私の主張  平成十六年六月二十九日更新 (これまでの分は最下段)    「契冲」のホ-ムペ-ジに戻る

「契冲」の獨白

――字音假名遣を考へる――

申申閣代表  市川 浩(「月曜評論」平成十六年四月號掲載)

 

正字・正かなソフト「契冲」は發賣開始後十年の昨年秋、字音假名遣對應の新版が完成、文字どほり正字・正かな表記に完全對應の體勢が整つた。

言ふまでもなく歴史的假名遣は謂はゆる國語假名遣と字音假名遣の二本立てであるが、後者は一般には漢字の裏に隱れるため、「契冲」でもそれへの對應は後囘しにして來た。しかし、顧客からの期待も大きく、又何よりも字音假名遣の實踐には對應するワープロソフトがなければ不可能だといふ議論に危機感を覺えて、開發に着手した。約一年がかりの作業を通じて、字音假名遣に就いて感じたことを記したい。

一口に字音假名遣と言つてもその内容はかなり廣汎に亙る。釋迦に説法の譏を恐れず言へば、普通、「蝶々」を「てふてふ」と書くのが字音假名遣と言はれ、事實その通りであるが、「地面・ぢめん」や「頭・づ」、「胃・ゐ」、「繪・ゑ」も字音假名遣であるのは、あまり意識されてゐない。

實は、この開發を始めるに當つても、取敢へずは「單漢字」にのみ字音假名遣に對應させればよいと考へてゐたが、熟語に對應してゐなければ實用にならないし、それに字音假名遣が國語の奧深くまで根を下してゐるのに改めて氣づき、登録語全ての字音假名遣を洗ひ直すことにした。

また最近の研究から、從來の「水・すゐ」などが「すい」に、「化・くゑ」、「元・ぐゑん」、「歸・くゐ」、「狂・くゐやう」の類の新設、また「安・あん」、「暗・あむ」など「〜ん」、「〜む」の區別などが提案されてゐる。これをどうするかが次の問題であつた。

ただ、これがワープロ辭書の有難い所で、例へば、「玄妙」、「歸朝」は從來の「げんみょう」、「きちょう」の他に、「げんめう」、「ぐゑんめう」或いは「きてう」、「くゐてう」どれからでも變換を可能にすれば、利用者は好みに應じて遣へばよく、他は邪魔にならない。

作業を進めると、小書き假名の問題も出て來た。一般に歴史的假名遣では小書き假名を使はないが、ワープロでは、「きゃ」、「しゃ」、「ちゃ」などは小書きで打慣れてゐるので、「きやう」、「しやう」、「ちやう」なども小書き入力とした。たださうなると「くわ」、「くゐ」、「くゑ」が問題で、「わ」には半角文字「ゎ」があるが、「ゐ、」「ゑ」の半角文字はJISにはない。已むを得ず、これらは全角入力として、打鍵の便には「松茸」のローマ字と讀みのカスタマイズ機能を利用して頂くこととした。

字音假名遣は一見複雜怪奇で、何の役にも立たない代物のやうであるが、案外規則的で特に、漢字の殆どを占める形聲文字の字形との關聯が興味深く、漢字の學習にも役立つと思へた。同じ形聲文字でも、例へば「工」は「こう」であるが、同じ「工」を含む漢字でも「紅」は「こう」だが、「江」は「かう」となり、少しも規則的でないと思つてゐたら、「工夫」、「深紅」、「功徳」、「年貢」など「く」の音のあるものが「こう」でその他が「かう」だと教へられ、これは小學生など大喜びで勉強するだらうとまさに我が意を得た樂しい思ひ出もある。

ワープロの弱點に同音異義語への對應がある。字音假名遣は一つの對策になる。「きちょう」には「歸朝」、「基調」、「貴重」が「くゐてう」、「きてう」、「くゐちょう」と分れ、「機長」、「記帳」、「几帳」は同じ「きちゃう」であるが、どれか一つを「きちょう」に學習させておけば、殆ど直ちに求める熟語に變換される。何時もこれほど巧く行くとは限らないが、このやうな入力作業を通じて字音假名遣に親しんで頂けたら幸ひである。

このやうに字音假名遣は漢字の裏で國語の表記、更には音韻をも支へる重要な働きをしてゐるのであるが、どうも評判が頗る惡い。新かななど戰後の國語改革を批判し、歴史的假名遣を主張する人の中にも、字音假名遣は「發音通り」でよいとするのが大勢ですらある。これを如何に考へるか、もし「發音通り」でよいなら字音假名遣對應版などは必要ないし、出す以上はそれだけの意味がなくてはならない、これが今囘の開發で最大の問題であつた。ここでは字音假名遣不要論乃至愼重論になまじ反論するのではなく、私自身が納得に至つた結論とその考へ方を述べてみたい。

歴史的假名遣を實踐する場合、その中で謂はゆる字音語だけは「發音通り」に假名書きするとなると、その規則基準となるのが明治の棒引き假名遣なのか、昭和の現代假名遣なのか、或いはその他の發音表記なのか、何れにしても國語の表記に原理の異る、と言ふより氷炭相容れない、二つの表記法が共存する「混合表記」となる。しかしこれは一國二制度と同じく、やがてはどちらかに統一される、過渡的なものに過ぎなくなる。

混合表記は歴史的假名遣を死滅させる兇器とさへなり得る。現代假名遣が「告示」の枠を越えて文語文を蠶食、破壞してゐる現状からも明らかなやうに、「ちょうつがひ・蝶番」や「ゆひのう・結納」といつた混合表記は、「てふつがひ」や「ゆひなふ」に收斂する筈もなく、必ず「ちょうつがい」や「ゆいのう」への方向を辿る。そこから「一番・ひとつがい」、「髮結・かみゆい」と亂れ、歴史的假名遣はなし崩しに滅亡してしまふであらう。しかも昨今のやうに日本らしさの復活を望む風潮の中で、混合表記を「和語は日本古來、字音語は外來」だからと、俗耳に入り易い言葉で殊更國粹的に日本文化の傳統に副ふものと唱道されると、その毒性が見え難いのである。國語の正統を守る上で、十分警戒すべきではなからうか。

しかし、なるほど字音假名遣の意義や重要性には同意するが、では小學生にどうやつて教育するのかと、字音假名遣愼重論の最大の論據が壁となつて立ちはだかる。ところで私には、そして戰前の小〜國民學校を過した世代の方々も同樣と思ふが、「とうきやう」や「しながは」など驛名の假名遣に戸惑ひや疑問を感じた記憶が全くない。敗戰後、こんな假名遣や漢字を覺える苦勞をするから肝腎の頭腦の發達が遲れてゐると散々言はれたが、今では逆に、幼少期に漢字や假名遣をしつかり學ぶ國語教育こそ頭腦の健全な發達を促すことが判明してゐる。

さうは言つても實際どういふ教育が可能なのか、答はなかなか見附からなかつた。最後に結論を導いて下さつたのは石井勳先生であつた。先生は歐語では例へば「au」の綴りには「オー」の發音を教へる。國語でも「央・あう」を「オー」と音讀して教へ、「あ」と「う」の音が合して「オー」となる音韻の性質を理解させるのが眞の國語教育であると、言はれたのである。

「目から鱗が落ちる」とはまさにこのことで、私はそれまで、「央」は「おう」でなく「あう」と書くのだと、教へねばならないとばかり考へてしまつてゐた。言はれてみれば漢字で書くものは最初から漢字で教へる石井方式を基本とし、初出の漢字には字音假名遣でルビを振り、その讀み方を先生から教はればよい道理である。兒童は私と同じやうに字音假名遣を何の違和感も持たずに習得して行くに違ひない。

現代假名遣で育つた世代は、歴史的假名遣に馴染みにくい事情も理解できるが、これからの子どもに最初から歴史的假名遣を授ける教育には是非贊成して頂きたいと思ふ。私は貴重な御教示を頂いた石井先生を始め多くの方々に心から感謝しつつ、勇んで「契冲」字音假名遣版の發賣に踏み切つたのであつた。

(平成十六年一月)

 

市 川   

昭和六年生れ

平成五年 有限會社申申閣設立。

正假名遣對應日本語IME「契冲」を開發。

國語問題協議會常任理事、文語の苑幹事、契冲研究會理事。

 

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