三拍子の魔法  +  + 
3-BG-PINK.GIF - 1,183BYTES

 

 

 バスの停留所のはす向かいにある家の庭先に、背の高い、ピンク色の花が咲いていた。まだ上のほうはつぼみが多い。
 咲き始めなのかもしれない。何という名前の花だろう。
「あれ、朝陽の手袋の花じゃないかな」
「そうかなぁ? あ、いぶき、バス来たよ」
「うん」
 朝陽に手を引かれて、バスに乗り込む。
 このバスの終点の駅まで行って電車に乗り換え二駅ほど行ったところに、朝陽の通う病院がある。
 共働きの両親に代わり、朝陽の外出に一緒についていくのは、兄としての伊吹の役目だった。
 行き先は主に今向かっている病院や、朝陽が習っているバレエ教室などだ。朝陽は昔からたくさんの習い事をしていたが、今まで続いているものはたった一つしかなかった。
 それは伊吹も同じだったが、なんとなく続けている自分とではまるで意味が違う、たった一つだった。
 だから兄と妹、外見以外は正反対だという感想には、伊吹はうなずくほかにない。
 バスの中は、同じ制服を着た乗客が目立った。路線沿いの高校の授業がちょうど終わった頃なのかもしれない。朝陽は車内の前のほうに空いた席を見つけると、背筋をぴんと伸ばして座った。伊吹も隣に座る。
 朝陽は、ふんわりとすそが広がったワンピースの上に、長袖のカーディガンを羽織っていた。母に買ってもらったばかりの白い手提げ鞄は最近よく持ち歩いているのを見かける気がする。
 鎖骨あたりまで伸びている髪は、頭の上でまとめられることが多いけれど、今日はおろされている。
 朝陽には色々な癖があって、今のように耳の横の髪をいじるのは、何か迷っていることがあるというサインだった。
「なに?」
 伊吹が先に尋ねてみると、朝陽は弾かれたように髪から手をはなして、神妙な顔つきをした。
「今度、市民会館でね。老人ホームのおじいちゃんたち向けに、教室の中で、ええとゆうし? やりたい人だけでやるバレエの発表会があるんだけど」
「うん」
「それで、先生に、一演目だけ私たちの自由にしていいって言われてて」
「うん」
「そのときにいぶき、ピアノの伴奏してくれないかな?」
 のぞきこんでくる朝陽の大きな目の中に、驚きを通り越してほうけている顔を見つけた。
 それが何だか可笑しかったので、伊吹は苦笑いする。
「おれ、下手くそだよ?」
「いいの。だめ?」
 伊吹は昔から、妹の頼みごとに弱かった。
 朝陽の「だめ?」のあとには、伊吹の「いいよ」が続く。
 それは、ハンバーガーにポテトがセットでついてくるように、ずっと当たり前のことだった。
 でも今に限って思い出したのは、年寄りピアノの左脚に入った大きな傷。
 永遠に続いていくように思われた三拍子のリズムと、次々と天候が変わっていくメロディだった。
 さっきまで快晴だったバスの外の空には、いつのまにか灰色の雲が広がっている。
「考えとく」
 そう伊吹が答えると、今度は朝陽がほうけたような顔をして、瞬きを何度かくり返してからうなずいた。
 今にも雨が落ちてきそうだ、と思い浮かべたのとほぼ同時、窓を水滴が叩いた。車内に小さなざわめきが走る。今朝のニュースによると、南のほうでは梅雨入り宣言がなされたそうだから、この地域もそろそろなのかもしれない。
 バスが終点に着くと、朝陽はさっさと運賃を払い、軽やかな足取りでステップを降りていった。
 折りたたみの傘が開く。
 一人用の小さな傘は、半分のスペースが空いたまま、伊吹を待っていた。
 本当は、朝陽に兄の付き添いなんて必要ない。
 今年になって身長も同じくらいになったから、ますますいらなくなってしまった。
 どちらかというと、傘をさしかけてくれる妹を必要としているのは伊吹のほうだ。
 傘を持つ朝陽の手は、手袋をしたままだった。
 伊吹が傘の持ち手を引き受けると、朝陽は嬉しそうに笑った。たくさんある朝陽の癖の中で、ショックを受けているときに黙りこむというのは、普段おしゃべりな分、わかりやすいサインだった。


 病院に着く頃には、雨は本降りになっていた。
 一週間に一回、多いときには二回、伊吹はこの病院に妹の朝陽と一緒にやってくる。
 駅の方面から来ると、病院に入るには裏口を使うほうが近い。
 迷わず伊吹はその進路をとったが、朝陽は少し嫌な顔をした。こちら側から入ると、旧病棟のほうを通らなければいけないからだろう。
 勝手口のようなドアを開けて病棟に入ると、あたりはひっそり、というか、どんよりとしていた。
 急に降り出した雨にまだ対応できていないのか、蛍光灯のスイッチが入っていない。
 薄暗い廊下には、患者も医者も看護師の姿も見えない。
 途中通り過ぎた緊急処置室の部屋からは明かりが漏れていて話し声も聞こえたので、異次元に迷いこんだわけではないようだ。それに、ときおり遠くからおたけびのような声が響いてくる。一声あがると輪唱のように続くので、まるで狼の遠吠えのように聞こえなくもない。
 ひとつひとつ確かめておきたくなるほど、不気味な雰囲気を持っているのがこの旧病棟の特徴だった。
 どこへ行くにも先頭を切るはずの朝陽も、今は伊吹の背中の後ろで小さくなっている。朝陽はこの旧病棟のことを『幽霊病棟』と呼んで嫌っていた。その気持ちは伊吹にもわからないでもない。
 新病棟へ続く渡り廊下までの、ほんの数十メートルの距離だった。
 めったにない主導権を握らされた伊吹は、ぎこちないながらも歩き続けていたが、ふとその足を止めた。
 すましていた耳に、三拍子のリズムが届いた。
「どうかした?」
「ピアノが……」
 雨が地面を叩くような自然の音ではない、人が生み出す独特の音がする。
 階段の踊り場が見える。階下から響いてくるようだった。
 思わずそちらに行きかけた伊吹の足を、朝陽の手が引き止める。
 ピンク色の花の刺繍の入った手袋を見て、思い出した。
 朝陽の付き添いで来たのだ。
 新病棟へと続く渡り廊下はすぐそこ、まぶしいくらいの光が扉の窓からあふれていた。


 待合室には、平日にも関わらずたくさんの人がいた。
 妹が通っている皮膚科のある病棟は去年建てられたばかりで、ほかに、小児科、産婦人科、美容外科があるのだが、どれもすこぶる評判がいいらしい。予約をしていても、診察の名前を呼ばれるまでには結構な時間がかかる。
 朝陽はいつものようにすべての手続きを自分で行い、空いている席を見つけて座った。伊吹も隣に座る。
 朝陽は小さい頃からアレルギー体質で、今も重度のアトピー性皮膚炎を患っていた。
 医者からのたくさんのアドバイスの中には、軽い運動のすすめもあって、朝陽はクラシックバレエを始めた。幼稚園の頃から小学四年生の現在まで、ずっと続けている。
 ただ、それは医者の言う軽い運動の度を越えてしまったらしく、やればやるほど悪化するという嫌な循環に、最近の朝陽はずっと悩まされている。
 かゆい、と朝陽が顔をしかめるたびに、伊吹は自分が代わってあげられたいいのに、と真剣に思うのだが、それを口にすると、朝陽はひどく怒る。
 朝陽は、手袋を外した。
 手の白い肌はカサカサに乾燥し、ところどころ皮が剥けて桃色の肉がむき出しになっている。指先にはいくつものカサブタができていて、特に右手の薬指のやつはまだできたばかりらしく、赤い血がにじんでいた。
 朝陽の習い事の中で、二番目に長く続いたのはピアノだった。
 けれど、この手で鍵盤を弾き続けることはむつかしかった。幸い、症状が出るのは上半身、特に手に集中しているのでなんとかバレエは続けられているが、でもだからこそ、朝陽は伊吹を怒るのだ。
 自分とバレエのように、伊吹とピアノのことも結びつけて考えている。
 確かに、伊吹も、朝陽のバレエに続くようにピアノを習い始めからキャリアだけは長いのだが、それは朝陽のとは違うのだ。
 そういうことを、朝陽にはうまく伝えることができずにいる。
 朝陽はアトピーになってもバレエをやめられないが、伊吹がアトピーになったらたぶんピアノをやめられる。
 そんな仮定の話をしても無駄で、きっと朝陽はもっと怒るだろうから口にはしない。
 しないけれどでも、ずっと心では思っている。

 三十分ほどして、やっと名前を呼ばれた。
 行ってくるね、と、朝陽が手を振る。
 どうやら機嫌は直ったらしい。伊吹も手を振り返した。
 それとともに雨の勢いも少しやわらいだようだった。
 しばらくすると、伊吹は立ち上がり、人の流れとは逆方向へと歩き出した。
 朝陽を待っている時間をつぶすために、売店に行ったり本を読んだり宿題をやったりと、普段から伊吹は色々なことをして過ごしているが、今日はもうどうするのかを決めていた。
 耳からはなれない、三拍子のリズムを追いかけるとしよう。




 

 

 

 

 

 3 へすすむ++ 1 へもどる++おはなしTOPへかえる+