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楽譜(参考運指つき)1/4
楽譜(参考運指つき)2/4
楽譜(参考運指つき)3/4
楽譜(参考運指つき)4/4
楽譜(音の高さと長さの情報以外はほとんど削除した状態)
音を出してみる
WEB上で手ごろなmidiファイルが見つからず、仕方なく自分で録音。
もちろん自分の演奏なんてかっこ悪くて録音できないので、手持ちのCDから。
それもまともにやったんじゃ違法になりそうな気がしたので、いちど録音したものから、PC内で音質を劣化させたうえ再録(ここまで酷い音質にしてもファイルサイズは1MB近くある。インターネットの接続環境によっては、右クリックで適当な場所にダウンロード保存してから再生したほうがいいかも)
いかにもプロの演奏って感じで、ピュロリロヒュルリラそこらじゅうトリルまみれ。真似できるもんならしてみたいもんだ。

ギボンズ イタリア風グラウンド ☆

バロックより前、ルネサンス期の音楽は難解すぎて付き合いきれないなんてことを書いたんですが、本当のところはどうなんでしょう。
ルネサンス時代ってのも長いわけで、全部が同じような音楽であるはずはない。
国や地域によっても違いがあるだろうし、何より演奏される場面の違いってものがある。

ところで〜
音楽をより面白く変化に富んだものにする法則ってのがありまして(対位法とか呼ばれる)
それとは別に、音楽の耳なじみを良くするための法則なんてものがある(和声法とか機能和声の法則とかカデンツの法則とか何かそんな感じのもの)

ルネサンス時代は前者だけがあって、後者はまだ確立されていませんでした。
それによってどういうことが起こるかというと、音楽がどんどん複雑になる。
パレストリーナあたりの教会音楽の複雑さはもう天下無敵って感じです。
神に捧げる音楽で頑張らずにどこで頑張る、ありったけの技術を駆使しなきゃ罰があたるといわんばかりの、作曲家の心意気が伝わってきます
(いいえ何も伝わってきません。音楽をきくというよりは、精緻な織物の織り目をぼんやりとうつろな目で眺めているような感じ。全然関係ないけど、魚に説教する聖アントニウスの絵を思い出します)

行き着くところまで行ったものはだいたい爆発か爆縮を起こします。

こんなふうに流れている音楽なら、次はこう進むはず、と、人間の耳は予想しながら聴くように出来ている。
その予想を裏切らないようにつくってやるべきじゃないのか。
ということで、耳なじみを良くするための法則がつくられていったわけですが、これが、複雑になりすぎた教会音楽に対する反動として始まったのかどうかは知りません。

オーランド・ギボンズという作曲家は、ルネサンスとバロックの移行期に生きた人みたいです。
耳なじみを良くするための法則は、おそらく完全には確立されていなかった時代。
確立されてはいませんでしたけど、何ていうか、そういうことって、法則化なんてするまでもなく、ある程度は経験からくる勘みたいなものが働くんじゃないでしょうか。
特に人工的に複雑にしてやろうという意図がなければ、極端に耳なじみの悪いものにはならないと思うんです。
逆に法則に縛られていない分、その人の個性とか地域性みたいなものが出て面白いものが出来上がったりするんじゃないかなと。

ギボンズの作品の中でも、この「イタリア風グラウンド」の単純さ、耳なじみのよさは、群を抜いています。
次の時代の、いかにもバロック音楽らしいバロック音楽と比べても単純。

グラウンドってのは直訳すれば地面、たぶんグラウンドバスの略、曲の基盤になる定型。
その繰り返しで、要は循環進行、変奏曲。
シャコンヌとかフォリアとか、あのへんと一緒。
イギリス人だったギボンズが憧れの国イタリアを想像してつくった曲なのかどうかは知りません。
実はこの曲には「アルマン」とか「アルンマンド」とか、別名がついてるんですね。
アルマンドってのは「ドイツ風」とかいう意味だった気がします。
もうなんだかよくわかりません。
こんなこと追求したってしょうがないです。

教会用、民間用なんて区分の仕方も変ですけど、この曲はどう考えても民間用ですよね。
ダンス用か、宴会用か(いまどきの耳からすると、どこかの国歌か校歌か、へたをするとチープなカルト教団歌って感じ)
何が言いたいのかというと、ギボンズに限らずこのルネサンス・バロック移行期の作曲家は、教会用、民間用、ひとりで両方つくってたんじゃないかってこと。
それ以前、ルネサンス全盛期の教会音楽の作曲家って、もしかして完全にそれしか作らない専門の職人だったんじゃないですか。
だからあんな素人を寄せ付けない音楽になっちゃった。
民間用は民間用として別な(半分アマチュアみたいな)作曲家がいて、その作品の一部は民謡のようなものとして残されたけど、多くは「価値なし」として忘れ去られた、とか。

ひとりの作曲家が教会用と民間用の両方をつくるようになったために音楽がこんな風に変わってきた、ということなら、何となく納得できます(事実がどうなのかはもちろん知ったことじゃありません)


この曲の最大の取り柄は、せわしない動きに聴こえるわりに演奏がそんなに難しくないことでしょうね。
細かい音符が続きますけど、よく見てもらえば分かるように、階段1段ずつの上り下りばかり。
1235の指だけで何もかも済ませようとしている人間にはとても助かります。

かなり些細なことですが。
9小節目から12小節目まで、何も考えず参考運指どおりに弾くと、右手の小指が伸びきった状態になって、かなりみっともない。
べつに他人様に見せるつもりはなくても、自分で気持ち悪い。
この間、右手45はまったく使わないので、2本とも折りたたんだまま弾くことをおすすめします。
(小指が伸びきるところは他にもあるんですが、この個所のみっともなさは特に目に余る)

あと最後の8小節で、繰り返し記号を忠実に守るなら、2回目は左手の音数をちょっと増やしたほうがいいのかも、なんてことをプロの演奏聴いて思いました。
音とりは正確じゃないですけど、何となく↓の感じでやってるみたいです(面倒くさかったらどうでもいいです)


もうひとつ些細なこと。
ネット上で拾った楽譜があまりにも汚くて(←人様の楽譜をタダでもらっておいてそんな言い方はない)そのままでは弾く気分も萎えそうだったので書き直ました。
でも出来上がってみればこれはこれでやっぱり読みにくい。
とりあえず元の汚い楽譜もアップしておきます。
比べてみると分かりますが、書き直し版では、いくら何でも弾かないだろうと思った繰り返し記号は省略。
他にもいくつか都合にあわせて書き方を変えた個所があります(五線からはみ出した音符のための加線が面倒で、上段下段にまたがったフレーズがけっこうあったり)
ついでに上のプロの演奏に合わせて音符そのものを変えちゃったところも(最後から8小節目、ドレミファソラシドシラソファミレドシ→ドレミファソラシドレドシラソファミレ)
元の楽譜でやるなら指使いは↓な感じ、かな(以前は自分もこれでやってた)


何しろ400年も前の曲(古いからユルいと言い切れるもんじゃないけど、傾向としては確かにある)、どっちが正しくてどっちが間違いとかいう話でもないので、そんなに大袈裟に考えなくていいと思います。
自分の耳が許したものは全部正しいってことで。



古い音楽ついでに。
プロの手でちゃんと構築された音楽が出てきたのはルネサンス時代からで、それより前、いわゆる中世(ゴシック時代)には、まともな音楽なんて存在しないと、ながらく思ってました。
何の面白みもない単旋律のグレゴリオ聖歌だけが細々と歌われていた暗黒の中世、というイメージ。
この時代はへたをすると教会よりも民間のほうが音楽らしい音楽やってたんじゃないかと。
でも実際には、マショーとかペロタン(なんなんだこの名前は)とか、けっこう立派な対位法つかった教会音楽作曲家がいたんですね。
マショーなんかは、初期対位法音楽の大家として名前だけはきいたことがありますけど、ルネサンス時代の人だと思ってた。
何というか、対位法音楽と暗黒殺伐中世ってのがイメージとして結びつきにくいんで、ちょっと意外でした。