「陽、おはよー」 鈴を鳴らすみたいな声で。
世界中で一番幸せそうに微笑んで。
うちの制服の大きな紺色のリボン、いきなり目の前にあってびっくりする。
まだ全然準備できていない自分にびっくりする。
「……はよ」
朝の騒がしい教室の中じゃ、一メートル先にも届かない、情けない声振り絞るのに精一杯だった。
それでもちゃんと両耳はこちらに向けられていて、何の支障もなく二文字を拾い上げる。
「なんか寝ぼけてる?ていうかまだ寝てる?」
「……かもしんない」
「ダメじゃん。もうすぐ一時間目始まっちゃうよ。陽の大好きな英語だよ?」
大嫌いなんだよ、大きなお世話だよ。と突っ込みを返す。
くすくすと葉月が笑う。オレは不機嫌そうに顔をしかめる。
ごめん、がんばれ。と言い残して、葉月は自分の席へと向かう。
何もなかったように、途中の席に座っているクラスメイトと挨拶を交わしながら。
オレは再び机の上に広げてあった英語のテキストに視線を戻す。
なんでもないいつもの朝。
前の席を陣取って同じ作業に没頭していた、同じ野球部の殿村がくるりと振り返った。
手に辞書を抱えたまま。
「いいねえ、相良。なんつーか足が」
「……朝からいやらしいほうの目使って見るなよ」
「いいじゃないか陽くん。なんつーか愛されてて」
愛されてねーよ、と口にしようと思ってやめて、そんなんじゃねーよと言い換える。
殿村はぽんっと辞書を勢いよく閉じて、本格的に体ごと後ろに向ける。
「そんなんじゃねーの?付き合ってるんじゃねーの?ほんとに?」
殿村の疑問の日本語訳は確かに英和の辞書をひいても意味がない。
それでもオレは答えにつまる。オレの頭の引き出しにしか入ってないはずの答え。
普段から整理整頓が苦手な大雑把な性格のおかげで、深く深く埋もれてしまったせいなのか。
言葉が見つからない。
「よく、分からないんだよ」
もし、あのとき雨が降らなかったら。
オレたちは今、どうなっていたのか。
オレたちはあの雨の日から何度も、なんでもないいつもの朝を迎えたけれど。
少なくともオレは、あのときから罠にかかっていて、そこから一歩だって動けていないような気がした。
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