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21世紀を迎えた2001年妻は認知症に罹った。それ以来、妻の時計の針は逆転を始めた。その時計の狂っているのは分かっているが、正常な回転に戻す方法はない。そこで巻き戻す速度を遅くし、少しでも長く動かし続けたい。一方本人は苦しいから早く止めて欲しいと願っている。両者で綱引きをする人生ゲームであったと思う。そして、18年間だましだまし、時計を動かし続けて来たが、1月12日に見舞った際、前日とは打って変わって心拍数70台前半、血圧100台、酸素量も略100と正常値を示しており、しばらくは安泰と思って帰宅したところ4時間後に息を引き取った。人生ゲームは一寸油断したすきにゴールに飛び込まれた感がある。
この18年間を振り返って見るに当たって、主な経緯をまとめたものが図1です。
T.【介護度】
2001年に認知症と診断された際に、介護申請をし、ケアマネージャーが決まり、審査の結果「要支援」(当時は要支援1と2に分かれてなかったと思う。)でした。翌2002年の年度初めに再審査があり、「要介護1」となりました。その後は2年ごとに審査が行われることになりますが、最初の2004年に2段階上がって「要介護3」となり、そして、次の2006年にはまた2段階上がって「要介護5」となりました。言い換えれば認知症の進行速度が如何に早かったを表しており毎年介護度を1ランクづつ押し上げ、わずか5年で最高位の介護度を得る結果となっていました。
図 1 介護の経緯 |
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U.【医療関係】
18年間に多数の医療関係の方々にお世話になりましたが、特に認知症でお世話になった方々です。Aクリニックは常日頃通院していた主治医で、神経内科を紹介頂いたり、2012年以降、訪問医療も担当して頂きました。
2001年に認知症であることが判明しましたが、翌年2002年に改めて荏原病院神経内科医N先生の紹介を受け、受診した際、「言葉が話せなくなって来ていること」を話したところ、学会でもご一緒し、言語関係に詳しく、一目置く先生として紹介頂いたのが、昭和大学神経内科K
先生でした。その後17年間通院させて頂き、特に2012年以降は半年ごとの胃瘻交換に合わせて検査入院を引き受けて頂きました。K先生は昭和大学の教授で昭和大学付属東病院の医院長を歴任され、定年退職されましたが、現在も大学の客員教授及び病院の神経内科の外来受診も行われています。
中央大学心理学のM 先生は認知症学会でK 先生と知り合い、昭和大学の研究生として在籍し、K先生の認知症患者を心理面より診断する研究を続けてこられました。K
先生が大学を定年退職された際に、病院で直接患者を診ることはなくなりましたが、従来より家まで出向いて家庭環境まで目を向けて戴き、現在も年1度は尋ねて頂いていました。現在は中央大学の心理学科の教授として活躍されたいます。
神経内科K先生への通院は1,2ヶ月間隔で通っていました。K 先生の診察後、別室のM 先生を訪ね2,30分の面談を受けました。先ず1ヶ月間の状況に付き説明後、色々な道具を使って本人の動作や機能について、確かめて貰いました。本人もさることながら、私自身も「能力の衰えを嘆くのでなく、まだ残っている機能を発見し、その機能を生かしてやること。」が重要であることを学び、以降の介護に大いに役立ちました。
V.【介護関係】
2001年に認知症と診断された際、介護申請をし、区が運営するI社にケアマネージャをお願いしました。区の運営のため人事異動があり、比較的短期に交替しましたが、それぞれ積極的に活動して頂きました。
2002年度介護度が「要介護1」となったことで、ケアマネージャの要請もあり、ヘルパー派遣をY社にお願いすることになりました。当時は介護制度も出来たばかりで、派遣の内容に関しては暗中模索でしたので、「蒲田までの買い物に同行」「料理の手伝い」「(話すことが出来なくなって来ていたので)童謡を一緒に歌って貰う。」など合わせて3,4時間を提案したところ、ケアマネージャも区の担当者と折衝して受け入れた貰いました。また派遣会社Y
社はこのような要求を満たす2人のヘルパーB,Iを 派遣してくれました。ヘルパーB は3年間程、ヘルパーI については10年間以上お世話になりました。ヘルパー派遣法は再三見直され、その度に作業内容及び1回の時間規制が厳しくなり、利用者にとって不便なものとなって仕舞いましたが、Y
社には最後までお願いして参りました。
デーサービスの利用は2002年の秋頃より始まりました。利用したのはケアマネージャーの所属するI 社が運営するYZ社(在宅センター)です。当初はセンター利用と送迎が分かれていましたので、帰宅時の迎えはヘルパー派遣会社Y
社にお願いしました。デーサービスの利用は一時認知症を対象とした、医療保険対応のデーサービスに移りましたが、1年半程で医療制度の変更で、このデーサービスがなくなりましたので、その後はYZ社に戻りました。その後、YZ
社も認知症対を充実されましたので、寝たきりになった以降もお願いし、車椅子で最後まで、通いました。介護制度の変更でデーサービスの役割は送迎まで含まれることになりましたが、あくまでも送迎はドアツードアとなったため、ベットと車椅子間の移動はヘルパーの支援が必要で、これもY社にお願いしました。
2012年に誤嚥性肺炎で入院後、胃瘻で寝たきりとなり、介護環境が一変しました。医療関係で訪問医療(2回/月)に加えて、介護関係ではヘルパー派遣、デーサービスの他に訪問看護、マッサージ、訪問入浴のサービスを受けることになりました。これらのサービスは略曜日毎に固定化されましたので、その関係を図2に示します。日曜日を除いて毎日誰かしらの介護支援を受けていたことになります。
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図2 週間介護計画表 |
月 |
火 |
水 |
木 |
金 |
土 |
日 |
リハビリ
(C 社) |
訪問看護
(T 社) |
送:ヘルパー
(Y 社) |
介護:ヘルパー
(Y 社) |
リハビリ
(C 社) |
入浴
(P 社) |
(なし) |
訪問医療
(A クリニック)
(2週間毎) |
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デーサービス
(YZ社) |
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*送:ヘルパー
(Y 社) |
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迎:ヘルパー
(Y 社) |
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*デーサービス
(YZ社 ) |
*:月2回 |
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*迎:ヘルパー
(Y 社) |
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訪問医療は前述のようにA クリニックにお願いしましたが、訪問看護に関してはA クリニックに付属したT 社にお願いし、両者で連携を密に取って頂きました。O 看護士には最初から最後まで面倒を見て頂き、又訪問時に2,3度緊急事態が発生し、適切に対応頂いたことが思い出しています。
手足の硬直化(特に手)が進んだことから、リハビリの必要性を痛感し、週2回の派遣をC社にお願いし、Y 理学療法士、A 作業療法士の二人にやはり最初から最後までお願いしました。
身体的に家庭の風呂に入れなくなったため、訪問入浴を週1回でしたが、P社にお願いしました。
寝たきりの状態から少しでも解放してやるべく、1回/週+2回/月でデーサービス(従来通りYZ 社)に車椅子で通わせました。またデーサービスへの送迎のためにヘルパー支援が必要となり、この支援と1回/週の身体介護のためにヘルパー派遣を従来から継続して、Y社にお願いしました。平成30年9月12日にデーサービスへ送り出しのためDヘルパーに来て貰った際に嘔吐・発熱のため緊急入院したのが最後となりました。
W.【出来事】
出来事とは介護環境を変えると言うよりも変えざるを得なくなった事件です。この大事件は3回起きており、第1回目は『徘徊』によるもの、第2回は『靴擦れ』によるもの、第3回目は『誤嚥性肺炎』によるものです。そこで介護支援の方法を『徘徊』発生するまでを第1期、『靴擦れ』が生じるまでを第2期、『誤嚥性肺炎』迄を第3期、『誤嚥性肺炎』以降を第4期とします。
≪第1期≫
当初は言葉数は少なくなり、認知症とレッテルは貼られましたが、介護認定では、要支援、普段通り一人で買い物に行き、食事の用意も出来ていましたので、時々蒲田まで買い物につきあったり、行動に注意はするものの特別な介護はしていませんでした。
突然の出来事は2003年7月17日に起きました。当日何時も通りクラブの会合に出掛けるため、一緒に家を出ましたが、途中で別れて一足先に出掛けました。当日は何時もより早めに5時半頃帰宅しましたが、家の雰囲気から帰宅した様子がなく、蒲田まで探しに出掛けてはみましたが、見当たらず、110番通報して捜査を依頼しました。11時頃池上警察署より連絡があり、捜索願に切り替えました。
ここ2,3年一人で電車に乗ることはありませんでしたので、安心していましたが、考えられることは前日高島屋から届いた展示会の招待券を手にしていたことです。どうも高島屋に行くべく、電車に乗ってしまったようです。翌日朝になっても全く連絡はありません。幸いなことに前日の会合のメンバーの中に高島屋出身者がいましたので、同行願って、立ち回りそうな場所を尋ねて廻りましたが、情報は得られず、無駄とは思いながらも、銀座4丁目まで歩いて帰宅した。4時半頃電話があり、最初は警察からかと思いましたが、川口の町工場の社長さんからで、工場前の広場にあるバス停に2時間程立ち止まっていたので、声をかけて貰い電話番号を聞き出してかけて呉れたとのことでした。
この事件以来、常に行動監視が必要となり、介護方針を見直すこととなり、第2期に入りました。
≪第2期≫
話すことは出来ないが、体は健在で、買い物に出掛けることが、日課となりました。不必要な外出は押さえ、外出の際には同行者を付ける必要が生じました。先ず勝手な外出を避けるために、玄関に第2、第3の鍵を付けました。新しく追加した鍵は鍵であることが認識出来ないため成功でしたが、鍵の閉め忘れで2,3回警察のお世話になりました。クラブへ出掛ける際には他人の手を借りる必要があり、当初は単独のヘルパー派遣を利用していましたが、介護保険制度の改正がある毎に、1回の派遣時間が短縮されてきたことから、デーサービスとの併用や個人負担でやりくりしてきました。
一方普段は出来るだけ散歩に連れ出してやることにしました。又少し遠出の際には車を利用することにしました。理由は簡単で車に乗っている間は完全に身を確保が出来ているからです。また年に2,3回は一泊旅行で温泉地に連れ出していました。月日が経つにつれて、遠出の際に色々なトラブルが発生してきました。「トイレに手提げカバンを忘れてくる。」、「失禁対策として着替えを持ち歩く。」など行動面での変化に対応が必要となってきました。今考えると多目的トイレの利用やリハビリパンツの利用をもう少し早くしていれば楽だったのにと思っています。
散歩は日課となりました。どちらかと言うと殆ど同じ道を歩いていましたが、ある日路地の前で立ち止まり、入っていきそうだったので本人の意思にまかせて行くと路地に入ったり、表通りに出たりしながらも最終的に自宅にたどり着きました。これ以降、家を出た時から、本人任せで出掛けると毎日違ったコースを通り最終的には家にたどり着いていました。本人にとっても同行する側にとっても楽しくなっていましたが、2008年1月中旬に朝起き上がれなくなり散歩も歩きが鈍くなって来ました。何か足の指先に違和感を感じているようであり、、内科、整形内科に通ったが特に異常なしとのことでした。最後に皮膚科に通ったところ、足にむくみがあることから、靴と靴下を脱がせて見たところ左足の踵に大きな靴擦れが出来ていて、直径3cm程の皮が剥けていることが判明しました。この結果、皮膚が回復するまでに可なりの時間を要し、その後は歩行のために手を繋いで介助しながら、ゆっくり歩くこととなって仕舞いました。これより第3期に移行することとなりました。
【第3期】
介助しながらの歩行となり、第2期時代よりも時間も距離も短縮されることとなり、家より500m程の所にあるスーパーにで出掛けるるのが日課となりました。車で遠出の際にも行動範囲は縮小されてきました。
2009年秋に下部温泉に出掛け身延山久遠寺を訪れた際、カーナビに従って着いたところが山間にある草原の小さな駐車場でした。たまたま居合わせた人の話で、久遠寺(の駐車場)であるとのこと。その人は久遠寺の職員の方で、山肌を手を引きながら一緒に裏側の宿坊に到着したところで、「車椅子をお使い下さい」と貸し出してくれました。お陰で広い境内を楽に移動することが出来ました。帰宅後、早速車椅子をレンタルし、以降、病院通いや遠出の際の必需品となりました。
体の動きも鈍くなりだした2011年11月にこれが最後の旅行になりそうだと思いつつ、河口湖まで1泊旅行に出掛けました。また12月中旬に掛かりつけの美容院に出掛けました。エレベータがないため、20段の階段をやっとの思いで上り下りしましたが、これが最後だという予感がしました。
年末年始は無事過ごすことが出来ましたが、2012年1月末に誤嚥性肺炎に掛かり、2ヶ月間程入院。その間に食事が摂れなくなったために、胃瘻の取り付けを行いました。一方両手は硬直化し、足は筋力を失い、立つことも出来なくなり、寝たきりの状態となって仕舞いました。これにより生活環境は一変し、介護形態も第4期となりました。
≪第4期≫
寝たきりとなったことで、介護形態は一変しました。私自身で出来ることはほんの僅かで、大半のことは専門家に依頼することとなりました。先ず、通院が出来ぬため訪問医療をA
クリニックにお願いしました。介護面ではケアーマネージャと相談の結果、先ず従来からのヘルパー派遣及びデーサービスに加えて、訪問看護、リハビリ、訪問入浴をお願いすることとなりました。これにより月曜日リハビリ、火曜日は訪問看護、水曜日はデーサービスとその送迎のためのヘルパー派遣、木曜日は身体介護のためのヘルパー派遣、金曜日はリハビリと月2回のデーサービス及びヘルパーの送迎派遣、土曜日は訪問入浴と日曜日を除いて月曜日から土曜日まで毎日いずれかの介護サービスを受けることになりました。
当然のことながら朝昼夜3回の胃瘻による栄養剤の投与及び薬の投与並びに介護サービス不在時の身体介護は全て私の責任でした。しかし、2018年9月緊急入院以降は全く私の手から離れ、唯々毎日見舞ってやるだけとなりました。
W.【まとめ】
振り返って見るとこの18年間は妻にとっては自分の意思を伝えるべき言葉を失って仕舞ったこと、また後半の7年間は好きな食べ物も全く食べることが出来ず、苦しみ抜いた永い月日だったと思います。一方、私にとっては永いようでもあり、短くありですが、最後まで見守ってやれたことに満足しています。
在宅介護を長期にわたって実行できた理由は以下のようなことだと思っています。
◆先ず第1に挙げることは多数の医療関係者並びに介護関係者に恵まれ、,温かく見守って頂けたことだと思っています。
◆第2は2,3回風邪を引いたことはありますが、大病することなく私自身の健康を維持することが出来たことだと思っています。健康を維持できた理由を挙げると次のようになります。
1)介護をしていると言う意識はなく、二人の生活の延長線上で捉えてため、ストレスを感じなかったこと。
(本ホームページを始めて間もなく認知症が始まりました。「季節の花を尋ねて」の欄の前半は妻と出
かけた記録です。)
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2)失われていく知識や機能を憂うのでなく、、残っている正常な機能、能力を見つけ出し利用したこと
(目からの映像情報は最後まで、認識出来ていました。)
3)初期に決めた、絶対キープしたい行動範囲を維持し続けルことができたこと
(退職後のグループ活動や、同期会、社友会などへの参加でコミュニケーションの維持)
4)介護作業は完璧さを求めず、80点を目標としたこと
(緊張・無理をし過ぎず、長期に継続できたこと)
少々時間が掛かりすぎましたが、以上のように記録と記憶を辿ってまとめて見ました。色々な出来事を改めて思い出されてきましたが、苦しさよりも懐かしさを感じました。現在は冥福を祈るのみです。早いものであと1ヶ月で新盆を迎えます。おいしい食べ(栄養剤ではありません。)物を飾って待っています。楽しみに帰ってきた下さい。
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【あとがき】
以上を持って『介護奮戦記』欄
は一旦終了と致します。
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