+もしかしたら+

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 2

 あそこに見える足は相良じゃないか。
 と、殿村が指差した先、ライト側の土手を見たら本当にそこに葉月がいた。

「あんな豆粒みたいなの、よく気付くな」
「いやいやキャッチャーは目が命だからな。しかも俺の右目は女の子専用の特別仕様だからな」
 自慢げににやりと笑った殿村に特別頷き返しもしないで、右利き用のグラブを取ってベンチから一直線で走り出す。
 殿村みたいに特別仕様の、いやらしいほうの目で見なくたって、オレにはあれが相良葉月だって分かる。
 こんななんでもない練習試合、見ているやつのが少なくて。間違えようがなかった。
 だから、葉月のそばにいる男の存在も見逃せるはずがなかった。

「陽」
 ライトの守備位置に着くといつものように鈴を鳴らす声で名前を呼ばれて、オレは野球帽を軽く上げて応える。
 そのまま視線を横にずらして、葉月の隣に座っていた男を見た。
 タバコや酒や仕事の愚痴が似合いそうな。
 大人の男。
 目が合ったら一瞬、男は目じりを下げて口の端を少し上げたような気がして、体中の血がかっと沸騰した。
(笑われた?)
 我ながら子供っぽい反応に唇を噛んで、背を向けた。
 プレーに集中しないと、じゃなくて。もう一度振り返る勇気もないだけ。
 オレは自分が子供でバカで情けなくて、いち野球選手としてイチローに憧れて、でもこのままじゃファンとしての憧れだけで終わるのが分かっていて何もしない、どうしようもないやつだと知っていた。
 でもそんなオレでも、葉月の隣に立つのはあんな大人の男がいいなと思った。
 自分を希望に重ねて見るのはそもそも無理があったから。

 七回裏の攻撃、打線が上手く繋がってうちのチームは見事同点に追いついた。
 そのおかげで、オレの打席が最終回までにもう一度回ってくる計算になった。
 こんな展開で燃えないなんて男じゃない。
 もう一度、首を振って気持ちを野球へと向ける。
 なのに、相手のピッチャーはカーブを投げるときに間合いを長く取る癖がある、なんて話のついでに、相良いなくなっちゃったなぁと殿村がわざわざ教えてくれた。
 慌ててライト側の土手を振り返ると本当にもういなくて。
 当然のように男も消えていた。

 野球の攻撃と攻撃の間には守備がある。
 ライトはイチローに憧れて勝ち取ったポジションで、でも足だけは取り得のオレにはぴったりで。
 カキーンと高く上がったフライ。
 イチローみたいに、打球の落下点に素早くたどり着いて、グラブに納めるなんて楽勝なはずだった。
「ライトー!」
 と、殿村の緊迫した声で我に返った。
 今、白い球を追いかけるのはどっちの目だ。いやらしいほうの目じゃないか。
 一度見失った白球は気が付くともうグラブの中にあって。
 オレは見事に取りこぼした。

 

 

  * * *  

 結局、一時間目の予習が間に合わなかったオレは、英語教師に野球ばっかりやってても女にもてないぞ、なんて最上級の嫌味をもらった。
 クラスの男子はきっつーいと声をそろえた。
 葉月がくすくすと声を抑えて笑ってるの、肩が小刻みに揺れるのを見て分かった。

「なあ、本当に分かんねーのか?」
 やっと授業が終わったと思ったら不意打ちで、どっさりと出された宿題のページを見てげっそりとしていたオレに、殿村が心配そうに声をかけてくる。
「まったく分かんねーよ。どうせオレは英語が苦手なんだよ」
「じゃなくて、さ」
 ぱたん、と机の上のテキストを閉じさせて、こんなの見ても意味なんかないって。
 殿村が少し真剣な目を、キャッチャーのほうの目をしていたので。
 オレはなんとなく両耳を殿村の声に集中させた。
「陽と相良が付き合ってるのかどうか……ってそんな質問の仕方した俺が悪かったよ。辞書は適切な用語でひかなきゃ答えを教えてくれないって、それと同じでさ」
 うん、とオレは頷く。
 なんとなく分かる気がした。
 オレの頭に入ってるはずの答え、どの引き出しを引っ張っても見つからないのもそのせいかもしれないと思った。
「だからさ。つまり何よりも大事なのは、お前が相良をどう思ってるのかなんじゃねーの?」

 オレが葉月をどう思ってるのか。

 うん、とオレはもう一度頷いた。そして立ち上がった。
 殿村の意表をついたオレはそのまま教室を一直線に歩き出す。
 葉月の席にたどりついて、友達と楽しそうにおしゃべりしていたのに割り込む。
 陽?と見上げた顔が、殿村と同じでびっくりしていて。
「葉月、オレに時間作って。今から」
「……え、でも二時間目始まっちゃうよ?」
「オレ数学も嫌い。葉月は?」
 葉月はさらにびっくりして、それから眉じりを寄せて少し考えてから。
「私も嫌い」
 と、いつものように笑った。 

 

 

 

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