目を負っていたのです。彼の裁定は、誰もが納得するものだったそうです。合掌。


番外
賓頭盧尊者

番外編といいましても、像として残っている有名な直弟子では、残すところ賓頭盧尊者のみでしょう。この方、難しい漢字で書きますが、読み方を見れば聞いたことがあるのではないでしょうか。
「びんずるそんじゃ」
です。大きなお寺で、お堂の前に厳つい顔をして座っている像が置かれている場合があります。参拝の方は、たいていその像の頭をなでていきます。小さなお子さんなどに母親が、
「びんずるさん、なでなでしよう」
と声をかけている姿が見られることもありましょう。皆さんの中にもご存知の方があるのではないでしょうか。あるいは、
「そういえば、あそこのお寺のお堂の外に、お坊さんのような像が置いてある」
と気付いた方もいらっしゃるのではないでしょうか。そう、お堂の外に安置されているお坊さんの像が「賓頭盧尊者」なのですよ。

賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)は、元の名を「ピンドーラ」と言います。この名前を音写したものが賓頭盧(びんずる)です。ですが、本当の名前はわかっていないそうです。この「ピンドーラ」も通名、あだ名だったそうです。
そもそもピンドーラはバラモンの子で、幼いころから優秀だったのですが、自分が住んでいた国よりも大きな国へ行きたくなり、大国のマガダ国の首都ラージャガハに出てきました。ところが、何日も飲まず食わずでラージャガハまで歩いて来たため、空腹で倒れてしまいます。そのとき、街の中を托鉢僧が食事を得ている姿を見かけました。もともと大食漢であったピンドーラは、托鉢で食事を得ている僧に驚き、羨ましくなり、自分も托鉢して食事を得たい、と思ってしまいました。で、そのまま托鉢僧についていき、お釈迦様の元で出家したのです。つまり、ピンドーラは食事につられて出家したのです。
そうした経緯で出家したので、他の修行者は彼のことを「丸めた団子」を意味する「ピンダ」をもじって「ピンドーラ」と呼ぶようになったのだそうです。

大食漢のピンドーラは、他人よりも大きな鉢をもって托鉢しました。他の修行者よりもたくさん食事がもらえるように・・・という理由です。しかし、出家者は執着を持ってはならないものです。そこで、お釈迦様に注意され、皆よりも小さめの鉢で托鉢し、大食漢を治したそうです。そうして、お釈迦様の教えに従い修行をし、悟りを得たそうです。このとき、彼には、すぐれた神通力が備わったのです。ところが、このすぐれた神通力のおかげで、彼はお釈迦様から大きなお叱りを受けることになるのです。



賓頭盧尊者
ある日のこと、ピンドーラが目連と二人でラージャガハの街を托鉢していると、空中高くに高価な栴檀の木で作った托鉢用の鉢がぶら下がっているのを見つけました。その鉢は、ラージャガハの金持ちが作らせたもので、竹ざおを何本もつないで、空中高くにかざしたものでした。そうしておいて、その金持ちは、
「バラモンでも修行者でも誰でもいいから、手や道具を使わず、神通力のみであの鉢をとったものに、そのまま与えよう」
と街中に触れ回ったのです。その言葉を聞いて、ピンドーラは目連に言いました。
「あなたほどの神通力の持ち主なら簡単でしょう。やってみてはどうですか?。」
すると目連は
「いやいや、鉢はもう持っているし、私には必要ない。あなたこそすばらしい神通力をお持ちだ。鉢が欲しいのなら、あなたが取ればよいではないですか。」
と答えました。ピンドーラは、ならば・・・と神通力を使って、鉢を竹ざおからはずすと、空中で三周させてから、手元に引き寄せました。これを見た金持ちの男や街中の人々は、大騒ぎになりました。
「すばらしい神通力の持ち主だ!。彼はホンモノだ!。」
そう叫びながら、大勢の人々がピンドーラと目連の後をついてきました。そして彼らは精舎まで入り込んできてしまったのです。
本来、静かなるべき精舎が大騒ぎになってしまいました。これにはお釈迦様も怒ってしまいます。事情を聞くと、ピンドーラが街中で神通力を使ったことによるものだと判明しました。お釈迦様は、ピンドーラを呼び、
「ピンドーラよ、神通力は見世物ではない。心得違いをするな。今後、くだらないことのために神通力を使用してはならない。どうしても必要な場合のみ、正しいことにのみ使用してもよい。これを戒律とする。」
と、叱責しました。そして、ピンドーラに南方への布教を命じたのです。

これには、別の説もあります。ピンドーラが見せた神通力により、たまたまそこにいた妊婦がびっくりしてしまい、流産してしまったのです。命を大切にするべき出家者が、命を奪ってしまったのです。お釈迦様はたいそう怒り、ピンドーラに、
「つまらない神通力使ってはならない。病気を直したり、人々の命のためになる神通力のみ使用してよい。しかし、お前は精舎の中に入ってはならぬ。これより南方の国に行き、山中で暮らし、人々の願いを叶え、教えを説くがよい。さぁ、すぐに旅たつのだ。」
と叱責して、南方の国に追放してしまったそうです。

いずれにせよ、南方の国へ追放されてしまったピンドーラは、二度と精舎に戻ることは無く、南方の山中に暮らし、その国の人々に教えを説き、あるいはお釈迦様から許可されたことにのみ神通力を使って、人々の願いをかなえました。そして、神通力を己の欲望のために使ってしまい、他の修行者に多大なる迷惑をかけた、あるいは、無関係の人の命を奪ってしまったことをいつまでも深く反省し続け、涅槃に入ることなく、永遠にこの世に留まり、人々の願いを聞き届けることを誓ったのだそうです。

この逸話により、ピンドーラはお堂の外に祀られるようになったのです。そして、お堂の外にいるピンドーラに頼めば、願い事がかなう・・・・という信仰が生まれました。そこから、いつしか、お堂の外にいるピンドーラの頭をなでると、病気が治る・・・という信仰ができあがったのです。こうして、日本では
「賓頭盧さん、なでなでしようね」
という、信仰がなされるようになったのですよ。

京都や鎌倉などの大きなお寺に参拝に行きましたら、お堂の外に座っているお坊さんの像がないか探してみてください。見つけたなら、
「賓頭盧さん、私の願いをかなえてください。」
といって、お参りしてくるといいと思いますよ。合掌。



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