幽霊病棟もとい、旧病棟の蛍光灯はまだついていなかった。 どうして一つ建物が変わるだけでこんなに人が少なくなるのだろうか。 相変わらず、誰ともすれ違わなかった。 廊下の壁には、変色した染みがいくつもできていて、あちこちに穴があいている。 穴は一応ガムテープでふさがれているのだが、その上から落書きがされていて、さらにその横には、赤色で「蹴ってはいけません」と注意書きがなされている。一つは天井近くの高い位置に貼ってあって、どうやったらあんな場所に足が届くのか不思議だったが、もしかしたら本当に幽霊のしわざなのかもしれない。 先ほど立ち止まった場所から見えた、階段の踊り場からさらに下へとくだっていく。 一段一段くだるたびに、天井がどんどん近づいてきているような気がする。一階から降りたのだから、地下一階へと向かっているはずだった。 音は聞こえない。 雨音や雑音が遠ざかり、耳は痛いほどの静寂に包まれていた。 最後の一段をくだり終わると、一直線に廊下が伸びていた。 蛍光灯は一応灯っていたが、整備不良のせいか、ぱかぱかと点滅している。 奥に向かって、伊吹は歩みを進めた。 低い天井はむしろ伊吹を落ち着かせる。年寄りピアノの下にいるような気分を思い出すからかもしれない。 両脇にはいくつかの部屋が並んでいたが、どれもかたく扉が閉じられている。 奥から二番目の部屋の扉だけが開いていた。 霊安室、という文字を読んで、伊吹は少し息を呑んだ。 どういう部屋なのかは、知っているつもりだった。 おそるおそる、中をのぞいてみる。誰もいないようだと思い、すぐに訂正した。一人だけいるのは確かだった。 思いきって、部屋に足を踏み入れてみると、ろうそくの明かりが、大きく伊吹の影を揺らした。 狭い部屋の中に、ぽつんとベッドが置かれている。その上で、静かに寝ている人がいた。 身体にはシーツ、顔には白い布が掛けられている。 たぶん、知らない人だった。 顔を見ないことには確定できなかったが、早鐘のように打ちつける心臓をおさえるために、そう思った。 伊吹はやや途方に暮れた。どうすればいいのかわからなかった。 このまま部屋を出て行くこともできたが、後味が悪いような気がする。とりあえず、寝ている人に向けて手を合わせてみた。 長い間そうしていたら、少しずつ心臓の音が静かになっていくのがわかった。 家族の人は、いないのだろうか。 伊吹は思わず、この見知らぬ誰かに何年後か何十年後の自分の姿を重ねた。 両親はきっともういないだろう。朝陽くらいはそばにいてくれるだろうか。 「だれだ」 鋭い声に後方から射抜かれた。 伊吹が驚いて振り返ると、入り口のところに大柄な老人が立っていた。 「島津さんの知り合いか?」 しまづさん、その名前に覚えはなかったので、伊吹は首を左右に振った。 「いいえ、初対面、です。……たぶん」 「そうか。なら、若いのにいい心がけだ。ついでに線香でもあげてやってくれ」 と、部屋の隅に設置されていた台をしめされたので、伊吹は言われるがままにそうする。そして、もう一度振り返ったときには、すでにそこに老人の姿はなかった。 慌てて部屋を出ると、隣の部屋、一番奥の部屋の扉が空いていた。 隣と同じくらいの広さの部屋だった。隅に、かつて机や椅子だったようなものが山のように積み上げられている。 そして、そこにはピアノがあった。アップライトのピアノだ。 コッコッコッ、と、不思議な音を立てながら、老人はピアノの前の椅子へと近づき、腰かけた。そして、杖を立てかける。 老人は、病院内でよく見かける青い寝巻きを着ていた。 老人の大きな身体と比べると、ピアノがずいぶんと小さく見えた。 「俺の病室の隣にいた、島津さんだからな。ここで会ったのも何かの縁、覚えといてやってくれ」 はい、と伊吹は素直にうなずいた。 それを見て老人は少し笑ったようだったが、続けてしっしと虫を追い払うようなしぐさで手を動かした。 反射で回れ右をしかけた伊吹は、一番大事な目的を思い出した。 「あの、どっちかというと、たぶん、あなたの」 あなたのピアノなら、たぶん知っているんですけど。 「俺のピアノだあ?」 老人は声を荒げた。 顔の右半分にだけ濃いしわが寄る。けれど、左側はお面のように固まったままだった。 そういえば、老人は左手に杖をついていた。不思議な音の正体はこれだった。 記憶の中にある姿とはあまりにも違う。 愕然とした伊吹を、老人は一瞥して、ぽーんと鍵盤を弾いた。左手で。 そのまま三音だけ、鳴らし続ける。 三拍子だ。 吸い寄せられるように、伊吹は音へと近づいていった。 どうやら、左手の指までは動かないようだった。鍵盤をゲンコツでなぐりつけるようにして無理やり音を出している。でもちゃんとした三拍子だ。 そこに右手がメロディを付け加える、こちらの動きはなめらかだった。 小さい頃、いつも伊吹がピアノの下で耳をすましていた音だった。 力強い三拍子のリズムが、踊り手に合わせて形を変えていく。 一人一人が踊れるようになるまで、永遠と鳴り続ける。一人で完結しない音楽は、まるで魔法のようだと思う。 その混ざり合う様子がおもしろくて、伊吹はピアノを習い始めたのだ。 三拍子はだんだんと力をなくし、やがて消えた。 「ああだめだ。やっぱりガタがきた」 あの頃よりさらに年老いたピアノの弾き手はそう言って、左手を振った。 ぶらんぶらんと、ネジが外れてしまったように手首から先が揺れる。 「長年、使いすぎたからな」 老人は小さく自重して、いつのまにか近くの床に座っていた伊吹に向かって、小さく舌を出した。 「よし、次お前弾け」 予想外の申し出に、伊吹は座ったまま固まった。 「ええと、でも」 「下手くそでも耳くそでもなんでもいいから、弾け。弔いだ」 とむらい。うまく言葉が変換できないまま、伊吹が椅子に腰かけると、今度は老人が床に座った。 何を弾こうか。 こいうときに限って今まで詰めこんできた楽譜が何も浮かんでこない。 でも、イメージはできた。 外で振り続ける雨、たくさんの人があふれている新病棟、どんよりとした幽霊病棟。 一人ぼっちで寝ていた島津さん、動かない左手で無理やりピアノを弾く老人。 くるくると回る朝陽。 順番に、イメージする。 鍵盤に指を下ろした。何の問題もなく指は動く。 できれば、明るい三拍子のリズムがいい。 お日様のにおいがするようなメロディを思い描くことにする。 どんよりとした雲を突き抜けるような、強い光の音楽。 弾き終わると、老人は下を向いたまま、先ほどと同じように、しっしと虫を追い払うしぐさをした。 結構な時間をつぶしてしまったように思う。戻らなくてはいけなかった。 最後に言っておかないといけないような気がして、伊吹は付け加えた。 「あの、左脚に傷のあるピアノ、まだ使ってます」 老人は思い当たる節があるのかないのか、推測の難しい渋面を作った。 目の端が赤くなっているように見えた。 それから、ぼそりと呟いた。 誰に聞こえてもいなくてもいいような声だった。 「死ぬまでこき使ってやれ」 * * * 早足で渡り廊下を駆け抜ける。 新病棟のほうにたどりつくと、音の洪水が耳に飛び込んできた。 天井では蛍光灯がらんらんと輝いている。白壁にはしみも傷もなく、清潔そのもので、照明の光を受けてきらきらと反射していた。 広い待合室は、相変わらず人であふれていた。 伊吹はきょろきょろとあたりを見回して、皮膚科に近い側のソファーのすみに、背筋をぴんと伸ばして座っている女の子を見つけた。 「ごめんな。遅くなって」 朝陽は、いいよお、と言って笑った。 今は、会計待ちをしているところらしい。医者に渡されたらしい診断書に、一応目を通してみる。数値の変化などは見てもさっぱりわからないが、見慣れないカタカナ語が増えていることに気づいた。 朝陽に聞いてみると、新しい塗り薬を試したのだと言う。 朝陽の手にはまた手袋がかぶさっていた。 伊吹は手袋ごと、その手を握ってみた。女の子らしい、小さな手だった。 「おにいちゃん?」 珍しく、朝陽が伊吹のことを名前で呼ばなかった。 なんだか恥ずかしい気がするのは、呼ばれなれていないせいだろうか。 周囲の雑音にまぎれないように、大きめの声で言う。 「ピアノ、おれでいいなら、弾くよ」 「ほんとに?」 朝陽がもっと大きな声で言い返した。 周りの視線が一気に集まったので、二人とも今度は声をひそめてこっそりとつぶやく。お互いに相手の声に耳をすましながら。 「いいの?」 「うん。下手くそだけど精一杯弾くよ。弾きたいんだ」 朝陽が嬉しそうに微笑むので、鏡のように、伊吹の顔も微笑んだ。 どんな曲がいいだろう。 と、気の早い朝陽が目を輝かせたから、伊吹はもちろん、と答えた。 メロディはお日様のにおい、リズムは三拍子で。 |