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トラブル(その3)
平成30年8月10日
 トラブル(その2)で述べたように、昨年暮れより夜になると38度程の熱が出るため、何種類かの抗生剤を服用するも効果がなく、夜に頓服で熱を下げることが、2月に胃瘻交換のための入院時まで続いた。入院後、感染症にかかっていることが分かった。そこで、先ず感染症の治療を行った後に胃瘻交換することになった。

 当時使用していた胃瘻器具はバンパ−型で胃瘻交換の際、内視鏡を使用する必要がある。しかし、胃瘻交換の事前検査を行ったところ、喉の筋力が弱っており、内視鏡の使用が困難となった。その結果、内視鏡を使用せず取り付け可能なバルーン型に変更することになった。また、入院直後より感染症治療の関係から、導尿管が取り付けられていたので、退院時にその撤去をお願いし、2度ほど試みてもらったが、上手くいかなかった。

 その結果入院前と比べて退院後は
 @ 胃瘻器具がバンパー型からバルーン型に変わったこと。
 A 導尿管が取り付けられたままであること。

 以上に加えて退院後も喉の筋力の低下に起因するのだろうか、咳き込んだり、唾の飲み込みが上手く出来ず、苦しそうな声を発し喉の異常を訴えることが多くなった。これにより吸引器の出動回数が多くなった。

【導尿管】
 やむなく導尿管を付けた状態で退院することとなった。介護だけを考えるとオムツ交換の頻度が少なくなり、楽になるが本人からすると不要な異物が体に付着しており、違和感がある。また車椅子で移動する際にはバルーンを持ち運ぶ必要があり如何にも病人臭さを感じさせてしまう。しかし、自力での排尿の出来ないことで、1ヶ月経過時にはやむなく導尿管を交換した。しかし、見ている側からすると痛々しいので、2ヶ月目の交換時期に撤去方法について看護士と相談した。

 導尿管の交換は撤去し、新しい物を取り付ける作業なので、一度で済む。しかし、導尿管を不要とするためには先ず撤去し、数時間自力での排尿があるかどうかの確認が必要となる。従って排尿の確認が取れた場合は問題ないが、万一排尿がない場合には再度導尿管取り付けの手間が必要となる。しかし、昨年胆のう炎で入院した際、やはり導尿管付きで戻ってきたが、2日目に導尿管そのものが詰まって丸1日排尿できなくなり、交換のため撤去した際に一斉に排尿があり、新規導尿管を取り付ける必要がなくなったことを思いだした。

、そこで、看護士の来る時間が3時なので、『当日の朝、導尿管を止めておき、訪問時に導尿管を撤去し、排尿があれば、そのまま。排尿がない場合、新規の導尿管の取り付けをするようにすれば、一度で済むのではないか。』を提案し、実行して貰ったところ、見事に成功した。これによって本人もスッキリし、介護する側も安心できた。

【バルーン型胃瘻器具】
 今回内視鏡の使用が出来なかったため、バルーン型胃瘻器具に変更になった。内視鏡を使用せずに取り付けが可能なため、取り付時の負担が少なくまた一応6ヶ月の保証は付いているが、インターネットで見る限り、1,2ヶ月で交換とも書かれており、バンパー型に比べると安定性に欠けるようで、不安でもあった。また接続チューブの取り付け構造も従来の物と異なり、取り扱いに慣れるまでに少々時間がかかった。

 使用中に胃瘻器具周辺の着衣が濡れてくることが発生してきた。最初は接続用チューブの取り付け方の問題と思われたが、そうではなく今回の器具は従来取り付けていた腹部の穴に器具を差し込み、その先端部分に取り付けられている袋(バルーン)を膨らませただけであるため、腹部の穴と器具の密着性が悪く出来た僅かな隙間から、胃の内容物が漏れてきていることが分かってきた。正常時にはその漏れは僅かであるが、栄養剤投入時及び投入後まだ栄養剤が腹部に残っている時に咳きこんだり、呼吸が荒くなり腹部に外圧が加わったりすると胃の中の圧力が上がり、可なり広範囲に着衣を汚すほど、胃の内容物が濡れ出していることが分かってきた。現状としては漏れが拡大したり、傷口が化膿したりと言った異常事態までに至っていないので、注意を払いながら、次回の胃瘻交換まで、維持して行こうと思っている。

【吸引器の利用】
 今回の退院後、喉の筋力の衰えによるものと思われるが、咳きこんだり、唾や痰が絡んだりすることが多くなり、吸引器の利用頻度が増えている。

 認知症に罹って先ず言葉を忘れて話が出来なくなり、声を発することを忘れて仕舞い、体の異常を察知することが、非常に困難であった。所が寝たきりになって1年ほど経過した頃から喉に異常を感じた時などに声を発するようになった。最初の頃は「アーーー」とか「ウーーー」と言った2種類ほどの単純なもので、喉に異常を感じた時や何かよく分からないが訴えたい時に発するようなった。

 現在は可なり複雑な声を発するようになり、基本的に喉の異常を訴えるもので、声の強弱も有り、苦しさが伝わってくる来るものになっている。介護する側からすると発せられる声の種類や強弱によって、苦しさの状態が伝わってくるので、対応しやすくなっている。

 吸引は喉に溜まった唾を口から取るだけで済む場合と鼻から吸引する必要がある場合がある。鼻を詰まらせている場合は殆どなく、喉に溜まった痰で単純に吸引できる場合もあるが、最近は可なり喉の奥深く、真空状態を複数回繰り返すことで、やっと吸引できるケースが多くなっている。

 吸引は昼間だけでなく、夜中2,3時間置きに突然大きな声で起こされることもある。また吸引後直ぐ落ち着いて呉れる場合は良いが、、むせ返って落ち着くまでに2,30分かかってしまうと寝そびれて、寝不足になってしまう場合もある。いずれにしても大声で異常を知らせてくれることは大事に至る前に処置が執れるので、ありがたいことである。

【新しい発見】
 以上のように喉の筋力低下から、吸引器の使用が増えてきた。この結果から思わぬ現象を発見することとなった。

 本人からすると吸引されることは嫌なことだが、吸引によって呼吸が少し楽になることも分かっている。最近分かってきたことであるが、吸引器の電源を入れたことで、吸引器の音が鳴り始めると、これから「吸引されるのだ。」と言うことが分かり始めたようで、身構えた様子になる。今まで音に対する反応は見かけたことがなく、音に対しても反応しうることが分かった。

 また吸引作業はベットの右側から基本的には行っているが、左鼻孔からのカテーテルの挿入がしづらい時、ベットの左側に廻って、吸引をしようとすると、吸引されることが分かっており、顔を若干左に傾けて、カテーテルの挿入をしやすいようにしてくれる。

 吸引器の音を聞く → 吸引作業を連想 → ベットの左側への移動を眼で追う → 左側に来たことを確認 → 吸引作業をしやすいように顔を左に傾ける

 これは脳梗塞で脳細胞の一部が損傷し、体の一部が動かなくなった場合、リハビリを繰り返すことによって、損傷した細胞周辺の神経細胞によって患部を動かす機能が再構築され、運動機能が回復してくれる。

 この現象と同じことが上記の場合も起きたのだと思う。即ち認知症の進行が止まった現在、前頭葉、側頭葉の大半の神経細胞は欠落して仕舞っているが、僅かばかり残っている神経細胞の中に新しい知識として記憶されたのだと思う。これこそ生きている証拠であり、生命力の偉大さを感じた次第である。今後も何か新しい行動の変化が起きることを期待している。


トラブル(その4)
平成30年9月29日
 バルーン型胃瘻器具になったことで胃瘻漏れの問題が発生したが、何とか6ヶ月間持ちこたえ、無事交換時期を迎えることが出来た。今回は予め胃瘻交換日を8月29日に決めて、2日前の27日に入院9月1日退院とスムーズに最短の入院日数で済ますことが出来た。その上体調も良かったため、交換のために内視鏡を使用することが出来た、従来のバンパー型に戻して貰うことが出来た。このお陰で胃瘻の漏れもなくなり、ほっとすることが出来た。しかしこれは束の間の出来事で思わぬ展開となって仕舞った。時間の経過を追ってみる。

◆10日(月)
 朝リハビリの際、寝間着の左胸のあたりが濡れていたので、余り気にせず寝間着を交換した。

◆11日(火)
 朝、昨日と同様に寝間着が濡れていた。又胃瘻の漏れが始まったのかと思いつつも余り気にしていなかった。午後3時に看護士が来て寝間着交換の際、昨日よりも濡れ方は少々多いなと思いつつもそのまま寝間着を交換した。

 その後夜の胃瘻の接続チューブを取り付け、栄養剤を投与し終え、最後の水分補給をし終えたところでふと見るとまた寝間着が濡れているのを発見した。またまた胃瘻チューブの取り付けが悪く外れてしまい栄養剤の投与が上手く出ていなかったのかと思い、胃瘻接続部を見るが、キチンと接続されており、胃瘻部の漏れではない。よく見ると少し左に傾けた、口から漏れ出していたことが分かった。思い当たる原因としては胃に留まっている栄養剤の量が多く、腹圧で押し上げられたのだろうと判断し、明日朝からは投与時間を2倍位に延ばして投与することにした。

◆12日(水)
 今日はデーサービスに出掛ける日なので7時前より栄養剤の投与を開始し始めた。しばらくして枕元を見ると首回りがべっとりと濡れているのを発見。昨晩、寝間着を交換後に、嘔吐をし続けていたことになる。急遽胃瘻を中止する。栄養剤(ラコール)は100cc程減っていた。、水分不足だと良くないと思い、水分100cc補給した。熱を計ると8度8分あり、デーサービスに行ける状態ではない。

 先ず、デーサービスに休むことを連絡し、9時にケアマネージャーにも連絡し、状況説明及び送迎のヘルパー派遣について、朝はそのまま介護を手伝って貰うが、帰宅時は不要となるので、ヘルパー派遣を中止して貰うことをお願いした。

 9時30分にヘルパーが来たので事情説明すると共にAクリニックに往診を依頼した。その後、早速嘔吐で汚れたベット及び寝間着の取り替えにかかり、一寸体を動かすと少しダラダラと嘔吐が始まった。体を左右に動かすことが危険なことが分かったので、先ず敷布と防水シーツを抜き取るようにして取り外した。しかし、寝間着を脱がせるためには体を動かざるを得ず、一寸体を左に傾けたところ、口からバケツの水をまいたように水分が飛び出した。一瞬驚いたが、これで朝投入した栄養剤や水分の殆どをはき出して仕舞っただろうと思った。ベッドそのものも汚してしまったので、寝たままでは処置が出来ない。一旦車椅子に座らせ、ベットを整えた後、寝かせて寝間着の交換を済ませた。予想通りこれ以上吐くことはなかった。

 振り返って見ると思わぬ時問に発生した出来事であるが、幸いにもヘルパーの来る時間帯と一致していたために、ヘルパーの協力を得て慌てることもなく処置が出来たが、もし一人の時であったなら、慌てると共に処置に困り果てていたと思う。

 またAクリニックも往診日であったため11時に往診担当医の往診を受けることが出来た。可なりお腹が張っているとのことであった。12時頃医院長より電話があり、『腸閉塞の疑いがあり、昭和大学病院と連絡を取った所、早急に連れてくるように。また資料はファックスで送っておく。』との連絡を受けた。早速、『119番』をした。救急車に乗った段階で酸素不足が起きていて、酸素マスクを付けた状態となった。

 12時45分頃昭和大学病院に到着。救急治療室へ直行して、緊急治療が開始された。ひたすら待つこと4時間半、16時15分頃検査が終了し、結果の報告を受けた。『現在最も重い症状は肺炎である。腸閉塞の可能性があるとのことであったが、現在は起きていないが、2CM程の大きな胆石が小腸にある。嘔吐の原因はこの胆石によるもので、嘔吐の繰り返しが誤嚥による肺炎の原因になっている。』とのことであった。重傷のため入院は決定したが、最終入院部署が決まるまでに、1時間少々かかったが、「緊急度の高いのは誤嚥性肺炎であるので、神経内科(東病院)に入院し、胆石問題については消化器内科が支援をして行く。」ことに決定した。正式に神経内科への入院は翌日となるので、17時半頃やっと緊急病室に移動し、入院手続を済ませて帰宅できたのは、19時半を過ぎていた。

◆13日〜19日
 13日午前中に神経内科に移動し、本格的肺炎の治療が始まり、熱は下がり始めたが、17日便が出ず、腹部が張り始めてきた。消化器内科の支援の下、検査の結果胆石が小腸を移動し大腸の入り口で止まり腸閉塞を起こしていることが分かった。胃瘻用の減圧チューブを使用してみるが、殆ど効果なし。

 これにより治療の緊急度は肺炎よりも腸閉塞になったため急遽消化器内科の病室へ移ることになった。

19日〜現在
 19日の昼前に神経内科の東病院より消化器内科のある入院棟へ移動し、腸閉塞の治療を受けることになった。診断結果により現状の説明を受けたところでは
 ◆胆石が余り経験のない約2CMと大きく、自然に大腸に抜け出る確率は低い。
 ◆胆石の摘出は手術によるのが基本だが全身麻酔に耐えられる体力がないので困難である。
 ◆腹部の減圧のためにカテーテルを小腸まで入れることになるが、これも喉の筋力が低下しており
  困難。この代替えとして喉からではなく、胃瘻部より入れる方法がある。
 ◆現在栄養補給を点滴で手足の血管から行っているが、長期的には困難のため、首又は太ももの
  静脈に変更する必要がある。
 ◆体力の回復を待って胆石を砕くことが出来ないか検討中。
 ◆いずれにしてもこれらはリスクを伴うものであり、同意書が必要になる。
 
≪余談≫
 胆石は生涯胆嚢が抱え込んだままと思っていたので、どのようにして出てきたのかを確認した所、胆嚢が小腸と癒着してしまい、胆石が小腸と擦り合って小腸に穴を開けてしまったことにより、胆石が小腸にズレ落ちた。とのことである。期間は分からないが、その間本人にとっては大変な苦痛だったことと思う。

 22日に点滴を左足太もも付け根の静脈からできるように、また胃瘻部より減圧のためのカテーテルを取り付けた。この結果、当初パンパンに張って90CMほどあった腹囲が3日後に84CM程に減少し、現在は更に減少している。又尿も正常に出始めているようである。

≪今後について≫
 入院当初は胆石が自然に排泄されない限り、腹圧は治まったとしても、エネルギー源は点滴に頼らざるを得ず、自宅療養に戻ることは8,90%不可能と思っていた。しかし、体調が戻れば、胆石を砕く方法もあるとのことである。先ず胆石を砕くことに成功し、胆石が自然排泄できれば、胃瘻の再取り付けも可能となる。一つの灯りが見えてきたので、今後の経過に期待して見守って行きたい。


トラブル(その5)
平成30年11月19日
 トラブル(その4)以降の状況は以下のごとくである。
◆10月3日現在
 消化器内科に移動後、点滴のためのカテーテルを左足首に取り付け、腸内の廃液を取り出すために胃瘻部よりよりチューブを取り付けたことによって腹部の張りも治まり、体調も安テ化してきた。一方胆石は小腸の末端部分で浮揚しており、当初考えていた胆石を破壊する方法については胆石の存在する位置が周辺の小腸によって隠れる結果となり、実施は困難となった。しかし、体調が回復してきたことで、手術が可能となった。

◆10月4日
 手術が全身麻酔となるので、麻酔科の先生より麻酔に関する説明を受けた。

◆10月5日
 朝9時過ぎに「腸より出血が起きている。その対処方法について打ち合わせたい。」旨の電話があり、急遽長男嫁と出かける。11時前頃より打合せを開始し、「腸壁からの出血のため内視鏡を使用し、場所の特定とその止血処置をしたい。」旨の話を聞いている最中に緊急電話で「血圧が「60」台まで下がった。」との連絡を受け、話は打ち切られた。そして、「様態は今晩が山場である。」ことが告げられ、急遽子供達全員に集合を掛けた。

 一方、緊急治療として「輸血」及び「血圧を上げるための注射」が行われた。これにより5時頃までに血圧は「80」、「100」近くまで上昇してきた。

 長男も出張先から帰宅予定の飛行機を繰り上げて帰宅し、7時頃に家族全員が揃ったところで、現状について報告を受けた。「危険状態からは脱した。」とのことで、一安心する共に帰宅も可能となった。

◆10月6日
 輸血は昨夜で終了したが、血圧を上げる注射は継続していた。出血は止まって来ているようであるが、胃にも廃液が溜まってきているため、胃から廃液を取り出すために、鼻にチューブが取り付けられていた。痛々しいがこれもやむなし。

◆10月7日〜8日
 血圧を上げるための注射は日を追って減少した。血圧は「120」前後が維持できている。腸及び胃からの廃液取り出しは継続。痰の吸引は可なりの頻度で必要。


◆10月9日
 血圧を上げるための注射は撤去された。

◆10月11,12日
 経過見となった。

◆10月13日
 先生と面談。体調から胆石を手術で取り出すことは困難となった。点滴を長期に安定的に続けるためにはカテーテルを埋め込むか相談を受けていたが、これ以上体に負担を掛けたくなく、カテーテルの取り付けは止めて貰い、リスクはあるが、点滴は現状の足の付け根からを継続して貰うことにした。また、現在廃液処理は暫定的に胃瘻を取り付けていた腹部より可なり長いチューブを小腸に挿入しているが、これを本来の胃瘻器具にチューブを取り付けた物に近々交換する旨の話があった。

◆10月16日
 胃に溜まった廃液を取り出すために鼻に取り付けられていたチューブが取り外された。少し痛々しさが減少した。

◆10月19日
 小腸に溜まった廃液を取り出すために暫定的に取り付けていたチューブを撤去し、腸迄届くチューブを取り付けた胃瘻器具を腹部に取り付けを行った。体力的に手術によって胆石を取り出すことが出来なくなった現在、エネルギー源は点滴に頼ることとなり、その環境が整えられた。これで消化器内科としての役割は終わったこととなり、次の療養先を決めて貰うことになった。

◆10月20日〜23日
 廃液処理用チューブ交換による問題はなく経過。

◆10月24日
 東病院神経内科へ戻った。早速、今後の相談があり、エネルギー源を点滴に頼ることとなった現在、
自宅療養に戻ることが出来ぬため、療養型病院への展院についての説明を受けた。

◆10月27日
 酸素マスク取れる。可なり安定してきた。

◆10月29日
 療養型病院Kについて説明を受ける。また、入院経験のあるM病院も一時的に受け入れて貰うことも可能で、最短受け入れ可能日は11月4日である。との説明を受けた。

◆10月30日
 11月4日にM病院に転院することで、手続を進めて貰うことにした。

◆10月31日
 点滴用のカテーテルを交換した。

◆11月2日
 無事M病院に転院。

【不慮の出来事】
 9月13日に発熱及び嘔吐にて緊急入院し、今日に至っている出来事には思いもよらなかった2つの事態が起こっている。

◆その1
 今回の事態が胆石が腸壁を破り腸に流れ出たことである。20年程前に1CM程の胆石を抱えていたことは承知していた。この胆石が2CM程まで大きくなり、腸壁を破って腸に排出されるとは全く想像もしていなかったことが起きたことである。

◆その2
 肺炎も落ち着き始め、腸内の廃液処理も一段落して、体力も回復してきた。そこで胆石の摘出のための手術も可能となり、その準備のため全身麻酔の方法について説明を聞いた翌日に腸内より大量の出血が起きた。そして一時危篤状態まで至った。

 しかし、迅速な処置(輸血と昇圧のための注射)によって一命は取り留めることが出来た。廃液処理のリスクとして腸壁に傷を付ける可能性のあることは聞いていたが、どうして突然に主鬱血が発生したのか、また処置後、出血の場所傷の状態も分からぬまま、ピタッと出血が止まってしまったことである。
何か本人が「手術はして貰いたくない。」との一念によるもののように思われテならない。

【今後について】
 何とかもう一度自宅に戻してやりたい、そのためには手術で胆石を摘出し、もう一度胃瘻に戻す事であった。しかし、体力的に手術が不可能となり、エネルギー源は点滴に頼らねばならなくなった結果、自宅での介護は不可能となり、療養型病院に頼わざるを得なくなった。

 10月上旬に出血が起きた時には一命を取り留めたものの、とても年を越すなど想像は出来なかった。しかし、迅速且つ適切な治療及び看護によって、胆石を腸の中に抱えたままであるが、現在は可なり体調は安定して来ており、年を越すことの可能性が見えてきた。年明けまではM病院お世話になれる見込みなので、その後については少しゆっくり考えて行こうと思う。

妻逝く
平成31年2月8日
 妻は1月12日午後8時10分に安らかな眠りにつきました。

 「トラブル(その5)」
で述べたようにエネルギー源を点滴に頼わざるを得なくなり、療養型病院へ移る予定でしたが、過去に誤嚥性肺炎で入院したことのある、M病院で体調が回復するまで、暫く面倒を見て貰うことが出来、11月2日に昭和大より転院した。

 体力は可なり低下していたが、低空飛行ながらも一応落ち着いていた。12月に入ってから、午後になると38度を超える熱が出るようになり始めた。これは一見昨年暮れに夜になるとなると、38度後半の熱が出た現象(トラブルその1)を思い起こせるものであった。しかし、20日を過ぎた頃より、夕方になると熱は上がるが、38度を超えることがなくなりだし、むしろ朝の体温が37度を切るようになってきた。これは過去にない珍しい現象であり、この時点で無事年を越せる見込みがたってきた。

 26日に何時も通り2時頃病院に行くと、「個室が開いたので、丁度今から個室へ移動するところ。」と言われ、個室に移動した。28日より年末年始の休日となったため、特に移動の理由を尋ねるでもなく、、落ち着いた環境で新年を迎えることができた。

 元日は初詣に池上本門を参拝後、大堂左手横の階段を下り、日蓮聖人ご臨終の間のある大坊本行寺を経てM病院(200m程)に向った。、体調は前日と余り変わりはないようだが、胃瘻部に取り付けてあるバルーンにかなりの量の黒ずんだ廃液が出ていた。腸閉塞以降、殆ど出なくなっていた廃液が出始めたことで、また腸閉塞の再発かと思ったが、5日には廃液は止まり、一安心した。しかし、眼は焦点が絞れず遠くを眺め、目を合わせることが殆ど出来なくなって来ていた。

 8日に病院へ行くと、昨夜来体温が33度に下がり、血圧も80に下がり、従来は体温は37度台と高かったため、薄手の毛布程度を掛けていたが、湯たんぽで温めることとなった。9日には体温は36度程に戻り、血圧も90に上ったが、尿の量が300CC程度と極端に減少していた。11日には尿量は減少のママで、酸素量90を切ることが多くなってきていた。

 12日も何時も通り、2時頃病院に行くと、前日とは異なり、計器上の数値を見ると心拍数は70を越え、酸素量は酸素量を最大にしたとのことであるが、略100%、血圧も100を越えていた。2時間程いたが、数値は殆ど変わらず安定していたので、しばらくは大丈夫だろう安心して4時過ぎに帰宅した。午後7時過ぎに危篤の電話があり、8時前に病室に入るが、既に計器の数値は全て”0”を示していた。8時10分に医師の診断により、死亡が確定した。

 4時間前には最後の元気な姿を見せてくれたのだと思う。苦闘の18年間でした。安らかにお眠り下さい。ご冥福を祈ります。

18年間を振り返る
令和元年6月15日
 21世紀を迎えた2001年妻は認知症に罹った。それ以来、妻の時計の針は逆転を始めた。その時計の狂っているのは分かっているが、正常な回転に戻す方法はない。そこで巻き戻す速度を遅くし、少しでも長く動かし続けたい。一方本人は苦しいから早く止めて欲しいと願っている。両者で綱引きをする人生ゲームであったと思う。そして、18年間だましだまし、時計を動かし続けて来たが、1月12日に見舞った際、前日とは打って変わって心拍数70台前半、血圧100台、酸素量も略100と正常値を示しており、しばらくは安泰と思って帰宅したところ4時間後に息を引き取った。人生ゲームは一寸油断したすきにゴールに飛び込まれた感がある。

 この18年間を振り返って見るに当たって、主な経緯をまとめたものが図1です。

T.【介護度】
 2001年に認知症と診断された際に、介護申請をし、ケアマネージャーが決まり、審査の結果「要支援」(当時は要支援1と2に分かれてなかったと思う。)でした。翌2002年の年度初めに再審査があり、「要介護1」となりました。その後は2年ごとに審査が行われることになりますが、最初の2004年に2段階上がって「要介護3」となり、そして、次の2006年にはまた2段階上がって「要介護5」となりました。言い換えれば認知症の進行速度が如何に早かったを表しており毎年介護度を1ランクづつ押し上げ、わずか5年で最高位の介護度を得る結果となっていました。


図 1 介護の経緯
U.【医療関係】
 18年間に多数の医療関係の方々にお世話になりましたが、特に認知症でお世話になった方々です。Aクリニックは常日頃通院していた主治医で、神経内科を紹介頂いたり、2012年以降、訪問医療も担当して頂きました。

 2001年に認知症であることが判明しましたが、翌年2002年に改めて荏原病院神経内科医N先生の紹介を受け、受診した際、「言葉が話せなくなって来ていること」を話したところ、学会でもご一緒し、言語関係に詳しく、一目置く先生として紹介頂いたのが、昭和大学神経内科K 先生でした。その後17年間通院させて頂き、特に2012年以降は半年ごとの胃瘻交換に合わせて検査入院を引き受けて頂きました。K先生は昭和大学の教授で昭和大学付属東病院の医院長を歴任され、定年退職されましたが、現在も大学の客員教授及び病院の神経内科の外来受診も行われています。

 中央大学心理学のM 先生は認知症学会でK 先生と知り合い、昭和大学の研究生として在籍し、K先生の認知症患者を心理面より診断する研究を続けてこられました。K 先生が大学を定年退職された際に、病院で直接患者を診ることはなくなりましたが、従来より家まで出向いて家庭環境まで目を向けて戴き、現在も年1度は尋ねて頂いていました。現在は中央大学の心理学科の教授として活躍されたいます。

 神経内科K先生への通院は1,2ヶ月間隔で通っていました。K 先生の診察後、別室のM 先生を訪ね2,30分の面談を受けました。先ず1ヶ月間の状況に付き説明後、色々な道具を使って本人の動作や機能について、確かめて貰いました。本人もさることながら、私自身も「能力の衰えを嘆くのでなく、まだ残っている機能を発見し、その機能を生かしてやること。」が重要であることを学び、以降の介護に大いに役立ちました。


V.【介護関係】
 2001年に認知症と診断された際、介護申請をし、区が運営するI社にケアマネージャをお願いしました。区の運営のため人事異動があり、比較的短期に交替しましたが、それぞれ積極的に活動して頂きました。

 2002年度介護度が「要介護1」となったことで、ケアマネージャの要請もあり、ヘルパー派遣をY社にお願いすることになりました。当時は介護制度も出来たばかりで、派遣の内容に関しては暗中模索でしたので、「蒲田までの買い物に同行」「料理の手伝い」「(話すことが出来なくなって来ていたので)童謡を一緒に歌って貰う。」など合わせて3,4時間を提案したところ、ケアマネージャも区の担当者と折衝して受け入れた貰いました。また派遣会社Y 社はこのような要求を満たす2人のヘルパーB,Iを 派遣してくれました。ヘルパーB は3年間程、ヘルパーI については10年間以上お世話になりました。ヘルパー派遣法は再三見直され、その度に作業内容及び1回の時間規制が厳しくなり、利用者にとって不便なものとなって仕舞いましたが、Y 社には最後までお願いして参りました。

 デーサービスの利用は2002年の秋頃より始まりました。利用したのはケアマネージャーの所属するI 社が運営するYZ社(在宅センター)です。当初はセンター利用と送迎が分かれていましたので、帰宅時の迎えはヘルパー派遣会社Y 社にお願いしました。デーサービスの利用は一時認知症を対象とした、医療保険対応のデーサービスに移りましたが、1年半程で医療制度の変更で、このデーサービスがなくなりましたので、その後はYZ社に戻りました。その後、YZ 社も認知症対を充実されましたので、寝たきりになった以降もお願いし、車椅子で最後まで、通いました。介護制度の変更でデーサービスの役割は送迎まで含まれることになりましたが、あくまでも送迎はドアツードアとなったため、ベットと車椅子間の移動はヘルパーの支援が必要で、これもY社にお願いしました。

 2012年に誤嚥性肺炎で入院後、胃瘻で寝たきりとなり、介護環境が一変しました。医療関係で訪問医療(2回/月)に加えて、介護関係ではヘルパー派遣、デーサービスの他に訪問看護、マッサージ、訪問入浴のサービスを受けることになりました。これらのサービスは略曜日毎に固定化されましたので、その関係を図2に示します。日曜日を除いて毎日誰かしらの介護支援を受けていたことになります。

図2 週間介護計画表
リハビリ
(C 社)
訪問看護
(T 社)
送:ヘルパー
(Y 社)
介護:ヘルパー
(Y 社)
リハビリ
(C 社)
入浴
(P 社)
(なし)
訪問医療
(A クリニック)
(2週間毎)
デーサービス
(YZ社)
*送:ヘルパー
(Y 社)
迎:ヘルパー
(Y 社)
*デーサービス
(YZ社 )
*:月2回
*迎:ヘルパー
(Y 社)

 訪問医療は前述のようにA クリニックにお願いしましたが、訪問看護に関してはA クリニックに付属したT 社にお願いし、両者で連携を密に取って頂きました。O 看護士には最初から最後まで面倒を見て頂き、又訪問時に2,3度緊急事態が発生し、適切に対応頂いたことが思い出しています。

 手足の硬直化(特に手)が進んだことから、リハビリの必要性を痛感し、週2回の派遣をC社にお願いし、Y 理学療法士、A 作業療法士の二人にやはり最初から最後までお願いしました。

 身体的に家庭の風呂に入れなくなったため、訪問入浴を週1回でしたが、P社にお願いしました。

 寝たきりの状態から少しでも解放してやるべく、1回/週+2回/月でデーサービス(従来通りYZ 社)に車椅子で通わせました。またデーサービスへの送迎のためにヘルパー支援が必要となり、この支援と1回/週の身体介護のためにヘルパー派遣を従来から継続して、Y社にお願いしました。平成30年9月12日にデーサービスへ送り出しのためDヘルパーに来て貰った際に嘔吐・発熱のため緊急入院したのが最後となりました。

W.【出来事】
 出来事とは介護環境を変えると言うよりも変えざるを得なくなった事件です。この大事件は3回起きており、第1回目は『徘徊』によるもの、第2回は『靴擦れ』によるもの、第3回目は『誤嚥性肺炎』によるものです。そこで介護支援の方法を『徘徊』発生するまでを第1期、『靴擦れ』が生じるまでを第2期、『誤嚥性肺炎』迄を第3期、『誤嚥性肺炎』以降を第4期とします。

≪第1期≫
 当初は言葉数は少なくなり、認知症とレッテルは貼られましたが、介護認定では、要支援、普段通り一人で買い物に行き、食事の用意も出来ていましたので、時々蒲田まで買い物につきあったり、行動に注意はするものの特別な介護はしていませんでした。

 突然の出来事は2003年7月17日に起きました。当日何時も通りクラブの会合に出掛けるため、一緒に家を出ましたが、途中で別れて一足先に出掛けました。当日は何時もより早めに5時半頃帰宅しましたが、家の雰囲気から帰宅した様子がなく、蒲田まで探しに出掛けてはみましたが、見当たらず、110番通報して捜査を依頼しました。11時頃池上警察署より連絡があり、捜索願に切り替えました。

 ここ2,3年一人で電車に乗ることはありませんでしたので、安心していましたが、考えられることは前日高島屋から届いた展示会の招待券を手にしていたことです。どうも高島屋に行くべく、電車に乗ってしまったようです。翌日朝になっても全く連絡はありません。幸いなことに前日の会合のメンバーの中に高島屋出身者がいましたので、同行願って、立ち回りそうな場所を尋ねて廻りましたが、情報は得られず、無駄とは思いながらも、銀座4丁目まで歩いて帰宅した。4時半頃電話があり、最初は警察からかと思いましたが、川口の町工場の社長さんからで、工場前の広場にあるバス停に2時間程立ち止まっていたので、声をかけて貰い電話番号を聞き出してかけて呉れたとのことでした。

 この事件以来、常に行動監視が必要となり、介護方針を見直すこととなり、第2期に入りました。

≪第2期≫
 話すことは出来ないが、体は健在で、買い物に出掛けることが、日課となりました。不必要な外出は押さえ、外出の際には同行者を付ける必要が生じました。先ず勝手な外出を避けるために、玄関に第2、第3の鍵を付けました。新しく追加した鍵は鍵であることが認識出来ないため成功でしたが、鍵の閉め忘れで2,3回警察のお世話になりました。クラブへ出掛ける際には他人の手を借りる必要があり、当初は単独のヘルパー派遣を利用していましたが、介護保険制度の改正がある毎に、1回の派遣時間が短縮されてきたことから、デーサービスとの併用や個人負担でやりくりしてきました。

 一方普段は出来るだけ散歩に連れ出してやることにしました。又少し遠出の際には車を利用することにしました。理由は簡単で車に乗っている間は完全に身を確保が出来ているからです。また年に2,3回は一泊旅行で温泉地に連れ出していました。月日が経つにつれて、遠出の際に色々なトラブルが発生してきました。「トイレに手提げカバンを忘れてくる。」、「失禁対策として着替えを持ち歩く。」など行動面での変化に対応が必要となってきました。今考えると多目的トイレの利用やリハビリパンツの利用をもう少し早くしていれば楽だったのにと思っています。

 散歩は日課となりました。どちらかと言うと殆ど同じ道を歩いていましたが、ある日路地の前で立ち止まり、入っていきそうだったので本人の意思にまかせて行くと路地に入ったり、表通りに出たりしながらも最終的に自宅にたどり着きました。これ以降、家を出た時から、本人任せで出掛けると毎日違ったコースを通り最終的には家にたどり着いていました。本人にとっても同行する側にとっても楽しくなっていましたが、2008年1月中旬に朝起き上がれなくなり散歩も歩きが鈍くなって来ました。何か足の指先に違和感を感じているようであり、、内科、整形内科に通ったが特に異常なしとのことでした。最後に皮膚科に通ったところ、足にむくみがあることから、靴と靴下を脱がせて見たところ左足の踵に大きな靴擦れが出来ていて、直径3cm程の皮が剥けていることが判明しました。この結果、皮膚が回復するまでに可なりの時間を要し、その後は歩行のために手を繋いで介助しながら、ゆっくり歩くこととなって仕舞いました。これより第3期に移行することとなりました。

【第3期】
 介助しながらの歩行となり、第2期時代よりも時間も距離も短縮されることとなり、家より500m程の所にあるスーパーにで出掛けるるのが日課となりました。車で遠出の際にも行動範囲は縮小されてきました。

 2009年秋に下部温泉に出掛け身延山久遠寺を訪れた際、カーナビに従って着いたところが山間にある草原の小さな駐車場でした。たまたま居合わせた人の話で、久遠寺(の駐車場)であるとのこと。その人は久遠寺の職員の方で、山肌を手を引きながら一緒に裏側の宿坊に到着したところで、「車椅子をお使い下さい」と貸し出してくれました。お陰で広い境内を楽に移動することが出来ました。帰宅後、早速車椅子をレンタルし、以降、病院通いや遠出の際の必需品となりました。

 体の動きも鈍くなりだした2011年11月にこれが最後の旅行になりそうだと思いつつ、河口湖まで1泊旅行に出掛けました。また12月中旬に掛かりつけの美容院に出掛けました。エレベータがないため、20段の階段をやっとの思いで上り下りしましたが、これが最後だという予感がしました。

 年末年始は無事過ごすことが出来ましたが、2012年1月末に誤嚥性肺炎に掛かり、2ヶ月間程入院。その間に食事が摂れなくなったために、胃瘻の取り付けを行いました。一方両手は硬直化し、足は筋力を失い、立つことも出来なくなり、寝たきりの状態となって仕舞いました。これにより生活環境は一変し、介護形態も第4期となりました。

≪第4期≫
 寝たきりとなったことで、介護形態は一変しました。私自身で出来ることはほんの僅かで、大半のことは専門家に依頼することとなりました。先ず、通院が出来ぬため訪問医療をA クリニックにお願いしました。介護面ではケアーマネージャと相談の結果、先ず従来からのヘルパー派遣及びデーサービスに加えて、訪問看護、リハビリ、訪問入浴をお願いすることとなりました。これにより月曜日リハビリ、火曜日は訪問看護、水曜日はデーサービスとその送迎のためのヘルパー派遣、木曜日は身体介護のためのヘルパー派遣、金曜日はリハビリと月2回のデーサービス及びヘルパーの送迎派遣、土曜日は訪問入浴と日曜日を除いて月曜日から土曜日まで毎日いずれかの介護サービスを受けることになりました。

 当然のことながら朝昼夜3回の胃瘻による栄養剤の投与及び薬の投与並びに介護サービス不在時の身体介護は全て私の責任でした。しかし、2018年9月緊急入院以降は全く私の手から離れ、唯々毎日見舞ってやるだけとなりました。

W.【まとめ】
 振り返って見るとこの18年間は妻にとっては自分の意思を伝えるべき言葉を失って仕舞ったこと、また後半の7年間は好きな食べ物も全く食べることが出来ず、苦しみ抜いた永い月日だったと思います。一方、私にとっては永いようでもあり、短くありですが、最後まで見守ってやれたことに満足しています。

 在宅介護を長期にわたって実行できた理由は以下のようなことだと思っています。
 
 ◆先ず第1に挙げることは多数の医療関係者並びに介護関係者に恵まれ、,温かく見守って頂けたことだと思っています。

 ◆第2は2,3回風邪を引いたことはありますが、大病することなく私自身の健康を維持することが出来たことだと思っています。健康を維持できた理由を挙げると次のようになります。

 1)介護をしていると言う意識はなく、二人の生活の延長線上で捉えてため、ストレスを感じなかったこと。
  (本ホームページを始めて間もなく認知症が始まりました。「季節の花を尋ねて」の欄の前半は妻と出
   かけた記録です。)


 2)失われていく知識や機能を憂うのでなく、、残っている正常な機能、能力を見つけ出し利用したこと
  (目からの映像情報は最後まで、認識出来ていました。)

 3)初期に決めた、絶対キープしたい行動範囲を維持し続けルことができたこと
  (退職後のグループ活動や、同期会、社友会などへの参加でコミュニケーションの維持)


 4)介護作業は完璧さを求めず、80点を目標としたこと
  (緊張・無理をし過ぎず、長期に継続できたこと)

 少々時間が掛かりすぎましたが、以上のように記録と記憶を辿ってまとめて見ました。色々な出来事を改めて思い出されてきましたが、苦しさよりも懐かしさを感じました。現在は冥福を祈るのみです。早いものであと1ヶ月で新盆を迎えます。おいしい食べ(栄養剤ではありません。)物を飾って待っています。楽しみに帰ってきた下さい。


【あとがき】
以上を持って『介護奮戦記』欄
は一旦終了と致します。
 
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