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平成28年を振り返る
平成29年1月22日
 昨年を振り返って見ると正月は入院生活から始まっている。一昨年11月に胃瘻交換をしたばかりであるが、年末に栄養剤が通らなくなり急遽入院することになった。軽い誤嚥による肺炎も併発し、年を越しんんjっmんっmんんm。。。。てからの交換となった。

 妻にとっては1月は鬼門の月で、、平成20年1月には靴擦れに気づかず散歩を続けていたために、大きく脚力の低下を招いた。また平成24年1月には誤嚥による肺炎に罹り、食事が出来なくなり、胃瘻を取り付けることとなった。また手足の硬直化が進み、寝たきりの状態となってしまった。 

 今回は器具の故障による事故とは言え、1月にまたがる事故であり、何か不吉な予感を感じる1年のスタートとなったが、思った以上に元気に新年を迎えることが出来た。

 妻にとって最も注意せねばならないことは誤嚥よる肺炎を併発させないこと、及び嘔吐などにより、喉を詰まらせないようにすることである。このためには口腔ケアと痰などへの適切な吸引などの対応である。

 過去は可なり痰が多く出て、鼻からの吸引を必要としていたが、一昨年の夏頃より痰や鼻が出ることが少なくなり、鼻からの吸引の頻度は少なくなっていたが、唾の飲み込みが悪くなってきたせいもあって、唾液が溜まり息苦しくなるためか、声を発することが多くなり、口からの吸引が多くなった。特に夜間に2,3時間間隔で大きな声を発するようになり、その都度起こされ口からの吸引をしてやる必要が5,6月頃まで続いていた。特に明け方4,5時頃に起こされるとその後寝付かれぬようになり、睡眠不足に悩まされた時期もあった。しかし、その後夜間に起こされる頻度も可なり減り、また発せられる声の大きさも可なり下がってきている。

 口腔ケアは誤嚥を防ぐために、最も重要なことは分かっていたが、訪問看護、デーサービス、ヘルパーに依存してきた。しかし、その重要性から、春頃、区の保健所より歯科衛生士を派遣して貰い、口腔ケアに関する指導を受けた。

 食事を全く口からしていないにも拘わらず、どうしてここまで汚れるのだろうかと思う程、酷くまたスピードが速いことも分かってきた。舌の上には痰状のものがへばり付いている。またこれがスポンジブラシで拭いたぐらいでは簡単に取れない。一旦取れば2,3日大丈夫だろうと思っていると大間違いで、半日もすればもう新規のものが溜まっている。

 また、歯と舌の間をスポンジブラシで掃除をしていると数ミリ程の塊のようなものが最近時々出てくるようになった。何故このような塊になったものが口の中に発生してくるのか、不思議に思っていたが、最近その原因らしいものが分かってきた。妻の唇は乾燥すると表面に薄い皮が出来、乾いてくるとその皮は剥がれ落ちる。そして直ぐまた薄い皮が出来る。従って常にリップクリームを塗って、皮の発生を防いでいるが、リップクリームの塗ることを一寸油断していると皮が固くなり、剥がれおちる状態となってしまう。どうもこの剥がれおちた皮が歯の裏側にたまり、集まって黒い塊となっていることがわかってきた。即ち、リップクリームを唇全体にこまめに塗ってやることが重要である。

 また最近、眠っている時は殆ど口を開け、口で呼吸をしているようである。これが汚れた空気を吸い込み、唇の乾きや、口内での汚れを促進しているようである。従って看護士やヘルパーの支援だけに頼ることなく、気がついた時には口腔ケアを心がけるようになったことが、最近唾液が溜まり大声発することが減少していることに貢献していることが分かってきた。

 命に影響を与える程、大げさな問題ではないが、妻にとって鬱陶しい問題として頭に脂溶性皮膚炎がある。寝たきりの状態になって1年後位に気がついたのであるが、頭の中央部に広範囲にわたって頭髪を巻き込んで岩石のようにカチカチに固まったものが、出来ているのを発見した。皮膚科の先生の往診の際、診察を受けた所、フケが固まったものだとのことでった。治療法として洗髪の1、2時間前に亜鉛軟膏をフケの部分にすり込むように付け、洗髪直前にオリーブオイルで拭き取り、その後洗髪するようにとのことであった。

 当初2,3回処置をすれば、良くなるだろうと思っていたが、とんでもない難物で、フケの塊の表面に亜鉛軟膏を塗りつけただけでは全く効果はなく、フケを砕くようにして、亜鉛軟膏をフケの内部にまで、すり込むようにしないと効果がないことが分かってきた。しかし、少し塊が小さくなったような気がしても次回の洗髪時にはまた元と殆ど変わりがなく、持久戦となった。治療を初めて4年目を迎えた昨年初め頃から、大きな塊が、少しずつ崩れ始め、年末には可なりの部分で頭皮を見ることが出来るようになり、小さな塊が、当初の3分の1程に減少し、やっと櫛で髪の毛をすけるようになってきている。これは可なり根気よく続けてきた成果だと思う。
平成28年3月

 昨年の体調は年初一寸心配したが、春以降殆ど心配することなく、安定して来ている。特にデーサービスへ通わせることは従来は身体に負担が掛かるのではないかと心配していたが、最近はむしろ逆で自宅で寝たきりでいるよりも、車椅子に乗ることで、身体を起こし、正面を向いて、景色を眺めることが良い刺激になっている気がしてきた。一時よりも眼の動きが活発になってきている。デーサービスからの報告を見ても人の動きに眼が追っている様子や音に反応している報告が多くなってきている。(写真:デーサービスでの一時)

 妻の前頭葉、側頭葉の萎縮は進む所まで進んで言語や知識、また手足を動かす機能は失って仕舞っているが、後頭葉は健在で眼から入る映像情報は十分認識出来ている。以前より活発に眼を動かすようになったのは脳の萎縮の速度が遅くなったか、止まったことで、僅かながらでも映像情報を何らかの方法で記憶に留めようとしているように思えてならない。油断は大敵だが、体調そのものは安定して来ているように思われる。今年も健康維持に努めて行こうと思っている。

無事傘寿を迎えたが
H29.6.25
 妻は本年3月14日に無事傘寿を迎えることが出来た。振り返って見ると21世紀を迎えた2001年正月より妻の時計の針は反対方向に回り始め17年を経過している。この間に妻は前頭葉及び側頭葉が冒され、人生63年間に得てきた知識や経験及び運動能力を全て失ってきた。特に平成24年(2012年)1月に誤嚥による肺炎によって2ヶ月間、入院している間に、歩くことは勿論立つことも出来なくなって、寝たきりの状態になってしまった。しかし、後頭葉は現在も健在で、眼から入ってくる映像情報は認識出来ているようである。現状を一言で言うなら、「体重42kgあるやっと生まれて目が見え始めるようになった生後3,4ヶ月の新生児」で、この5年間を過ごしてきている。

 一方、見方を変えてみると、当初神経内科の先生にお目にかかった時、「7,8年の寿命でしょう。」と言われたのが印象的に残っているが、既に2倍の年数を経過している。これは本人の生命力もあるが、医療面及び介護面から多くの方々のご支援を頂いてきた賜だと思っている。

 ここ1年は体調も良く、安定していると思っていた。しかし、5月23日突然思わぬ出来事に直面した。昼食前に大量の便が出、その後普段通りに栄養剤の投与も行った。3時に訪問看護士が来て、血圧及び酸素量を計るが特に異常なし。所が体温が8度9分あった。しかし、顔色を見ても、普段通りの顔で、熱のある顔をしていない。額に手を当ててみるが、熱気を感じない。手足を触っても普段通りである。体温計を疑うわけではないが、再度脇の下で熱を測り直すと9度ほどある。何故熱が出ているのか、分からぬまま何時もの通り処置をし終え、最後に寝間着を着替えるために身体を90度横に傾け始めた途端に、嘔吐が始まった。ここ2年以上嘔吐はなく、安心していたところでの出来事のため、少々驚きと共に慌てたが、喉に詰まらせないように処置を始めた。すると「ピンポン」と玄関のチャイムがなり、(来月の介護予定の打合せになっていた)ケアマネージャがきた。打合せどころでなく、支援してもらうこととなった。主治医に早速相談したところ、緊急対応をした方が良いとのことで、早速緊急に持参すべき物を準備してから、『110番』した。

 救急車が到来し、昭和大に受け入れて貰うことになったが、出発までに3回の嘔吐があった。幸いのことに この事故の発生が看護士のいるときであり、またケアマネージャの訪問があって、二人の看護士が居てくれたために3回の嘔吐にもスムーズに対応でき、出発前の準備をスムーズに進めることが出来た。尚、嘔吐物は昼に投与した栄養剤(ラコール)そのものであり、4時間以上経過しているにも拘わらず、全く消化していなかったことになる。

 5時半頃救急車にて昭和大に到着、待ち合わせなく、直ぐ救急治療室に運ばれ検査に取り掛かって貰えることになった。最初に検査結果の報告を受けたのが9時近かったと思う。血液検査の結果、肝臓と膵臓の複数の検査数値全てが真っ赤に表示されており、項目によっては正常値と桁違いのものもあった。発熱の原因は肝臓などの炎症であることは分かったが、その原因を調べるためにこれからCT検査をするとのことであった。

 10時を過ぎて、CT画面を見ながら説明を聞いた。画面に表示されたものは10円玉大の大きな胆石である。そして胆嚢内の胆石の周りに溜まった水が炎症の原因となっている所謂「胆のう炎」であることが分かった。この胆石は20年以上も前に腹痛を起こし、その時大きな胆石のあることは承知していた。しかし、その時、余りにも大きいため除去することが出来ず、その時どのような処置をしたのか良く覚えていない。それ以降静かにしていたものが今回突然火山の噴火のように飛び出してきたようである。

 この治療方法として3つの方法があることが提示された。
  @内視鏡をいれてカテーテルで胆嚢内の水などを除去する。
  A胆嚢に不純物を取り出す管を取り付ける。
  B抗生物質で炎症を抑える。
いずれの方法もリスクがあるとのことである。@は可なり苦痛を伴い、時間も掛かり、体力が必要となる。Aは取り付け後、常に異物を身体に取り付けていることになる。Bは炎症を抑えきれる保証はない。

 本人を苦しめることは余りしたくなく、Bの抗生物質による方法でお願いすることにした。また、万一の場合の「延命処置」について、説明があったが、いずれの延命処置は不要と言う事で、同意書にサインした。

 最終処置も終わり、緊急病棟へ移動出来たのは11時を回っていた。その後、諸々の手続を済ませ、帰宅の途につけたのは12時半を回っていた。

 翌日午後一番に一般病棟に移ると聞いていたので2時頃病棟に出向いたが、移動時間がずれ込み、病室にはまだ到着していなかった。20分ほど待ったが、移動してきて病室に治まった。症状は昨夜よりも悪く、酸素マスクがしっかりと付けられ、、苦しそうな呼吸をしていた。4時半頃病室を出て帰宅した。夕食を済ませた、8時頃主治医より電話があった。『可なり呼吸が困難になっている。万一の際、『延命処置をしなくて良いか。』再度の確認であったので、『延命処置は取らなくて良い。』旨を伝えた。危篤とまでは言ってないが、『万が一』に備える必要があるので、子供達に状況報告の電話をした。

 昨晩緊急事態には至らなかったが、翌25日は、体温が8度前後に下がり一安心出来たが、相変わらず酸素マスクを付けた状態で、呼吸は可なり苦しそうな状態は続いていた。酸素量は少しずつ減ってきたようであるが酸素マスクは6月4日まで続いた。
 
 6月5日(月)に病室に入るとマスクが取れて寝ており。呼吸も落ち着いていたので、驚いた。6日(火)より、点滴の他に胃瘻より水分(200cc)の補給が出来るようになった。また7日(水)には点滴と併用してラコール(栄養剤)200ccの投与を開始し、翌8日(木)には3食(200cc、200cc、400cc)の投与となった。この結果、週末または月曜日にも退院可能とのこととなり、週末10日に決定し、早速介護タクシーを手配をして、10日(土)に無事退院することが出来た。

 帰宅時、導尿管が取れて居らず、バルーンを抱えた状態となっていたので、若干トラブルもあったが、現在はバルーンも取れ、落ち着きを取り戻している。

 今回の件を主治医などの話を総合してみると想像以上の早期退院だったようである。振り返って見ると、最大の原因は嘔吐の際、看護士と介護中であったことに加えて嘔吐そのものが身体を横向きにしていた時であったことが挙げられる。即ち、大量の嘔吐であったのも拘わらず、横向きであったために嘔吐物全てが口外に排出され気管に入り込まなかったことである。もし、仰向きに寝た状態時に発生していれば、側にいたとしても嘔吐物が気管に入り込み、少なくとも誤嚥性肺炎を併発していた可能性が大であった。改めて常日頃の色々な看護支援に感謝する次第である。 


リフレッシュ
H29.9.28
 妻は胃瘻処置をしてから6年目を迎えている。胃瘻器具は6ヶ月毎に交換する必要があり、身体検査も含めて毎回10日間程入院している。今回8月15日より入院したが、入院と言っても身体に異常があるわけでないので、今回初めて入院中に介護を忘れて、2泊3日の旅に出てきた。

 向かった先は両親の古里であり、また私にとっても第二の古里である和歌山である。約20年間程訪れて居らず、一人で行動が取れる内にと思い立って出掛けてきた。現在、母方の実家はなくなっているが、戦時中疎開して住んでいた実家の隣に住む私の又従兄弟を尋ねた。又従兄弟は1歳年下で、毎日学校へ一緒に通った仲である。家の裏の高台は現在智弁和歌山高校となっている。尋ねた当日は丁度選抜高校野球で智弁和歌山対大阪桐蔭戦の日で、智弁高校卒業生のお孫さんが朝5時起きして甲子園へ応援に出掛けていて、大いに盛り上がっていたが、残念ながら惜敗してしまった。家族の皆さんと談笑することが出来、また5分程で行ける先祖の墓参りもすることが出来た。

 翌日向かったのは父の実家で現在は孫の代になっている。父が生前97歳頃に実家に帰ることを希望したので、父を連れて帰省したのが最後である。父の実家のある村は、現在は和歌山市に編入され、和歌山市の繁華街に近いにも拘わらず、都市化されることもなく、23年前に訪れた時と全く変わっていなかった。この地域は紀ノ川沿いの肥沃な土地の恩恵を受けて、広い田園地帯とその背後にある山を利用し、農作物と柑橘類を栽培する農村を維持できて来たのだと思う。また父の実家も内装は現在の生活環境に合わせ改造しているが、建物自体は父が生まれ育ったままである。従って話をしている場所も仏壇も昔ながらのままであり、子供の頃を思いだし懐かしさを感じた。しかし、人手不足のため柑橘類は縮小し、山は荒れてきているようである。

 今回、思い切って介護を忘れ、戦中・戦後の混乱期を過ごした第二の古里を尋ね、父方、母方のそれぞれに血のつながりのある両家で歓待お受け、子供時代のことを思い出すことが出来、大いにリフレッシュすることが出来た。

 今回の旅で大きく感じたことは私が住んでいた戦中・戦後時代にはいずれも同じような農村であった。しかし、現在は母方の方は周辺の環境は一変し農地の大半は住宅地となり、農業そのものは副業化してしまっている。一方、父方の方は戦後70年の時計が止まったように、昔ながらの田畑で農業を続け、日本の食料を支えている。どちらが正解か。答えは一つでなく、いずれも正解なのだと思う。

ホテルから和歌山城を望む

 「両親の古里」の概要及び「第2の古里」について以下に説明する。

【両親の古里】
 両親の古里は共に和歌山県北部で、同一の郡部(海草郡)に属していた。父の生家は和歌山市に隣接し、紀ノ川から南側1.5km程離れた山並みまで田んぼで埋め尽くされた閑静な農村であった。しかし、現在は和歌山市に吸収合併され、村名がなくなり、字(あざ)名のみとなっている。

 この村は松下幸之助の出身地でもある。また、旧和歌山市の中心地に接した土地であるにも拘わらず、全く都市化が進んでなく、見渡す限り田んぼに稲穂が生い茂り、所々に家々が点在していて新しい大きな建物もない。子供時代に見た風景と殆ど変っていない。

 一方母の生家は父の生家より約10数km程南下した村の西の端に位置し、海南市に接していたため、海南市に吸収合併され、村名がなくなり字名となっている。(但し、村名はいずれも公立小・中学校名で残っている)山の西端を紀勢本線に接し、東の方向に700m程横たわる高さ5,60m程の小さな山があった。その南側斜面の裾野・東寄り500m程の間に20軒ほどの民家があり、そのほぼ中央に母の生家があった。これらの家々の前は西は線路で行き止まりであるが、幅400m程の田んぼが東方向に広がっている。そして、田んぼを挟んで反対側には標高100m以上の山が聳えていて、そのすそ野には200軒弱の民家が並んだ、静かな農村であった。

 しかし、現在は大きく変貌している。先ず昭和30年頃に田んぼの西端に接していた紀勢本線に駅(黒江)が出来たことによって、交通の便が良くなり駅周辺から宅地化が始まった。また、母の実家の裏山は高さ2,30mで切り取られ、その土砂は北側の沼地を埋め台地化され、そこに高校野球で有名な智弁学園和歌山が昭和40年頃開校されている。その後田んぼは宅地化され現在では元実家のあった場所からの眺めは家々が建ち並び、かつての青々とした田んぼは全く見えなくなっている。余談だが、高台となった山は尾根の部分が境界線となって北側斜面と南側斜面は異なった村の土地となっていたため、北側斜面は和歌山市に、南側斜面は海南市に編入されている。従って智弁学園は両市にまたがって建っているが、面積的に和歌山市の方が多いようで住所は和歌山市となっている。学生達の通学には海南市の駅(黒江)を利用して校門直前で和歌山市に入って登校している。

【第二の古里】
 生まれは東京であるが、、太平洋戦争も戦火が激しくなり始めた、昭和19年春に母の生家の近くに住む叔父宅に先ず一人で縁故疎開(当時大半は集団疎開)することとなった。半年後に、母、姉、兄も疎開してきた。母の住んでいた旧家を改修して住むことになった。丁度国民学校(現小学校)4年生の時であったが、翌年20年8月15日に終戦を迎えた。

 当日のことを思いだし、箇条書きにしてみると次のようになる。
 ◆ 当日正午に『玉音放送』があることは分かっていた。
 ◆ 当日も午前中から、「警戒警報発令」「只今、敵機紀伊水道を北上中」の放送が流れる。
 ◆ 間もなく大阪方面に向かうB29 の爆音が聞こえてくる。高射砲の音もする。
 ◆ その爆音が12時5分程前に聞こえなくなった。
 ◆ 玉音放送は雑音の少ない隣の家のラジオで聞いた。十分内容は理解できなかったが、大人達の話で
   日本は戦争に負けたことが分かった。
 ◆ 当日は雲が殆どない晴天であった。

 9月の2学期が始まると同時に授業内容が一変した。教科書は至る所、墨で塗りつぶし、所謂「のり弁」教科書となる。一方、戦前の最後の選抜中等野球の優勝校が和歌山県の「海草中学」であったことから、即野球が復活し、野球部が出来た。6年生の夏休みにはノンプロ(現在の社会人野球)野球選手だった先輩から、基本から良き指導を受けた。ここで得た「連係プレーの精神」がその後の人生の基本となっている。

 昭和22年度より教育制度が変わり、国民学校が小学校に戻り、新制中学が出来、義務教育となった。この中学時代も野球漬けの3年間であった。そして昭和25年に県立高校に進学した。一方同年春に、父も名古屋勤務より東京に戻った。そこで夏休み中に我々家族も東京に戻ることになった。

 以上のように昭和19年3月より25年8月まで6年半、戦中から戦後へと大きく世の中が変化した成長期の大半を過ごした思い出の地である。


平成30年年末年始(トラブル)
H30.1.30
 妻は昨年5月に胆のう炎で緊急入院することとなり、大騒ぎとなったが、その後順調に回復し、どちらかと言うと良好な体調で師走を迎えた。

 12月5日(火)は通常通り3時に訪問看護士の来る日である。午前中は普段通りであったが、2時過ぎに熱っぽい感じがしたので、計温してみると38度3分程あった。急遽氷枕をし、脇に氷をあてがった。看護士が来たので、状況を説明したが、計温してみると37度5分程に下がっていて、普段の平熱に下がっていた。そこで普段通りに洗髪を含めて介護作業をして貰った。しかし、夜8時頃計温すると、38度8分にまで上がって苦しそうになっていたため、以前処方して貰っていた解熱剤の残りがあったので飲ませることになった。この結果翌朝には37度2分と平熱に戻っていた。当日はデーサービスの日のため予定通り出掛けた。若干心配ではあったがデーサービスでの計温では36度8分と普段の平熱より低かった。しかし、夜には又熱が上がっていたが、解熱剤は飲ませなかったが、翌日には戻っていた。

 同様のことが2日程続いたが、9日(土)の朝38度2分と熱が下がっていなかったため、Aクリニックに往診をお願いした。抗生剤と解熱剤を混ぜた薬を5日間分処方してもらった。処方通り、朝夕2回5日間薬を飲ませたが、朝は平熱に戻るが、夜になると38度5分前後の熱が出るを繰り返していた。しかし、13日(水)の朝38度3分と熱が下がっていなかったため、当日のデーサービスは休ませることにした。

 この結果、抗生剤の効果が出ていないため、14日に抗生剤を変更した処方を受け、これを飲ませることになった。この抗生剤は1度飲めば1週間有効とのこであった。しかし、結果は同じで、夜になると38度5分前後の熱が出た。今回は抗生物質のみで、解熱剤を処方して貰っていなかったので、38度前半の時は解熱剤を飲ませなかったが、38度5分を越えるとやはり、苦しそうになったので従来貰っていた解熱剤を飲ませた。

 1週間を経過し状況は同じのため、21日にまた第3の抗生剤と解熱剤を7日分処方して貰った。7日間服用するが結果は同じであった。夜に高熱が出る症状はウイルス性の感染症の症状であるが、多種類の抗菌剤を使用し、耐性が出来て仕舞うのも問題があることから、27日に年末年始を迎えるに当たって、最初の抗菌剤と解熱剤を10日分処方して貰った。

 以上の説明では重病人のように受け止め兼ねないので、体調について付け加えておく。夜高熱が出て苦しそうにしている時以外は、血圧、脈拍、酸素量も正常、痰が絡んだり呼吸器系に異常は認められず、また栄養剤も消化されており吐き気を催すこともなく、むしろ落ち着いている様子である。そこで、週2回のリハビリ、発熱のため13日に1回休んだがデーサービス、入浴などは平常通り続けきた。

 年末に処方して貰った抗生物質と解熱剤を配合した薬を処方通り朝夕飲ませることで、20時頃に発熱を繰り返したが、無事正月を過ごすことが出来た。結果として抗生物質の効果は分からず、20時頃になると発熱が発生するが、解熱剤によって治まることが分かった。そこで1月12日に10日分の解熱剤のみを処方して貰うことにした。

 解熱剤の処方は朝夕2回飲ませることになっている。最初の2,3日は処方通り朝夕飲ませていたが、朝には平熱に戻っているので、朝飲ませるのを辞めてみたところ、問題ないので、現在は発熱が生じた夜のみにしている。また、22日に血液検査をして貰った結果、心配されていた感染症による炎症の兆候らしきものはないことが分かった。

 先にも述べたごとく平常時は顔色も良くむしろ体調は良好だと言っても過言では状態である。デーサービスも最初は負担が掛かるかと思っていたが、通所中異常の発生した報告もなく、2回の体温測定も37度1,2分と安定している。またリハビリ、入浴、看護、介護など身体に負担の掛かる作業をしているが、作業後はむしろ体温は下がる傾向にあり、発熱の原因には無関係のようである。

 以上を少し整理してみると次のようになる。
年末から始まった夜に発熱する現象は現在も続いている。
 抗生物質の効果は分からない。解熱剤は効果があり、夜飲ませると翌日の夜まで持つ。しかし、朝飲ませても夜には発熱は起きる。
感染症の疑いがあったが、血液検査の結果は全て正常値で、炎症などの兆候は認められない。
血圧、脈拍、酸素吸入量などは正常で、胃瘻による栄養剤の投与も順調に消化されており、排便・排尿は正常で、嘔吐するような心配もない。
デーサービス、リハビリ、入浴など身体に負担の掛かる行為は、むしろ体温を下げる方向に働いているようである。
結論になった。

 顔色も良くる』状態が続いているが、その原因が全く分かっていない。又、この事態によって本人の体調が不良になっているかと言うと、その逆でむしろ良好である。現状は医師も判断しかねており、暫く様子を見守っていこうと思っている。

 今冬は寒波の襲来で、25日に最低気温−4度となり、48年振りに最低気温を更新している。我が家の庭にも久々に氷柱が出来た。

トラブル(その2)
H30.5.28
 昨年12月末に次回の妻の胃瘻交換の入院日を2月20日に決めていた。従来は胃瘻交換の実施日は入院後、内視鏡を所有している消化器科に依頼し、交換日を決めていたが、今回から入院前に消化器科の外来で入院日を決めてから入院日(3月26日)を決めることとなったため、入院期間は1週間程になり、従来よりも入院期間は短縮される予定であった。

 しかし、昨年暮れから夜になると39度近い熱が出るので、1ヶ月程抗生剤を処方して貰い、3種類程飲み分けたが効果がなく、入院時まで毎晩解熱剤で熱を下げる状態が続いてい。そこで主治医の紹介状を持って入院することになった。

 2月20日に予定通り入院したが、当然のことながら、入院時の朝には平熱であったが、夜に熱が出ることとなり、先ず発熱の原因追及が先となり、脈拍・血圧・呼吸・酸素量などの24時間計測のためのセンサーが身体に取り付けられ、また尿の出方が悪いことから、導尿管が取り付けられた。そして26日の胃瘻交換は中止となった。また、検査の結果、発熱の原因としてesbl及びMRSBと2種類の感染症に罹っていることが分かった。この結果、抗生物質の投与によって週末には発熱を抑えることが出来るようになった。

 発熱も下がり胃瘻交換が可能になってきたので、消化器科の診察を受けたところ、喉の筋力が弱っており、従来と同様に内視鏡を入れて胃瘻を交換することが体力的に無理だとの結論に達した。その結果、従来バンパー型胃瘻器具に替えて、従来器具を取り付けていた腹部の穴に外部より挿入し取り付け、腹部に挿入されたシリコンの袋を膨らせるバルーン型胃瘻器具に変更することになった。

 このバルーン型は内視鏡室まで移動することもなく、ベット上で交換が可能とのことで、3月2日(金)に交換することに決定したが、当日器具の在庫がないことが分かった。週末のため即発注しても週明けになることが分かった。

 結果的には3月6日(火)に無事交換が出来た。従来は胃瘻交換日の翌日に退院していたので、2日後なら退院が可能だろうと8日(木)に介護タクシーの手配をした。しかし早計で胃瘻器具が変更されたので、経過を少し見たいとのことでキャンセルする結果となった。一方、導尿管か付いた状態なので、取り外しをお願いしたところ、早速取り外して貰えたが、排尿の気配がなく、再び取り付けられてしまい、退院までに再度試みて貰うことになった。

 退院日については週明けの12日(月)に決まり、、再び介護タクシーの手配を行った。しかし、入院時に臀部がタダレていて、皮膚科に往診を受けていて、次の往診日が12日となっているのに気づき「タダレも快方に向かっているので、退院日をもう1日延ばして、往診を受けていったらどうか。」との話があり、退院日を13日(火)に再び変更することとなった。これに伴って介護タクシーも再びキャンセルし、13日(火)に変更する結果となった。

 導尿管の取り外しについては11日(日)に再び取り外してくれたが、今回も自力での排尿の気配はなく、バルーンを付けた状態で帰宅することとなってしまった。

 3月13日再三変更した介護タクシーで2時半に帰宅することが出来た。当日は訪問介護士の来る日であったので、3時からバルーンなど処置を含めて看護を受けやっと落ち着くことが出来た。

 今回の入院は当初1週間を予定していたが、3倍の21日もかかってしまった。しかし、翌3月14日が妻の81歳の誕生日であったので、自宅で誕生日を迎えることができたことで一安心することが出来た。看護士など支援して下さっている人々より誕生日を祝うメッセージカード頂いた。


【追記】
 退院時導尿管を取り外すことが出来ずバルーンが付いたままであったが、バルーン交換時の朝、尿道管による排尿を止めておき、午後に導尿管を取り除くことで自力での排尿を可能にすることが出来た。これによって2ヶ月振りにバルーンのない生活に戻ることが出来た。



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