三拍子の魔法  +  +   
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 タンタンタン、タンタンタン、三拍子のリズムに足音が弾む。
 真上から響いてくる音は、空から降ってくる雨だれや星屑のようにきらきらしているときもあれば、ときおり雷のように轟音になって落ちてくるときもあった。それでも三拍子のリズムは崩れない。
 大きな足がペダルを踏むたびに、ガタガタと悲鳴が聞こえる。
 結構な年寄りらしいこのピアノは、長年に渡ってこき使われてきたせいか、あちこちにガタがきていた。
「俺とおんなじだな」
 時折、年老いたピアノの弾き手は吐き出すように呟いた。
 その声は、世界中で一人、妹の習い事についてきては、そのたびにピアノの下にもぐりこんでいた伊吹くらいにしか届いていなかったかもしれない。
 足元から、首をもたげた伊吹と目が合うと、弾き手はかっとのどを鳴らして、鍵盤を叩く音色を増やした。

 あの場所に必要だったのは、ピアノのメロディで、三拍子のリズムで、あくまでも主役は、部屋の真ん中で踊る足音だった。
 でも、伊吹が今でも一番に思い出すのは、年寄りピアノのことと、その左脚の、黒光りする肌に斜めに入っていた、大きな傷のことだった。



 普通の一般家庭では、居間とかリビングとか呼ばれる部屋が、グランドピアノによって占領されている。
 壁には一面を覆うほどの大きな鏡が貼りつけられている。
 この家に訪れる人はまず、どうやってこの狭い部屋にこんな大きな荷物を入れたのか、ということに首をひねる。突然登場したミステリーの入り口に目を輝かせる。でも、一度解体して組み上げ直したのだとタネを明かすと、一様にがっかりしたような表情を見せる。そのたびにどこか、伊吹は申し訳ない気持ちになる。
 伊吹はランドセルをおろすと、ピアノの下へともぐりこんだ。
 寝転がった状態から手を伸ばすと、指先が底に触れる。
 一際低くなった天井は、伊吹を静かに見下ろしている。
 そこは、ピアノがこの家にやってきた日からずっと、伊吹のゆりかご代わりになっている。
 コロコロと床の上を転がり、左の前脚へとたどりつく。
 なめらかな肌の上、斜めに、大きな傷が入っていた。そこに頬づりすると、ひんやりとして気持ちいい。
 伊吹がいつも左脚に絡みつくようにして寝るせいか、このピアノは少しだけ左のほうへ傾いているような気がしないでもない。おそらくピアノ本体ではなく支えている地盤、床のほうが重みで沈んできているのだ。けれど、ほんの少し首を右に傾ければ今までどおりだし、年寄りだからと言って買い換えるようなお金はこの家にはない。家が傾くくらいなら、自分一人が傾いているほうがいいだろう。
 そもそも、伊吹はこの年寄りピアノを気に入っていた。
 妹が通っていた小さなバレエ教室が閉鎖されるときに、両親にねだって無理やり譲ってもらったほどに。
 伊吹がピアノの下から這い出ると、鏡の中でやや左へと傾いている自分と目が合った。
 年寄りピアノが伊吹のものなら、この、壁一面の大きな鏡は、妹の、朝陽のものだった。
 開きっぱなしになっている窓から迷い込んできた風が、伊吹の頬をなでていく。
「干してある布団、学校から帰ったら夕方までにしまっておいてね」
 ついでに、今朝仕事に出かけていく母からの伝言を思い出させてくれた。

 マンションの三階に位置するこの部屋より、太陽のほうがやや高い。まだなんとか「夕方まで」の時間帯と言えるだろう。
 伊吹は、窓からベランダに出ると、記憶の中の母の姿をまねて手で布団をはたいた。
 細かな粒子が空気中に舞い上がるのを見ながら、トントントン、トントントン、とゆったりとした三拍子を刻む。
 マンションの前には、小さな児童公園がある。
 公園を囲う緑の生垣の切れ目から、小学生の集団が出てきた。
 その中から赤いランドセルを背負った女の子が一人、友達に別れを告げたあと、マンションのほうへと掛けてくるのが見えた。
 入り口の、階段をのぼる手前の踊り場スペースで立ち止まると、女の子はくるくると回った。
 トントントン、三拍子のリズムに乗せて。
 風に吹かれて飛んだたんぽぽの綿毛みたいにくるくると勢いよく舞い上がって、ふわりと降り立つ。
 背中の赤いランドセルの残像を残したまま、正面できっちりと止まる。
 そして、小さくお辞儀、見えない観客に向けて。
 ここまでが、るーちんわーく。
 習慣で、おまじないのようなものだと、彼女は言う。
 顔を上げ、たった一人の観客を見つけると、朝陽はとびきりの笑顔を向けた。
「ただいまー」
 おかえり、の代わりに伊吹は手を振った。

 玄関のドアが大きく開いたかと思うと、台所まで直線を引いて、今度は冷蔵庫の扉を開けた。
 ポケットから透明の容器を取り出し、直接口にする。
 ハチミツ入りの麦茶だ。
 麦茶にハチミツを入れるのは母で、朝陽はそれが大好きだった。
 伊吹は甘いものがあまり好きではないが、茶色の液体の中にハチミツが混ざっていく様子をながめるのは好きだった。けして混ざり合わないはずのものが、混ざり合う。その過程はとてもおもしろい光景だと思う。
 ベランダから取り込んだ布団をたたもうとしていると、その上に朝陽の身体が飛びこんできた。
 朝陽は身長が高いけれど軽いので、気にせずにたたもうとすると、悲鳴と笑い声が混じる。
「お日様のにおいがするー」
「そう?」
 くんくんと鼻を利かせてみたけれど、伊吹には特別何のにおいも感じとれない。
 朝陽は布団に鼻を押しつけたまま大きく呼吸してから、むくりと起き上がった。
「ね、もう出かけないといけないんだけど、いいかな?」
「どこへ?」
「びょーいん」
 二人で押入れへと布団を運ぶ。
 力添えしてくれた小さな手には、手袋がはめられている。
 ピンク色で花の刺繍が入っている、かわいい手袋。
 週に一回、朝陽と一緒に病院へ行く。
 そういえば今日は、その日だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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