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指先の褥瘡(じょくそう)
平成26年1月28日
 褥瘡とは一般的に床ずれと言われているもので、寝たきりの状態のため、腰の部分がマットにすれて生じるものだと思っていた。しかし、その褥瘡が左手親指の腹の部分(掌と関節の間)に生じたのである。

 妻の手の握力の強さについては可成り以前から承知していたが、2年前の肺炎での入院後、寝たきりとなり手足の硬直化が進み始めた。特に右手首の硬直化が進行し、同時に指は握りしめ人差し指の腹の部分が親指の先端部分の腹の部分を押さえつける状態になっていた。確か夏頃にひょっと手を見ると親指が後ろに反り返っているので、骨折したのではと思ったが、医師の診断では骨折でなく、人差し指の連続した圧力によって、親指の関節が後ろに曲げられてしまったのであった。それ以降、親指と人差し指の間に挟み物をして直接圧力が親指に加わらないようにしている。

 昨年になってからは左手の硬直化も進み始め、肘を曲げて手首を胸に押しつける状態になり、かつ手の指は握り締めるようになったが親指は右手のように人差し指で押さえ込まれることなく、人差し指の横に立てた状態になっていた。従って右手のように親指が人差し指で押さえ込まれることないと安心していた。

 週1回の訪問看護と入浴の際、握りしめた手も綺麗に洗って貰っているが、9月に入ってから、左手親指の腹側(握りしめた人差し指の側面と接する部分)が赤くなってきていることから、保護のためテープを当てて貰っていた。しかし、9月末の訪問看護の際、親指の腹の部分の皮がむけ、肉が赤く腫れていることが分かった。

 所謂、褥瘡だとのことである。人差し指の側面に押しつけられた親指の腹の柔らかい皮膚が圧力によって熱を持ち、更に昨年夏の9月に入っても猛暑日の暑さも加わって、皮膚が蒸れてただれ、床ずれ状態になったものと思われる。早速皮膚科の医院に電話をし、当面の処置と、往診をお願いし、10月の第1木曜日(4日)に往診して頂くことになった。

 しかし、往診日の前日10月3日に胃瘻の突然の事故により、急遽入院することになってしまった。入院中は病院にて処置をして貰っていたが、そう簡単に治るものでない。退院後改めて、皮膚科に往診をお願いし、調合した塗り薬を出して貰った。傷の大きさは巾約8mm、長さ約12mm程あり、血がしみ出ており、痛々しい状態であった。

 薬の交換処置は毎日必要である。親指1本に薬を交換するだけだから、簡単のように思われるが、それが大変なのである。薬を付けたガーゼを指の患部に当て包袋をするだけであるが、人差し指に凄い圧力で押しつけている親指を押し開いて、空間を作る必要がある。患部を避けながら、2本の指の間に空間を作るためには両手が必要となり、包帯する手がない。簡単に一人ではできない作業である。作業場所の空間さえできてしまえば、薬の貼り替え作業は2,3分で済んでしまうものである。毎日薬の交換だけに、看護士に来て貰うわけにもいかない。幸いなことに日曜日を除いて、介護のため誰かが来ているので、それらの人達に協力をお願いすることにした。また、週1日はデイサービスに出掛けているが、その日はデイサービスで処置をして貰うようにお願いした。

 当初は交換時には患部より血がにじみ出ており、ガーゼには可成りの血が付着していたが、11月下旬頃より、血のにじみも少なくなくなり始め、患部も周辺より皮膚ができはじめ、小さくなり始めてきた。そして、年末には患部全域が皮膚で覆われ、患部は見えなくなった。しかし、年末年始の1週間は介護関係は休みのため、手当をする手がなくなるため、一寸心配だったが、無事正月を乗り切ることができた。現在も手当は行っているが、完全に患部は元の皮膚の状態になっており、再発を防止するためのケアの段階に入って来た。これも看護に協力して頂いた、皆様に感謝する次第である。

 尚、余談だが毎日、手当のために親指と人差し指を広げて作業をしていたためか、親指が人差し指に押し付ける力が若干だが、弱くなったようである。


皮膚科通い
平成26年2月25日
 妻の行動には全く無頓着であったが、更年期を過ぎ、60才頃だろうか、頻繁に皮膚科通いが始まっていた。認知症が始まってからも時々皮膚科に行っては顔や頭に付ける薬を貰ってきては付けていた。普段の会話も少々おかしくなって来ているが、どのように意思を伝達し、処方をして貰っているのか気になり、ある日皮膚科に出かけようとしていることが分かったので、一緒に同行し、K皮膚科に出かけてみた。

 医者も中々話が通じず、大分困っていた様子で、同行したことで、喜ばれた。それ以来、妻の身体の異常に無頓着ではいられなくなり、疾患場所について注意するようになった。女性一般に言えることだと思うが、妻は兎に角、皮膚が弱いようである。頭に湿疹ができ、通院しやっと治ってきたかと思うと、鼻の周りや唇の周辺に湿疹が出て来て、また通院となる。やっと落ち着いてきたと思うと、今度は胸から背中にかけ、湿疹が出始め、掻くために血がにじみ出し、アザとなり、体中アザだらけになったこともある。やっと治まったと思ったら、痒みは腹部に移動、次は腿へと移動、そして、足へと移動して足の指の間にできた水虫まで、1年を通じてどこかが問題となり年に3,4回は皮膚科通いをするのが通例となった。

 頭髪については2,3ヶ月毎に美容院に連れて行き、ヘアカットと同時に前髪が若干白くなっていたので、従来通りマニキュアを塗って貰っていたが、頭皮を傷めないためにマニキュアを避けた方が良いとのことで、ヘアカットと洗髪のみにして貰うようになり、頭の痒みは可成り治まってきた。

 顔の化粧については従来はもっと丁寧にしていたのだと思うが、化粧を気にして見るようになった時には化粧水で拭い、白粉と口紅を付けていたので、そのようにしていたが、鼻の周りや、眉間に湿疹が出来、その都度通院し薬を貰って付けていたが、治ってはまた悪くなるの繰り返しである。化粧もしない方がよいと言うことで、化粧も止めることにした。要は顔は保水が必要なので、顔の赤みを取るための薬としてヒルロイドローションを処方して貰うようになった。

 また、その他の体全体も顔同様に肌の乾燥により痒みを増し、掻くことによって血も出るので、傷口を治す薬と保湿のためのヒルロイド軟膏を処方して貰った。しかし、胸部、腹部及び背中は簡単に手が届くため、掻きむしり場所が点々と移動するため、出血を伴って赤くなり体のあちこちにアザが出来た状態にもなった。

 入浴は毎日させていたが、タオルでの擦り洗いは皮膚に良くないので、「タオルを利用せず石けんをつけた手で体をなぜるようにして、石けんを体に付け、後はお湯を掛けて石けんを流し落とすようにして、洗いなさい。」と指示を受けた。

 毎年場所を変えながら全身のどこかが、赤くなってくるので、本人を連れて通院し続けていた。本来患部を見て処方をするため、本人を連れて行かねばならないところだが、基本的に症状は繰り返しであるので、本人を連れて行かなくても、症状を伝えることで処方して貰えるようになっていた。

 体については徐々に本人の手の動きも鈍ってきたこともあるのか、掻き傷もなくなり掻いた後も少なくなくなってきた。また現在は手全体が硬直化しているために掻くこと自体が出来なくなったために、掻き傷もなく手当の必要もなくなっている。しかし、顔については一寸手を抜いていると肌が荒れ、鼻の周辺や眉間、唇の周辺が赤くただれてくる。

 23年夏頃だった思うが、何時もの薬を貰っていたが、鼻の周辺の赤くただれた部分が中々治らないので、少し強い薬を処方して貰った。その際、「ヒルロイドローションで保湿するのが一番良いのだが、付けると赤みは増すのだが、少し強い薬を出しましょう。」と言って処方して貰った。早速2回程使用したが、付けた部分が益々赤みを帯びて来てしまったので、強い薬を付けるのを止め、患部もヒルロイドローションだけを付けるようにした。すると1週間程して患部が治り始めてきた。どうも永年薬を貰って顔に付けて来たが、薬の使用法を間違えていたようである。それまで、患部には処方された薬を塗り、患部を避けて、ヒルロイドローションを塗っていた。これが間違いである。ヒルロイドローションは保湿剤であるので、患部も含めて、顔全体に付けておく。処方された薬は必要に応じて、患部のみに付けるのが正しい使用法であることが、やっと分かった。それ以降、化粧代わりに出来るだけ毎日ヒルロイドローションを付けることで、スッキリした顔で24年の新年を迎えることが出来た。

 しかし、24年1月29日誤嚥による肺炎で緊急入院することとなった。入院当初は当然のことながら、肺炎の治療が中心であり、顔の湿疹など問題外であったが、幸にも1ヶ月間ほどは特に問題がなかった。しかし、1ヶ月を過ぎた頃から、次第に鼻の周りから、赤く湿疹が出始めて徐々にその範囲も拡大していった。病院としては顔の湿疹に対する対応はなく、後半見舞いに出かけた際、持参したヒルロイドローションを付けてやっていたが、退院時には可成り赤らめた顔での退院であった。

 その後、何回か入院しているが、退院時には湿疹を増やして来ることが、多い。自宅でも顔に何も出ていなため、安心して一寸手を抜くとまた湿疹が出始める。現在は出来るだけ毎日、ガーゼで叩くようにして顔を拭き、湿疹の出やすい部分を中心に顔全体にヒルロイドローションを塗り、最後にリップクリームを塗ってやっている。本人も顔に手入れをしている時は化粧をして貰っている時を思い出しているのか、顔の表情が変わっているように思われる。

 さて以上で一件落着のように思われるが、寝たきりの状態になったことで、次々に新しい問題が発生してくる。退院後半年を経過した頃、先ず、寝たきりの状態のため、お尻の部分に床ずれの始まりと思われる赤みを帯びてきた部分が出来てきた。K皮膚科は往診して貰えない。訪問看護士の紹介で、O皮膚科の紹介を受け、往診をお願いした。床ずれの薬を処方して頂くと同時に、エアマットももう少し、体位や圧力が自動的にコントロール出来るマットに交換した方がよいと、指示を受けて早速交換したことで、床ずれの問題は解消した。往診の際、もう一つの心配事は頭部を触るとできものではないが何か大きな固まりが出来ているので、これも見て貰った。「これはふけが頭髪に付き、お互いがくっついて、固まりになったものである。」とのことである。この対処方法は先ず、『ふけの固まりに亜鉛軟膏を塗り込む。そして2,3時間そのままにしておき、オリーブオイルで拭き取る。その後、洗髪をする。そして、頭髪用のニゾラール塗る。』である。

 最初は亜鉛軟膏を塗れば、ふけの固まりは解けて、オリーブ油で簡単に拭き取れてしまい、2,3回やれば済むものと思っていた。しかし、結果は全然違った。フケとフケとの間に空間があると思っていたが、全く違ってコンクリート状のフケの固まりの中から頭髪が生えているようなもので、その固まりの上に軟膏を塗っても上に乗っかっているだけで、時間を掛けても殆どしみていかないようである。やっと分かってきたことは軟膏を塗る際、フケの固まりを砕くようにして空間を作り、表面積を増やしてそこに軟膏を塗ることである。その表面積に塗り込まれた軟膏をベースにオリーブオイルでフケを少しずつ、取っていくしかないようである。現在、洗髪が出来るのは火曜日の訪問看護の日と土曜日の入浴の日の週2回なので、訪問時間の2,3時間前に事前に亜鉛軟膏を患部に塗りつけておき、洗髪時にオリーブオイルで拭き取り、洗髪をして貰っている。この作業は始めてから1年半ほどになるが、こまめにやっていて、少しずつ小さくなる程度で、一寸怠ったり、入院などしてしまうと、また元に戻ってしまう。今までに一度も固まりがなくなったことがないので、今後も継続して実施していくしかない。

 また昨年暮れ当たりから問題となってきたことに、オムツかぶれがある。従来より股間に小さな赤みを帯びた部分があったが、赤みを取るためのアズノールなどの塗布で一進一退を繰り返してきた。しかし、昨年暮れ頃より、赤みの部分は治まって来るが、その周辺に赤みの部分が徐々に拡大し始めたことである。その赤みが左の股間部分から、右側の股間に飛び火し、更に臀部にも飛び火して、それぞれ拡大し始めてきている。患部は悪化して爛れてきている訳ではない。どうしても排泄物によって刺激を受け、赤くなっているのだろうとのことである。

 妻の場合、口から食物を食べることが出来ないため、胃瘻で栄養剤の投与である。食物を食べている場合には基本的に繊維が含まれているために、排便は固形である。これに対して栄養剤は繊維質がないため、便は軟便となる。妻の場合は堅くてヨーグルトのようなペースト状であり、柔らかいとジュース状である。一方、紙おむつは性能は素晴らしく、吸水力も大きく、尿は吸い取ってくれる。しかし、不純物の入った便の水分は吸い取ってくれない。そのためオムツは水を漏らさない入れ物(コップ)のようなものである。従って、軟便特にジュース状の場合には便はオムツと言う入れ物の中に溜まり、その入れ物の中にお尻を漬けたような状態となるため、便は臀部全体に拡散しまっている。これがかぶれを拡大させている最大の原因のようである。

 そこで、従来は赤みを取るための薬を処方して貰って塗布していたが、今回は患部を油膜で保護する薬を処方して貰い、その上に更に防水剤(防水剤は健康保険対象外)を塗り患部を防護する方法を教えて貰った。

 以上のように妻と皮膚科とは縁が切れず、今後も継続して皮膚科のお世話になって行く予定である。 


目出度く『喜壽』を迎える
平成26年3月30日
 妻は本年3月14日に目出度く、『喜壽』を迎えることが出来た。思い起こせば妻の認知症に気付いたのが、21世紀を迎えた2001年の正月のことであり、今年で14年目を迎えたことになる。神経科に通い始めた当初、「寿命は7,8年でしょう。」と言われていたので、古希を過ぎた頃になくなっていても、不思議ではなかったが、喜壽を迎えることが出来たことは本人にとっても、見守ってきた家族にとっても喜ばしいことである。

 振り返ってみると本人にとっては苦難の道であったと思うが、ここまでこられたのは関係頂いた医師の方々並びに介護面で色々とご協力いただいてきた介護関係者のお陰だと思っており、感謝しています。下記は訪問入浴、訪問介護及びデイサービスより誕生日に頂戴したお祝いメッセージです。

 一昨年1月には誤嚥による肺炎、昨年1月には喉を詰まらせ緊急入院と多難の正月であったため、本年も体調には注意してきたが、何事もなく寒かった冬を無事乗り切りことが出来た。また胃瘻交換も3回実施してきたが、過去は交換と交換の間には体調を崩して入院したり、胃瘻器具上に問題が発生したりしてきたが、昨年10月の交換以降は体調も落ち着いてきており、来月後半予定の胃瘻交換日を無事迎えられそうである。また、月6回のデイサービスへの通所も問題なく出来ている。本人にとってもベットに寝た切りよりも車椅子で体を起こしている方が良いらしく、最近眼を開けている時、従来よりも、人の動きに対して眼を動かすようになったようで、デイサービスでも職員の動作を従来よりも活発に追いかけるようになってきているようである。

 当面の目標としては、4月下旬に予定されている胃瘻交換を無事終えること、デイサービスへの通所を週2回の割合に変更する予定である。

  
訪問入浴
訪問介護
デイサービス


指先の褥瘡(その2)
平成26年7月26日
 本年1月に「指先の褥瘡」と題して、左手親指の褥瘡について記述している。昨年夏から握りしめた親指と人差し指の間の圧力によって生じた褥瘡だが、今年の正月を迎えた頃には治療のお陰で傷口もなくなり、皮膚ができて、落ち着き始め一段落したと記している。

 これで落ち着くものと思っていたが、3月末頃より、新しくできた皮膚の中央部分が徐々に裂けて肉が見え始め、血も出始めてきた。どうも褥瘡で陥没した患部の肉が盛り上がりはじめ、薄くできていた皮膚が裂けてきたためのようである。

 その傷口は次第に大きくなり始め、可成りの出血も見られるようになってきた。その患部は図1のように親指関節の下部で、握りしめた4本の指横に親指を立てると患部は丁度人差し指の側面と接する部分である。そして、親指を強力に押しつけたことによって、摩擦力で褥瘡になったものである。

 盛り上がってきた肉は、この強力な圧力が加わったことによって、患部の上部の方に押し上げられた状態となり、次第に肉が皮膚の面よりも高く押し出されてできたようである。そしてこのコブ状に突起した部分の大きさは長さ10mm、幅5mmほどの大きさになっていた。

 丁度4月末に胃瘻交換のため昭和大へ入院することとなり、その際皮膚科の診察を受けることができた。その結果、「ふくれあがった部分をそのままで治療するよりも、その部分を切除して治療した方が治りが早い。」と言うことで、その場で簡単に患部を液体窒素で切除してくれた。この処置によって従来から使用していた褥瘡の薬から、当分の間切除した傷口を治すための薬に変更となった。

 胃瘻の交換も終え、帰宅後も同様の処置を行ってきたが、傷口も治まってきたので、掛かりつけのO皮膚科に往診をお願いし、今後の処置について診て貰った。その結果、傷口に表面を平らにする薬を塗り、その上に従来から使用していた褥瘡の薬をあてがうことになった。この治療を続けることによって、7月に入ってから、ほぼ傷口はなくなり始めてきたので、現在は褥瘡の薬のみを使用している。

 親指の褥瘡の始まりは暑かった昨年8月の終わり頃だったと思う。間もなく1年を迎えるが、何とかこのまま治まってくれることを期待している。



ここ1年間の経緯
平成26年9月28日
 昨夏は、10月に入ってもまだ半袖で過ごせるような猛暑続きであったと記憶している。暑さのため妻の体調を心配していたが、特に問題はなく夏の終わりを迎えようとした.。しかし、8月末頃、強く握りしめていた左手親指の付け根の部分が赤く爛れていることが分かった。丁度握りしめた人差し指の側面に接している部分で、強力な圧力と暑さの蒸れによって生じた傷、所謂褥瘡である。早速、皮膚科の先生の往診を受け、治療開始となった。その経緯については「指先の褥瘡」及び「指先の褥瘡(その2)」の記述の通りである。

 9月に入り昭和大通院時に【遺漏交換のため入院】をお願いし、10月22日に決めてあったが、10月10日の昼食時に普段通り遺漏を介して栄養剤投与を開始しようとしたが、遺漏が詰まって、投与出来なくなった。この現象は9月にも一度起きており、訪問医療介護センターにお願いし、補助用の医療チューブを使用して回復してもらっていたので、今回もお願いした。しかし、遺漏の詰まりを解決することが出来ず、急遽昭和大に入院し、遺漏交換の予定を前倒しして実施して貰うこととなった。従って遺漏交換までは遺漏を介しての栄養剤の投与が出来ないため、点滴による栄養剤補給となった。10月17日に無事交換を実施してもらい、18日に退院できた。

 毎月第1金曜日と第2木曜日は定例の会合に出掛けるため、両日は3時間のヘルパー派遣をお願いしてきた。このヘルパーは認知症初期の段階から10年以上対応して貰っており、妻の症状の変遷を熟知していて、安心して依頼できる人であった。しかし、親族に不幸があり、且つ親族の介護が必要となったため、11月より支援を得ることが出来なくなった。そこで交代要員を要請したが、適任者が得られなかったため、少々冒険ではあるが、両日をデーサービスで受け入れ可能か,検討して貰ったところ、可能とのことで、デーサービスに出すことに変更して貰った。丁度、冬に向かう時期であり、また水、木と2日続きの週もあって本人の負担にならないか、一寸心配ではあったが、試してみることにした。

 24年1月に肺炎を起こし、また25年1月には嘔吐により息を詰まらせ緊急入院と1月には2年連続して体調を崩し、入院騒ぎを起こしており、鬼門の月である。今年は1月、2月の寒い時期を体調を崩さず乗り切れるか心配であったが、若干痰をからませ吸引を必要とすることはあったが、大過なく春を迎えることが出来た。

 一方左手親指の褥瘡は治療のお陰で患部に薄く皮が出来て治まった状態で新年を迎えることが出来た。これで治まるものと思っていたのだが、春を迎え4月に入ると薄い皮膚で覆われていた患部に裂け目が出来はじめ血が滲み始めてきた。これは本来なら患部の肉が皮膚の中で盛り上がり、完治に向かうところが、患部の下部が指の握りで圧迫されて、盛り上がってきた肉が患部の上部に押し上げられて皮膚よりも高く押し上げられてきたためのようである。早速皮膚科の往診を受け、処置のための薬を調合して貰った。丁度遺漏交換のため昭和大へ入院することになったので、昭和大の皮膚科の診察を受けた結果、「この盛り上がった肉の部分は切除してしまった方が治りが早い。」と言うことで、早速、液体窒素で切除して貰い、その治すための治療に変更された。その後、遺漏交換も完了し、連休前に退院した。尚、認知症の貼り薬「イクセロンパッチ」を使用していたが、もうあまり効果がないだろうと言うことで使用を中止することななった。

 連休以降季候もよくなり、月6日のデーサービスへの通所も安心して出せるようになってきた。当初はデーサービスに出掛けることは本人にとって体力的に負担になると思っていた。しかし、通所を始めたころは眼を閉じて、眠っていることが多かったが、最近は職員の動きや仲間の歌や体を動かす動作を眼でおっている時間が長くなってきたようである。自宅においてもベットに寝ている時は眠っていることが多かったが、最近は眼を開けている時間が少々長くなったようであり、また私や,介護人が来てベット周辺で、作業をしていると眼で追うことが、多くなってきたようである。また、週2回のリハビリの時は車椅子に座らせて、マッサージをして貰っている時も、眼を開けていることが多くなったようである。以上のことを勘案してみると、従来はデーサービスへ出すことは体に負担が掛かるので、安静に寝かせている方がよいと思っていたが、体調も安定して来たことも加わって、寝たきりよりも車椅子に乗せて移動するなど、変化を与えてやった方が,健康を維持する上でよいことが分かってきた。
 
 この1年間での大きな変化は声を出すようになったことである。ここ10年間、どのような環境にあっても声を出すことがなかったのだが、ここ1年前位前から、声を出すようになってきている。声と言っても「言葉」を話すわけでない。「アー」とか「ウー」と言った声である。

 最初に発した声は「アー」と言う大きな声だったように思う。痰がたまって、呼吸がしづらくなったような時に発せられているようである。また、大きな口を開け、あくびをした際、吸い込んだ空気の流れでノドが振動して声となっているような場合もある。比較的痰を詰まらせている場合が多いので、必要に応じて吸引器で吸引を行ってきた。6月頃よりは痰と言うよりも鼻を詰まらせることが多くなってきた。そして従来ほどの大きな声ではないが、「アアアーン」「ウウウーン」と少し長い声を出すようになってきた。様子を見ると息苦しいために顔を真っ赤にしている。このような場合、吸引器で鼻から吸引をしてやっている。これで治まる場合もあるが、口をしっかり閉じて口からの息の流れを止めてしまい、鼻だけで息を吸い込みそして吐こうとしているため、うまく呼吸が出来ず荒い息使いになっている場合も多々あった。

 8月に入ってから、鼻の詰まり方も少なくなってきているが、「アアアアアーン」や「ウウウウウーン」(注)と言った更に長い声が聞こえるようになってきた。そしてかなりの頻度で発せられるため、従来は家の中は静まりかえっていたが、最近はザワつきを感じるようになってきている。

 この声を発する原因の1つは唾液を飲み込んだ際、気管に入り咳き込んだ時である。例えば、よく眠っていたが、フッと目覚めた時、グッと唾を飲み込んだ際に唾が気管に入って咳き込んでいる。また、体を起こした状態から横に寝かせた状態に移行した時によく起きているようである。

 もう1つは何時ものように声がするので「喉を詰まらせたのではないか。」と思い、様子を見に行ってみると、目を開けた状態で普段の顔をして声だけを発していることがある。そこで声をかけると、声を発するのを止めて、人の顔を見つめている。これ迄にない現象である。本人にとって「寝ていることがいやになったか、または何か話しかけたくなって、人を呼んでいる。」のではないかと思われる現象である。

 寝たきりとなって以降、最も注意してきたことはノドを詰まらせることであった。過去は声一つ発することがなかったため、体調の変化を知らせてくれる信号が全くなかった。そこで常「に何か起きていないか」確認をしに行く必要があった。しかし、『声を発してくれるようになった。』ことで、離れていても異常状態になったことを知ることが出来るようになった。特に夜間などは声に目覚めて、対応が出来るようになった。

 肺炎に掛かってから2年半を経過し、その間に色々なことが起きてきたが、現在が最も体調が安定してと思われる。油断は大敵だが、現状の体調を維持出来るように、色々な介護の手を借りて見守って行こうと思っている。


 (注)はっきりとした2種類の言葉が発せられている訳ではない。連続して発せられていおる言葉を表現したものである。

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